深夜の侵入者
彼女と私の幸せな生活を壊したのは、彼女の両親と一人の馬鹿な男だった。
あの男が彼女の長い髪に触れ、彼女が笑う度、私は胸が張り裂けそうになる。
彼女は無理に笑っているのだ。救ってあげなくてはならない。彼女が泣くのも笑うのも私の前だけでいい。
彼女が他の男のものになるのなら、私の手で殺して私も死のう。そうすれば私達はようやく、二人になれる。何者にも邪魔されない二人の世界で新しい時間を過ごそう。
さあ、彼女を救いに行こう。
ベッドの中で絵里は微睡みの中にいた。疲労で体は重く脳も働かないのに、眠りにつく事は出来ない。
相良の結界はベッドを囲うように張られている、と相良本人が言っていた。絵里には見ることは出来ないため、信じるしかない。ドアの向こうにいるはずの化野の事も。
――ガタッ
不意に窓の方から音がして絵里は飛び起きた。
吹き込んできた風にカーテンは翻り、月明かりが差し込む。
開かれた窓から顔を出したのは相良だった。絵里はお守りを握っていた手を緩める。
「――さが」
相良くん、声を掛けようとした絵里の口を、相良の手の平が塞いだ。
「しーっ」
目を見張る絵里に、相良はもう片方の手で人差し指を唇に押し当て囁いた。その薄桃色の唇が弧を描く。
絵里が唖然としている間に、相良は跳び上がり窓から部屋に侵入してきた。ベッドへ乗ると、絵里を真っ直ぐに見つめてにじり寄る。
淡い月の明かりが相良の姿を照らし出していた。
近付いてくる相良に、絵里は逃げ場を無くしてベッドへ倒れ込んだ。その隙に相良は絵里に覆い被さる。相良の骨っぽい肢体に閉じ込められ、身動きが取れなくなった。華奢に見えたのに、こうされると体格差が明らかだ。
「ちょ、ちょっと」
「――静かに」
相良は絵里の耳元でおかしそうに笑った。吐息が鼓膜をくすぐる。頭が真っ白になりそうだった。
熱っぽい眼差しが絵里を捉える。相良の髪が絵里の頬に垂れてきて、備え付けのシャンプーの香りがした。
「絵里さん……」
初めて聞く掠れた声に、絵里は思わずぎゅっと目を閉じた。
その刹那、首に冷たい感触がした。
「なん……で」
首筋が圧迫されて呼吸が出来ない。
どうにか薄目を開けると、相良が両手で絵里の首を締め上げていた。
信じられないほどの強い力に、抵抗できない。何も考えられなかった。
「――おい!」
瞬間、鋭い怒号が響き渡った。
小さく舌打ちをして、相良は素早く絵里から離れる。怒鳴り声の主は化野だった。
相良は化野の姿をみた途端、窓から飛び出した。化野が追いかけるが間に合わず、窓の外を覗き込んだ時にはその姿は闇に消えていた。
解放された絵里は咳を繰り返した。激しい目眩に襲われる。
「逃がしたか」
眉を寄せ振り返った化野は、絵里を見て目を丸くした。
「殺……される……って思った……もう死ぬんだ……って……」
赤くなった首を手で押さえる絵里の瞳から、涙が溢れていた。拭わないから涙はシーツに落ちて、染みを作る。
「どうして……」
指一本でさえ力が入らない。ただ「どうして」という疑問だけが頭の中をぐるぐる巡っていた。
どうして自分がこんな目に遭うのだ。どうして。
化野は嘴を引っ掻いた。
「あいつは相良じゃないぞ。気配も霊力も、まるで違う」
「……わかってる」
あんなの相良じゃない。相良がこんなことするはずない。
絵里の口を塞いで笑った時、もう本当はわかっていた。絵里を守ると約束した相良が、怯えている絵里にあんな顔をするわけがなかった。
まんまと嵌められた自分が悔しくて堪らない。
化野は絵里の傍までやってくると、結界の前で立ち止まった。結界内に妖怪は入れない。化野も例外ではなかった。
「悪かった。私の考えが甘かった。捕まえる事を優先してお前をおとりにしてしまった」
絵里は頭を下げる化野の胸に、倒れ込んだ。ベッドからずり落ちる。
それから長い間、絵里は化野の胸で子どもみたいに泣き続けた。
太陽が昇り始めて、空が少し明るくなった。鳥の鳴き声が聞こえる。
あのまま少しだけ寝てしまっていたようだ。絵里が目を覚ますと、そこは化野の膝の中だった。
河童に抱かれて一晩を明かしてしまったのか。ぼんやりした頭で考えて、考えたことを後悔した。
「立てるか。相良の所へ行くぞ」
化野の緑色の手には小さな蝶が留まっていた。よく見るとただの紙だ。おそらく相良の式神だろう。何か連絡が来たのかもしれない。
絵里はふらつきながらどうにか立ち上がった。
少しだけ、脳が冷静になっている。
昨日絵里を殺そうとしたのは、相良ではない。――じゃあ、あれは一体誰?
