キュウリとキュウビ
「申し遅れました。僕は化野さんの弟子をしている相良、と申します。どうぞよろしくお願い致します」
相良と名乗った少年は丁寧に手を付いてお辞儀をした。
絵里もつられて姿勢を正す。
「あ、えと、湊絵里です。……弟子、ですか」
「はい! 師匠のようなカッコいい男になれるよう日々努力しています!」
きらきらとした相良の眼差しに、絵里は思わす化野を一瞥した。キュウリの一本漬けを囓る姿は、カッコいいとは到底思えない。
しかし、こうして改めて見てみると、絵里の持っていた河童のイメージとは少し違っている。絵里よりも小柄で、おそらく身長は百四、五十センチ程度だろうし、全体的にプニプニしているようにも見える。若い河童なのだろうか。河童に年齢という概念は存在するのか。
相良はもう一度礼をすると化野の一歩斜め後ろに座った。
絵里は出されたお茶とお茶請けを眺めた。相良の用意してくれたお茶請けは味噌を添えたキュウリスティックとキュウリの漬け物だった。
「それで?」
キュウリを嚥下し、化野は絵里に向かって顎をしゃくった。
「そ、それで……?」
「相談はしないのか」
言われて、絵里はここに来た目的をようやく思い出した。本音を言うと、もう相談どころではないのだが。
「あの。その前に、もう少し説明が欲しいかな、なんて」
絵里が頭を掻くと、化野と相良は顔を見合わせた。
「何についてだ」
こいつ、本気で言ってるのか。絵里は生まれて初めて妖怪に苛立ちを覚えた。
「えっと、その、化野さんは河童なんですよね?」
「ああ」
「つまり妖怪でいらっしゃると」
「ああ」
「私、妖怪っていうものを見るのが初めてなもので……」
「私は毎日人間も妖怪も見てるがな」
「そういう問題じゃないって言いますか……」
らちのあかない問答に絵里は額を押さえた。
化野がキュウリを囓る音だけが響く。
二人の様子を見ていた相良が、こほんと咳払いを一つした。
「湊さんが師匠を見ることが出来ているのは、ずばりそのお札を付けているからです!」
絵里は未だワンピースに張り付いたままの紙を見下ろした。ただの落書きのように見えるが、こんなものにそのような力があるというのか。
「この相談所は師匠が妖怪と人間の友好という素晴らしい目的のために始められたのですが、開業してすぐ問題が起こりまして。――なんと、せっかく相談者が来られても皆さん師匠が見えないために、相談のしようがなかったのです! 師匠が妖力を使い、人前に姿を現すことも出来ますが、毎回のことですから、その度に師匠の手を煩わせることは出来ません」
どこから突っ込むべきか分からず、絵里は頭を抱えた。
「そこで、僕がその『妖怪見える札』を作り、相談者の方に身につけて頂くことで円滑なコミュニケーションを実現した、と言う訳です」
相良は誇らしげに胸を張った。大発明みたいに言われたが、絵里にはさっぱりその凄さが理解できなかった。
「とりあえず、これを付けている間は妖怪が見える、っていうこと?」
「そうですね。――あ、大丈夫ですよ、お帰りの際にはお取りしますし、万一そのままお帰りになってしまったとしても、大体数時間で効力が消えるようになっております」
「へえ」
セールスマンのような口ぶりの相良に絵里は感心しかけ、すぐに正気に戻った。そもそもまだ化野が本物の河童であると信じているわけでは無い。
「それでその、どうして河童が――」
「河童さん、です」
絵里が言い終わる前に、相良が間髪入れず口を挟んだ。ニコニコしてはいるが、圧力を感じる。
「か、河童さん、がどうして相談所を? 妖怪と人間の友好っていうのはどういう……?」
「それも僕からお話致します!」
相良は元気よく手を上げた。化野のこととなると生き生きしている。
当の化野といえば、二本目のキュウリに手を伸ばしていた。
「近年、妖怪は急激に数を減らしています。これを環境の変化へ対応出来なかった事が原因であると師匠は考えました。環境の変化といえば、人間の進化が要因にあげられます。ここまでいいですか?」
絵里はひとまず首を縦に振った。わからないとでも言えば、長くなりそうだ。
「人間によって減ってしまったのならば、人間と仲良くなることで新たな繁栄を、というのが師匠のお考えです。そのためには、人間に妖怪の良さを知って貰わなければなりません。妖怪の起こした事件や問題を解決し、関係を円満にしていく事こそが! この化野霊能相談所の理念なのです!」
