私たちは、抗う者たち
……懐かしい夢を見ていた。
微睡みが消えたとき、天羽は病院の待合室のソファにいた。
あれは中学二年の頃の話じゃないか。
あまりに出来過ぎた出来事だ。
恥ずかしくて人には殆ど話したことがない。
そして、その話に出てきた「正義の味方」が今、自身の右隣で座っている。
彼女は、あの時から祖父と関わりがあったのだろうか。
「あ、起きた? そろそろ呼ばれると思うんだけどね」
「……ええ」
妃沙耶は、ソファに座りながらも、腕組をして背筋をピンと伸ばしていた。
祖父が救急車で搬送されるとき、天羽は、彼女も怪我をしていると救急隊員に告げたのだが、彼女は「私は大丈夫」と言って、何事もなかったかのように振る舞っていた。
戦っている時は、あれほど苦しんでいたのに、どこにそんな元気が残されていたのだろう。
救急車に同乗したとき、沙耶は、痛みに喘ぐ祖父を、まじまじと見つめ続けていた。
何か言いたかったのかもしれない。
けれど、その何かを知り得る方法を天羽は知らなかった。
待合室にいる人たちの中には、街と同じようにAIDを付けた人たちが多くいて、室内を独言で溢れさせていた。
(先輩は、どこを見つめて生きているのだろう?)
また、そんなことを考えていた。
天羽は、女性看護師が呼んできたことに気付かなかった。
「おいっ」
沙耶に肩を叩かれて、天羽は我に返った。
「……はいっ!」
「呼ばれたよ。行こう」
沙耶は、天羽の目を見て言った。
「あ、はい」
天羽は、目を逸らしてしまった。先刻の頬の痛みがフラッシュバックして、彼女の瞳を直視出来なかった。どうして叩かれたのか、まだ分からないままだ。
二人は、女性看護師に案内されて、孝史がいる病室に向かった。
病室に入ると、孝史は、右足をギブスで固定されて、ベッドで横になって眠っていた。
その側で座っていた眼鏡の男性医師から、処置や完治までの期間などの話を受けた。
医師は最後に、「どういう事故があったんですか」と訊いてきた。
天羽は思わず口を噤んで沙耶を見た。彼女は落ち着いた様子で答えた。
「大きいガラス片が刺さってしまったのです」
「そうですか」
医師の返事は淡々としていた。
さほど重要な質問ではなかったらしい。
「ともかく、安静に」と言い残して、医師は病室を去った。
天羽は、祖父に訊きたいことが沢山あった。
しかし、静かに寝息を立てている祖父を無理矢理起こす訳にもいかない。自分だって疲れているのだから、老体の祖父はもっと疲れているに違いない。
孝史の姿を見て、沙耶は拳を握った。
「……尾鷲君、巻き込んでごめんね。教授を頼むわ。あたしはそろそろ……」
沙耶は早口にそう言うと、病室から立ち去ろうとした。
彼女は何か隠しているのではないか。
天羽は、何が起きているのか全く分かっていない。
どうして、こんなことになったんだ。
「あの、待ってください!」
「ん?」
「どういうことか、教えて下さい。どうしてじいちゃんは襲われたんですか」
「……知らない方がいいよ」
沙耶の真っ直ぐで鋭い眼差しが、天羽を見つめた。天羽は一瞬、目を逸らしてしまった。
「隠さないで下さい」
「知って、どうするの?」
非日常への好奇心は、現実への恐怖へと変化を遂げている。
それでも尚、分からない事があった。
沙耶が、どうしてこんなことをしているのか。
それが分かれば、今は他のことなどどうでもいい。
「あいつを倒します」
思いつきで言ってみた。
これで説得できればいい。
沙耶は少し考えている様子だった。
「そう。いいわ。ちょっと付いて来てくれる?」
彼女は静かな口調で了承した。説得するには十分な言葉だったらしい。
(……或いは、やむを得ないのかもしれない)
そして沙耶は、天羽を見つめながら胸中でそう嘯いていた。
二人は病院を後にした。
沙耶の後ろに天羽が付いていく形で、夜道を歩く。
時間はもう夜の八時だ。
理由あって一人暮らしの天羽には、親からの連絡も来ない。
彼女のポニーテールと項を見ながら五分程歩くと、都心には珍しい木組みの家が見えた。
窓からオレンジ色の光が見える。
「丹波珈琲店」と書かれた扉の下に、ポップで「CLOSED」と書かれたプレートがあった。
電気が点いているということは、閉店後の片付けをしているのだろう。
だが、沙耶はそれを無視して、扉を開いた。
カラン、と扉の上のベルが音を鳴らすと、モップを持ったメイド服の女性店員が、忙しない様子で二人の前にやってきた。
髪は肩くらいの長さで、背丈は低い。
