五年前
小学六年生の夏休み。相良は優佳という女の子に出会った。
優佳は相良よりも年上で、当時中学二年生だと言っていた。
相良の家は、小さな神社だった。決して裕福では無かったし生活の規律も厳しかったが、代々家族で神社を守り続けていることを相良は誇りに思っていた。
賢く何でも出来る兄がいたために、跡を継ぐことはないと幼いながらに自覚していたが、それでも出来る限りの手伝いをしてきた。
優佳は、夏休みの間ほとんど毎日お参りに来た。いつも白っぽいワンピースを着て、黒い日傘を差して。
お参りをした後は、必ず石段に座ってしばらくじっと動かなくなる。その年は猛暑であったのに、彼女は汗一つかかずにぼんやりと空を見上げていた。
掃除を任されていた相良は、毎日決まった時間にやってくる彼女と会釈を交わすようになった。
「ねえ君、ここの子?」
相良は石段を掃いていた手を止めて優佳を見た。これが初めて聞いた彼女の声だった。
「毎日お手伝いして、偉いね」
二つしか変わらないのに、彼女は酷く相良を子ども扱いした。それが悔しくて、ほんのちょっとだけ嬉しかった。
その日からぽつぽつと、少しずつ言葉を交わすようになった。
優佳は知識に富んでいて、相良の知らないことを沢山知っていた。いつの間にか、彼女と話す時間が楽しみになっていた。
けれど何日経っても、相良は優佳に訊ねられなかった。「毎日、神様に何をお願いしているの」と。
「ねえ、相良くんはさ、私のこと好き?」
八月の終わりだった。優佳は少し日焼けした指先で黒い日傘をくるりと回して、いたずらっぽく笑った。
「どういう意味ですか」
相良は照れ隠しに箒を動かした。優佳と話すようになってから、掃除の時間が長くなっていた。
「そのまんまだよ。……あたしね、人に嫌われやすいみたいなの」
「何を言ってるんですか」
「ほんとだよ。クラスの子みんな私が嫌いみたい。あそこにいると、透明人間みたいになるの。誰にも私の声が届かないみたい。私の事、見えてないみたい」
ワンピースから伸びる、折れそうに細い足をぱたぱたと振って優佳は空を見つめた。もこもこした大きな雲が青い空を通り過ぎていく。
「だからね、あたし、毎日神様にお願いしてるの。夏休み中毎日お祈りしたら、きっと夏休みが終わる頃には叶うと思って」
相良は何度も掃いた場所を、もう一度掃いた。クラスで浮いたことがあるのは、相良も同じだった。
妖怪が見える事や霊力を操れることが、人とは違うことだと気が付くのに少し時間が掛かった。そのせいで両親や兄は未だに相良に怯える時がある。
「ごめんね、変な話して。神様にしか教えてなかった秘密、教えちゃった」
「――まって!」
立ち去ろうとする優佳を、相良は反射的に引き止めた。
優佳の驚いた顔が、ちょうど目線の先にある。石段二段分が、相良と優佳の身長差だった。
相良はずっと持ち歩いていたお守りを首から外した。もっと小さい頃に、母がくれた物だった。
お守りに霊力を込める。優佳がクラスメイトと仲直りできますように、と精一杯の祈りを込めた。
「これ、あげます」
訝る優佳の手のひらにお守りを乗せる。初めて触れた彼女の手は、炎天下だというのに驚くほど冷たかった。
「僕実は、霊力が強いんです。だから、きっとすごく効くはずです」
「ほんとに?」
子どもの嘘を微笑ましく聞くような優佳の態度に、少しむっとした。
相良はポケットに手を入れて小さな千代紙を取り出した。それを半分に折り、息を吹きかける。
紙は独りでに動き出し、蝶のように羽ばたくと相良の手を離れて飛んだ。
「嘘……」
優佳はぽかんと口を開けた。紙の蝶は優佳の肩に留まりゆったりと羽を動かす。相良がそれを摘まみ上げると、またただの紙に戻った。
「僕も、秘密教えちゃいました。……神様以外にもばらしたことあるけど」
「すごい!」
優佳は相良の肩を掴んだ。日傘が石段を転がり落ちていく。
この能力を見せて、怖がりも気味悪がりもしなかったのは、優佳が初めてだった。
日傘を追いかけて、優佳は石段を駆け下りる。一番下で拾い上げると相良に大きく手を振った。
「お守り、ありがとう」
この日から、優佳はしばらく姿を表さなくなった。もう少しで夏休みも終わる。何かと忙しいのだと思うことにした。
そうして、八月三十一日。夏休み最後の夜に事件は起こった。
湿度の高い、寝苦しい夜だった。
眠っていた相良は、胸騒ぎに目を覚ました。胃の奥がぐるぐるとかき回されているような気持ち悪さに、吐き気がする。
時計を見ると、午前二時を回っていた。家族も皆寝静まっていて、辺りは静寂に包まれていた。
