人魚の恋と容疑者と
初恋だった。
いくら人間に近付いているといっても、人魚の血を引く水希は幼い頃から周囲との違いに戸惑ってきた。友達もほとんど出来ず、学校ではいつも一人だった。目立つ容姿のせいで注目は集めたが近付いてくる人はいなかった。
そんな中学三年生の春、担任の若い先生はクラス中を見渡して言った。
「僕は、クラス全員が自分らしく、そして居心地が良く過ごしていけるクラスを目指します」
彼の宣言が、反抗期の生徒達の記憶にどれくらい残ったのかはわからない。しかし少なくとも水希は、一字一句を胸にしまった。
彼は決して頼りがいがある訳でも、顔が良い訳でも、カリスマ性がある訳でも無かった。けれど一人一人を、よく見て理解しようとしていた。
相変わらず友達は出来無かったが、水希はクラスで『寂しい』と思うことが減っていった。寂しくなりそうになると、先生が声を掛けてくれたりちょっとした仕事をくれたりした。
水希のことを『問題児』ではなく、ただ一人の生徒として見てくれたのは彼が初めてだった。初めて人を好きになった。
そして卒業の直前、水希は告白を決意した。放課後の教室に呼び出すと、彼は忙しい中で時間を見つけて来てくれた。
この日のことは、彼の寝癖の形まで覚えている。
緊張で冷え切った手でカーテンを閉めて靴下を脱ぎ、水希は机の上に座った。
「私、先生が好き。だから、私のこと知って欲しいの」
水希は春に彼が言った『自分らしく』という言葉を思い出していた。
訝しむ彼に笑って見せて、それから足を尾びれに変化させた。
大きく見開かれた目が、恐怖に染まるのはすぐだった。
「先生……?」
水希が鱗に覆われた長い尾びれを振ると、彼は見たことも無い形相で悲鳴と共に教室を飛び出した。
「初恋は実らない、って言うよね……」
化野の横で膝を抱え、水希は小さく嘆息した。
「でも酷くない? 自分らしく、って言ったんあんたじゃねーかって」
「この話、聞くの五回目くらいだな」
化野が空を見やったので、絵里もつられて顔を上げる。頬を撫でる風が湿っていた。もうじきに雨が降り出すだろう。
「……全然化野さん出てこないけど?」
絵里の指摘に水希は指を振った。
「ここからが良いとこなんだよ」
気が早いなあ、と水希は得意気に話を続けた。
一年間淡い恋心を抱き続けてきた相手の拒絶に、水希は半ば唖然としていた。人魚と人間が恋をしてはいけないなんて、古くさい大昔の話だ。今は純粋な人魚の方が少なく、人間に近い者ばかりなのに。
真っ直ぐ家へ帰る気になれず、水希は遠回りして当てもなく歩いた。
夕陽が照りつけて、熱いくらいだった。一足早くやってきた春が今は憎らしい。足を進める一歩ごとに、水希の心は沈んでいった。
「酷いよ……」
「誰がだ」
橋に差し掛かった時、ふいによく響く低い声が聞こえた。その持ち主が化野だった。
化野は腕を組み手すりに凭れていた。河童は主に川や沼に生息する妖怪だ。同じ妖怪でも、街に住む水希には新鮮に映った。特に、服を着た河童は噂にも聞いたことが無い。
目を丸くする水希に化野は近付いていった。
「お前、妖怪の血が入ってるな。何だ?」
「……別に」
「まあなんでもいいがな」
「――なんでもよくなんかない!」
気付くと大声を出していた。ランドセルを背負った小学生が驚いて水希を見て、横を走り過ぎる。
化野は水希の顔を覗き込んだ。
「何の妖怪だろうとお前はお前だろ」
「私は私……? 人魚でも人間でもなくても?」
オレンジを反射する川を眺めて、水希は先程の事を話した。あっけなく終わった初恋の事を。
化野はただ黙ってそれを聞いていた。
「ただの人間のふりをしたまま告白したら、ちゃんと返事してくれたのかな」
川の上にいるのに、排気ガスの匂いがした。そのあべこべさが、自分みたいだと思った。
少しの沈黙の後、化野が口を開いた。
「私も人間のことはまだ勉強中だからわからんが、一つだけわかる。その男はくだらない事でこんなにいい女を逃した馬鹿な奴だって事がな」
「へ……」
「――ああそうだ。人間は名前で自己を示すんだったな。お前、名は」
「水希……」
痛いくらいに鼓動が速まる。ゆっくりと化野が水希の方を向く。視線が絡まった。
