序
あまりに奇妙なことが多すぎて、奇妙でないモノの方が少ない。
とても秋とはいえず、雪が降らないギリギリの寒さの日であった。
十歳になる一人の髪の長い少女が、刈り入れの済んだ田んぼで舞っていた。これは奇妙とはいえ、有り得ない話ではない。
少女の名は環。
彼女が身につけるデニム地の短パンは、裾に防寒用の毛皮が付いている。寒いのならそもそも短パンを選ぶ必要がない。これは少しばかり奇妙だ。
上に着ているのは革製のフライトジャケット、前を空けているので舞に合わせて赤いシャツと裏地の毛皮が見える。その毛皮は襟の部分も覆っている。
このジャケットはとてつもなく奇妙だった。
表の革と、防寒用の裏地は別の物で、裏地は兎の毛皮だ。
色は白。兎の小さな毛皮なので、当然、何羽分かを縫い合わせていて、同じ白でも微妙に色合いが異なっている。
白は白でも、その白は純白ではない。薄く黒い縞模様が兎の毛皮に浮かんでいる。
白虎縞の兎の毛皮であった。染め上げた物ではない。白虎柄の白兎。これは奇妙である。
環の体格に合わせたフライトジャケットなどではなく、サイズ的には大きいが防寒コートとして見た場合、さほど違和感はない。
ジャケットと違い、ブーツは彼女に合わせた特注品である。
舞う環は、やがてゆっくりと歌い出した。歌と共に風が巻き起こり、彼女の黒髪をふんわりと揺るがせる。
まるで水の中でたゆたう髪だった。風になびかされて、髪がそんな風に動くはずはない。これも奇妙だった。 *
環が舞う田んぼの側には古い民家があった。
その民家の縁側に座り、環の舞を見物する二人の若い夫婦がいた。環へ今回の仕事を依頼したのは彼らだ。
妻の方は愛想よく、環の舞を見ているが、夫の方はむっすりとした表情だった。
旦那の愛想が悪いのは元かららしく、別に怒っているのではないと何回も説明されている。
妻がにこにこ笑いながら言った。
「あら、いくら巫女さんとはいえ若すぎるんじゃないかと思ったけど、たまちゃん、なかなか上手に舞ってくれてるじゃない」
縁側に座るのはこの二人。あとは環のリュックと、同じく彼女の私物である赤いミリタリーキャップが置かれている。
キャップのフロントにはプレートが付いていて何かの文字が書かれているが、よくは見えない。
「当然ですよ、たまき様は巫女じゃありません。倉狩の姫様にして倉狩流呪師の達人であらしぇられます」
早口で舌っ足らずの返事は、赤いキャップの下から聞こえた。
妻は身も蓋もないことを言った。
「正直、かなりぼったくられて、騙されてるんじゃないかと思ってたのよ」
憤慨したのかキャップの下のモノが動き、キャップも揺れる。
「ぼったくりなんてとんでもない! これでもかなり格安に請け負ってるんですよ!」
「前の巫女さんが居なくなって、五年ぶりの踏歌でしょ。毎年踏歌代は貯めてたんだけど、それでも高いじゃない」
「ですから! これは踏歌代だけじゃなくて、化け物討伐料金も含まれていると!」
夫が口を開く。
「化け物が本当に居るのか?」
「はい、たまき様の調査じゃ確実に居ると」
続けて夫が言う。
「特に悪さをしているわけでもないモノを化け物というだけで討伐するってのがどうもな」
「あらまあ、旦那様。岩みたいな顔して結構お優しいんですね。討伐とはいえ、『あらずの川』のこちら側ですからねえ、ぶっ殺したように見えても追い払うだけです」
「どういうことだ?」
「えー、私が説明するんですか? 先ほど、悪さはしてないとおっしゃりゃれましたよね。つまりこちら側に関与していない、化け物はこちらの田んぼに潜んでいるが、ギリギリあらずの川を越えてないわけです」
「あらずの川?」
「あらずの川、すなわち領域、テリトリー、縄張りですかね」
「よく判らんが、そのあらずの川を境にして人の世界と化け物の世界があるとでも?」
「説明が難しいですねぇ、そういうことにしても特に問題はないんですが正確じゃありません。
