05話「花嫁選び」・イスハシル
我々は未だにスラーギィの中洲要塞に連泊している。花嫁候補が全員集まっていないのだ。
その前に選んでしまっては各部との軋轢が生まれて今後の関係に差し障りがあろうというもの。侮辱を理由に暴力、暗殺事件でも起きかねず意図するところではない。セレードの力をそっくり頂きたいのだ。
しかし、ここの長老会議が持つ連絡組織が脆弱で、気に入る、入らないで言えば勿論気に入らない。
本当に評価されている程ここのセレード遊牧民は、その中でも武勇に秀でていると評判のレスリャジン氏族は優秀なのか?
あのアクファルの武芸のように個人技なら凄いが、それ以外はお粗末な連中なのではないか?
その昔はセレード王国軍であった彼等だが、非正規戦や略奪だけを担当するような、軍服を着ただけの馬賊だったのではないか?
不当評価が明らかであればシビリが早々に見切りをつけて何か言ってくると思うのだが、そのようなことをにおわす発言は無い。ただひたすら結婚相手の調整を中洲要塞の長老達と話し合っている。それ以外では結婚後、彼等とどのような関係が築けるかと相談している。同盟、交易、傭兵、等々。
黒鉄の狼と呼ばれる父王イディルに認められ、今ではアッジャールの実質二番目の実力者、黄金の羊シビリ。彼女は居並ぶ王子なんて指先であしらえる存在だ。王后達より発言権がある。まるで第二の”父””親”。
イディルの王子達の一人、自分イスハシルはペトリュク国の主などとされているが、当該国の将来を大きく左右する話から当該の主は除外されて”親”が賢く差配する。
今更それを惨めに思う子供ではないし、有能な指導者一人に何もかも采配させる時代でも規模でもないことは分かっているが、この、年老いてからではないと独立も出来ないような狭苦しさは何だ? 一人前の男になれるのは寿命が尽きる寸前か? それか、命を捨てる覚悟で父王の首でも取った時か? 正に王子、ガキだ。自分だけでは何もできない。やろうとしていない。
この要塞は大河の、複数ある中州の中でも最大規模の陸地を目一杯に使っているのでそこそこ広く、歩いて回るのに日の八分の一といったところ。
水流の中の陸地とは季節の増水減水で削られ、加えられて変形を繰り返すもの。だが護岸がされているので不変である。
一部の岸壁外には砂浜が形成されている。港も勿論あるが、このような季節で姿を変えるような場所に船を揚げる者もいる。
中洲を訪れる者達の大半は商品を持ち込み、または買い込んで去っていく者。ここは物流拠点だ。市町村の市。
岸壁内は、外観以上に人も家畜も商店も宿も多くて密度が高い。都市部貧民街のような密集宅地の様相も呈しているが、ゴミや糞尿は川に流しているので溜め込まず、清潔である。
また無宿人、無頼漢、職業犯罪者のような者はほぼ見られない。物乞いはいたが、戦傷で四肢欠損した名誉ある者だった。皮革職人や墓掘り人のような穢多職はいるが、都市文化特有の差別は無い。
人目が多いこの場所で、目立つ一団となって寝泊りを繰り返せば無視のされようもない。住民、来客人との交流がある。柵で仕切って箱に詰めているわけではない。
まず、アッジャールの武人というだけで我々は格上に扱われている。巨大な武力を背景に彼等を属領民として今後扱う前準備がされている空気が醸成されていた。
おべっか使いもいた。反骨心剥き出しの者も当然いた。そしてある種の高揚感を感じて早くも士気を高揚させている者もいた。
我々”大”アッジャールの一翼、軍勢の一つとなれば軍功次第で領地と人民と家畜のぶん取り放題となる。現実問題として大国大軍の維持管理の問題で、父祖達のような戦果に応じる平等主義の下で野放図な搾取は制限しているが。
セレード国を出て流浪の末にこの辺境スラーギィに最近居付いた程度の弱体な彼等が、女を差し出すとはいえ正式な結婚という形で、武力制圧されず降伏勧告も出されず融和的に大勢力になれるというのは権力志向者にとっての僥倖。中にはセレード国奪取の夢を語る者もいた。
先着している花嫁候補達との交流も始まっている。自分と顔を合わせる予定の高貴な者達は丁重に隠されているが、部下達と結婚が考えられる者達との間に制限は無い。
