01話「第二」 第14章開始
目前に目を細めて笑った顔のアクファル。距離と圧力感、これはまるで独占状態。
目が合った。笑顔が止まった。勿体ない。妹がこの顔をする時はシゲが瀕死だった時とか、死んでる人間の方が好きだと判明したとか、その辺り。
おっ? 今の今まで自分は死んでいたのか。
姿勢は寝ている。場所は寝室の寝台の上。この布団の感触は馴染みがある。
朝か昼か? 窓から射す日の角度は、大体昼前だな。
「おはようございます、お兄様」
「何か面白い顔してたか」
「半分死んだお兄様、ここ三十年で一番でした」
「やっぱり」
「ちゃんと口が利けるんですね」
「シルヴとセリンは?」
「セレード大使館と黒軍野営地におります」
「ラシージは?」
「後程お兄様に状況を説明する予定です」
「ヴィルキレクとヴァルキリカは?」
「執務室の方ですね」
「え、執務室?」
「はい」
「いるんだ……え、アデロ=アンベルは?」
「北フラル総督府から派遣された連絡将校としてはサトラティニ・オッデという者がおりますね。街の宿に宿泊させています」
「知らんなぁ……俺のチンポってついてる?」
「期間内未使用です」
触る、感触が無い?
「無いぞ!?」
「お兄様、右腕はもうありませんよ」
「うお!? ホントだ、チンポは?」
「左腕はありますよ」
触る。ある! あるぞ!
「じゃあ、総長の首は? まだ脊椎付いてんの?」
「申し訳ありませんお兄様。何処の組織の長でしょうか?」
アクファルが知らないだと? あの時まだいなかったか。
「勘違いだ。そう言えばここどこだ?」
「バシィール城本館です。ご存じの天井ですよ」
そうだった。窓を見ると、さっきと変わらない。いや、蝶が硝子窓にぶつかり出した。
「聖都は?」
「ペセトトが虐殺破壊した後にフラル解放軍が進駐しました」
「アリファマ殿は!」
起き上がろうとして失敗。右腕が利かなかった。
「戦死されました」
「惜しい奴だ。布団で死ねとは言わんが」
「ジュレンカ将軍も戦死されました」
「戦死出来たか」
「補足しますと、皇帝と聖女はもう剥製ですよ」
「何で?」
「お兄様の趣味ですが」
「そうだったっけ」
「間違いありません。その前にこちらをどうぞ」
金毛編みの飾りが柄から下がった斧。戦闘用じゃなくて伐採用? 左手で受け取る。思ったより重く、布団の上に手毎落ちた。どれだけ筋肉が落ちたんだ?
「なんだっけこれ」
「皇帝が使っていた斧です。お兄様の右前腕を切り落として額を割って脳に損傷を与えました。金の毛はどうやら聖女の体毛で作られています。それからお兄様、寝たきりで筋力がかなり落ちてます。貧弱お爺ちゃんです」
「貧弱お爺ちゃんか……せめておじさんだろ」
「はい、いいえお兄様」
左手で額を触る。傷跡、骨が一部無い。
「帽子に鉄板か木板か入れないとやっちまいそうだな」
「どうぞ」
新しい処女の毛編み帽子を被せて貰う。額の部分に鉄板が入っていた。叩いて頭に伝わる衝撃を確かめる。
「これでいい」
部屋の外から女の鼻歌。これはたぶん聖歌。そして扉が叩かれもせずに少し開き、舌打ちが聞こえてすぐ閉まった。そしてアクファルがすぐ全開にした。
”俺の糞女”ことジルマリアのハゲと目が合う。奴の真顔、目元が険しくなって年増の皺が寄り、二度目の舌打ち。何も言わず背を向けて立ち去った。乳は垂れたのかもしれないが相変わらずケツがデカい。
「見たかあの顔! 頭の一発割れてみるもんだな」
「はいお兄様。奥様は毎日見舞いに来ては笑って帰るを繰り返しておりました」
「ホントにか」
「いつも”こいつ何時になったら死ぬの?”と言って足繁く通っておいででした。一時は体調不良で長期休暇、退職も止む無しと言われましたが、お兄様の重態ぶりを見て元気を瞬く間に取り戻されました。愛の成せる業ですね」
「マジで」
「マジです、お兄様。部屋の前に、においが残っている内にお散歩へ行きますよ」
「おお、そうするか」
着替えを手伝って貰う、というかほぼ脱がせて着させて貰う。手と足が足りないと思うようにいかない上に、身体を起こしたり捻ったりするのすら一苦労。腰の捻りも背中の反りも筋力不足で上手く動かない。
小便臭いおむつを脱いで何時も通りの、魔神代理領陸軍の上黒下白配色のセレード装束。義手と義足は型が合っている。変に重たい。これでも肘と膝が残っている分マシな方なんだが。
「暑いけど今いつ?」
「夏ですよ。春一つおねむでした」
義手義足を振るようにしてみるがとにかく重たい。腰や肩に反動をつけないと辛いぐらい。
「採寸した特注です。時間の掛かる削り出し加工。寝ている間にお得ですね」
「そういう見方もあるのか」
「採寸中にうんこしてましたよ」
「そりゃお得だな」
「特注している間もうんこしてました」
「そりゃそうだ」
「拭き拭きもしました」
「助かった。ケツの穴は痒くないぞ」
「はい赤お兄ちゃん」
「マンコも痒くないぞ。ありゃ大変だよな」
「それはありませんよお兄様」
「え?」
「はい?」
アクファルから杖を左手で受け取って、身体に前後揺さぶりをかけて跳ね起きるように立ち上がって、杖で支えてやっと義足と一本足で立つ。しかしマジで爺だなこりゃ。
すり足に近い歩き方で部屋を進んでみる。全く歩行不能ではないが、支えが無いと転びそうだ。転ぶと思うと足が出辛くなる。精神的な障害付きか?