相良の熱弁に圧倒され、絵里はしきりに頷いた。よくわからないが、一つだけよくわかる。この人は危ない人だ。きっと。
さあ、ご相談を! と相良が声を弾ませる。久々の仕事だと息巻いていただけに、どうにも相談しない限り帰らせて貰えそうに無い。
「私も、まだ確信が持ててないんですけど……」
そう前置きをして、絵里はここ一月ほどの出来事を語り始めた。
初めに感じたのは、視線だった。舐めるようなねっとりした視線。そしてそれは、どこに居る時もふとした瞬間に感じるのだ。通学中や大学はもちろん、自室にいる時でさえ感じるのが何より不気味だった。
次に異変を感じたのは、部屋に誰かが侵入した形跡だった。雑誌の場所やカーテンの変化。最初は母親が入ったのだろうとあまり気にしなかったが、両親と外へ出掛けた後にもイスの位置が変わっていた。
深夜、寝ている傍らに何者かの気配を感じ目が覚めた事もある。しかし、人の姿を確認することは一度も出来なかった。
違和感は、日を追う毎に酷くなっていった。そうして一昨日の夜、風呂に入っていたものの三十分ほどの間に、とうとう部屋が荒らされてしまった。
「ストーカー……ですかね」
絵里が話し終わると、相良はふむ、と口元に手を当てた。化野は黙り込んでいる。
「でも、身に覚えが無いの。それに、ストーカーっていうよりももっと、何か違う感情を感じる。好意なんかじゃない、何か別の」
恨みでも無い。妬みでも無い。何か別の、それでいて深く強い想い。自分の身に降りかかっているのに、何故か他人事のように思えてしまう不可思議な感覚だった。
「私なんかがストーカーにあってるかも、なんて自意識過剰って思われそうで誰にも言えなかったんです。私、昔から影が薄いって言われてきたし、誰かに好かれたような経験もないので。けどどんどん酷くなるから、怖くて。警察には両親に迷惑掛けたくないので行ってません。うち、旅館を経営してるから変な噂が立つのが嫌なんです」
何故自分がこのような目に遭うのか、絵里には皆目見当も付かなかった。一度だって恋人も出来ず道を踏み外すこともなく、地味で平凡な人生を十八年間歩んできた。
とにかく影が薄い日陰者の人生だった。出席したのにサボったと言われ反省文を書かされ、最初から居たのに「いつから居たの?」と驚かれ、何の悪意も無く自分だけお菓子が貰えないような、そんな人生だった。大学でだって、まるで目立たず友人も少ない。それなのに。
沈黙を貫いていた化野は、嘴に流し込むようにして緑茶を飲み干すとやっと開口した。
「どうしてうちに来た? ここは霊能関係が専門だ。ストーカーは人間に相談するべきだろう」
「友達に紹介されて……」
絵里の返答に化野は怪訝そうに顔を歪めた。
「友達?」
「私、オカルト研究会に所属してるんです。そこの友達に相談したら、犯人は人間じゃないんじゃないかって。それで、普通のストーカーじゃないなら普通の探偵事務所なんかに相談しても無駄だって、ここを」
来てみると普通じゃないどころか、探偵事務所ですらなかったのだが。
化野は四本の指で嘴を撫でた。
「普通じゃないストーカーか」
「確かに、何かしらの妖怪が関わっている可能性はありそうですね」
相良は絵里を上から下まで眺めてから首肯した。
「しかしストーカーなあ。そのような下らない事をする面倒な男は好かない」
「久しぶりのお客様ですよ、師匠。力になれるよう頑張りましょう」
気乗りしない様子の化野の後ろで、相良が両手で拳を作った。
「まずは荒らされた、というお部屋の現場検証を行いたいですね。妖怪の仕業なら多少の痕跡は残ってい
る筈です。――湊さん、お住まいはどちらで?」
てきぱきと話を進めていく相良に、絵里は彼一人で充分なのではと思った。よく考えれば、化野はまだキュウリを食べる以外のことはしていない。
「海岸沿いの旅館なんだけど……ここから電車で三十分くらいかな」
絵里が答えると、化野は渋い表情を浮かべた。妖怪って表情あるんだ、と感心してしまう程度には、絵里は化野の存在に慣れ始めていた。
「海か。私は海水は嫌いだ。塩分がきつい」
「大丈夫ですよ! 師匠は僕がお守りしま――」
