二年前のこと
迷いの二章、開幕。
「やめてよ……」
「うるせぇなあ!」
中学からの帰り。通学路から一本、脇へと逸れた暗い道。
いつも、いじめられる場所。
態度の大きい大将と二人の子分に、僕は囲まれた。
子分二人が僕を抑えて、大将が、鞄を取り上げる。
何を言っても、彼らは動きを止めない。諦めた僕は、首をもたげ、目下のアスファルトだけを見つめた。
大将が、ニヤつきながら鞄のチャックを開ける。
「お前さ、気持ち悪いんだよ」
そう言ってから、大将は鞄を逆さにして、中身をぶちまけた。
体育袋、ペンケース、タブレット端末。それぞれがアスファルトにぶつかって音を立てた。
ドサッ、パタッ、パリン。
ああ。また、タブレットが割れてしまった。もう何度目だろう。
そしてもう一つ、僕にとって大切で、彼らにとって見慣れない物が落ちた。
パサッ。
「うわっ、なんだそれ」
子分の一人が反射的に言った。僕はドキリとして、落ちたそれに目を遣った。
それは、一冊の古びた文庫本。
「なんだこれ? 汚いもんを鞄に入れてんだな」
――違う。それは汚物じゃない。大切なものなんだ。じいちゃんから貰った、大事な本だ!
内心、絶叫した。だが、その言葉を言う勇気が、僕にはなかった。
大将は、文庫本を摘み上げると、僕の方を見た。
僕の動揺は、文庫本を目で追うその表情に出てしまっていたらしい。
そういう隙を、大将は逃さない。
「へえー。お前、汚物が好きなの? 返事はきいてないから。じゃあさ、お前がもっと喜ぶようにしてあげ
るよ」
そう言うと、大将は、道端の電柱の下へと本を放った。そこには、犬の糞があった。
更に大将は、文庫本を土足で踏み、糞に押し付けた。
「……!」
僕は必死になって、子分二人の手を振りほどこうとしたが、とても敵わない。
ただ、怒りが虚しく込み上げるばかりだった。
何て、僕は無力なんだろう。こんな非力なのに、どうして生きているのだろう。
子分二人が、僕を突き倒して、アスファルトへ抑え込んだ。それから一人が「糞が」と言って僕の脇腹を蹴り込んだ。
痛い。
脇腹を押さえるようにうずくまると、もう一人も、「汚物が」と僕の背中を蹴った。
痛い。何で、痛みって存在するのだろう。
こんな僕がいたって、世の中どうにかなる訳じゃない。いじめ一つ無くせない人たちが、世に憚っている。そんな所で生きていくなんて、嫌だ。
このまま、消えてしまいたい。糞塗れの文庫本が、僕の目の前に出されて、子分が僕の頭を掴んで、それを食わせようとしている。今に、史上最低の食事を体験するんだ。
嗅覚が生きているって、不幸だ。
味覚が生きているって、不幸だ。
ああ。生きるって、不幸なんだな――。
「……?」
あれ。頭を掴まれる感覚が無くなった。とうとう痛覚が可笑しくなったかな。
いや、ちょっと待った。どういう訳か、連中がざわついている。
「げっ、ヤバッ」
「逃げよう」
僕の後ろで、子分の二人が口々にそう言ってから、道の奥へと走り去る音が聞こえた。
「おい、お前ら! 何やっ……」
僕の目の前に立ちはだかっていた大将が、言葉半ばに膝をついた。それからバタリと倒れて、顔面を糞塗れの文庫本へと落とした。
僕は、大将に代わって立っている新たな影を見上げた。モデルのようにスラリとした、綺麗な女子だった。地べたから見上げたそれは、女神に見えた。
「君、立てる?」
堂々としたその声に応えようと、身体の痛みをこらえて立ち上がった。
「あ、あの……あなたは……?」
同じ中学のセーラー服を着た彼女は、両手を腰に添えると、堂々とこう言った。
「妃沙耶。正義の味方!」
僕は、疑いなくその言葉を信じた。
彼女の真っ直ぐな瞳も、英雄的行動も、正義の味方に思えたからだ。
去り際、彼女はこう言い残した。
「少年。たとえ、どんなに死にたいと思っても、逃げるな。戦え。君自身のために」
後日、じいちゃんから新品の文庫本が贈られた。あの時の本と同じものだ。同封されたメモに、「事情を聞いたので贈る」と書かれていた。正義の味方は、そんなところまでフォローしてくれたのだ。
そうだ。どうせ生きるなら、彼女のように生きてみよう。
死ぬよりは、ずっとましだろうから。