右前腕が無い、左膝下から無い。おかしなもんだ。
「ちょっと厳しいな」
「ロシエの理術義肢ならかなり動けますが」
「それは要らん」
霊力が下がる。
「はいお兄様」
壁掛けの姿見で確認。頭も顎も白髪が大分増えた。灰色に近い。下の毛を確認しようとして、義手で引っ掛けても覗くのが難しい。杖を手放すのは怖い。アクファルがズボンを引っ張ってようやく見えた。
「チン毛もか!」
「はいお兄様」
部屋の外まで腰の悪い爺さんみたいに、右足を四分の一歩出し、左足を四分の一歩出しの繰り返しで進む。疲れる。距離が遠い。
「俺、動けてる? 動いてるか」
「関節と筋肉が固まらないように毎日動かしておきましたので最低限は」
「アクファルはえらいなぁ。ご褒美は何がいい?」
「いずれ神にお成り下さい」
「じゃあアクファルは俺より長生きしないとな。奉る巫女さんに教えを守る語り継ぐ組織が必要だ」
「そんなものはお茶の子さいさいです、お兄様」
部屋から出るとにおいがした。お香臭い。ジルマリアが礼拝した後は大体このにおい。
「流石に若い女の匂いはしねぇな。ん、これは? これミクちゃん通った後だろ?」
こっちは若い女の匂いと、うんこか!
「少し前に洗濯物を取りに来てくれました」
「えらいなぁミクちゃん」
「何時も彗星ちゃんと来て”お父さん早く良くなるといいね”と言って足繁く通っておいででした」
「もっと好きになってきたな。三十五、いや三十七歳若かったら結婚したかったな」
「彗星ちゃんと同い歳ですね。ジジイが嫉妬して醜いですよお兄様」
「そんなことになるのか! 参ったな、ジジイはホント気持ち悪いな」
気分的には懐かしくないが、身体は不慣れと言っている。城内通路をゆっくり移動する。すれ違う兵士、管理職員、親戚に挨拶すると大騒ぎ。どうもまだ耳が変で、大きい音だと頭に響く。義手で音を下げろ、静かにと手振りで示す。これは後で、若い馬並みに火薬の音に慣れる必要があるな。
身内以外立ち入り禁止区画と公務区画の境目に立つ妖精兵二人の背後を取る。声を掛けてみよう。
「こんにちわわ」
「かっぱこあら」
「ざっぱぼらら」
その二人と顔が合う。
「あー!」
「あー!」
『ぎゃー!!』
公務区画の執務室まで移動。室内に並ぶ剥製の中にヴィルキレク皇帝が、片眼鏡をかけて堂々と立っていた。背が高い、肩が広い、胸が厚い。眼球は流石に硝子加工で生気はないが。
帽子を脱いで掲げて挨拶。
「惜しかったようですね……あれ聖女様は?」
「視線を上げてください」
上を見る。黄金の人狼、見下ろす化物、怖ろしい獣、聖職の衣を纏ったモフモフ。一歩下がろうとして尻もちをつく寸前でアクファルに支えられた。
「デッカ! マジこれ!? はあ! これ襲ってきたら小便じゃすまねぇって! おお! 良く仕留めたな、どうなってんだこりゃ」
「欠損があるので一部は再現だそうです」
「へえ」
「頭蓋骨の損傷が一番激しかったそうです。ダーリクくんが理術式拳銃でとどめを刺しました」
「もう大人だな」
「はいお爺様」
外に出て、城の訓練場で受け身の訓練をする。芝生の上。
最初は座った状態で「はい、ごろん」とアクファルの声に合わせ、横に倒れて頭を守りつつすぐに起き上がる体勢へ移行、したいが難しい。腕で地面を叩いて衝撃吸収。後ろに倒れて同じ要領。立ち膝状態になってから前へ腕で顔を守るように。
妖精達も参加して『ごろん!』。繰り返し。