時が止まったような早朝の旅館を、音を立てないよう慎重に歩く。
202号室へ辿り着くと、どこかやつれた様子の相良がいた。
「絵里さん、無事で良かったです」
相良は絵里を一目見て、ほっと胸を撫で下ろした。それから、腫れた首に気付くと心配そうに眉を寄せる。
「――首、どうされたのですか。大丈夫ですか?」
伸ばされた相良の手を、絵里は無意識に避けた。相良が目を丸くする。
「ご、ごめん」
絵里は唇を噛んだ。あれは相良じゃない。頭ではわかっているつもりだった。
化野は絵里と相良を座らせ、昨晩の出来事を話した。
愕然と話を聞いていた相良だったが、しばらくすると背を丸めて深く頭を下げた。綺麗に切り揃えられた黒髪が畳に広がる。
「申し訳ありません。僕の姿が利用されてしまったせいで。守るって言ったのに。力不足でした」
「そんな、顔上げて。悪いのは相良くんじゃないよ」
肩を落としたままで相良はそろりと面を上げた。目が充血して、涙が溜まっている。その目元に隈が出来ているのに、絵里はその時気が付いた。肌が白いだけに、目立って痛々しい。
「相良くん、寝てないの?」
「寝られませんよ」
一晩中、ずっと彼は絵里を心配してくれていたのだろうか。しっかりして見えても、相良はまだ高校生だ。
絵里は心臓が針で突き刺されたように痛んだ。巻き込んでしまったのは自分の方なのに。
ふつふつと怒りが湧いてきた。よりによって、相良を利用するなんて。
「許せない」
「すみません……」
「いや、相良くんの事じゃないよ」
再び謝罪する相良に頭を上げさせてから、絵里は拳を握った。人間というのは、悲しみや苦しみが続くと怒りに変える事があるのだと絵里は初めて知った。
「絶対に捕まえて謝らせてやる。そしてどんなに謝っても一生許さない」
「……お前急にキャラ変わったな」
化野はぽつりと言った。
「泣き寝入りなんて馬鹿みたいだもの。――化野さん、私おとりでもなんでもやる。犯人の目的はわかんないけど、私を殺す気ならそこを捕まえるのが手っ取り早いでしょ」
自暴自棄にも聞こえる言葉に、化野は絵里に対峙してじっと目を見つめた。
「……本気か」
「すっごく本気」
嘴を撫でて、化野は少しの間考え込んだ。
相良は「危ないから止めましょう」と絵里と化野の間でおろおろしている。
「――実のところ、私はもう、この事件の真相がわかった」
「え? 嘘、誰が犯人なの? 何のためにこんなことするの?」
「話して、お前が納得する保証はない。もしお前……絵里が本当におとりになるなら、真相は知らない方がいい。捕らえた犯人に目の前で自供させよう」
どうする、と化野は問いかけた。いつもの抑揚の乏しい低い声が、ほんの僅かに優しく聞こえた。
窓の外では、海が朝焼けを反射してきらきら輝いている。
絵里の答えは決まっていた。