化野霊能相談所へようこそ
彼女の涙は透明なんかじゃ無い。
深い海のような時も、消えかけの夕焼けを映したような時も、鮮やかな桜の花弁のような時も、あるのだ。
いつも美しい色をして、私は心臓をぎゅっと握り込まれたかのように苦しくなる。もっとたくさん涙の色を、もっと見せて、見せて欲しいんだ。
初めて泣き顔を見たあの日から、私の全ては彼女に捧げるものになった。
*
誰かに見られている。湊絵里は舐めるような視線に肌が粟立つのを感じた。そろりと長い廊下を顧みる。オレンジがかった照明に照らされた廊下は、梅雨明け間近の蒸し暑さがどこかへ消えたように冷たい空気を含んでいた。
人気の無いことを確認し、自室のドアノブに手を掛ける。洗ったばかりの長い髪から雫が落ちた。
「――ひっ」
明かりを付けると、室内は酷く荒らされていた。
本棚の中身は散乱し、引き出しは全て開けられかき回されている。下着までもがあちこちに散らばっていた。
――ギィ……。
立ちすくむ絵里の背後で廊下の軋む音が響いた。両親が経営する古い旅館の隅にある絵里の部屋は、客室から遠く両親でさえあまり近付かない。ましてやこのような深夜に誰かが来る事はほとんど無かった。
絵里は振り返り、目を凝らした。暗闇の低い位置に黄色い瞳が二つ浮かんでいる。
――ギィ……ギギィ……。
音と共に、黄色い眼光が一歩、また一歩と近付いてくる。
絵里は息を飲み、後退った。開け放たれていた窓から吹き込んだ風が部屋のドアを押し開き、暗い廊下を光が照らす。
そこにいたのは一匹の黒猫だった。
ほっと胸を撫で下ろし、絵里は大きなため息を吐くとその場にへたり込んだ。脚にすり寄ってくる猫を撫でる。
「クロ助じゃない、驚かさないでよ」
このあたりでよく見かける野良猫だった。人なつこく、旅館の客や近所の人に可愛がられている。それぞれが好きな名前で呼ぶものだから、名前がいくつもある変わった猫だった。
しかし、一体どこから入ってきたのだろうか。
クロ助はぱたりと尻尾を振ると、絵里の手から逃れまた闇に姿を消した。
廊下の電気を付けようと絵里はスイッチに手を掛け、はっとした。
鼓動が速まる。
――さっき自分は、廊下の電気を消しただろうか。
どんよりと暗い雲が広がっている。
古い日本家屋の門に『化野霊能相談所』と書かれた表札が掛かっていた。力強い筆遣いだが、横にペンギンか何かの落書きがされていて絵里は眉根を寄せる。手書きの地図を折りたたんでポケットにしまいこんだ。
「……やっぱり帰ろう」
どうあがいても怪しい。そもそも「探偵事務所のようなところ」と訊いていてた筈なのに、どう見ても『霊能相談所』としか読めないではないか。
オカルトオタクである友人の強い勧めでここまでやってきたが、信じるべきで無かったかもしれない。彼女は自分が楽しければいい、という節がある。
絵里は大学のオカルト研究会に所属していた。入学式の時たまたま席が隣で仲良くなった友人に誘われ何となく入ったのだが、彼女を初めとした研究会メンバーの熱意について行けず、入って二ヶ月にしてすでにこのまま続けるか悩み始めていた。
オカルトの類いを全く信じていないという訳ではないが、研究したい程の情熱も持ち合わせていない。かといって、影の薄さくらいしか特徴のない自分には他に入りたいサークルもなく、周りに流されている状態だった。
水色のワンピースを翻し、絵里が踵を返しかけた時だった。門が鈍い音を立てて開き、少年がひょっこりと顔を出した。
「ご相談ですか?」
彼は薄桃色の唇で上品に微笑み、肩の少し上で切り揃えられた黒髪をさらりと揺らして小首を傾げた。白く透き通る肌に涼やかな目元。高校生だろうか、線の細い体型にカッターシャツとベストの制服がよく似合っている。目を見張るような美しい少年だった。
絵里は口をぱくぱくさせて「あ」と「えっと」を繰り返した。気恥ずかしいのに目が離せない。
少年は不思議そうに目を瞬かせた。睫毛が濃い。マスカラいらずで羨ましい、と絵里は回らない頭で考えた。
「よければ中へどうぞ。初回の三十分は無料ですので」
少年に促されるまま、絵里は門をくぐった。手ぐしで髪を整えながら歩く。彼の容貌は、どうしようもない程にタイプだった。ついさっきまで帰ろうとしていた事も忘れてしまうくらいに。
やけに慣れた様子でエスコートしてくれる少年と共に、小さな池のある庭を通り抜ける。
恐る恐る中へ入ると、がらりとした広い玄関に迎えられた。廊下はよく磨かれており、隅々まで掃除が行き届いているのがわかる。
靴を脱いで上がると、ストッキング越しの足裏にひんやりとした感覚がした。もう冷房を入れているのか、それとも風通しが良いのか、外よりも涼しい。
ここは少年の家なのだろうか。だとすれば、彼の親が霊能相談所を経営している?