次。仰向けに倒れた状態で起き上がる訓練。寝台でもそうだったが手足が足りないと力が足りず、起き上がり動作も足りない。筋肉が落ちていて腹と腰も弱くて跳ねることも出来ない。
一人乗馬は落馬受け身が出来る段階になってからということで、今日は馬に跨るだけ。アクファルが手綱を引いて回る。
背筋を伸ばして姿勢を保つだけでも苦しい。馬の背、鞍を挟む股の力が頼りない。
馬上戦を想像する。
義手を上げる、振る。指示は出せる。
左手で拳銃が使えるか? 今なら命中させられる気がしない。腕を伸ばす射撃姿勢を取る。空手の指鉄砲でも当て勘が働かず、震える。
義手で刀? 指を固定して握っても手首が使えないな。通り際の撫で斬りはやれそうか? 剣術はまだまだ無理だな。
あとは休憩がてら兵士達の定期射撃訓練を見学。
銃声が頭に響く。精神的というより、単純に怪我が治り切っていないだけな気がする。
■■■
疲労で足腰が震える中で城内に戻った。アクファルの介護がしばらく必要だ。
会議室へ案内されるとラシージが待っていた。椅子に座る動作も一苦労。
「お疲れ様です」
「ラシージ、今日は一緒におふ「事前説明します。公式には議会でゼクラグ軍務長官が行います」
「おう」
「全般的に第二次攻勢準備が、二点除いて完了しています。これは後程説明します。よろしいですか」
「お前の言うことなら何でもいいよ」
「マトラ方面から。内マトラ軍集団、外ユドルム軍集団、新編の予備軍集団、ヤガロ軍が主力。基礎訓練を施した白帽党軍を尖兵として使用する旨、イブラシェール様が了承しております。全般的に地雷処理をしながら逆襲する訓練を施しております。また攻勢の隙を突かれた場合の予備として高地管理委員会軍を待機させています。
ククラナ方面。外ヘラコム軍集団が主力、補助にエグセン人民軍が付きます。先陣はセレード南方軍が短期的に務める予定です。エグセン人民共和国領統治の再開も目的の一つになります。
ブリュタヴァ方面。外トンフォ軍集団が主力、補助にカラミエ人民軍が付きます。先陣はセレード西方軍が短期的に務め、次いで同東方軍が参加します。北カラミエ地方の人民共和国化を目的の一つとしています。またヤヌシュフ王率いるセレード全騎兵が開始と同時に奇襲浸透突破を予定しています。
ハリキ方面。無防備に近いですが、民兵を召集して守りを固めるそうです。都市攻略が可能な重装軍を送れる道はありません。
セレード両正面への攻勢の隠蔽は、セレード軍に一切の攻勢準備作業をさせないことで達成する見込みです。先の戦いと再開戦の恐れがあるからと平時より装備人員は整っていますが程度として、現地上戦基準より低いものになります。早々に攻勢限界へ到達するでしょう。
ベーアによる逆襲に対する予備としてザカルジン親衛軍を筆頭に傭兵、義勇軍等をセレード国内に待機させます。セレード国境線の要塞設備も現地上戦基準には全く達していませんのでこの予備兵力で対応します。
極東方面には閣下と黒軍、ソルヒン様と回天軍が出向いて、有り得る龍朝の介入をこちらから先制して予防します。可能ならば政権を転覆させます」
倒れる前の状況を思い出すに、妙な発言がかなり交じっている。
「ベーア帝国軍はマトラ要塞攻略に専念出来るように軍を再編しています。更に対マインベルト、セレード国境警備に主力と呼ぶに相応しい軍を再配置しました。また焦土化していたウルロン山脈東部は春の雪解けを待ってようやく掌握が出来たようです」
「大急ぎの領土奪還攻勢も一段落ついてるのか」
「はい」
態勢立て直しの時間を与えてしまったか。自分が無事だったら防げたか?
