プロローグ 三つの志【使命】
ブーツの音が固く鳴り響いた。地平線が見えないほど広く、平衡感覚を失いそうなほど、果てしなく白が続く空間。青年はそこに足を踏み入れ、迷うことなく進む。色の無い砂漠で、まるで目印が見えているかのように一直線に歩む彼の姿は、一言でいうなれば異様だ。
人間とはとても呼べないほど白く、血の気の無い肌。しなやかで、拳を叩きつければたやすく折れてしまいそうな手足。黒いズボンをまとった脚が白い世界を突き刺すように地面を滑る。白いシャツと対照的に闇を閉じ込めたようなリボンが首に巻かれ、真ん中に血の色をした宝石が輝いていた。だがその純白のシャツもリボンも本物の血にまみれて、目が覚めるような赤を世界に放っていた。
青年は笑っている。唇を緩ませ、わずかに息を吐き出し笑っている。端正な顔立ちが血と笑顔で歪み、金色の目には涙が浮かんでいた。可笑しくてたまらないとでもいうように青年は笑い続ける。顔を両断するようにツギハギが走った頬に手を当て笑う。しなやかな胴を抱き、けたたましく壊れたように笑い続ける彼の目からは大粒の涙が落ち、白い世界にしずくを飛ばした。
色素が全て抜け落ちたような、白い白い髪にも血はべったりとついていた。背を隠すほど長く伸びたそれが頬に張り付いても青年は疎ましくは思わないらしい。ただ狂ったように笑っている。だが痛みが彼の笑みを止めた。腹部に走った鋭い痛みに青年は獣のようにうめき声をあげ、その場に突っ伏す。押さえた脇腹からじわりと血が染みだす。
だが、その色は青年のシャツを濡らす赤ではなかった。暗闇を絵具にして溶いたような黒が、彼の体から流れ出す。次いで笑いすぎたためであろうか、裂けた喉からも黒い塊が咳と共に飛び出した。痛みをこらえるように体を縮める青年。しかしその表情は、笑顔であった。
「さすがに、堪えましたよ。アリス」
ゼイゼイと荒い息混じりにつぶやき、彼はまた血反吐を吐いた。それでも彼は笑顔をやめない。喉の奥から絞り出すように笑う声が響き渡った。くすくすと笑いながら彼は立ち上がる。出血が多くてふらつきながらも、彼の足は道が見えているかのようだった。
しばらく歩くと白ではない景色が現れた。大きなベッドだ。一般的な家の屋根を超えるほど背の高い怪物であれば横たわるのには十分だろう。王様が眠るベッドを何十倍も大きくしたようなそれも、歩み寄る青年と同じように異様であった。
特筆すべきものの中には大きさもあるが、何より目を引くのは、森に茂る木々のように乱立してベッドを囲むキャスター付きの点滴棒であった。幾千と存在するどす黒く粘性のある点滴の袋が男の眠るベッドの周りを隙間なく埋め尽くし、男を囲む城壁となっていた。耳障りな金属音を響かせながら点滴を掻き分け、ベッドに近づいた血濡れの彼は立ちすくむ。
ベッドの中で眠るのは、青年と同じ程度の年齢であろう男だ。キメの細かい白い頬に蛍光色の塗料がぬられ、不思議と神秘的な雰囲気をまとい横たわっている。何十年も切られていないかのような、雪のように真っ白な髪がベッドから零れ落ちんばかりに流れて、眠ったまま涙を流す男の頬をわずかに覆っていた。点滴は全て男の首に注がれ、皮膚が見えないほどに針が突き刺されている。青年は痛々しいその痕から目を逸らし、黙って男を見下ろした。
気配を感じたのだろうか、男が目を開ける。薄い緑色の瞳が血まみれの青年をとらえ、少し怯えたような色を帯びる。だがそれも一瞬の事で、一拍後には安堵したような、寂しげなような微笑みを浮かべていた。
「失敗してしまいました」
青年はおどけた口調で腕を広げてみせた。口の端についた黒い血を舐め取り、くしゃりと笑う。男は青年を見据え、そうかとかすれた声で呟いた。その目には、わずかだが憐れみの色が混ざっていた。そして血が湧き出す青年の腹に骨ばった右手を添える。
「怪我を…」
男が短く呪文を唱えると、手に柔らかい輝きが集まりだした。青年が血でべたついたシャツをめくり上げると、腹部にあいた穴が光に包まれ塞がっていくところだった。
「さすが」
青年がくつくつと笑う。完全に塞がった傷口を撫で、青年は笑顔で男と向き合う。
男は寂しそうに微笑んで、手を青年に伸ばす。青年は少しかがんで、男の手を自身の頬に触れさせた。
「これ、やっぱり消えないなぁ。ラズロ」
顔を横断する縫い痕をなぞり、男は溜め息混じりに呟く。ラズロと呼ばれた青年はやはりくすくす笑って男の手から離れた。笑顔しか表情が無いかのようだ。
「消えても困りますよ。だってこれは、私の戒めなのだから」
ねばつくような声が男の鼓膜を震わせる。歪んだ笑みを浮かべるラズロの背を、男は危ういものを見るように目を細め見送った。
「もう行くのか」
「ええ」
傷も治りましたし、とラズロは両手を広げる。その指先からうねるように闇が吹き出し、白い空間を染め上げる。闇を腕に集結させ、切っ先を鋭く尖らせた彼は白い空間を叩きつけるようにえぐる。地面に一文字に刻まれた傷は、闇を残し黒く色づいていた。
「次はちゃんと、ええ、次こそちゃんと…愛しています。愛していますよ…アリス…」
壊れた人形のように、ぶつぶつと独り言を呟きながらラズロは去っていく。
その口元がいつまでも笑っていることを目の当たりにした男は、痛みをこらえるように目をきつく閉じたまま、また長い眠りについたのだった。