少年の華奢な背中に着いていきながら、絵里の胸中では不安が膨らんでいた。
理想のど真ん中を行く彼の容姿に思わずノコノコと中まで入ってきてしまったが、何が待っているかわかったものではない。強引なセールスだったらどうしよう。魔除けの札が百万円するかもしれない。そういえば騙すためにわざと見目の良い人を利用するという話を聞いた事がある。案内が終わってしまう前に逃げよう。
意を決して絵里が面を上げると、鼻先に少年の端正な顔があった。全身の血液が顔に集まっていくのがわかる。
目と口をぽかんと開いた間抜けな顔のまま固まってしまった絵里に、少年は満面の笑みを見せた。
「師匠ならきっと力になれると思いますから、大丈夫ですよ」
どうやら彼は絵里が相談内容について悩んでいるのだと勘違いしたらしい。励ましを受けてしまい絵里は思わず何度も首を縦に振った。
もうここまで来たら信じよう。その師匠とやらを。――師匠?
「その、し、師匠って――」
絵里が言い終わるよりも早く、少年は襖の向こうに声を掛けた。
「師匠! ご相談希望の方がいらっしゃいましたよ!」
返事は聞こえなかったが、少年は膝を付き慣れた手つきで襖を開けると絵里に「どうぞ」と会釈した。
そろりと足を踏み入れ、部屋を見回した。畳の上に背の低いテーブルが置かれており、床の間には水墨画が飾られ花が生けてある。調度品の良し悪しは絵里には判断が出来ないが、立派な主人が居るのだろうと思われた。
しかし、人の姿は見あたらない。
絵里は少年に言われるまま座布団へ腰を下ろした。
酷く静かで、物音一つ聞こえてこない。
沈黙に耐えかねた絵里が少年に視線を送ると、彼はぽん、と手を叩いた。
「久しぶりのお客様なので忘れてました。少し待って下さいね」
少年はシャツのポケットから短冊型の和紙とボールペンを取り出した。白い紙の上に目玉のような絵を描き、その下に『見』と書き込む。ペンを持つ手は美しいが、絵はあまり上手くないようだ。
「失礼します」
にっこりと微笑んで、少年は絵の描かれた和紙を絵里の肩へ押し当てた。接着剤を使った様子は無いのに、和紙はワンピースにぴたりと張り付いた。
絵里は訝しがりながら前を向き直る。
「これ……」
なんですか、と言う絵里の言葉は彼女自身の悲鳴によって消されてしまった。
足に力が入らず、座ったままで後退る。
「な、だ、え?」
様々な疑問が浮かんでは声にはならず、絵里はただ目を丸くしたまま動けなくなった。
「この方がうちの所長です」
少年が綺麗に微笑んで説明するが、それどころではない。
誰も居なかったテーブルの向かいに『何か』が座っている。『何か』は藍色の着流し姿で片膝を立て、筋張った手で気だるげに襟足を掻いた。
苔のような緑の肌に大きな嘴。頭部にはつるりとした皿らしき物がついている。 両脇には着物を着た美しい女が二人寄り添っていた。
絵里は思わず唾を飲み込んだ。震える唇が意思に反して脳に浮かんだままを紡ぐ。
「……河童?」
河童。――日本の妖怪。ガータロ、水虎など呼称は様々。主に川や沼などに生息する。緑色の体躯に亀のような甲羅を背負った風貌が一般的にはよく知られている。嘴や頭部の皿、手足の水かきなども特徴的であり、皿が乾いたり割れたりすると衰弱し、時には死に至るといわれている。キュウリが好物。
絵里はオカルト研究会で得たばかりの知識を脳内で再生させた。服を着ているために甲羅は見えないが、妖怪オタクである友人が描いていた落書きの河童によく似ている。
「いかにも河童だが、人間用の名前がある。化野と呼べ」
見た目にそぐわない重厚な低音の声で、河童と思われる生き物はそう言った。