「聖都から引き上げた後、黒軍で何かしたか?」
「ウルロン中央、ラーム川方面からの攻撃という手段は考慮しましたが、神聖教会との和平履行を優先して主力と共に撤兵しました。ロシエとの合意もあります。本作戦の遅延を避けました」
「それで正解だ。続けてくれ」
「はい。我々が撤兵した後のフラル半島は、北西部のビオウルロン領以西とスコルタ島を除いて魔王軍が制圧しました。ロシエ軍は半島での包囲殲滅を避けるため、余力がある内に早期後退を行って戦力の保存に成功しています。
統一フラル軍は我々帝国連邦軍の次にペセトト軍と、住民を背中に戦っておりましたが、フラル解放軍に下れば戦闘も虐殺も破壊も避けられるということで相次いで降伏します。志願兵ですら除隊して給料も払う上に故郷へ戻って良いと情報作戦を展開し、実例を多数見せつけて組織崩壊、散り散りになりました。一部は外人部隊としてベーア、ロシエに保護されているようですが士気は高くなく、平和を取り戻した魔王統治下のフラル半島への脱走は止まっていないそうです。
神聖教会直属の軍は補助戦力程度の規模しか残っておりません。フラルに派遣されていたベーア兵のほとんどは帰還未確認のようで、この組織に吸収されたと見られます。
ベルシア地方は魔王軍の副王領として設定されました。他フラル諸国には高度な自治権が付与された上でフラル解放軍が統括しています。ラーム川、ウルロン山脈を挟んでベーア帝国と勢力圏を接していますが目立った戦闘は無く、現状は敵対中立を維持すると見られます。また我々との友好的中立姿勢を崩しておりません。原理教会派が聖皇体制が崩壊した状況につけ込んで宣教しておりますが弾圧はされていないようです。
またエスナル戦線については未だ膠着状態にあります。
ペセトト軍の動向は規律に緩急あるため把握が難しいですが、陸海からロシエ帝国南部を攻め続けています。理由は不明ですが北部には未だ攻め入っておりません。質問があればどうぞ」
「その、セレードから第二次攻勢ってどういうこと?」
「脳の損傷で記憶が混濁しているかもしれません。ベラスコイ大頭領が第二代帝国連邦総統選へ立候補し、大元帥閣下がそれを支持して当選させたと同時にセレード王国を帝国連邦に加盟させます。その旨を電信で速報を入れ、ヤヌシュフ王がただちに奇襲浸透突破を仕掛けるという、お二人の計画のことです。これが一点」
「おっ!」
手で膝を叩く、合点がいった。そうそう、サウゾ川を渡る直前のことだ。
ベーア破壊のための第二次後退、第三次攻勢を省略出来るかもしれない策。シルヴの提案があって初めて出来たものだ。
「セレード軍が短期の全力攻撃を仕掛けている間に鉄道輸送で主力が到着。それから前進と交代を行って戦果を拡張します。鉄道は、セレードは勿論、渋滞緩和のためにオルフのものも使います。マインベルトのものは使いません。軍を送っている間の鉄道路はほとんど独占状態になります。これは事前の説明と協力無しには成し得ない鉄道計画ですので当事者には知れ渡っています。情報露見の危険性は甘受しており、奇襲性より確実性を重視しました」
「その鉄道計画だけでセレードの再宣戦って分かるか?」
「閣下とベラスコイ大頭領の人柄と仲を知っている者ならすぐに分かるかもしれません」
「あっちの情報部あたりが暇だったら対策してそうだな」
「ベーアでは攻勢派と守勢派の派閥対立があるそうで、多少は勘が鈍いかもしれません。希望的観測ですが」
「マトラ要塞陥落か封じ込めかの二択。血塗れか土木工事か。問題解決か先延ばしか。悩ましいなぁ、俺がベーアの将軍だったら困っちゃうよ」
「全ては閣下のご采配の結果です」
「それは褒め過ぎじゃないのか?
「偶然性も加味して計画では無く采配と致しました。そのような天運を備えているからこそ理屈屋如きでは敵わないのです」
天運?