あらずの川は、何も一本だけではなく無数にあります。別の、あらずの川から見ればここも化け物の世界と言えますし」
普段は無口な男であったが、疑問を解消するためには饒舌になる。
「なんだと? それじゃ俺たちも別の川向こうから見れば妖怪化け物の類いだと?」
キャップの下の声は明らかに迷っていた。
「そうじゃありません。人間様は人間様です。たとえば、旦那様は妖怪や化け物の存在を信じてますよね?」
「信じるも何も、実際に見たことも触れたこともある」
「そうでしょうそうでしょう。ここらでは化け物はちょっとした珍しい動物程度の扱いで、実在を否定するような人は居ますまい。
ところが、化け物の存在が否定されるような場所もあるのです。誰も見たことがない、存在している証拠がない、と。そういう人たちから見れば、充分ここも化け物の世界となるわけです。
腑に落ちないでしょうが、なぁに気にする必要はありません、たまき様のような生業をしているのでもない限り関係のない話ですから」
「判らん」
「じゃあ、さっきの『化け物の世界とこちらの世界をへだてる、あらずの川を越えて化け物がやってこようとしてる』と考えちゃってください。
しばらく踏歌をしてないようなので、境界線が曖昧になってアレがこちらに寄ってきた、このままだと『悪さ』するのは時間の問題です。悪さをすれば境界を越えたことになりますからね」
「つまり、悪さをすれば本当に倒すことになる?」
「簡単に言えばそうです。複雑に言えば、あらずの川のこちら側に関与した途端、あらずの川のこちら側はあらずの川の向こう側に浸食されるわけですよ。嵐の後に川の流れが変わるように。どうです? 複雑で判りにくいでしょ!
好奇心旺盛で、ちょっとこちら側を見に来た程度のモノなら、踏歌を見れば帰って行きますです。その時は討伐代は払い戻しで」
妻がアクビをした。
「本当に、この人はたまにどうでもいいことにこだわるのよね、岩みたいな顔して」
夫はギロリと妻をにらんだが、素知らぬ顔だった。
「あ、見て見て! たまちゃんの髪が凄いことになってる。風も、たまちゃんの舞に協力してるみたい。神がかってる」
赤いミリタリーキャップがピョンピョン跳ねた。キャップの下のモノが飛び跳ねたからだ。
「違いますよ、奥方様。素人には風が吹いてるように見えるでしょうが、そうじゃありません!」
素人には違いないが素人扱いされて妻はムッとした。
「風じゃなきゃ、なんだっての?」
誇らしげな声で返事が戻る。
「あれは歌でございます。謡いであり旋律、トリル、物語なのであります」
確かに風が吹いたように見えたのは、環が歌い出してからだった。
この距離で聞こえるのだから声量の凄さは判る。
「物語? あー歌詞があるってことか。ここからじゃ音程ぐらいしか聞こえないけど。確かに風じゃ、あんな髪の動きにはならないか。でもなんか滅多に見られない物を見ている感は凄いね」
「そうですとも! 舞踊の方が目立ちますが、舞踊はオマケ。舞など、歌に比べれば月の衛星でございます!」
「……そこは衛星でいいじゃない。歌が主で舞が副ってことでしょ」
「違います! 勘違いしてはいけません。歌がなくてはどうにもなりませんが、歌も副であります。舞は副である歌の、さらに補佐でして」
じゃあ何が主だと妻が口を開く前に、夫が別の質問をした。
「どんな物語なんだ?」
私が話してるんだから割り込んでこないでよと妻が文句を言う。キャップの下のモノはどうしたものかと考えたが、さっさと旦那への返事を済ませてしまうことにした。
「えぇ、恐ろしいまでに美しい顔をした、赤い髪の娘の物語です。で、奥方様も何かおっしゃりたいことが?」
「踊りも副、歌も副ならなにが主なの?」
「あぁ、それは見ていただいた方が早いかと」
ドタバタと動き回るキャップを見ながら妻は言った。
「カドモンちゃん。そんなに寒い? 居間から火鉢を持ってくるんで、帽子の下から出てきたら? 小さいけど暖かいよ」
