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尾鷲天羽と抗う者たち  作者: 山門芳彦
突然の、ファーストコンタクト
4/13

孝史の研究室

 三十号棟三階の研究室。

 窓から差す陽光を机上への照明にして、老人は書物に(ふけ)っていた。


 日本史を中心とした歴史書が、壁一面の本棚を埋め尽くしているこの部屋は、やれ社会情勢だの時代の流行だのといった川の流れに迎合せず、飽くまで流れの底にあり続ける小石や砂に等しい存在だ。

 いや、地中に眠るタイムカプセルと言うべきだろうか。


 ともかくも、部屋の主たる老人はこの空間を愛していた。


 そして歴史学を軽んじる人々を軽蔑し、憂慮していた。


 老人にこういう嫌いがあったせいか、研究室に足を運ぶ者は殆どいない。

 それがこの空間に、「平穏にして悠久なる時」という錯覚を作らせる。

 しかしそれは錯覚に過ぎない。


 現に落日の時は迫っている。


 夕方になれば、陽光は照明代わりにはならないのだ。


 突然、研究室のドアが開き、制服を着た少年が入ってきた。


一瞬誰かと思ったが、老人――尾鷲孝史(たかふみ)は、それが自身の孫だということを程なくして理解した。


「ノックぐらいしたらどうだ」


「別にいいだろ。じいちゃん」


 そっけない態度をとる孫の天羽に、孝史は「そういえば」と訊いた。


「部活はどうしたんだ」


「……辞めたよ」


 天羽は部屋の電気を点け、おもむろに本棚から一冊取るとテーブルに座って読書を始めた。


「辞めたってお前、空手部に入るためにあの高校にしたんじゃなかったのか?」


「……あんなのついていけないよ」


 適当な理由を付けた。そんな話をするために、ここに来たんじゃない。


「それよりここにいさせてよ。じいちゃん、いつ来てもいいって言ってくれたじゃないか」


「まあ確かにそうだが……。部活で何かあったのか?」


 今の天羽にとって、祖父の老婆心など余計なお世話でしかない。

 天羽はわざとらしく深いため息をついた。


「本を読むと落ち着くんだ。暫くここにいさせてよ」


「……分かった。好きなのを読めばいい」


 意を察してくれたらしく、祖父はそれ以上言い及ぶことをしなかった。

 今の天羽には、それが有難かった。

 

 初めてここへ来た時と変わらない空気が、天羽を落ち着かせた。


 あの時は確か、中学二年の頃だったか。

 ああ、いじめられていた頃だ。あの時も、じいちゃんと、この部屋に慰められたな……。

 そして今日も。

 

「図書館が閉鎖されていなければ、(わし)の研究室に来なくても済むだろうに」

 前に来た時も孝史は同じ事を言っていた気がする。

 祖父曰く、かつての図書館は心の避難所としての役割も持っていたという。


「出来ないことは仕方ないよ」


 天羽はとりあえず話を合わせた。すると、


「電子化の弊害というものだ!」と祖父。


(また始まった)


 天羽は孝史を一瞥(いちべつ)したが、目が合わなかったので再び本に目を落とした。

 

 祖父はデジタル化とか電子化と言った言葉にアレルギー反応を示すことが多い。

 今回の場合は自分自身で発症させているが。

 

 このアレルギーの治療法は好きに言わせておくことだ。


 祖父は頬を紅潮させて憤慨の演説をはじめた。


「……世に情報社会の波が迫りつつあるとき! 先人たちは紙媒体の良さを何度も訴えていたのだ! それにも関わらず、やれ商業的利便性だの時代の波だのとかいう最低の理由で全ての書籍を電子化した! 百歩譲ってそれはいい! しかしそれだけに留まらず、紙媒体の保護という名目で図書館を閉鎖して倉庫化し、一部の人間以外の立ち入りを制限するとは! しかもそれが民間運動発祥で最終的に法律が制定されるなど! 我々は今や電子化に伴う新たな情報統制社会に縛られている!……」


