さくり
202号室から出て、ドアを閉めた絵里は体中の酸素を吐き出すように嘆息した。
何も言えなかった。言葉が、何も出てこなかった。
化野の声が脳裏に蘇る。
――お前はそれを聞いてどうする気なんだ?
どうするつもりでも無かった。ただ、考えが甘かったのだ。勝手に決めつけて、思い込んでいた。自分とかわらないと。どうしてそんな事思えたのだろう。人の過去が、重たくないなんて、そんな筈無いのに。
「軽い気持ちで詮索したりするんじゃなかったなあ」
絵里は階段を下りてロビーへ向かった。化野がどこにいるか皆目見当も付かない。虱潰しに探していくしか無かった。
「せめてこれくらい頑張らないと」
「――何を頑張るのー?」
背後からの声に驚いて振り返ると、そこにいたのは美大生の大月だった。
一昨日にも会ったが、まだ居たとは。決して安い旅館ではないのに、と絵里は舌を巻いた。
「びっくりさせないで下さいよ」
「ごめんごめん。大声で独り言を言ってるものだからつい」
口では謝っているが、鳶色の瞳は笑っている。
「絵の進みが悪くてー。散歩にでも行こうかと思ってたとこ」
「そうなんですか」
絵、かあ。絵里は羨ましく感じた。
平凡な人生を平凡に生きてきた自分には、足りないものが沢山あるのかもしれない。
「……絵里ちゃんなんか元気ない?」
「そんなこと……あるかもです」
絵里が俯くと、大月は手を引いてロビーのソファに絵里を座らせた。
「何か悩みがあるなら、あたしでよければ聞くよー」
大月は細い眉をハの字にした。
悩みは、ストーカーの被害に遭っているかもしれない、ということだった筈だ。解決するために、連日化野や相良に協力して貰っている。
なのに今は、もっと色んな事で頭がぐちゃぐちゃになっていた。
「大月さんは、自分がしていることに自信ありますか?」
「自信?」
「私、今までずっと、ぼんやり生きてきたんです。何となく小学校を卒業して、何となく中学生になって、入れそうな高校に入って、入れそうな大学に入って。何となく将来は旅館を継ぐのかな、何て思ってみたりして」
人生なんてそんなものだと思っていた。夢を追いかけたり、辛い経験を乗り越えたり、そんなの一握りの人だけがしているんだと思っていた。
でもいつの間にか、自分だけ取り残されていた。
「自信はわかんないなあ。でも、後悔だけはしたくないってずっと思ってるから、出来ることはしようって決めてる。死んでも、何が何でも、手に入れたいものは手に入れる」
といっても、上手くいかない時の方が多いけどね、と大月は笑った。
その笑い方が、別人のようで絵里はどこか引っかかった。
「さっき、絵里ちゃんが前に連れてた男の子見かけたけど、一緒じゃないんだ」
「え? ああ、今日は旅館に泊まるんですよ」
大月には相良の制服姿を見られているから、ややこしいことにならなければいいけど。
しかし、一体いつ見られたのだろうか。ここに着いてから、相良はずっと絵里と一緒にいたのに。ついさっき、化野を探すために別れたばかりだ。
そうだ、化野を探していたんだった。
絵里は気を取り直して立ち上がった。大月の方を向くと、ソファの向こうに深緑色がちらつく。
まさか、と思った時、化野はひょっこり顔を出した。
二度見してから、慌てて笑顔を作る。
「ごめんなさい、大月さん。ちょっと用事があるので、また」
「そうなんだ。……じゃあね」
大月はきょとんとした様子だったが、すぐに腰を上げて絵里に手を振った。
その後ろ姿が遠くなってから、絵里は化野を見やった。
周囲の視線を気にしながら声を顰める。
「盗み聞きしてたの?」
「そんな真似はしない。ただ会話が終わるのを待っていただけだ」
「つまり聞いてたんじゃない」
しゃあしゃあと言う化野に、絵里は顔を顰めた。
化野は腕を組み一つ頷いた。
「まあ、なんだ。お前も青春しているんだな」
「五月蠅い! 聞き込みの結果はどうだったの、結果は」
「大した情報は得られなかったな。黒猫の目撃情報だけはそこそこあったが、妖気を帯びていた、と言った奴は僅かだ。妖怪の言うことは当てにならんことが多いが」
「そっか」
絵里は犯人に近付いているのか、不安になった。
犯人像が一向に浮かび上がらない。まさか、猫ではないだろうと思いたかった。
化野と共に202号室へ行くと、相良がおらず、中に入れなかった。
帰ってくるまで待つことになり、絵里は化野と並んでドアの前に立つ。
「さっきのような女はどんな男に惚れるんだ?」
化野が切り出した話題に絵里は眉を顰めた。
「なに、急に」
「参考だ。私が育てた相良に靡かない女がいるなど気に入らん」
