花畑の妖精
箕崎努は風景を専門とした写真家である。
今回の目的はイギリスの森にあるとされるブルーベルという花である。
森一面に咲き誇るその姿は『青の絨毯』と称されており、その場に妖精がいるかのような幻想的で美しい光景を生み出しているそうだ。
努は予約していた直行便へと乗り込み、半日ほどかけてイギリスへとたどり着いた。その後、値段が良心的なホテルへと泊まり、時差ボケからくる頭痛に悩まされながらもベッドへ潜りこんだ。
そしていまだ疲れの抜けきっていない体を無理やり起こし、早朝にブルーベルが咲き誇るとされている森へと向かった。
早朝の森はひんやりとした空気が流れており、少々肌寒い。
袖で手を隠し、枝の葉のこすれ合う音や鳥のさえずりを聞きながら、地に落ちた葉と枝をたまに踏んづけながら目的の場所へと向かう。
目当てのブルーベルは、日本でいう桜のように春の訪れを告げる花とされており、その姿を見ることができるのは一年の内の二週間ほどとされている。
もしかするとまだ咲いていないかもしれないといった不安は結局杞憂に終わった。
目の前に広がっていたのは群青。それらは風に吹かれてまるで水面のように揺れていた。そして、群青の中に所々生えている原生林、それに無数に生えている枝にある葉からこぼれる朝陽が、より一層目の前の光景を幻想的なものへと昇華している。
青葉を思わせる爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、目の前の光景に目を奪われていた努ははっとする。
「綺麗だ……」
事前に写真で見た景色はもちろん美しかったが、実際に自分の目で見てみるとより美しく見え、感動さえも覚えてしまう。
写真家という仕事は自分の感動を写真を通して、沢山の人に伝えることだ。
少なくとも努はそう考えている。
努は早速良いアングルを確保するために場所を移動する。
早朝ということもあり、人の姿は見えない。
ここかな、と思い両手の親指と人差し指を立てて、四角形を作り出し覗き込む。
カメラのフィルムは有限だ。試しに撮るという勿体ないことはせずに、ある程度どのような写真を撮るのか構図を決めておく。
(ん、あれ?)
四角形に切り取られた世界に違和感を覚える。
ブルーベル畑の中に人影が見える。
ブルーベル畑には入ってはいけないと英語で書かれた立て札が立があるということもあるが、さっきまで人の気配を全く感じていなかったというのが違和感を覚えた一番の理由だ。
だがさっきまでただ見逃していただけの可能性もある。なので今は違和感を解消することよりも、畑の中にいる人への注意が先だ。
立て札の存在を知らずに入ったのか、それとも知っていながらも誰もいないことを良しとして入ったのか。前者なら仕方ないと思えるが、後者なら質が悪い。ルールはちゃんと守らなければならない。この美しい風景を見ると余計にそう感じる。
「すいませーん、ここは入ったらいけない場所ですよ!」
努は大きな声でブルーベル畑にいる人へと声を掛ける。もちろん英語でだ。
畑の中にいる人は声に気付いたのか努の方へと近づいてくる。
遠くてぼんやりとしていた姿が、はっきりと確認できるようになってくる。
……おっさんだ。
肥満体系で丸い眼鏡をしており、服装は白いタンクトップに暗緑色のゴムパンツ。近づけば汗の臭いが漂ってきそうな不摂生な見た目をしている。
そして見間違いでなければ、彼は浮遊してこちらに向かってきている。そしてよく見ると、黄色い光が蝶のような羽を形成して背中から生えている。
「あなた、私のことが見えるの?」
透き通るような美しい女性の声……ではなく――そうであれば気持ちが悪いが――ただの男の裏声で問いかけてきた。