「覚えとけ、水希。人魚の姿も人間の姿もその名前も、どれもお前の一部分にしかすぎない。たった一部を否定されたって何てこと無いんだ」
夕陽も、空も、きらきら光る川も、みんなとっても美しいのに、水希は化野の瞳から目を離せなかった。
水希は青い目を潤ませて胸に手を当てた。
「素敵でしょ」
「いい話だけど……なんというか……ベタだね」
予想以上に長い話だったが、要するに振られた所を慰めてくれた、という事だ。
絵里の言葉に、水希はにんまりと口角を上げた。
「恋愛の始まりなんて得てしてベタなもんだよ。それこそ星の数ほど恋はあるんだから。でも、本人達にとってはどれも特別。……これが理解できないから絵里は彼氏出来ないんだよ」
痛いところを突かれた絵里は顔が熱くなるのを感じた。夢見がちで恋愛音痴である自覚はあるが、人に言われるのは辛い。
「それ今関係ないでしょ! 彼氏いないのは水希も一緒じゃない」
「私は化野さん一筋だもーん」
あっけらかんと言いのけて、水希は横にいる化野に抱きついた。それから、「あ」と声を上げた。
「そういえば化野さん何しに来たんだっけ? 私に会いに来たわけじゃないんだったよね」
絵里もはっとして化野を見た。水希の騒動ですっかり後回しにしてしまったが、よく考えれば何故化野がここにいるのだろう。
「昨日相談された内容に、通学中や大学内でも視線を感じる、とあったからな。調べてみる価値はある」
「あー、絵里がストーカーされてるかもしれない、って話だったよね」
「水希も聞いたのか」
「私が絵里に化野さんのこと紹介したもん」
水希の発言を聞いて、化野は水希の計画を察したようだった。呆れ半分に少し笑う。
「そうか、まあ客を呼んでくれたのはありがたい」
ぽん、と化野に頭を撫でられ、水希は頬を赤く染めた。
化野の水希への接し方に、絵里は複雑な心境だった。なんだか扱いが違いすぎるような気がする。
「じゃあ大学案内するよ!」
水希は立ち上がり拳を握った。案内するだけなのにえらく気合いが入っている。
化野も腰を上げ、歩き始めた。当事者の筈なのにまたしても置いていかれかけ、絵里は慌てて後に続いた。
講義時間中の大学内は人通りも少なく比較的静かだ。
絵里は水希の横に並んだ。化野のぺたぺたという足音にはどうにも慣れない。
「水希は何か思い当たる事はないのか? 怪しい人間か妖怪は」
「うーん。……あ、あの人は? えっと、名前何だったかなあ。オカ研の先輩でさ、見るからに怪しい人いるじゃん」
「――おかけん?」
化野が眉根を寄せる。
「オカルト研究会。私と絵里が入ってるサークルだよ。妖怪とかユーマとか、宇宙人なんかを研究するの」
「宇宙人なあ。そんなのいないと思うが」
「えー、宇宙人はいるよ。ツチノコはいない派だけど」
「妖怪が言うセリフじゃ無いでしょ」
河童と人魚らしからぬ会話に、絵里は耐えきれず口を挟んだ。
「まあそれはいいとして、絵里覚えてない? ほら、宇宙オタクでさ、こーんなフレームがでっかい眼鏡掛けてて、前髪が長くていつもこんな風に下を向いてる。笑うとちょっと不気味だけど、気が弱そうな」
「――あ、わかった。生駒さん」
物まねをしてみせる水希に、絵里は人差し指を立てた。
ほとんど幽霊部員状態で、たまにしか見かけない先輩だ。確か三つ年上で、大学自体あまり来ていないと言っていた。
しかし、水希が生駒を疑う理由は、おそらく外見だ。見た目で判断するのは……と絵里が注意するか悩んでいた時だった。
「……なんでしょう」
背後からか細い声がして、絵里達は揃って振り返った。
スーツを着た生駒がおどおどした様子で立っている。猫背と俯いた姿勢のせいで、癖毛が顔に掛かって表情が読み取りにくい。
「こ、こんにちは」
「こんにちは……」
絵里が挨拶するとぺこりと頭を下げられた。先輩なのに、腰が低い人だ。
化野は生駒に近付き、足下から顔を覗き込むと手を振る。その行動に絵里は気が気でなかったが、生駒は無反応だった。
「生駒さん、スーツでどうしたんですか?」
水希は柔和な笑みを浮かべて小首を傾げた。生駒が僅かにたじろぐ。水希のこういう所は、素直に羨ましい。
生駒は黒いリクルートスーツを見下ろした。
「就活なんだ。就職出来る気がしないけど……」