カドモンと呼ばれたソレは、キャップの隙間から尖った鼻先を少しだけ出す。
そして鼻先をヒクヒクさせて答える。
「お気遣いなく奥方様。別に寒いんじゃなくて狭いところが好きなだけなんです! あ! 始まりましたよ!」
*
環の舞は簡素なモノだった。単純であるがゆえに人の目を引き込む。
ただ単に回っているだけのコマを、ついつい見入ってしまうのと同じだ。
稲を収穫した後の切り株がまだ、田んぼには残っている。
とても安定した足場とは言えなかったが、整えられた舞台で行われる踊りと替わらぬ、滑らかさがあった。
いつしか環の指の間には数枚の紙片が挟まれていた。
舞の所作に溶け込む動きで、上着の内側の隠しポケットから取り出されたモノである。
紙片の長さは縦が75ミリで揃っていたが横の長さは微妙に違い、150ミリ前後だった。
舞と共に取り出され、環の手の中で紙片の枚数は増えていく。
どれほど経ったか。
環は一際大きく回り、両手の紙片をばらまいた。
強風が枯れ葉を撒き散らしても、ほとんどの葉はすぐに地面に落ちる。
だが、風に乗った葉はそのまま宙を舞い続ける。
環の手から放たれた紙片は、そんな枯れ葉のごとく宙を舞った。
紙片を導くのは風ではなく、歌だ。
渦を巻き、環の周囲を紙片が舞った。
環が旋風の中心に居るかのように見えるが、やはり渦巻くのは歌である。
環の手の中ではよく見えなかったが、舞う紙片には青黒いインキで印刷が施されていた。
歌に巻き上げられる激しい動きの中で、一枚の紙片に印刷された文字が見える。
そこには『千圓』と記されている。
別の紙片の文字も見えた。
それには五百圓とあり、他の紙片には『百圓』『五百圓』『千圓』『百圓』『千圓』『千圓』『五百圓』……
紙片は紙幣であった。
額面は百、五百、千と三種類あったが紙幣の表側に印刷される肖像画は、どれも同じである。
並んだ米俵に座る、年齢不詳の一人の男の肖像画、老人に見えるがさだかではない。
片手には小槌、片手には大きな袋を持ち、それを背負っている。
頭にかぶるのは焙烙頭巾、いやその男の名をとった大黒頭巾の名の方が有名であろう。
紙幣の表に印刷されているのは大黒天の肖像画である。
細い目で満面の笑みを浮かべているように見えるが、見ればみるほどその表情が笑みではない別の物に感じられた。
細い目がわずかに開かれている。
青黒い大黒札の渦の中に環は居た。
*
縁側に座り、足をブラブラさせて妻は言った。
「なんだ。もったいぶるから何が主かと思えば大黒札か」
明らかに期待外れの声だった。
帽子の下のカドモンが答える。
「あら、驚きませんね」
「そりゃ踏歌って、巫女さんが鈴鐘鳴らして踊って、最後には組んだ祭壇の中で大黒札燃やして終わりじゃない。結局同じだ」
そもそもあの大黒札は環に仕事を依頼した時に自分たちが渡した物だ。ありがたみは余計にない。
「奥方様! 確かにそうでしょうがそれは略式でして、たまき様の正統踏歌なら効果は五年続きますよ! 略式なら一年ってとこですから、非常にお得です!」
夫と違い、妻は環の舞いを見るのにも飽きてきているようだ。
帽子から覗くカドモンの鼻をつつきながら妻は言う。
「だいたいね、カドモンちゃん。悪気はないんだろうけど、さっきからお得お得と言われるとかえって怪しいよ。どうしてそんなに安売りしてるのさ?」
「心外ですよ奥方様。たまき様と私は旅の途中でありまして、ゆっくりと仕事を吟味している余裕がないのであります。
旅程の邪魔にならない場所にある仕事しか受けられないのです。
いくら良さそうな仕事がありましても、旅路を引き返したり、拘束時間の長い仕事は受けられません。条件に合う仕事は少なくて、その少ない仕事を割り引いてでも勝ち取らないといけないのです!」
「旅? たまちゃんって倉狩とかいう名家のお姫様なんでしょ?」
おい。と夫が妻をたしなめる。いくら子供でも事情はあるのだろう。あまり詮索するのを止めさせようとしたが、妻は相手にしない。