 誰に向けた物とも知れない演説はここで終了した。

 孝史は息切れを起こしていた。


 祖父の言わんとしていることは分かるが、「情報統制」は過剰表現ではなかろうか。

 何にしろ、祖父のアレルギーは収まったようだ。


 そこで天羽は、ふと思い出した話題を投げかけた。


「そういえば、未明にその図書館で事故が起きたんでしょ?」


 孝史は呼吸を整えながら答えた。

「ああ、そうらしい。大きい被害はそこだけのようだが……。儂はそれ以上詮索する気はないよ」


 孝史は再び書物に耽る体勢だ。何だか面白くない。


「気にならないの? 原因も不明で、もしかするとここも危ないかもしれないのに」


「それは、エイドニュースの報道だろう? あんなものの言うことなど、信じられんよ。それに、確かに心は痛むが、儂独りでどうにかなるものでもあるまい」


「……」


 天羽はその時、閉め切っているはずの祖父の後ろの窓から、微かな風が吹いて、頬を撫でたのを感じた。

 隙間風、だろうか? 

 孝史もそれに気付いたらしく、背の方へ振り向いた。

 よく見ると、四角い窓ガラスの片隅が割れていた。

 ブラインドと重なっていたために今まで気付かなかった。


「これは……! どうしてこんな所が割れているんだ……?」


 孝史が独り呟いて動揺していると、天羽は廊下から規則正しく響いてくる音を耳にした。


 コツ、コツ、コツ……。

 

 その音は徐々に近づいてくる。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 その音が静止した一瞬後、研究室に二回のノックが響いた。


「ん、どうぞ」


 孝史はぞんざいに言った。そして――



「教授、失礼します」



 その女性の声に天羽は耳を疑った。


 心臓が跳ねて体の芯が熱くなる。

 

 凛として明るいその声はまさか――


「おお! いつも済まないね、沙耶君」


 さっきまでとは想像もつかない昂揚(こうよう)が、祖父の声色に表れていた。


 沙耶? じいちゃんは確かに「沙耶」といったな……! 


 彼女は女子大生のように、空色のカーディガンを着て、ハードカバーの本五冊を、軍手を()めた両手で抱えていた。

 

 長い黒髪を後ろで一つにまとめ、純白の肌と真っ直ぐな黒い瞳は、凛とも冷徹とも捉えられる。


 天羽はその姿を見て脊髄(せきずい)反射的に立ち上がってしまい、それを誤魔化(ごまか)すために彼女の本を代わりに持とうとした。


「も、持ちます!」


 赤面したその表情を見てか、


「フフ……ありがとう」


 沙耶は笑みをこぼしつつ彼に本を預けた。天羽は彼女に訊いた。


「祖父に……いえ、教授にですか?」


「天羽、こっちに持って来てくれ」


 じいちゃんには聞いてないのに。


(くすぶ)る煙を鼻息に換えて、本を机の上に置いた。


 ハードカバーの書物は学術的な文献を古いものから新しい物まで(そろ)えており、初めて見る物ばかりだった。興味をそそられ、天羽はそのうちの一冊を手に取って祖父に()いた。


「じいちゃん、この本は?」


「それは、前の戦争に関する本だな。海軍の記録を(もと)に戦闘を分析したものだろう」


「ふうん……じゃあこれは?」


 天羽は別の一冊を指さした。


『人工知能による歴史記録の編纂(へんさん)』と書かれたその書物は、外装の綺麗さから比較的年代の新しい本と思われた。

 

孝史は、一瞬眉をひそめて右に視線を逸らすと、言い淀んだ。


「それは……《(かた)()》に関する書物だ」


 それまで本棚を舐めるように見ていた沙耶が、途端に孝史に視線を向けた。

 また、隙間風が吹いてきた。


「《語り部》……?」


 孝史は書物の山を机の端にずらして、引き出しから灰皿を出すと、おもむろに煙草(たばこ)を取り出してマッチで火をつけた。

孝史が深く吸ったそれをゆっくりと吐くと、斜陽に浮き上がる煙は隙間風に運ばれて部屋の中へと流れた。


「まあ、忘れられて久しいからな。知らないのも無理はなかろう。《語り部》とは、データベースみたいなものだ。そしてこれから歴史を学んでいく全ての人間のための開かれたネットワークになる……はずだった」


