ふたりきり
何が入っているのか、大きなリュックを背負った相良と化野を連れ旅館へ着いた時には、四時を回っていた。日はまだ落ち始めておらず、夏の始まりを感じる。
もう日焼け止めを塗っても追いつかない時期だ。絵里はコンプレックスである焼けやすい肌を見つめた。海辺に住む宿命なのだろうか。日焼けを気にせず海岸で遊んでいた幼い頃の自分を呪いたくなる。
チェックインの手続きをしている相良の真っ白な頬をちらりと見て絵里は肩を落とした。神様は不公平だ。
「やっぱり生まれ持ったものなのかなあ」
「――お待たせしました。手続き、終わりましたよ」
「わ!」
ブツブツ言っているうちに、相良がいつの間にか真横にいた。独り言を言う変な奴だと思われただろうか。
赤くなる絵里に相良は微笑んで首を傾げた。絵里の焦りは杞憂に終わったようだ。
仲居達からの視線を感じ、絵里はさり気なく相良を自分の影に隠した。
一昨日はここで相良といた事を注意されたが、今日の相良は正真正銘の客である。しかし、高校生一人での宿泊は何かと大変で、同じ大学の学生だと言って母と従業員達を誤魔化したのだ。昨日僅かな時間とはいえ数人に制服姿を見られていたから、同一人物だとバレては面倒なことになる。
今回はなんとかなったが、保護者がどうとか承諾書がどうとかと言われたら、相良は一体どうするつもりだったのだろう。化野はただの河童で、こういった問題ではまるで役に立たない。
相良はきょろきょろと辺りを見回した。
「あれ、化野さんはどうされました?」
「ここに住み着いてる妖怪に話を聞きに行くって」
絵里はたった一言だけ残して姿を消した化野に苦笑した。
弟子が手を離せないと状態だったというのに、自由な河童だと思う。
「……じゃあ僕には手伝えませんね」
僅かに相良の笑みが曇る。
「そうなの?」
何でも手伝わなければいけない訳でも無いと思うが。
絵里の問いかけに相良は冗談っぽく唇を尖らせた。
「妖怪さんたちは、基本的に人間には心を開いてくれないのです」
化かす対象だから仕方ないですね、と相良は言った。
絵里はこれまでに出会った妖怪を思いだし、納得した。様々な妖怪に出会ったが、思えばまともに会話したのは化野だけだ。元から友達である水希は除いて。
「そうだ、部屋案内するね」
指を伸ばし、絵里は相良の手から鍵を取った。主な世話を絵里がする事を条件に母に頼み込んで宿泊料を安くして貰ったのだ。
階段を上りながら鍵の番号を確認する。
202号室。二階の手前側の部屋だ。
「お風呂はちょっと遠いけど食堂は近い部屋だね。晩ご飯はうちで食べるの?」
「家計に少し余裕があるので贅沢することにしました」
さりげない口ぶりで相良は言ったが、絵里は思わず瞬きした。宿泊料を絵里が持つかわりに飲食代は相良が自分で出す事になっていた。
果たして相良はどこからお金を捻出しているのだろう。家賃や化野の生活費は考えないにしても、相良は人間であり高校にも通っている。あの相談所のもうけがまともにあるとも思えないが。資金源はどこにあるのだろうか。あの工藤という警官が手助けをしているのか、それとも相良の両親が仕送りをしいるのか。
訊ねてみるか逡巡している間に202号室へ辿り着いた。
「こちらのお部屋でございます。どうぞ」
ドアを開け、相良に入るよう促す。
相良は入るなり歓声を上げた。
「すごい! 海が見えます!」
「うちは全室オーシャンビューが売りなの」
「僕、旅館に泊まるのって初めてなんです」
「ほんとに?」
心底嬉しそうな相良に、絵里は驚愕した。旅館で生まれ育った絵里には考えられない事である。しかし、河童と暮らしていればそうなる事もあるのかもしれない。
絵里は正座をしてお茶を用意する。案内とお茶のサービスくらいなら、絵里でも慣れたものだった。
「わ、すみませんありがとうございます」