「たまちゃんって、出身はどこなの?」
「倉狩本家は太宰府にありまして、たまき様と私はそこからやって参りました」
「へぇ、たまちゃんって九州育ちの薩摩おごじょなんだ。言われればそんな感じも」
カドモンが答える。
「育ちといいますかなんといいますか。生まれたのは京都ですよ。生まれてすぐに太宰府の方に」
「じゃあ京女? でも育ったのが九州なら薩摩おごじょだ」
いつものハキハキと早口で喋るカドモンの口調が変わった。モゴモゴと歯切れが悪い。何か隠し事をしようというのではなく、純粋に説明に困っているようだった。
「育った……育ったのは九州の太宰府で間違いないですが、この場合はどうなるんでしょうかね」
「でも九州なんて、遠いところから来たんだね。そんなに急ぎの旅なんだ」
「はい、そうです奥方様。本家から追っ手がかかる前に少しでも距離を稼いでおきたいのであります」
追っ手という言葉をきき、確かに込み入った事情がありそうだと妻は思う。旅をする姫様、追い掛ける本家の人たち。
「ん? 追っ手がかかる前って、その本家ってのはまだ、たまちゃんが家を出ていることを知らないの? 九州からここに来るまでだいぶ日にちが掛かったでしょ」
カドモンが帽子ごとピョンと跳ねる。
「そりゃ、とっくにバレてますよ。ただし、家を出る時に簡単に追っ手を出させないように、たまき様は仕掛けをして参りました」
「どんな仕掛け?」
「本家を地獄に叩き落としてきたのです」
えらく物騒な話である。噂話の常として、物騒な話ほど興味をそそられる。
「地獄に落とすって、いったいどんなことをやらかしたの? 家に火でも着けた?」
カドモンの言葉が止まった。冗談で言ったつもりだが図星だったのかと妻は考えた。
しばらくしてカドモンが答える。
「言いましたでしょ? ですから地獄に落としてきたのですよ」
「だから、私はどんなことをやらかしたかを」
「?」
「?」
二人が、なぜ話がかみ合わないのかと首を傾げていると、夫が声を上げた。
「おぉ」
釣られて二人の視線は環に戻る。
環を中心に渦巻く、青黒い大黒札が溶けるように煙へと姿を変えていった。
途端、焼かれた藁の匂いが周囲に広がる。それは煙の匂いだった。
全ての大黒札が煙へと姿を変えたのではない。
幾つかの大黒札は、ビリビリと細かく裂けながらさらに天へと昇っていく。
どこまでも裂け続け、天へと向かった紙幣はしっとりとした霧になる。
煙のままでは空に散っていく。
煙を霧に混ぜれば、それはゆっくりと地面に落ち、大黒札は地面に還る。
環からは何の説明もなかったが、夫婦は踏歌のなんたるかを知った。
大黒札を依頼主の土地に還す儀式、それが踏歌の本来の意味だ。
それは五穀豊穣の祈りであり生命への祝福である。そしてここに居るべきではない『あらずの川の向こう側』の命への境界線となる。
霧はその濃さを増す。
民家と環の距離ぐらいでは、環の姿は充分見て取れたが、それより遠くなると視界は白く遮られる。
環の技に驚いた妻であったが、それにもやがて慣れ、環を見続ける夫の横っ腹を突いた。
「そりゃまあ、見事な舞いだとは思うけど、よくも飽きずに見てられるね」
夫の返事は意外なものだった。
「いや、あの踊りはとっくに見飽きた。別に環を見ているんじゃない」
カドモンが言う。
「身も蓋もありませんねぇ。そりゃ踏歌の舞いなんて単純なもんですが」
妻は納得しない。
「じゃあ、さっきから真顔で何を見てるの?」
「さっきまでは光の加減でよく見えなかったが、今ならお前でも見えるだろ」
「こんな霧の中じゃ見える物も余計に見えなくなって……」
妻の言葉が途中で止まる。
全てを覆い隠そうとする白い霧、その中でこそ異質の黒いモノが浮かび上がろうとしていた。
環からさらに向こう側、今は霧でよく見えないが田んぼの端辺りになにかが居た。
壁に張り付く巨大なトカゲに見える。
田んぼのそんな場所に壁などあるはずがない。
カドモンは言う。