見た目からして、天羽と歳が近そうだ。店員は最初、二人のことを訝しむようにして近づいた。
「申し訳ありま……あ! 沙耶さん! お帰りなさいませ」
店員は、どうやら沙耶を知っていたらしく、掌返しで、打ち解けた対応に変わった。
「うん。ただいま、リンちゃん」
「沙耶さん、そちらの方は?」
「ああ。彼はね、新しい仲間になるかもしれないの」
話に置いてきぼりにされそうだったので、天羽は慌てて二人の会話に入り込んだ。
「仲間? 先輩、どういう意味ですかそれ? それにここ、閉店時間過ぎてますよ?」
「まあ待って。これから説明するから」
「はあ」
「あーっ!」
天羽を見つめたリンというメイド女子は、突然大声を出して、天羽に駆け寄った。
「君、C組の尾鷲君?」
「えっ! そうだけど……どうしてそれを?」
「あー酷い! まだクラスメイトを覚えてないの? 私、尾鷲君と同じクラスの丹波鈴よ。ほら、自己紹介で実家が珈琲店だって言ってたでしょ?」
天羽は、リンの丸い瞳を見ながら思い出していた。言われてみればいたな。そんな子が。
「タンバ……あ、何かイジられてたな。名前が楽器みたいって」
「そうそう! 覚えているじゃん。そういえば早退してたけど、体調どう?」
「え? ああ、今は大丈夫だよ。ありがとう」
「そう。良かったね。では、お待たせしました。二名様こちらへどうぞ」
閉店時間にもかかわらず、鈴は店員らしく二人を窓際のテーブル席に案内した。
木組みの建物の中は、オレンジの照明も相まって、暖かで落ち着いた空間だ。
木の椅子に、木のテーブル。
気がつくと、天羽にとってかなり美味しいシチュエーションになっていた。
憧れの先輩と、二人で珈琲店にいる。
願ってもいないことだったし、本来なら喜ぶべきなのだが……。
如何せん、その前に起きた出来事が、今の状況とまるで釣り合わない。
「ご注文はいかがなさいますか?」
さっきまで持っていたモップを急いでしまった鈴は、お冷を持って訊いてきた。
「あたしはいつもの。君は?」
「ホットで」
「はい。かしこまりました」
鈴は、ぴょこぴょこと早足で、店の奥のカウンターへと向かい、そこにいる中年男性に向かって「パパ、注文入ったよー」と元気よく言った。
沙耶はそんな彼女を見ながらニコニコとしていた。
「鈴ちゃん、かわいいでしょ」
「ええ。なんか、小動物みたいです」
「確かに。もしかして尾鷲君って、ロリコン?」
「違います。それに彼女とは同い年です」
キッパリと断言。
「ふーん……。そういえば、何でさっきからあたしと視線を合わせないの?」
「それは……」
「もしかして、あたしにぶたれたから?」
図星だ。
「違いますよ」
「じゃあどうして?」
「……」
先輩の真っ直ぐな瞳を見れない、とは言えない。
「あ、また逸らした。鈴ちゃんの方見てるし。じゃあやっぱりロリコンなんだ?」
「だから違いますって! それじゃあ、逆に聞きますけど、どうして僕をぶったんですか」
「え? んー、そうね。強いて言えば、八つ当たり?」
お冷を飲もうとした、天羽の手がとまった。あの一発が、八つ当たり? そんな浅い理由だったのか。
「……本当ですか?」
念を押したが、彼女は首をゆっくりと縦に振った。
「先輩……」
閑話休題というタイミングで、鈴がやって来た。
「ホットコーヒーとパフェ、お待たせしました!」
「お! いつになく早いわね、鈴ちゃん」
「準備万端だったんです。沙耶さんが帰ってくるのを、首を長ーくして待っていましたから」
「ありがとう。嬉しいわ」
沙耶にそう言われると、鈴は「尾鷲君も、ごゆっくりね」と言ってはにかみ、席を離れた。
「それじゃあ、本題に移りましょうか」
さっきまでのリラックスした表情が嘘のように、沙耶の眼差しが真剣になった。
「あたしは、AID社の秘密を追っているの」
AIDと聞かれて、東京でその名を知らない者はいない。
この二年で、いきなり現れたベンチャー企業であり、アプリ「エイドニュース」と端末「AID」は東京中で普及している。
「AID社って、あのAID社ですか?」
「そうよ。じゃあ、AIDってどう運用されているか知ってる?」
天羽は首を横に振った。
「AID社では、管理者がサーバーを通して、サービスを提供しているの。そしてAID社は、独立したネットワークを持っている。つまり、従来の機器で扱えたサービスが、AIDでは使えないの」
既存のSNS等が使えないのは、不便なはずだ。
「でも、AIDは普及しましたよね」
「ええ。一時の流行に留まらずに、こうして二年の時が過ぎた。それは何故だと思う?」