恐縮してみせる相良に、絵里は吹き出した。
「お客様なんだからお茶くらい気にしないで。ちゃんとした仲居さんじゃなくてごめんね」
「とんでもないです。……でも絵里さんお着物似合いそうですね。見てみたいです」
相良の発言に絵里は手元が狂いかけた。
よく考えたら、旅館の部屋で二人きり。男の子と密室で二人きりなんて、エレベーターくらいしか経験がない。それはそれで悲しいけれど。
絵里の顔が赤くなっているのに気付かない相良は、リュックを下ろして窓際へ駆け寄った。
「景色が綺麗です。良い旅館ですね」
「あ、ありがとう」
「この景色を見て育ったから、絵里さんはそんなに素敵なのかもしれませんね」
「――え」
今度こそお茶をこぼしかけた。面を上げると、黒い瞳と目が合う。
絵里はばくばくと五月蠅い心臓を押さえつけた。落ち着け落ち着け、相良は化野に習ったことをしているだけだ。他意はない。いや、他意はない方が余程たちが悪いではないか。
師匠は妖怪を籠絡し、弟子は人間を手玉に取る。ある意味史上最悪の師弟かもしれないと、絵里は両頬を押さえた。
いれ終わったお茶の横にお菓子を並べると、相良は席に着いた。腰の下ろし方や伸びた背筋に惚れ惚れしてしまう。
「相良くんって、いつから化野さんの弟子になったの?」
「中学生になった時ですので、四年ほど前になります」
お茶、美味しいです。相良は上品な仕草で茶碗を傾ける。仮にも旅館の一人娘である自分よりも所作が美しい気がして、絵里は少し敗北感を覚えた。
「そういうお作法みたいなのも、化野さんから教わったの?」
特に化野が上品だった印象はないが、化野が考えた人間に一番モテる言動を教えているのなら、あり得ないことではない。事実、品の良い人は男女問わず好かれやすい。
「師匠からも少しアドバイスを頂いていますが、ある程度は両親や兄や家庭教師の方が指導して下さいました」
「もしかして厳格な家柄?」
「どうなのでしょうか。あまり他の家のことを知らないので」
「……今は家族とは離れて暮らしてるんだよね」
「そうですね」
相良はいつか見せた曖昧な笑みを浮かべた。
この表情だ。この相良の顔を見ると、絵里は彼が次の瞬間にでも消えてしまうように思えた。ほんの瞬きの間にも。
「化野さんと初めて会ったのも中学生の時?」
「いえ、師匠との出会いは小学生の時です。家の近くに小さな川が流れていたのですが、そこで一人でいた時に知り合いました。たまにしか会えなかったのですが、会う度に師匠は僕の拙い話を聞いて下さって」
相良はうっとりと遠くを見つめるような目付きになった。
水希もそうだったが、化野との出会いを語るのは幸せな事のようだ。絵里にとってはトラウマになりそうな出来事だったが。
少し開けた窓から潮風が入ってきた。べとべとするから嫌だ、と言う人もいるが絵里はこの匂いが好きだった。風の穏やかな日の波の音も。
「話したくないなら構わないんだけど、どうして化野さんと暮らすことになったの? 妖怪の世界は人間とは違うんでしょ?」
相良は大きな目をぱちぱちさせて、白い指先で髪を撫でつけた。
「耳汚しになってしまうかもしれないのですが、僕の霊力で沢山の人が傷ついたことがあったのです。普通の人と暮らすのが怖くなった僕を拾ってくれたのが師匠でした」
「……何があったの?」
言葉を選びたかったのに、気がついた時には口をついて出ていた。
相良は何と答えるか迷っているようだった。
「ごめんなさい。工藤さんが、相良くんは事件に巻き込まれた事があるって言ってたからそのことかなって」
「いえいえ、構いませんよ。ただ、長い上に退屈なお話になってしまうので、暇つぶしにさえなるかどうか恐縮で」
「相良くんの話を退屈なんて絶対言わないよ」
絵里が断言すると、相良はおかしそうに笑った。
「ではえっと、どこからお話ししましょう」