「はあ」
状況が理解できないままに生返事をすると、河童――もとい化野の左右の女が揃って絵里を睨めつけた。空気が重くなる感覚と共に、腹の奥がすっと冷たくなる。ただ睨まれただけだというのに、絵里はこれまでに経験したことの無い恐怖を感じた。
竦み上がる絵里を見て、化野は小さく嘆息した。
「お前たち、この娘は客人だ。丁寧に扱え。……そいつも返しとけ」
化野の一言で、絵里の周りの空気がふっと軽くなった。
左側の髪の長い女は顔を歪め、懐に手を入れると財布を取り出した。そのピンク色の財布に、絵里は見覚えがあった。
反射的に鞄の中を探る。
「……ない」
確かに入れていたはずの財布が入っていない。
唖然とする絵里の胸元をめがけ、女は財布を投げつけた。受け取ってすぐ、絵里はまた悲鳴を上げる。袖口から覗いた彼女の腕には、いくつもの目玉が付いていた。
化野は立てた膝に頬杖を付いた。
「ヒイヒイ五月蠅いぞ小娘。お前たち、もう下がれ」
女達は不服そうにして見せたが、しばらくすると諦めて立ち上がり部屋から出て行った。
「あ、僕もですか?」
室内に静寂が戻ると、ずっと口を閉ざしていた少年が焦ったように言った。
「いや、お前は私を手伝え」
「じゃあ僕、お茶でもいれますね!」
化野の返事に気をよくしたらしく、少年は目を輝かせ立ち上がった。と思うと、絵里に向かって申し訳なさそうに手を合わせる。
「さっきはごめんなさい。百々目鬼さんは盗み癖があって。――少し待ってて下さいね」
「は、はあ。…………ってちょっとまっ……て」
絵里の制止もむなしく、少年は爽やかな笑顔と得体の知れない生き物を残してどこかへ行ってしまった。
帰る。帰ろう。帰ります。じゃあ、さよなら。
化野と二人きり(化野を一人と数えるべきなのかは疑問が残る)にされた絵里はここから立ち去るシュミレーションを脳内で繰り返した。少年がいないのは、反対にチャンスかもしれない。彼が居るとなにかと言いくるめられてしまう可能性がある。
絵里は胸に手を当て、呼吸を整えた。
簡単なことだ、「すみません、帰ります」と言って部屋を出て、襖を閉めると同時に玄関まで全速力で走る。それだけでいい。
「あの――」
口を開いた瞬間だった。ワンピースの袖をぐい、と後ろに引かれ、絵里は息を飲んだ。
振り返るが誰も居らず、背筋が凍り付くた。
やはりここはおかしい。今すぐ逃げなくては。
化野の方に向き直ると、テーブルの上に小人が立っていた。
「ひぃい!」
手のひら程の大きさのそれは、つり上がった糸のような目でじっと絵里を見つめている。
「も、もう無理、無理、無理無理無理!」
鞄を掴み、駆け出そうとした絵里の目の前で襖が開いた。
「あれ、どうかしました?」
丸い盆を手に入ってくる少年に、絵里は青い顔で叫んだ。
「な、ななな、なんかいる!」
少年は大きな目をぱちくりさせて、あっと眉根を下げた。
「びっくりさせてごめんなさい。あの子、僕の友達のこーくんです。袖ひき小僧っていう妖怪で、人の袖をひくのが趣味みたいな子で」
「しゅ、み……」
少年は茶器ののった盆をテーブルに置くと、屈んで小人に顔を近づけた。
「こら、だめでしょう。お客さんを驚かせたら。ちゃんと謝って」
「……ごめんなさい」
小人は小さな頭を下げると、すぐ少年の影に隠れてしまった。絵里は全身の力が抜けてしまっていた。
少年は熱いお茶を二つ用意すると、屈託の無い笑顔で片方を絵里が座っていた座布団の前に置いた。
「お茶、どうぞ」
不思議な魔力さえ感じる少年の眩しい笑顔の効果は絶大で、やっぱり彼の居ないうちに逃げるべきであったと絵里は後悔した。