「ヤヌシュフの奇襲がどれぐらい通るかな?」
「黒軍に範を取りつつ、全騎兵による大規模浸透だそうです。全とは正規、民兵双方のことかと」
「今は夏で、秋、冬、おー、贅沢しなきゃ略奪で食えるかな? 食えねえ奴は死ぬだけか。人も食えればもっとだな」
良い匂い、パンの匂いがする。アクファルが、動物さんの顔が焼き入れてあるパンを籠に入れて持って来た
「お兄様、これを食べてからお昼寝して、夕食会をしながら家族会議をします」
「家族会議?」
「はいお兄様」
「極東政策に影響します。これが二点目ですが、ご家族からお話を聞くのがよいでしょう。私が口を出すのは憚られるかと」
ラシージになら何言われてもいい、と思っているのは自分だけかな。
「寝てる間に色々進んでたんだな」
「妹様が代言、聖旨という形で大元帥閣下の意志であるとしたので全て恙なく進みました」
「おお、そんなことも出来るんだったな」
「私がお兄様でした。ぼくべるべるだよって言います」
あのまま死んでても大丈夫だったな。
「よしよし。で、総統選って何時だ?」
「明日です」
「偶然目が覚めたってこと?」
「流石お兄様、天命がありますよ」
天命とはあの天命か。極東政策はソルヒンの提案があってのものだが、一つ重大な因子が抜けてるよな。これが二点目になるのか。
■■■
天命あった。重大な因子は補填されていた。二点目の話。
「でかした孫か!」
「はい父様」
我が息子ダーリク=バリド、不機嫌な顔を隠しもしないセリンの腕を捕まえて――昔見た光景――座っている。勿論相手はそこの内臓が足りないおババではない。
「月経が止まりました。つわりがあります。胸も張ってきました。お通じが少し良くありません」
居眠りおジジのチンポが役に立たない間に我が息子ダーリク=バリドが何と、レン朝女帝ソルヒンに孫を仕込んでいたのだった! やれ目出度しや。作戦の停滞は避けられた。
……ダーリク怖くなかったかな? 大丈夫かな? 見た目は良くても呪いに気圧されて中折れしなかったかな? 若さに任せた感じかな? ここでそんなことは聞けない。
ソルヒンの顔色は分からない。母になった慈愛の笑みみたいなのはあるが、本当の顔か不明。こいつは女、ましてや母で怨念に執念がある。演技など容易だろう。これに比べてジルマリアの何とお可愛らしいこと。演技の一つでもしてみろってくらい憎たらしい面つきを貫き通して早……二十年くらいか? 少し足りないか。
とりあえず、不具の爺さんより若くて元気な男の子で良かったんじゃないかと思う。流石に可哀想だ。寝たきりの回復なんか待っていたら作戦開始時期にも合わない。
しかしダーリク十六歳と、ソルヒン……たしか今二十五歳くらいか。うわっ、この野郎、何て羨ましい歳の差。
半分冗談はさて置き、後レン朝は天道教青衣派を準国教として保護し、ソルヒンはその功績で覚導号を得ている。教えの道へ多数を導いた者への尊号で、在家でも獲得できる。この手前、半分とは言わないが八分の一ぐらいは最高の信者としての立場がある。それが合意の上とは婚前の姦通行為。罪の香りがするな。一層羨ましい。人生やり直したらどうにかなんねぇかな、シルヴと。
夕食と同時に家族会議が始まっている。ご快癒おめでとうございます、なんて挨拶は無し。そんなこと言われたら飯が不味くなる。
給仕はミクシリアに限った。ジルマリアが「あなたは家族だからいいのよ」と脅すみたいに言っていたので、聖王親衛隊に漏れても良い情報なのだろう。
「はいあーん」
「あー」
アクファルが、ふーふーして羊汁を冷まし、食べさせてくれる。
彗星おじちゃんが、宗教的模範になるため肉を食わず酒も飲まず、豆汁を口に運んでいるソルヒンの隣に行って尋ねる。
「甥っ子? 姪っ子?」
「まだ分かりません。触ってみますか?」
「うん」
彗星がソルヒンの腹に手を当てる。
「全然分かんない」
「ちょっとは膨らんでいるんですよ」
「へえ」
そうして彗星、湯気を上げる食べ物を運んでいるミクシリアの腹を遠慮無く触りに行く。
「こらっ! 火傷するでしょ!」
「全然分かんない」
こいつ! くっそ、うらやま、何時まで純朴なガキんちょみたいに、この! 今何歳だっけ? 十二か! そろそろ成人男性になる準備が要るな。
ミクちゃんのお腹擦って、おへそ突っついて、きゃん! って言われたい。しないけど。セリンにはしようか? きゃん! ってあいつ言うか?