すっかり張り切っている相良が化野を宥めた瞬間、室内の空気が一転した。ひやりとした冷気が一瞬で立ちこめる。
不意に相良に腕を引かれ、絵里の体は浮き上がった。抱えられたと思うと、すぐに化野の横に下ろされる。至近距離の化野に絵里はまた悲鳴を上げそうになった。
「ごめんなさい、そこから動かないで」
相良は絵里と化野に背を向けると、片膝を付いたままポケットから札を取り出した。絵里の位置からは
何か描かれているのかはわからない。
張り詰めた空気を切り裂くように鋭い風が吹き、障子が吹き飛ぶ。障子は真っ直ぐに相良の方へ飛んできたが、見えない壁に弾かれた。
冷気のもやが晴れ、現れたのは青年だった。白い着物に濃紺の袴姿で、腰のあたりまである長い髪は金色に輝いている。相貌は美しく整っているが、目だけが切れ長く吊り上がっていた。
そして何よりも、絵里が視線を奪われたのは頭部に生えた耳だった。髪と同じ金色の毛に覆われた耳は猫のように鋭く尖っていた。
青年はふわりと相良の目の前に降り立つと、血のように赤い唇を妖しく吊り上げた。
「まーた人間の餓鬼に守って貰っちゃって。滑稽だね、河童」
無機質な声と酷く子どもっぽい口調がちぐはぐで、彼の言葉はどこか現実味がない。絵里は次々と起こる信じられない出来事の連続に、頭がおかしくなりそうだった。
「餓鬼なのはお前だろ。また耳生えてるぞ」
化野が言うと青年は慌てて両耳を押さえ、唇を尖らせた。
「仕方ないでしょ、化けるのは苦手なんだもん」
「九尾の狐様がなにをほざいてる。来るたびにうちを壊すな。そもそも来るな」
「酷いことばっか言わないでよお」
手で追い払う仕草をしてみせる化野に、青年の耳が垂れ下がる。そのころころ変わる表情を見ながら、絵里は記憶を探った。
九尾の狐。動物の妖怪の中でも上位の存在だ。その名の通り、尾が九つ生えた妖狐を指す。化野の言った事が本当ならば、彼も妖怪ということになるが、尻尾はどこにも見受けられなかった。
「帰って下さい。帰らないなら、力ずくで追い出します」
冷たい声音で言い放ち、相良は札を目の前に構えた。
九尾は相良を一瞥すると、盛大に嘆息した。
「五月蠅いなあ。っていうか、よく見たら人間いつもより多いけど新しい手下? おれのこと見えてるみたいだけど」
「客人だ」
化野が低い声で答える。
「じゃあおれと一緒だね」
九尾が笑みを浮かべた刹那、相良が手にしていた札を飛ばした。閃光を纏った札は、矢のように勢いよく飛んでいく。しかし、九尾の鼻先で透明な壁に阻まれ、バチバチと電流が広がったと思うと弾けて消えてしまった。
相良の札を止めた壁はガラスのように粉砕した。
不意に部屋の温度が下がる。すると突如として吹雪が巻き起こり、九尾の横で霧散した。
吹雪の中から現れたのは純白の女性だった。
白い着物に白い髪に青白い肌。睫毛や爪の先まで白く、結い上げられた髪に挿された簪だけが金色に輝いていた。少女のあどけなさが残る面持ちは儚げに伏せられている。
「九尾様。少しはご自分でも避けようとして下さい」
消え入りそうに言い、女性は九尾の背に隠れた。
「雪女は心配性だなあ。あんなの当たったって平気だよ」
九尾は挑戦的な目つきで相良を見た。相良はまた新しい札を構えている。ニコニコしていた相良とは別人のようだ。
「行きましょう九尾様」
雪女と呼ばれた女性は九尾の袴を引っ張った。
「ええー」
九尾は不満げに口を膨らませたが、頑なな雪女の様子に肩を竦めた。
「まあいいや。じゃあね、河童。また来るからあの事、考えといて」
ひらひらと九尾が手を振る。直後に大きな吹雪が九尾たちを包み、風が止んだ時には二人とも跡形もなくいなくなっていた。
絵里が詰めていた息を吐くとうっすらと白くなった。
「おい小娘」
化野の刺々しい声が真横から鼓膜を震わせ、絵里は飛び上がった。
「な、なななに」
「さっきも言ったが、私はストーカーをするような面倒な男は嫌いだ。私がどうにかしてやる。案内しろ」
ものの数分で心変わりしたらしい化野は、立ち上がり腕を組んだ。
相良が手を叩いて目を輝かせる。
「師匠カッコいいです! がんばりましょう!」
当事者の筈なのにどこか蚊帳の外の絵里は、障子が無くなり開きっぱなしになった縁側の方を眺めた。
庭の小さな池に雲が映っている。それがびっくりするほど現実感を持っていて、少し目眩がした。