「いや、見えるっていうか……それ以前に見えたらいけないものが見えているような……」
「やっぱり見えるのね。嬉しいわ、ハハッ」
「ハハッやめろ!」
目の前で何が起こっているのか、現実からどこか外れた不思議な世界へ迷い込んだ気分だ。
「私の名前はチャイム。今私たちの住む妖精の国はワッカ船長率いる海賊たちに襲われて危機に晒されています。私は仲間のおかげでなんとかここまで逃げることができました。お願いです、どうか私の国を救ってください」
「……すいません、気分が優れないので帰らせていただきます」
これは関わってはいけない、そう感じた努はその場を去ろうとする。
「怖いのですね、恐ろしいのですね。ですが私がついています。どうか恐れないで……私があなたに力を授けましょう」
努を全く帰す気のないおっさんは、ズボンのポケットから袋を取り出して黄金色をした粉を手いっぱいに掴み取った。
昔読んだ絵本で見た空を飛ぶことのできる粉に似ている。
「いや、間に合ってるんで大丈夫です」
「まあまあそう言わずに、それ!」
おっさんは黄金の粉を努へと振りかける。
その瞬間努の意識が飛んだ。
▽▽▽
立っている場所が揺れている。地震ではない、海の波に揺られているのだ。なぜ揺られているのか、答えは簡単だ。ここが船の甲板だからである。
そして目の前には、真っ青な海賊帽を被り、青の生地に白のラインが所々引かれた海賊服を着ている眼帯の男が立っている。右手には長剣を握っており、本来左手があるべき場所には鉄製の輪っかが装着されている。
「船長やっちゃってください!」
「頼むよ船長~」
縄で縛られて身動きのとれなくなった海賊が目の前の男に呼びかける。
船に奇襲をかけた際に、海賊は目の前の船長と呼ばれる男以外を拘束した。
「お前がワッカ船長か……」
左手に持ったパンを一口齧り、問いかける。
「そうだ。そういうお前は、背の弓に狩人風の格好からして、妖精が呼んだ助っ人……名前はパンといったか」
「本名ではないが、俺のことをそう呼ぶ者がいるらしいな」
妖精の国のパンはとても美味しい。
国にいる海賊たちと戦う際には腹を膨らませるためにパンを持っていった。
パンという名前は、戦いの合間にパンを食べていた姿を見た者たちがそう名付けたらしい。今ではこの名を聞いた海賊は恐れ、妖精たちは希望を抱く。
「もうお前以外に戦えるものはいない、大人しく降伏してこの国を去れ!」
「ほざけ、貴様がこのワッカ船長に勝てるとでも思っているのか。来い! 相手をしてやる」
「頑張ってパン! ワッカ船長を倒せばこの国に平和が訪れるのよ(裏声)」
パンたちとは少し離れた位置にいたチャイムがパンへと声援を送る。
パンは船にいる海賊を捕らえた際に奪った細剣を握り、相手に切っ先を向ける。船長も細剣の切っ先をこちらに向け、剣先が触れ合う。
互いに相手の呼吸を探り相手の出方を窺う。強い潮風が吹き付け、ワッカ船長の海賊帽が宙を舞う。それを合図にワッカ船長が動き出す。
ワッカ船長はパンの右太腿を狙って突きを繰り出した。太腿は神経が集中している部位で相手の動きをかなり制限することができる。
迫りくる突きをパンは細剣で払いのけ、顔面を狙って繰り出されたワッカ船長の二撃目は顔を左に逸らして回避する。
そこからパンの反撃が開始される。胸、肩、腹を狙って繰り出される猛攻にワッカ船長は防戦一方となり、じりじりとマストの方へと追い込まれる。
「やばい、船長が押されてるぞ!」
「あいつやっぱりメッチャつええ」
「その調子でどんどん攻めるのよ、パン(裏声)」
ついにマストへ背が当たったワッカ船長。船にいる誰もがパンの勝利を確信したその時、ワッカ船長の口元が大きく歪む。
ワッカ船長はパンではなく、マストに垂れ下がっているロープを切った。