極東で龍朝を牽制し、あるいは政権を転覆させるに至る策というものをソルヒンから提案されていた。
遊牧皇帝、蒼天王という地位を天政に名目だけでも認められているベルリク=カラバザルとレン・ソルヒン女帝との結婚。そしてその子を次期皇帝として祭り上げるというもの。
龍朝にもレン・セジンとレン・シャンルというレン朝後継者がいるが、何れも実子がいない。そこに正統ソルヒンの子供が生まれるとなれば動揺が走る。
ソルヒンは男系女子。レン朝ではこの代まで男系男子の伝統が貫かれ、歴代王朝もほぼその通り。僭称女帝や強力な摂政として女性が台頭したことは何度かある。正統男児が絶え、ならばと臣籍降下した中から男子を引っ張って来るまでの間、女帝として代を繋いだ人物もいる。男系男子より正統性は弱いが無力ではない。
セジンは男系男子であるが龍人と化し、また何度も戦死が確認されていてレン朝男子どころか人間としての連続性すら怪しい。妻とされている黒龍公主などあちらで権威はあるものの妖怪、仙人? の扱いで良い悪いを超越している。龍朝という、化物か概念存在を天子と祭り上げている神権国家体制で龍人王という地位を持って実質の皇帝になっている状態は、その国家体制を正統と見ればある種盤石。外道と見れば蛮族未満の人外。
シャンルは男系男子でソルヒンよりレン朝後継者として正統性は上だが、龍朝体制下に組み込まれた前王朝の生き残りと考えると立場が弱い。解釈次第と言える程度に微妙。
ここに世継ぎを得た男系女子が現れると人民の意識は変わる。生まれた子供が男だともっと変わる。女でも、次が男なら、孫が男なら。
その父が遊牧皇帝となると、野蛮と唾棄出来るし、強い力を得たとも誇れる。これも解釈次第と言えるが、微妙などとは言わせない強烈な衝撃がある。もう一点加えるとレン朝は元々、前王朝から見れば北方蛮族の出であり、正統性担保のためにバルハギン統も受け入れている。歴史を紐解けば、遊牧血統を問題にしても今更、というところ。
これで発生する動揺を抑えようと龍朝が工作している間にベーア破壊戦争が完了すれば良し。時間稼ぎになるだけで良し。
とにかくあちらからこちらに積極的に仕掛けようとする機運を潰す。反乱を恐れ、末端の部隊から重装備を中央へ移したり、人事を刷新したり、憲兵を拡充したりと攻撃能力を少しでも奪えれば良い。外ではなく内に目を向けるよう仕向ける。
龍朝が今までベーア破壊戦争に軍事介入し辛かった理由の一つに、五国協商による防衛条項があった。ベーア破壊戦争には参加していない協商国だが、極東で龍朝が攻めてきたらそちらに軍を派遣するという状態であった。
しかし問題があって、後レン朝は協商国ではないと見做すことが出来る。
この度、セレードが帝国連邦に加盟して参戦するという事態になれば、この防衛条項が揺らいでしまう。
今までは、極東有事が発生したら素直に派兵をしたであろうマインベルトにオルフが、相対的に弱化したことに危機感を覚え、帝国連邦の傀儡にはなってたまるかと態度を硬化しかねない状態になる。
セレード軍を除いて極東に派兵することへ戦力的に不安を覚えて両国は躊躇しかねない。派兵を渋る理由に後レン朝は協商国ではないという言い分も使いかねない。こちらとしても否定は難しい。
実際に派兵が渋られなくても、龍朝側が防衛条項は機能しないだろうと予測しただけで介入危険性が上昇する。
誤解だろうと何だろうと介入が開始されればこちらの失敗。互いの勝ち負けはさて置いても消耗してしまうというだけで良くない。
マインベルト軍も、参戦してこないかとベーア軍が警戒する分だけ国境警備体制が固まって、実際に極東有事が発生しても派兵は難しいのが現状。マトラ要塞攻略戦が始まって以来その傾向が強まっていて尚更。
オルフ軍はマインベルトに派兵していて、これを撤兵というのは難しい。王室結婚があり、四国協商内での孤立も避けたい。極東へ派兵する余裕が無いと言い訳が出来る。後レン朝のことは知らないが、帝国連邦領内に侵入してきた分には対応すると言って消極的な派兵で済ませるかもしれない。
セレード参戦の西側攻撃は絶大だが、東側防御に穴が開く事態が生じる。それを今回の皇室結婚、それも腹に抱えた見た目によって補完する。言葉よりも実物が強いということを後レン朝の共和派にも龍朝にも一撃食らわせてやるのだ。
あとは極東界隈で準備だ何だとしている内に良い具合の大きい腹になっているだろう。
頭が回ってきた。そうそう、こういう構想だった。
ダーリク=バリド、”やれば出来る子”。
「ダーリク、お前の嫁さんに、いや婿入りか? しなくていいんだな?」