「えっと……そのサーバーに、何か特別なものがあったとか?」
「近いわ。そのサーバーの《管理者》が特別なの」
「《管理者》? どういう人ですか?」
天羽が問い詰めると、彼女は一旦、深呼吸してから告白した。
「《イド》というAIよ」
「《イド》……?」
祖父も言っていたことを、胸中で反芻した。さらに湧き上がる疑問を問うた。
「AIが、サーバーをコントロールしているってことですか?」
天羽の言葉を、沙耶は頷いて肯定した。天羽は、自分の言葉でまとめてみることにした。
「つまり、《イド》がサーバーを介して、AIDユーザーに情報を提供してるということですか」
「その通り。エイドニュースというアプリがあるでしょ。あれは唯一、AID以外の端末でも使えるアプリだけど、あれはロボットから送られた情報を、《イド》が取捨選択して運営しているの。《イド》は同時に、ロボットに対する命令もしているわ」
これは初耳だった。
天羽はこれまで、あのドラム缶型ロボットたちが、行動範囲の制限以外は、自由に行動しているものと思い込んでいた。
事実、エイドニュース自身はそう公言していたのだ。
「もしかして、図書館の事故が写真なしで報道されていたのは、《イド》がロボットの行動を制限していたからか」
それなら、あの瓦礫の前を通り過ぎて行ったロボットの行為も合点がいく。
ロボットは「写真を撮るな」と指示されていれば、写真を撮らない。
納得した様子の天羽を見つつ、沙耶は続いてこう問うた。
「……似たシステムだとは、思わない?」
「似ている……?」
「エイドニュースの管理者たる《イド》が、ドラム缶型ロボットを牛耳るように、《イド》は、AIDを介して人間を自身の支配下に置いている。これって類似してるでしょ?」
……確かに似ている。
だが、完全に同様ではないはずだ。
《イド》は人間に情報を与えても、支配をしているのか。
そもそも、人工知能が人間を支配下に置くなど、可能なものか……。
「人間がAIに支配されるだなんて、有り得るんですか?」
「現に《イド》は、その体制を作りつつあるわ。情報を規制して、人々の印象を操作している。その原因は二つ。一つは、エイドニュースの台頭による既存のマスメディアの失墜。完全にダメになった訳ではないけれど、既存のメディアの影響力は弱まっている。二点目は情報の受け手たる人間の感性を操作する機能がAIDには備わっている。それは……」
天羽は、沙耶の言葉を聴いて、昼間のスクランブル交差点での出来事を思い出していた。
「人間の五感を表現する機能……ですか」
「うん。AIDユーザーは皆、薬物中毒者みたいになっているでしょ。AIDからの刺激に脳が耐え切れなくて、傷ついているの」
「……!」
思えば、渋谷駅のあの男たちは、正しく薬物中毒者みたいだった。あの二人だけではない。AIDユーザーは誰も彼も、あんな様だ。全く、どこを見て生きているのか。
「もしそれが本当なら、AIDユーザーは、薬物中毒者と同じということですか……」
「状態としてはね。禁断症状があるのかまでは分からないけれど。ともかく、《イド》はAIDを使うことで、人間への情報を統制している。仮に、エイドニュース以外の情報を目にしても、《イド》が、AIDを通して、不快感をユーザーに与えるの。例えば、『この情報は臭い』とね」
沙耶は、そう言うと鼻をつまむ仕草をした。天羽も、間を合わせるようにコーヒーに口を付けた。苦い。
「僕らのようにAIDを使ってない人だっているじゃないですか。そういう人たちで不買運動をするというのはダメなんですか?」
沙耶は、首を振った。
「前に、足立でデモをした人たちが、実力行使でAIDを装着させられた事があるわ。AID社は機械兵を持っているから、一般人では到底敵わない。それに、ゼータみたいな新型が現れたから尚更……」
「機械兵? なんですかそれ」
また、聞きなれない言葉だ。
《イド》、《ゼータ》と来て、お次は《機械兵》……。
だが、天羽の疑問は沙耶には聞こえていなかったらしく、彼女は「今の戦力じゃ、今後戦いきれるかどうか……」と殆ど独り言ちていた。
「あの……」
「残された戦力は、機械兵五体とあたし、あとケント……いや、彼は出来るだけ
使いたくないし……」
「あの」
「こうなったら、前にレイが言っていた試作品を、誰かに――」
「あの!」
「……ん?」
彼女は、天羽の声にようやく気付いた。
「結局のところ、先輩は何で戦っているんですか?」
そうだ。
沙耶は何のために戦っているのだ?