「踏歌はこれでお終いでございます。後はあの妖怪変化があらずの川の向こう側に大人しく帰れば、一件落着なんでございますが」
妻が言葉を引き継ぐ。
「そうはいかないよね」
カドモンが同意した。
「いかないでしょうねぇ」
巨大なトカゲの影は、存在しない壁から地面に降りた。
*
そうではない、そうではない。
勝利は目指すべきモノであれど、その目的は支配などではない。
何故ソレが判らぬのか。戦い殺し合い、討ち取った骸を食すことに意味があるのだ。
横臥して口を開けて餌が転がり込むのを待つだけとは、なんとも浅ましい姿か。
そうじゃ、それではまさに餌じゃ。そのような腑抜けどもに何故私が従わねばならぬ。
加賀の和香がそう主張し、巣の中で孤立したのはいつの頃だっただろうか。
浅ましい、腑抜けと罵ったモノどもが和香より力をつけ、彼女は巣を追放された。
構うものかと粋がっていたが、彼らの縄張り意識は強い。
獲物である人と戦うより、同族との争いに明け暮れる日々となった。
鹿や熊はいくらでもいて、彼女の腹を満たしてくれたが、彼女の舌を満足させる人を狩ろうとすると同族の邪魔が入る。
同族の争いなので、手痛い怪我負っても命の危険はなかったが、多勢に無勢、結局獲物は横取りされ腹が減るだけの不毛の戦いになった。
ある朝、同族ではなく呪師が、彼女の前に立ちふさがった。
彼女は狂喜した。殺し合いを楽しみ、打ち勝ち、赤い血と青黒い大黒札を撒き散らして死んだ、その骸を丸呑みにする。
呪師を雇い、生き残ることに最後の希望を賭けた人々は逃げることさえ諦め和香の食事を見つめるしかかなった。
愉悦。
人々は直接戦ったわけではない。だが、呪師を使い抗おうとした。
もはや無抵抗ではあるが、最初から無抵抗の餌とはわけが違う。
抵抗の意気を挫いたのは自分である。彼らは食すに値する。
絶望に沈む人々を食らおうとした、まさにその時、またしても同族が彼女の前に現れた。
泳がされていただけなのだ。
面倒な呪師潰しをやらされただけだ。それはまあいい。ならば呪師を喰らう前、呪師の息の根を止めた時点で現れればいいではないか。
しばらく人を食ってないのであろう。ならば呪師の骸ぐらい恵んでやろうという嘲りが透けて見える。
加賀の和香は激昂し、同族を一匹殺した。
他の同族も激昂し、和香は辛うじて逃げ出した。
不思議と同族を殺した後悔はなかったが、もうこの地に居ることはできない。
彼女は、あらずの川を渡る決心をした。
あらずの川。地と地と分ける八百万の川。黄金であり、深紅、銀白色であり無色である水の流れる川。すべての海を合わせたよりも遙かに多くの水をたたえ、山などに源流を持たぬ有り得ぬ川。
東の志都川を渡るのは危険だった。渡るなら、西の浮布川だ。
そして和香は、あらずの川に浸かった。
ゆっくりと、夕焼けの赤を写す水面を彼女は行く。対岸の見えるような川ではない。
その身をくゆらせ泳ぐ。水温がどこまでも体温に近いので普通の川を泳ぐのとはまったく異質な感触だった。
やがて天から太陽は消え、月も消えたが光はあった。時間の感覚はとうに消えていた。
だが、それでも、あらずの川は川であった。
浅瀬があり、水草があり、魚が泳ぐ。
和香がどれほど進んだか、やがて彼女の目に対岸が映った。
遙か彼方、視界が届くよりも遙か遠くに見えるという矛盾があったが、今更驚きはしない。
対岸には一件の古い民家があった。時折人のつがいも見える。
ついに見いだした目的地に彼女は喜ぶ。
どこまでも対岸は遠かったが、彼女の執念深さの前では意味をなさない。彼女は泳ぎ続ける。
ある時、彼女はあらずの川を流れるモノを見た。
川の上流から小さな黒いモノがやってくる。
それがカラスであると判り、彼女は興味を失いかけた。
カラスの死体が流れてきた、それだけのことだ。
ところがそうではなかった。カラスは動いている。カラスは生きている。
あろうことかカラスは泳いでいたのだ。
バカバカしさに彼女は大声を上げて笑い、川の中州に登る。