「案件が複雑なので、私よりソルヒンさんから説明した方が良いと思います。そうですね」
「はい、それでは。私が天下を完全に取り戻すには、蒼天王でもある大兄に中原へ堂々と兵を入れて貰う必要があります。そのためには化外の王というだけではなく、天子の配偶者という立場を取って頂きます。別途特別な称号もあると良いでしょうか。複雑な正統性の話も武力が担保してこそですが、入り口としてはそのように。
そして戦いがあれば常勝して頂き、忌々しい奸智の黒蛇に誑かされて論理の曲解を己に言い聞かせている愚かな官僚共に己が仕えるべき天子が誰であるかを思い出させつつ、邪悪な蛇共を追い出します。天の理を持って賊軍討ち果たすという物語を演出して実現します。人民に見せつけてこそという戦いでもあるので、略奪や虐殺の相手は限らなければいけませんが。
帝国連邦の国力を浪費してまで対処して頂くので対価を用意しています。全大陸をその手に収めて頂く極大の宇宙戦争が出来る物資と軍隊を、その暁に用意させて頂きます。魔神代理領を北方伝説における”黄金の羊”とされたようですが、我が中原の生産能力がその程度ではないことはご存じでしょう。代替などという生易しいものにはしません。魔なる教えなるものが大兄を縛る鎖であることは既に、総統辞任要求で明白です。別宇宙の論理を持ち出されて大変でしたでしょう。私ならそんなことは言いません。天政の論理でも言う筋がございません。信用は縛ってこそ得られるものですが、もう不要でしょう。
そちらの蒼天、こちらの黄天、合わせてから世に覇を唱える合天覇統の大計、後にも先にも史上にも無い大業となるでしょう。ですから結婚は大兄としか有り得ません。ダーリク様には他にやりたいことがあるようで、私と共に歩むということはありません。年増は若い子の邪魔を致しません。泡沫の夢としましょう」
天命の呪いを受ける実感が無いというより、そのくらい今更、何でもないという感触だ。いける。
「セリン、やるぞ。海軍は死ぬ程要るから任せた」
「あい」
セリンからえらい低い声で同意を得た。ジルマリアの時も似たような声出してやがったな。
「ということで私から。ミクちゃん」
「はいお母さん」
「あれに」
ジルマリアが書類一枚を出し、こちらに顎指し。ミクちゃんが持ってきてくれる。
「いいんですかね、お父さん、これ」
「何だい? 変なことでも書いてるのかな」
書類を受け取る。ミクちゃんは何だか自分事のようにそわそわして隣から覗き込んでいる。何と罪の無い子だろうか。
これは離婚届ではなく、結婚を無効とする合意書。子供の親権は全て父方にあることも併記。後は自分が署名して完了する簡素な形式。ちらっと見えただけで分かるぐらい簡潔。
神聖教会法における離婚は基本的に違法。例外的にそうする方法は限られていて、その結婚を承認した聖職者かその後任者の合意が必須。だから結婚を無効とする方が手続きが簡単で好まれている。我々の場合は前ブリェヘム王ヴェージル・アプスロルヴェが承認したのでその後任は不在。後任に相当する者は誰かと問い合わせる教会組織はぶっ壊した後だ。
ヴァルキリカが死んだからジルマリアには結婚を継続する義務も無くなっているのだと思われる。所属する組織も、重ねてぶっ壊した後だ。継続の根拠が無い。
署名する。ミクちゃんが「あ、え? わー」とか言っている。
「お疲れ様でした……で、内務長官は続けるのか?」
「あなたに人事権などありませんが」
「お、そうだな。遊牧皇帝の妻って立場だと俺が死んだ後にかなり権力握れるのが慣習だけどそれはいいのか?」
「蛮族の女頭領など願い下げです。それにどうせあなたの方が長生きします」
ジルマリア、長くため息。
「煙草吸ってみるか?」
自分の葉巻を、アクファルが懐の箱から取り出し、差し出す。
「頂きます」
アクファルが火を点け、ジルマリアが一服。煙がしみた目から涙を流して「ぶぅうえあっふ……ぐぅっはー」と吐き出す。
「おっさんみたいな声出たな」
「老いとはそういうものです」
ジルマリアがクツクツ笑った。
■■■
頭の中が混迷に近づいた時は夜の知恵釣り。随分懐かしく感じる、この餌も針も無く、錘だけを川に吊るす行為。たまにゴミとか洗濯物が引っ掛かる。
ルサレヤ先生が煙管に香木屑を詰め、硫黄臭い火で点ける。
自分も葉巻に火を点けて、吸うと咽るので吹かすだけ。これはこれで面白い。
「病み上がりで夜更かしして大丈夫か?」
「赤ちゃんなのでお昼寝してました。まだ眠くないですね」
