人間
奇妙で悲しい、ストーカー事件が終結を向かえた翌日の夕方、絵里は化野霊能相談事務所の最寄り駅へ来ていた。
しかし絵里の目的は、相談所へ行くことではない。相談料の支払いは、いつでもいいと相良に言われていた。
傘をとん、と鳴らすと水滴がコンクリートに流れていった。
今日は朝から雨が降っていた。雨は髪が広がるから、好きじゃない。でも、好きになりたいと、思う。
「やあ、お待たせ」
斜め後ろから、声がする。高い位置にある顔を見上げると、工藤は人好きのするくしゃりとした笑みを浮かべていた。
「お時間取って頂いてすみません」
頭を下げる絵里に、気にしないで、と言う工藤の息は、僅かに乱れている。刑事という忙しい仕事の中で、時間を見繕ってくれたのだろうと想像できた。
「立ち話じゃなんだし、どこか入ろうか」
工藤の提案で、適当な喫茶店へ入る。
メニューを見ると、アップルティーに『おすすめ』の文字が付いていた。工藤は「美味しいのかなあ」と呟いて、それを注文する。素直な人なのかもしれない。
「それで、俺に訊きたい事って?」
甘い香りのカップが運ばれてくると、工藤が問いかけた。
絵里は返事に困ってしまう。なんとなく、いてもたってもいられずに、気が付いた時には工藤に電話をかけていた。彼が忙しいであろうことも、重々承知しているのに。
「ごめんなさい。自分でも、わからないんです。ただ、ずっと何か引っかかってる事があって。私一人で考えていても、わからなくて」
事件は解決したはずなのに、言いようのない胸騒ぎが無くならなかった。まるで、大切なことを見過ごしているかのような。
「化野たちに相談していたことかな?」
「それは昨日終わったんです」
「なによりだ。よかったよ。少し気になっていたんだ」
熱い紅茶に舌鼓を打って、工藤は目を細めた。
「なら相良のことかな? 君が気になっているのは」
言われて、絵里は目を伏せた。相良に貰ったお守りは、まだ胸にある。昨晩は返しそびれてしまった。
あの後、旅館の前で見送る時、相良はいつもの笑顔で手を振った。小さくなっていく後ろ姿が夜の闇に消えていくのを見て、何故か不安になった。
「……相良くんに、巻き込まれた事件の話聞きました。でも私、何も言えなかった。自分で訊いたくせに、何も」
「そっか」
「相良くん、何も悪くないのにすごく傷ついてた。今回の事でもそう。私のために精一杯頑張ってくれて、なのにまた傷ついちゃった」
絵里は立ち上る湯気を眺めた。
痛いのを堪えるような相良の表情が、頭から離れなかった。人一倍優しい人は、人一倍傷つくのだと、思う。
「あの事件は、不運だったとしか、言いようがない。警察では未だに原因不明の怪奇だとされてるんだ。呪いなんて信じたくないのは私も同じだ。木本優佳も、罪に問われなかった。……でも俺は、もしも本当にあれが呪いなのだとしたら、未遂に終わったんだと思うんだ」
「未遂、ですか?」
「木本優佳が行った呪いは、クラスメイト全員を殺すこと。でも結果は、誰一人死んだりしなかった。怪我や病気になった生徒も、全員完治している。それに、そんな恐ろしい呪いを実行した木本優佳本人も、今はちゃんと友達もいて、普通に生活している。これはさ、何でだと思う?」
「……木本優佳さんの呪いが、下手だったとか、でしょうか」
「そうかもしれない。ただ俺は、相良がこめた霊力とやらが、呪うためのものじゃなかったからだと思う」
「呪うためのものじゃない……?」
「相良は木本優佳の幸せを願ってた。だから、それを利用して人を呪ったって、上手くいかなかったんじゃないかな」
絵里は胸に手を当てた。そうだ、相良はいつだって自分以外の人のために行動していた。人と違うことで辛い思いも沢山してきたはずなのに。
「人と違うって、どういうものなんでしょう」
工藤は絵里の質問に首を傾げた。
「私、全くの凡人だから、よくわかんないんです。自分だけが周りと違う苦しみとか、そういうもの」
水希も言っていた。どこにも居場所がない気がした、と。
自分が怖くなって、妖怪と暮らしているのだと相良は話した。でも相良は人間だ。どんな力を持っていたって、人間なのだ。
「不安なんだろうなあ。相良が化野にあそこまで固執しているのは、化野が相良を受け入れて必要としているからだ」
「必要としてる……」
「事件の後、しばらく相良は塞ぎ込んで学校にも行こうとしなかった。怖いのだと言って、俺にも、家族にさえ会いたがらなかった。毎日のように、ふらふらと林の奥へ行って川のほとりで座ってるんだ。たまに独り言を言うから、気味が悪いと母親が言った。幼い頃からそうなんだと。何も無い所をじっと見たり、誰もいないのに誰かと話をしていたり。俺も、初めて見た時は驚いたな。事件自体も、木本優佳や相良の証言も不可思議だっただけに」
川のほとりで、彼はきっと化野に会っていたのだ。誰にも会いたがらなかった相良が唯一会いたかった相手が、妖怪だなんて皮肉なものだと絵里は思った。
「俺は何かほっとけなくて、ちょこちょこ相良の様子を見に行っていたんだ。そうしたら、突然化野が姿を見せた。あの時は本当に、信じられなかったな。河童が俺に頼んでくるんだ。相良を引き取る手伝いをしてくれって。河童が人間の子どもと暮らすだなんて、聞いたこともないだろ? でも化野は本気だった。だから、手伝ったんだ」
「化野さんから言い出したんですね」
工藤は記憶を探し出すみたいに、窓に張り付く雨粒を眺めた。
「中学生になって、化野と暮らすようになってから相良は見違えるように明るくなっていった。霊力の使い方も格段に上手くなって、今じゃ君にやったみたいに普通の人にも妖怪を見せたりな。……それが最初から出来れば、家族とも上手くいったのかはわからないが」
絵里は化野と相良の関係を思い返した。師匠と弟子と言っていたが、化野はただ女の妖怪にモテるだけの河童だ。ほとんどの事を実際に行うのは相良の方で、その度に「役に立てる」と喜んでいた。
――妖怪と人間は違う。
化野の台詞が、ふと頭を過ぎった。妖怪と人間は相容れないもの。当然のことだ。生きる時間も思想も常識も、何もかもが異なっている。だからこそ、与一は妖怪になったのだ。自分が殺した想い人の幽霊と添い遂げるために。――妖怪に『なった』?
脳裏に、一つの考えが浮かび愕然とした。
「どうかした?」
急に色を失った絵里に、工藤は訝しがった。
「すみません、ありがとうございました!」
絵里は喫茶店を飛び出した。早くしなければ手遅れになる、予感がした。
外は小雨が降っていた。これくらいなら、と傘を差さずに走った。
化野霊能相談事務所に駆け込み、相良の姿を探す。勝手に上がり込んで廊下を疾走した。
客間には化野と座敷童がいた。相良はいないようだ。
「相良くんは?」
「いきなりなんだ。相良はまだ帰っていない」
首を捻る化野に、絵里はもどかしくなった。
「相良くん、妖怪になっちゃうかもしれない」