パンはワッカ船長の行動を理解できずに、行動に躊躇が生まれる。そしてその躊躇の間にワッカ船長はパンから距離をとり、頭上から降ってきた帆から逃れる。逃れることのできなかったパンは帆に包まれて、満足に身動きをとることができずにもがいている。
「はっはっは、この俺が部下が捕らえられている間なにもしていなかったと思うのか? マヌケマヌケエエエエ!」
ワッカ船長はマストのロープを切れば帆が落ちるように予め細工をし、わざとパンに押されているように見せかけてマストの下まで誘導したのだ。あとは、帆の中でもがいているパンを一方的に刺せばワッカ船長の勝利となる。
「さすが船長、今までの行動全てが計算づくだったんだ!」
「やっぱり船長つええ!」
「いやあああああ、パアアアアアアン(裏声)」
ワッカ船長は、細剣を顔の位置にまでもっていき、止めを刺す体勢になった。
「終わりだ、パン!」
その瞬間に帆は高く舞い上がり、学園祭のお化け屋敷に出てくる、安っぽい幽霊のような姿になる。
「なんだ、なにが起こっている⁉」
舞い上がった帆を払いのけて、パンの姿が現れる。
「残念だったな、ワッカ船長。今まで隠していたが俺は空を飛ぶことができるんだよ」
そこからは、一方的な展開となった。
上空から弓矢を射続けるだけ。
ワッカ船長は弓矢を必死で避けるが、上空にいるパンに対抗する術はない。
そこで、ワッカ船長はチャイムの元へと近づき首に剣を添える。
「どうだ、パン人質がいては手をだせまい」
「パン! 私のことは気にしな――」
ヒュッ
チャイムの足元に矢が刺さる。
「ちっ外したか」
「「ええええええええええええ」」
海賊たちが驚愕の声を上げる。
「外道か、お前!」
「ちょっ、まだ私言い切ってないんですけど!(裏声)」
その後もパンの攻撃は続き、ワッカ船長はついに降伏した。
妖精の国に平和が訪れたのである。
妖精の国は平和を取り戻してから、毎日がお祭り騒ぎだった。
パンは浮かれて飲めや踊れやのどんちゃん騒ぎを続け、いつの間にか意識を失っていた。
○○○
花畑の前で、努は目が覚める。
なんだかとても長い夢を見ていたようだ。
見たこともない国を冒険して、たくさんの悪をばったばったと打ち倒す。そんな子供の頃に読んだ絵本のような夢物語。
夢の中では魔法にかけられたように勇気が湧いてきて、凶悪な海賊たちに立ち向かうことができた。本来の自分ではありえないことだ。
やはりあれは現実ではなくて夢なのだ。
そもそも妖精がおっさんな時点でおかしい。
努は花を写真に収めてからホテルへと戻り、二日ほどイギリス観光をしてから帰国した。
自宅へと戻り、一息ついた。
迎えてくれる者は誰もいないが、見知らぬ土地のホテルよりも、我が家は良いものだと再認識させられる。
風呂に入る気力はすでになく、簡単な寝巻に着替えてからベッドに寝転がる。
窓から差し込む月明かりがとても美しく感じた。
(今日は満月か……)
帰ってきたということに対し、余韻を感じてから目を瞑る。
眠気が襲い、意識が手放されようという時に窓からコンコンという音がして努は再び意識を掴む。
「パン、大変よ。妖精の国に再び海賊たちが襲ってきたの」
聞いたことのある裏声が窓の外から聞こえた。
――あれは現実だったのだ。
妖精の国での冒険は、可愛らしい妖精こそいなかったものの――全員おっさんの姿だった――今まで見たことのないものがたくさんあり、空を飛ぶという体験さえもできた。
気持ちが高揚していた。あれはきっと楽しかったのだ。
あの気持ちをどうすれば他の人たちにも伝えることができるのか。
そんなものは決まっている。
窓を開け放ち、妖精にこう言った。
「このパンが再び妖精の国を救ってあげよう。でも、今度はカメラも一緒にいいかな?」