泳ぐカラスを見物するのも一興だ。
泳ぐカラスはやがて和香の前に辿り着く。
「こんな所でお目にかかるとは珍しいですね、お嬢さん」
鳥は鳥である。水鳥の真似事の泳ぎ方ならまだ判った。
だがカラスは人が泳ぐように、水面からヒョイと頭だけを出している。しかも礼儀正しいようだ。
「泳ぐカラスなど初めて見たわい」
「泳いでるところを見られたのは初めてですよ」
そう言ってカラスは口をつぐんだ。
和香はカラスの表情など読めない。沈黙の意味を考えたが答えはでない。
カラスは口を開く。
「あぁ、そういうことですか。ならばこれも何かの縁でございましょう」
どういう意味か? 疑問に思う和香の表情をカラスは読めるようであった。
「いえ、なに。深い意味はありません。よろしければ贈り物をしたいと考えますが。御着物などでよろしいでしょうか」
和香は笑う。
「蛇に着物を着せてどうしようというのじゃ」
「蛇? 私の目にはあなたは渡影に見えますが」
カラスに言われて、始めて和香は自分に手と足が生えていることに気がついた。蛇に手足が付けばトカゲと言うしかない。
「これはいったい!」
「なあに、ここはあらずの川です。些細な変化ですよ」
さほど困ることでないのは確かである。使い方に戸惑うかと思ったが、カラスに指摘されて手足に気がついたぐらいだ。無意識のうちにちゃんと使えている。
「御着物と言いましても浴衣みたいなものですが」
そう言い、カラスはチャポンと音を立てて水の中に潜った。
少し間を置き、水面に姿を現したカラスのくちばしには布がくわえられていた。
布を引きずりながらカラスも中州に上がり、着物を広げる。
白地に赤い花をあしらった図柄だが、和香にはなんの花か判らなかった。
しかし悪い感じはしない。彼女は身をくねらせ、器用に着物の袖に手を通す。
帯も何もなく浴衣を羽織っただけだ。
「人の真似をして何が面白いかと思ったが、これはこれで」
「喜んでいただけて幸いです。では先を急ぎますので失礼いたします。御武運を」
言い残し、カラスは再び泳ぎ出す。
ぐるぐる回りながら着心地を確かめていた和香は、カラスの挨拶など気にもとめなかった。
着物の珍しさにも慣れ、和香も再び、あらずの川に身を浸す。
浴衣を羽織った白いトカゲは泳ぎだした。
(註:ちょっと変則的にやります。序はここへの編集書き足しで行います↓の内容は本編に吸収しますが、七兆五千億キロマニアの為に、しばらく消さずにおいときます)
一
さて、ここ島根県四津見から東京までは、七兆五千億キロ。
山道をてくてく歩くのにも飽きて、少しばかり休憩していたとき、ふとスマホで調べてみて出てきた数字がこれだ。
あまり信じたくないが、目的地東京までは七兆五千億キロ。
何度調べても七兆五千億キロ。
検索の仕方が間違ってるに決まっていると思いたいが七兆五千億キロだ。
調べるんじゃなかったと後悔しても七兆五千億キロ。
ざっと七兆五千億キロといっても、七兆四千九百九十億キロに端数のキロ数がくっついた約七兆五千億キロではなく、七兆五千億キロに端数の数字がくっついた約七兆五千億キロ。
そう。だいたい0.8光年。
うひゃひゃひゃひゃ。
色々思うところはあるが、絶望やら失望するより、爆笑した方が良さそうなバカバカしい長旅なのは違いない。
だから旅路を引き返すことになる依頼は断りたかったが、この辺にいて対応できるのはわたしぐらいで、しかも内容がアレだったので仕事を引き受けることにした。
もちろん報酬も高額だ。ただし時間の余裕はない。
さあ、高額報酬目指して今来た道を十キロほど、とぼとぼ歩いて引き返そう。
ここ四津見から依頼者の居る三平までは約十キロだ。
依頼者が、迎えに早馬を送ってくるらしいから、三平に着くのには時間はかかるまい。
昼前には到着して、詳しく依頼の内容を聞いて夕方には仕込みに入り、夜中に仕事だ、朝までには終わるはず。
遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