「大丈夫ですよー。生駒さん真面目だし! 頑張って下さいね! 失礼しまーす」
まくし立てるように明るく言って、水希が歩き出したので絵里も着いていく。少しして顧みると、もう生駒の姿は無かった。
図書館がある棟の前辺りで足を止める。
絵里は生駒が気を悪くしていないか心配になった。
「聞かれてたかなあ、さっきの」
「わかんないけど大丈夫だよ」
根拠もなく断言する水希の横で、化野が嘴を撫でて何か考え込んでいる。
「化野さん、生駒さん怪しいと思う?」
水希が率直に訊ねると、化野は腕を組んだ。
「いや……ただの人間だな。しかし、霊力は強いかもしれない」
「霊力?」
「人間が少なからず持っているものだ。第六感、だの霊感、だのと呼ばれてるな」
「へえ。生駒さんのどこが霊力が強いの?」
絵里は気弱な生駒の風貌を脳裏に浮かべた。変わった人ではあると思うが、霊感がある、と言う話は聞いたことが無い。そもそも話したこともあんまりないのだが。
水希は彼が怪しいとみているようだが、接点がなさすぎて絵里には生駒がストーカーに近いような行為を行う動機が見つからなかった。あの手紙だって、生駒が書いたとは思えない。
「目が合ったように思えた。見えている訳ではないだろうが、妖怪の気配を察する事ができるだけでも今の時代では珍しい」
「そうなんだ」
「相良くらいだよ、妖怪と話まで出来るのは。しかも今みたいに絵里に術まで掛けてるもん。それ、相良でしょ?」
水希は絵里をしげしげと見た。術、というのは相良から貰ったお守りの事を言っているのだろう。昨日は化野の印象が強すぎて、相良がまるでちょっと変わった人のように思えていたが、言われてみれば河童の弟子をしている時点で常識を大きく外れている。
「相良くんって、もしかして凄い人なの?」
絵里の言葉に水希は目をぱちぱちさせた。
「まあ、凄いっていうか、珍しいかな。今時、あんなに強い霊力を持った人間ってそうそういないもん」
「……昔は陰陽師もごろごろいたがな。妖怪が減っていくのと同時に敵対していた人間もいなくなっていった」
化野は遠くを見つめるように目を細めた。
昔。陰陽師がいたほどの昔とはどれくらい昔だろう。一体化野はいくつなのだろうか。
聞いてみようとも思ったが、絵里はなんとなく口をつぐんだ。化野の横顔は、どこか寂しげだった。
その後、絵里達は大学内を歩き回ったが、何も有益な情報は得られなかった。途中で妖怪に出会ったりもしたのだが、彼らに心当たりを聞いてみてもまともな返事はなく、化野は呆れた様子だった。
「駄目だな」
昼休みが終わる頃、化野が大きく息を吐いた。その皿の上にぽつりと雨水が滴り落ちる。とうとう雨が降り出したようだ。
河童と人魚でも、服を着ているから濡れるのは困るだろう、と絵里は妖怪二人を連れて屋根の下へ駆け込んだ。
「今日はもううちへ戻る。これ以上は収獲がなさそうだ」
暗い空を見上げて化野が言うと、水希が元気よく挙手した。
「私も一緒に行くー!」
「水希、私達今日まだ二限あるじゃない」
絵里は腰に手を当てた。
大学で絵里達は人文学部に所属している。文系大学生は暇だと噂に聞いていたが、一回生は必修や語学などの教養科目も多く案外忙しい。今日は授業が少なめだが、それでもきちんと受けて単位を貰わなければ。
「水希は絵里と一緒にいてやれ」
化野がたしなめると、水希は絵里に向かって甘えた声を出した。
「絵里も一緒にさぼっちゃおうよう」
「一緒に行く必要ないでしょ」
「……だって、すっごく久しぶりに会えたんだもん」
化野を映す水希の青色の双眸が揺れた。
絵里がどうしたものかと悩んでいると、化野は不意に欠伸を一つした。
「雨が降って気分が良くなったからか眠くなった。少し昼寝でもしてから帰るとするか。……お前達が帰る時にもまだ寝てたら起こしてくれ」
水希の顔がぱっと明るくなった。そっぽを向く化野に抱きつく。絵里は慌てて水希が人目から隠れるように体を傾けた。
降り出した雨に騒ぐ女の子の声が聞こえる。
自分も水希のように素直になれたら良いのに。絵里はぼんやり考えて、頭を振った。何故だか思い浮かんだのは、昨日相良一度だけ見せた曖昧な微笑だった。