「うんこが中々出なかったら腹を擦ればいいぞ。まあただ”今日もうんちがもりもり出ている糞お兄様マジ糞垂れ”って黒板に書いてあったがな」
「黒板?」
「門前に立て看板みたいにしてあったぞ」
「今日はそっちを見ていないですね」
十二歳と十八歳。十六歳と二十五歳と四十九歳。それから千歳弱。うーん。
「随分と雑念があるな」
「今の状態で無かったらその見た目より化物ですよ」
「それもそうだ」
「死んでても何事も無く進んでいて良かったです。代わりはいるもんですね」
「極東に関してはまだまだ死んでいられないだろ」
「ダーリクがいるから何とかなったでしょう」
「いや違う。遊牧皇帝としての立場は世襲でも簡単に認められはしない。極東作戦で影響力を行使できる、龍朝から任命された蒼天王という肩書を世襲で息子にも認めさせるなどということは現状有り得ないだろう。何の口実に使われるか、悪いことしか無い状況でな」
「それはそうですね。頭が回ってませんねこりゃ、気が付かない」
「それにここで死んだら本が中途半端だ」
「あの、歴史叢書の、ベルリク戦記でしたっけ」
「そうだ」
「じゃあ後五十年は生きませんと。あ、そうそう、セレード加盟が成ったら四国協商になってマインベルトとオルフが地理的にも孤立化しますよね。加盟しますかね?」
「セレードに倣って加盟して、派閥を組んで帝国連邦の人口過半を占めてしまおうという策は有効だと思うが、ただ、総統はともかくお前がいる間はな」
「遊牧皇帝の臣下にはなりたくない。せめて対等」
「アッジャール、サバベルフ、ベルリクの血統統合などなればまだ分からんが」
「しばらく四か国ですかね。増えるかな? あ、人民共和国が出来れば六か国」
「征服するといういつもの手があるぞ」
「そんな荒っぽい、可哀想じゃないですか」
ルサレヤ先生が咽た。
■■■
帝国連邦議会が開催される。相変わらず定例開催時期などは無く、何かあったら開くような感覚のまま。
ウルンダル王の銘板が立った議員席に座るのは初めて。机を手摺りにしてよちよち、やっと座る。今までは宰相シレンサルか、その代理が座っていた場所へ。
総統席を見る……あんな目立つところに座ってたのか。戻り辛いな、戻れないが。
客席を見る。外部から招かれているのは他協商四国から一人ずつ。
長官席を見ればいつもの面子。ハゲ、ゼっくん、毛玉、あの黒人誰だっけ?
隣の席の、ユドルム共和国のシャールズ大統領を肘でつっつく。こっちに頭を寄せたらその妖精耳を潰すように頬ずり、ぐりぐり、きゃっきゃ。
「長官席の、あの黒い人誰だっけ?」
「法務長官の……黒い人です! 大元帥万歳!」
『大元帥万歳!』
当然のようにゼっくん以外の妖精とハイバルが合唱。あぁ、法務か。何する人かな? 忘れているのかそもそも把握していないのか怪しいな。
議長席に座るルサレヤ先生が「静粛に」と言ってから宣言する。
「これより帝国連邦議会を開催する。一つ目の議案。第二代帝国連邦総統を選出する。推薦したい者がいれば挙手するように。自薦でも構わない」
自分が先に手を上げる。
「ウルンダル王ベルリク=カラバザル・グルツァラザツク・レスリャジンは、第二代総統にシルヴ・ベラスコイを推薦する」
客席にはセレード大頭領が座っている。開催宣言前から存在感を放っていた。話を聞いていなくても雰囲気から、あれ何かあるよな、と確信させるぐらい。
「反対する者、異議申し立てある者は起立するように」
顔色はともかく、異議無し。議会では、国内の利権問題以外で異議があった記憶は無い。あったかな? 覚えてない。
「満場一致で可決する。第二代総統閣下万歳」
議長と当人以外は拍手。
『万歳! 万歳! 万々歳!』
シルヴが手を顔の位置まで上げて三唱を受けた。
「新総統は総統席へ」
そして総統の席へ登った。
「次の議案について。セレード王国から帝国連邦への加盟が申請されている。反対する者、異議申し立てある者は起立するように」
またも異議無し。
「総統閣下そしてセレード王国代表、よろしいか?」
「そのように」
「満場一致で可決する。セレード王国の帝国連邦加盟を承認する」
議長と当人以外は拍手。
シルヴが手を上げて「議長、発言を」と言う。
「総統閣下、許可する」
シルヴが立って指名。
「軍務長官ゼクラグ」
「は」
ゼクラグが席を立つ。直立、命令を待つ軍人の姿勢。
「ベーア破壊戦争における第二次攻勢を開始せよ」
「ベーア破壊戦争における第二次攻勢を開始するよう全軍に通達します。第二代総統閣下万歳」
これには議員の承認は要らない。
議場の扉内側前で待機していた伝令が各所へ連絡するために駆け出す。
「それでは概要を……」