「その育て方自体がどうかと思うけど……」
絵里が呟くが、化野には意に介した様子はない。仕方なく、思案してみる。
大月は個性的な雰囲気だから、変わった人がタイプなんだろうか。変わっているといえば、相良も十分変わっているが。
「女の人全員っていうのは無理なんじゃないかなあ」
「ふん、人間の女も面倒なもんだな」
スリッパを小刻みに引きずる音がして、絵里が顔を上げると廊下の奥に相良の姿が見えた。
早足になってこちらへ近づいてくる相良は浴衣を着て肌を火照らせていた。
「わーすみません! 我慢できず温泉に行ってしまいました」
「思ったよりすぐに化野さんが見つかったの。温泉は私が勧めたんだし、気にしないで」
申し訳なさそうに頭を下げる相良に、絵里は両手を振った。見慣れた備え付けの浴衣がこんなに輝いて見えるのは初めてだった。
「……お前みたいな女なら簡単そうだな」
化野がぽつりと言って、絵里は顔を赤くした。
気を取り直して部屋に入り、テーブルを囲う。
「今晩の計画を立てよう」
「はい!」
化野の提案に相良は元気よく返事をした。河童と人間の師弟なんて、聞いた時はちぐはぐだと思ったが案外いいコンビなのかもしれない。
「まずは確認だが、お前の部屋で出入り出来るのはドアと窓が一つずつだったな」
化野は絵里に向かって顎をしゃくった。
頷いた後で、絵里は「あ」と声を上げる。
「窓の鍵、壊れてるんだった」
「壊れてる? 壊されたのか」
「わかんない……昨日の夜、急に動かなくなっちゃったの」
ガムテープで固定したまま忘れてしまっていたが、このままではストーカーどころか泥棒も入り込んでくるかもしれない。
化野は嘴を撫でた。考え事をする時の癖のようだ。
「犯人が壊したのだとすれば、それが必要だということだ。つまり、鍵が掛かっていたら困るのだろう。自由な移動は出来ないのかもしれないな。特殊な進入経路はない可能性が高い」
相良は不安そうに絵里の顔を見やった。
「でも鍵が出来ないと怖いですよね。僕がお部屋に結界を張っておきましょうか」
「……そんな事も出来るんだ」
「ある程度の妖怪なら立ち入れないように出来ます」
便利すぎるような能力だ。絵里はその能力の背景を想って複雑な気持ちになった。
「絵里の安全を考えるとそれが一番だな。もしくは私たちで見張るか。だが、問題は相手が異様なまでに用心深いということだ。私たちは一度も犯人の姿を見ていない」
「あ……そういえば、この三日間一度もあの視線を感じなかった」
絵里は記憶を呼び起こした。あんなに苦しめられた気配や舐めるような視線が、化野たちと行動するようになってぱたりと無くなっている。妖気の跡や手紙以外の手がかりが一向に集まらないのは、警戒されているからだと考えられた。
「当然私たちがここにいることももう知っているだろう。この状況で、犯人がどのような行動に出るのかわからん。邪魔な私たちを排除しようとするかもしれんが、私たちがいる間はなんの行動にも出ないつもりかもしれん」
「行動を起こさない場合が問題ですね。今のままでは犯人を捕まえるどころか捜すことも出来ません」
「どっちも問題だよ……」
物騒な単語が出たというのに関わらず、動揺を見せない相良に絵里は少し呆れた。
化野は目を閉じ黙り込んだ。長い黙考ののち、ゆっくり瞼を持ち上げる。
「見張りも結界も、あえて両方やろう。まずは相良、絵里の部屋のベッドの周囲に結界を張ってくれ。私は部屋には入らずドアの前で見張りをする。今晩犯人が現れるとするなら、おそらく窓から侵入や覗きを行うだろう。絵里は何か気配を感じたらすぐに外にいる私を呼べ。相良はここで待機だ。式神を飛ばし、犯人に勘づかれないように建物の周囲を見張ってくれ。怪しい者を見つけたり、結界に何者かが触れたらすぐに私に連絡し、下に降りて絵里の部屋へ迎え」
相良は真剣な面持ちで大きく首を縦に振った。
「任せて下さい。精一杯頑張ります。……絵里さん、僕が渡したお守り少し貸して下さい」
「えっと、はい」
言われて、絵里は服の下からお守りを取り出した。首から外そうとすると相良に止められる。
「そのままで大丈夫です。少し失礼しますね」
相良は絵里の横に膝を付くと、お守りを手にとって目を伏せた。
鼻先にある相良の端正な顔に、鼓動が早くなってしまう。たった二呼吸ほどの時間がとんでもなく長く感じた。
長い睫毛に縁取られた目がそっと開く。黒い双眸が絵里を映した。
相良は柔らかく微笑んだ。
「絵里さんを守りたい、って気持ちを込めました。何かあったら、これを握って僕を呼んで下さい。すぐ助けに行きますよ」
さくり、と胸のどこかで音がした。