目的があるはずだ。
それが知りたい。
ここまでの説明など、正直頭に入り切っていない。
そんなことよりも、どうして学校に来ないのか。
どうして部活を辞めたのか。
天羽は、それが知りたかった。
「……あたしたちは《イド》を破壊することを目的に活動しているわ」
少し引っかかった。
「『たち』?」
「そう。あたしたちは、秘密組織『抗う者たち(リィベルズ)』。あたしがリーダー。そして戦闘員。他の人たちはあたしのサポートをしているの」
秘密結社?
更なる新語に、思考回路が拒否反応を示した。
「はあ。じゃあ、先輩たちは《イド》を破壊して、どうするんです?」
それが、彼女が部活を辞めた理由なのだろう。それを聴いたら、自分は納得できるだろうか。彼女は口を開いた。
「……AID社に盗まれた、《語り部》を取り返す。そして、《語り部》によって真実の歴史を、人々に受け継がせるの」
「それが理由……」
真実の歴史。
何だか胡散臭い新書のようだ。
自分の恋心は、そんなことのために空振ったというのか。
尚も彼女は、天羽の呟きを無視して言葉を続ける。
「尾鷲教授はね、かつて《語り部》に深く関わっていたから、《イド》に狙われたの」
「……じいちゃんが?」
《語り部》。
祖父。
繋がり?
何それ。
天羽の空返事は、相槌と受け取られた。
「教授は、日本にとって必要な人よ。君には、教授を守ってもらいたい。……そうだ! 君も、あたしたちと一緒に戦えば――」
自分が戦う?
何で?
「ちょっと待ってください。どうしてそういう理屈になるんですか。いきなり戦いとか結社とか言われても、分からないですよ」
天羽はテーブルを強く叩いた。
揺れたコーヒーカップが耳障りな高音を立てると、鈴とその父らしき男も、手を止めて天羽へと目を遣った。
「話を聴きたいといったのは君だけど……」
その無遠慮な返しに、溜まり切った不満が堰を切って溢れた。
「僕が聴きたかったのはそういうことじゃない! あなたが勝手にいなくなるから! ずっと……ずっと、夢見ていたのに! あなたと一緒に学校に行って、一緒に部活で汗を流して、勉強だって教わって! そうしたかったのに……。どうして先輩は途端にいなくなったんですか! あなたは、本当に先輩なんですか? それすら信じられない」
顔をしかめて涙を溜めた天羽の眼を見て、沙耶は閉口し、俯いた。
そして俯いたまま、再び彼を諭すように話した。
「ごめんなさい……。いきなりこんな話をされて、分かるわけないものね……。でも、これは本当のことよ。あたしはあたし。間違いなく、妃沙耶よ。頼んで悪いと思っている。でも、今頼れるのは尾鷲君、君しかいないの」
何が。
反抗期の息子を宥める母親にでもなったつもりか。
「じゃあ、同情してテロリストになれというんですか。これじゃ、あくどい勧誘ですよ!」
「テロリストじゃない! ……あたしは正義の味方よ。ずっと、そう生きてきた」
彼女の声は、若干震えていた。
そんなの知るものか。
「そうですか。でも、『だから戦って欲しい』というのは筋違いです。もう帰っていいですか?」
「待って……!」
どうしてだ!
「……明日も、ここで待っているから」
沙耶はそれ以上何も言わなかった。
天羽は痺れを切らし、温くなったコーヒーを立ったまま飲み切った。
そして代金をテーブルの上に叩き付けて店を去った。
天羽が席を離れても、沙耶は座って俯いたままだった。
「…………て」
沙耶は微かに何か呟いた。
鈴は傍目から、パフェのアイスが溶け、グラスを伝って流れ落ちるのを見た。