「だった?」


「そうよ。えっと……」


「天羽です。(きさき)先輩」


「先……輩?」


「僕、先輩と同じ高校の一年生です」


「あ……ああ、確かにその制服はうちの男子生徒のものね」


 何だか噛み合ってない気がする。

 先輩は仮入部のときの僕を知っているはずなのに。


 それにここにいるってことは、どうして今日学校に来なかったのだろう。


「先輩、今日学校は――」


「それでね天羽君。《語り部》は突然に姿を消したの。今どうなっているのかは分からないわ」


「……そうなんですか」


 僕なんか相手にしてくれないのだろうか。煙たい。食い下がるように話を合わせた。


「で、《語り部》ってそんなに大切なんですか? 普通科高校だって、歴史の授業は必修科目じゃないんですよ」


「天羽。だからこそ必要なのだ」


 だからじいちゃんには聞いてないよ、

 と反射的に眉をひそめてしまったが、冷静に考えれば祖父の方が造詣は深いのだろう。


「歴史を学ばぬ人類に未来は無い。《語り部》の価値はそこにある」


 煙草を灰皿に押しつけて天羽を見た祖父の瞳には、何かが含まれているようだった。


「それはそうと、今日の沙耶君はいつもより聡明に見えるよ。服装のせいかな?」


 じいちゃん、それはセクハラ発言だ……! 


孝史のその何気ない一言に沙耶は目を(しばた)いた。


「失礼ですよ、教授。私はいつも――」彼女は孝史に歩み寄って微笑を浮かべた。



「――聡明ですから」



 天羽は彼女の目つきに一瞬、底冷えを覚えた。


「……ああ、こりゃあ悪かったね。さあ、二人とも今日はもう帰り(たま)え。私はこれからこの本たちを読まねばならないからな」



「そんな! もう少しいさせてよ、じいちゃん」


「悪いがこの本は本気で集中したい。帰ってくれないか」


 吸殻(すいがら)を足下のゴミ箱に捨て、灰皿をしまう祖父を見て、天羽は諦めることにした。


「分かったよ」


 天羽は沙耶と一緒に研究室を後にした。


 部屋を出る直前になって、祖父に「部活を辞めたのは仕方ないが、自分の出来ることをやりなさい」と言われた。

 

 割れた窓から吹く隙間風が嫌に気になった。

 

 研究室の扉を閉め、天羽は沙耶に訊いた。


「先輩、今日どうして学校に来ないんですか?」


「教授の手伝いをしないといけなかったから」


 さも当然であるかのように沙耶は淡々と答えた。僕の知っている彼女はこんな人だったろうか。


「じゃあ、明日は学校に来ますよね?」


「……いや、明日も行けないでしょうね」


「また手伝いですか」


 その問いに沙耶は首を振った。


「……何故です?」


「答える必要あるかしら? じゃあね、天羽君」


 彼女は他にやることがあるようで階段を駆け下りて行った。


「ええ、また……」


 天羽は名残惜しくそう言ったが、去り際の彼女の口は「もう会うことはないでしょう」と呟いていたように見えた。

 心の荒野に風が吹き、寂寥(せきりょう)を助長させた。


 恋、破れたりか……。

 

 外は黄昏(たそがれ)


 このまま帰るのも何なので、事故のあった図書館に寄ってみることにした。

 

 三十号棟からはさほど離れていない。

 この季節の夜は、ブレザーを着ている分には過ごしやすい。


 隙間風の原因だったらしいそよ風が、茶色に枯れた桜の花びらを(ざわ)めかせる。




 桜の季節はとうに過ぎて久しい。


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