布団を抜け出し、パジャマのままで部屋を出る。迷いの無い足取りで社務所を後にした。まるで何かに導かれているように、どこへ向かうべきなのかが理解できた。
足を進めていくと、本殿の裏から鈍い音が聞こえてきた。
――カン、カン、カン。
鉄を打ち付けるような音が、幾度となく鳴り響く。
音はどんどん大きくなっていった。
息を飲む。
震える足を無理に動かしながら、相良は本殿の裏を覗き込んだ。
見覚えのある白いレースのワンピースが、大きな木の前で揺れている。その痩せた後ろ姿は、紛れもない優佳のものだった。金槌らしき物を握り、一心不乱に腕を振っている。
相良は恐怖に声も出せず、思わず後退った。すると草履が土を引っ掻きじゃり、と音がなる。
優佳の動きが止まった。
今すぐ逃げ出したいのに、相良の四肢は金縛りに遭ったように動かなかった。
コマ送りのようにゆったりと優佳が首を回し、こちらを顧みる。見開かれた目が、無感動に相良を映した。血の気の無い唇の端が僅かに吊り上がる。
引っ張られていた糸が切れたかのように、優佳は首を横に倒した。
「どうしたの、相良くん」
相良は総毛立ち、口をわななかせるしか出来ない。
そんな相良の様子に優佳は「変なの」とケタケタ笑った。
体中が震えているのに、汗が背中を伝う。
「今ね、神様に最後のお願いしてたの」
「……お、ねがい?」
「うん。ずっとお願いしてたの。――私を無視した人達、全員死にますよーにって」
月明かりの中で目を凝らす。人型に折られた紙の人形が、長い釘に胸を貫かれ木に張り付いていた。
その後の記憶はほとんど残っていない。きっと逃げ出したのだと思う。
それから数日の間に、すぐ近くの中学校で生徒が次々と事故や事件に巻き込まれる騒動が起きた。幸い命を落とす者はいなかったが、その生徒達は皆同じクラスに所属していた。
人々はこう噂した。あのクラスは『呪われたクラス』だと。
「木に打ち付けられた紙の人形を見つけて、父は警察に通報しました。人形を開くと、そこには名前と呪詛がびっしりと書かれていて、心臓の位置に僕のあげたお守りが入っていたそうです」
相良は静かな声で言って、茶碗の中の黄緑に視線を落とした。
「何度か事情徴収を受けて、僕は何の罪にも問われませんでした。彼女の呪いも、警察には認められませんでした。でもきっと、僕のせいなんです」
「……どうして。相良くんは何も悪くないじゃない」
「釘で木に呪詛を打ち付けるなんて、おそらくネットか何かで見つけた呪いの方法です。普通の人間だった彼女があれで人を呪うなんて不可能なんです。よく物語なんかに出てくる霊能力者は術をかけるのに呪文や難しい手順を踏むでしょう。あれは霊力を操りやすくするためのもので、霊力が無い人では無意味なんです。でも実際に沢山の人が不幸になった。……お守りに込めた僕の霊力が、彼女の呪いを完成させたのです」
「そんなこと……」
自嘲的に笑う相良に、絵里は胸が痛んだ。そんなことないなんて、どうして言えるだろう。馬鹿みたいな慰めの言葉だった。
相良はふと明るい声を出した。
「すみません、長々と面白くもないお話を聞かせてしまって。――ちなみに、絵里さんに渡したお守りはきちんと悪用できないようにしてありますから、大丈夫ですよ」
絵里は胸のお守りを服の上に出して握った。これを持っている時、絵里は少しだけ自分が強くなれたような気がしていた。耐えられないような出来事を前にしても、自分を失わずにいられた。これを、呪いに使ったなんて、許せなかった。
「今はもう、自分が怖くないんだよね?」
「師匠のお役に立つことが出来て、誇らしいくらいです」
相良は嬉しそうに胸を張った。
「それに、少しずつ霊力も弱まってきているんです。人間の霊力は幼い頃が一番強くて、大人になるほど弱くなっていくそうです。ほら、赤ん坊は何か大人に見えないものが見えたりするでしょう?」
すっかりいつもの調子に戻った相良は柔和な笑みを浮かべた。
外を見ると、空がほんのりとオレンジ色に染まり始めていた。
「それにしても、化野さん遅いですね。部屋の番号は式神で飛ばしたのですが」
「え、いつ?」
「着いてすぐです。窓を開けた時に」
絵里がまともに相良の方を見れなかった時だ。
相良は腰を浮かせた。
「探しに行ってきます」
「あ、待って。私が行ってくる。私の方がここの作りには詳しいし、入れる所も多いから。……初めての旅館なんだから、夕飯までゆっくりしてて。ご飯の前にお風呂入って浴衣に着替えておく、っていうのも醍醐味だよ」
醍醐味、という言葉に負けたのか、相良はやっと引き下がって座り直した。