疑うこと
電車に揺られ、絵里の家へ向かう。最寄り駅からの道は海に近く、風に乗って潮の香りがした。
「素敵な所ですね」
海の方を見ていた相良が急に振り返り、絵里に向かって笑いかけた。絵里は鼓動が速まるのを必死で抑える。どんな奇人っぷりを見せられても、容姿や仕草が好みな事には変わりない。
「ありがとう」
はにかんで歩きながらも、絵里は普段味わった事のないような居心地の悪さを覚えていた。すれ違う人の視線を感じる。絵里の存在に気付かなかった人にぶつかられた事はあれど、ただ歩いているだけで注目を集めたのは初めての経験だ。化野は絵里たち以外には見えない筈だから、視線を集めているのは相良だろう。
「……見えない?」
そこまで考えて、はっとした。つまりこの状況は、周囲からは絵里と相良が二人で歩いているように見えるのだ。
デートみたいじゃない。
至った結論に絵里は頬を染めた。内気で交際経験のない絵里にとって、男性と並んで歩くのは小学校の遠足以来であった。
上目遣いに相良の端正な横顔を盗み見る。こうして並ぶと、彼はかなり背も高い。欠点なんてないように思えた。足を進める度揺れる切り揃えられた黒髪は、女性よりも綺麗なくらいだ。
こんな髪型似合うなんてすごい。絵里は内心で独りごちた。男の人でショートボブだなんて。……ショートボブ?
「まてよ、ショートボブってつまり……」
「どうかしました?」
ブツブツと考え込む絵里の顔を相良が覗き込んだ。
「いや、その、相良くんの髪型って」
「――もちろん、おカッパ! ですよ!」
よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに相良はふわりと笑った。
絵里は聞かなければ良かったと心底後悔した。
ずっと視界の端をちらついていた緑色に視線を滑らせる。絵里は服を着た河童が歩いている事に何も感じなくなってきている己の順応力を、褒めてあげたくなった。電車に乗っている姿を三十分も見た後では、道を歩いているくらいどうってことではない。
「つけられているな」
「へ?」
前を向いたままで化野が口を開いた。絵里は思わず振り返りそうになる。
「動揺するな。相手を刺激しないほうがいい。それから、私は人間には見えないと何度も言っただろ。人の目が多いところでは反応するな」
化野の命令口調に絵里はむっとしたが口をつぐむ。
誰かが駆け寄ってくる足音が背後から聞こえる。いつの間にかすぐ近くまで来ていた気配に絵里は体を強ばらせた。
「ひっ」
不意に右足に後ろから何かが巻き付く感覚がして、絵里は息を飲む。
「えりちゃん!」
恐る恐る足下を見やると、そこにいたのは近所に住む小学生の宗輔だった。
つい先々月に進学と同時に引っ越してきた宗輔は、絵里によく懐いていた。一人っ子で両親が忙しいらしく、絵里を姉のように慕ってくれ、絵里もまた弟のように可愛がっている。
絵里はほっと胸を撫で下ろした。屈んで宗輔に目線を合わせる。
「宗ちゃんかあ。びっくりした」
宗輔は丸い顔でくしゃりと笑った。
「だってびっくりさせようとしたもん」
「えー、まんまとやられたなあ。お家帰るとこ?」
「うん! えりちゃんまたね!」
元気よく頷き、宗輔は駆け出した。絵里はその背中に手を振り、化野たちに向きなおる。
「お友達ですか?」
再び歩き出しながら、相良が小首を傾げた。
「近所に住んでるの。なんでか懐かれちゃって。子供になつかれるなんて初めてだから嬉しいけどね」
「絵里ちゃん、って呼ばれてましたね。可愛いなあ。僕も絵里さんとお呼びしてよろしいですか?」
「…………えっ?」
想定外の発言に絵里はしばらく反応できなかった。
一体何を考えているんだ相良は。最近の高校生ってみんなこんな感じなのか。自分もつい数ヶ月前まで高校生だったはずだが、こんな事件は起きなかった。そもそもクラスメイトのうち一体何割が自分の名前をきちんと知ってくれていたのかさえ疑問だ。
「……駄目ですか?」
相良はしゅんとして眉尻を下げた。絵里は慌てて首を振る。
「いやもういくらでも呼んで下さい。ご自由にいくらでも」
「絵里さん面白いです」
ふふ、と笑う相良に絵里は胸を押さえた。心臓が痛い。
「今の子ども、妖気を感じた」
甘酸っぱい空気を割って入るように化野が声を上げた。そうだ、河童もいたんだ、と絵里は眉間に皺を寄せた。化野を見ていると相良が河童に陶酔していることを思い出して愉快ではない。
「ようき?」
「妖気っていうのは、文字通り妖怪が持っている気の事です。これに当てられた人間が、妖怪に化かされた、なんて言われたりしますね」
相良の解説を聞きながら、絵里はオカルト研究会の部室で読んだ妖怪図鑑を思い出した。
妖気で人を化かすと言えば、女の妖怪がよく挙げられる。例えば、骨女という妖怪は妖気に当てられた人にだけ美女に見えるが、それ以外の人には骸骨にしか見えない。
しかし、宗輔は人間だ。どこも変なところなど無い。それこそ、肩に張られた「妖怪見える札」が無い時からずっと見えていたのだから。
「とは言っても、あの子どもが持つ妖気ではない。かすかに「残っていた」というのが正しい。どこかで妖怪と接した後のような」
「宗輔くんが妖怪と会ったって事?」
「一つの可能性だ。可能性は無限にある。それをはなから選り好みしていては真実に辿り着けない」
化野の言葉は、不思議に絵里の胸の奥深くにへばりついた。タイトルも思い出せない小説の、誰かが言ったセリフのように。
「でも、それが私のストーカーと関係あるとは限らないんでしょ?」
「もちろんだ。だが、お前はあの人の子をどれだけ知ってると言える? たかが近所に住んでいるだけだろう。――名前が本名だと言えるか? 両親の顔を見たことは?」
絵里は後ろを顧みた。宗輔の姿は、もうとっくにどこにも無い。
化野は絵里を横目で見て、腕を組んだ。
「まあ、相手を信じるのは人間の良いところでもある。だが、疑うことで見える物もあるということだ」
相良が感心して頷いている。絵里は疑うということが苦しみを伴うのだと痛感した。これから自分がしようとしている事がどんなことなのかを。
「ストーカー、全然知らない人だったらいいな」
ぽつりとこぼした願望は、誰にも聞かれずに波の音に紛れた。