いいねえ、リズミカルで素早い音だ。馬でも買えばこの長い旅も少しは楽になるだろうか。
たぶん、まだ身長が足らないから一人じゃ馬には乗れないけど。
*
山の中、日は落ちていた。
たまきが新品の牛車を見たのは生まれて初めてだった。平安時代の貴族が乗ってそうな、あの牛車だ。
とはいえ、生まれてせいぜい十年と少しばかりの経験で物事を語っても仕方がないのは承知している。
牛車の設計図があり、腕のいい大工がいればいくらでも作れるだろう。
ただ、どこに住んでいる、どんな大工なのかは考えないほうがよさそうだと、たまきは思った。
「そうか。使い捨てだから新品の牛車なのか」
新品の牛車は暗い山道をのろりのろりと進む。
牛車の進む、闇に包まれた山道の先に、少女たまきは立っている。
教科書で見たことがある牛車と形は同じ、ただ色は塗られていない。
雑な造りではない。
きっちりと造られているが塗装はされてない。
「たまきさま。牛がひいてなくても牛車なんですかね?」
たまきの肩の上で白いイタチに似たモノが喋った。
「そりゃそうでしょうよ、かどもん。ああいう形をした乗り物が牛車なわけで、馬がひこうが人間が引っ張ろうが牛車は牛車」
ふむふむとうなづく、かどもんと呼ばれた肩のモノに、たまきは続けて言った。
「それに、あれは牛の仲間に入ってそうだからセーフだよ。ほら、犬と狸が親戚みたいな感じで。……たぶん」
「ですかねえ」
「どうでもいいや。さあ、仕事仕事っと」
牛車をひくもの。
分量でいえば、牛の要素は少ない。でも肝心の部分が牛だしなあ、と、かどもんは彼女の言葉に納得した。
たまきに向かい、ゆっくりと牛車は進む。
気を引き締めようと、たまきは身につけたキャップのツバをつかみ、少し左右に振る。
彼女の被る赤いキャップ、それ自体はありふれたものだ。
ただし、おでこの部分、エンブレムやら球団のシンボルマークでも刺繍されていそうな部分には、銀色に光る薄い金属板が縫い付けられている。
金属板は滑らかではなく、傷なのか文字なのかがよくわからない細かいへこみが無数に刻まれていた。
闇夜の中、わずかにきらめく月と星の明かりを反射し、金属板が鈍い光を放つ。
編んだ髪を、そのキャップの中に仕舞いこみ、うなじにはつややかな後れ毛が見える。
赤いタンクトップの上に、大きめの空軍風革ジャンを着用、フライトジャケットに近く、裏地はボアだ。
デニムのショートパンツからのぞく脚は細く白いが、しなやかで脚力の強さが見て取れた。その為、今履いている頑丈さを第一にした無骨なスニーカーでさえ違和感がない。
荷物らしい荷物といえば、背負ったリュックぐらいだが、これもスニーカーと同じように実用性しか考えてなさそうなゴツゴツした代物である。
目深に被りなおしたキャップの下で、たまきの眼が鋭くなった。
たまきの目には小動物を思わせる可愛らしさがあるが、似てはいても愛玩動物のそれではない。
肉食動物ほどでもないが、普段は呑気に野菜やら魚で満足していても、いざとなれば、結構お肉でもいけるくちですよと語りかける程の鋭さはあった。
牛車はさらに、たまきに向かい進む。
牛車に付けられたぼんぼりが、暗い夜道をかすかに照らす。
「まさか牛頭じゃないでしょうね」
リュックに逃げ込みながら、かどもんは言った。
「牛頭といえば牛頭だけど、牛頭の牛頭じゃないでしょ。いやまあ牛頭は牛頭なんだけどさ」
たまきは自分で何を言っているかよくわからなくなったが、今はそれどころではない。
青い着物姿の一人の男が牛車をひいている。
男なのか?
体型で判断する限りは、肩幅の広い男だ。
そして男の頭は黒い牛だった。
牛の形のかぶり物ではない。
時折開く口から長い舌が伸び自分の顔を舐めている。
口を開いた時に喉の奥が、ちらりと見える。
そこに人の頭が入る空間はない。
牛車は止まった。
牛頭の男は牛車から離れ、たまきの前に立ちふさがった。