初めは期待と不安混じりでいきなり打ち解けあうようなことはなかった。しかし少し時間が経てば気に入った者を射止めようとこちらの男とあちらの女が浮ついた空気の中で騒ぎ出す。
意中の相手と結婚できないこともあるので深入りしないよう慎重ではあるが、そういうことを気にしない性分の者はどこにもいる。女達の保護者も間違いが無いよう、価値に傷がつかぬようにと目付きが鋭い。
男女関係なく、ただ友達になった者も少なくない。要塞内で相撲、要塞外で競馬と身体を動かす交流も進む。
だが面倒事、切った張った流血沙汰のならないように部下達には毎日のように釘刺しの警告する。あえて人目が付いている場所で行い、規律厳正であることを主張。
「馬鹿なことはしないように。軽率な行動、言動、目付きもするな。酒は飲んでも酔うまで飲むな。行いが分かったから、そんな馬鹿の睾丸に釘を打って柱から吊るしてやる」
それから自分の隣で、悪いことはするなよ、と腕組して睨みを利かせているイリヤスの女好きの背中を叩く。
「え、俺?」
皆、爆笑。
「でも、先に手を出しとかないとお前に全部持っていかれちまうからな」
半分笑えて、笑えない。それは気に食わないが、半分は冗談ではない。
自分は日陰者になった心算はない。一日に何回だって太陽と空を見たい。だが外に出れば視線が集まってくる。好意、興味、情熱、性欲またそれらがある故の引っ繰り返したような嫉妬、害意、独占、排除。
かつて若い頃は”震える程の美少年”と言われた。男女から恐怖を感じる程。
今は、どうやら”悶える程の美青年”らしい。シビリが冗談めかして”あなたに捧げられた詩にそんな一節がありましてですね”と言っていたことがあり、笑えない。大体、詩を書くのは男だ。
女のように顔を隠すことも出来ない。傷や痘痕を隠すように仮面を被ることは以前にやって多少の効力はあったが、やはりこの目も隠さなければいけないので立ち振る舞いも難しい。
しばらく素顔で留まったこの地にて突然被り出しても奇態なだけだ。変に黒死病や業病、忌まわしい類いの感染症を疑われては話が面倒になる。
顔を晒すと騒ぎになるので部下を護衛、壁にするような形で人がいない場所を探させてから日光を浴びるようにした。保護される貴人としてはおかしな行動ではない。
それにしても噂になる度、自分の結婚相手は誰かという話題が盛り上がっては気分が悪くなる。外から、壁越しに、特に声の大きい中年女が喚き立てていて、それを引っ繰り返す力も権力も無いのだ。更に気分が悪い。
あまり外には出ないようにしてこの要塞で暇潰しをする手段は少ない。
イリヤスと武術稽古。宿の裏庭で行った。
交流が疎かになっていた相手との文通の再開準備。手紙を書き溜めた。
商人を招いての出張市。この辺境で欲しいものと言えば飲み物、食べ物ぐらいしかないので甘い物を持ってこさせた。
オルフでは好みの果物が採れない。寒冷湿潤地域のものはあまり好みではない。リンゴに苺が嫌いというわけではないが、熱射乾風に晒された砂漠物に比べると格落ちとしか思えない。
スラーギィでは、特に東方の砂漠地帯では乾燥地域の物が採れるのでこの中洲要塞にもたらされている。中でもやはりメロンが良い! 更に東方のバシカリ海沿岸で採れる世界最良の一玉には劣るが、やはりメロンが素晴らしい。
しかし持ち込まれたメロン、食べたは良いが青い内に刈ってから色付けした物だと味で分かった。これは下等である。
「樹上熟成物は無いのか?」
「それは管理が難しいので。ここの川が南北じゃなくて東西に流れてくれれば調達致しますが」
訪問商人は、そのように天地がひっくり返らなければ、砂漠を走る不思議の船でもなければ夢の話と返してきた。それもそうである。
しかしそれから諦めることが出来なかった。下手に食べてしまったのが悪い。極上品を、一度はその贅沢を覚えたが故の病だ。
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メロンが悪かったかもしれない。食が腹ではなく頭に当たって贅沢病を発症した。
あの「アクファルという女を見かけないか?」と、部下達に尋ねてしまった。彼等も「また会いたいですね!」と乗り気。中洲要塞の外で射的遊びをする者達は腕比べがしたいと息巻いている。
自分の花嫁候補の中に彼女はいないのだろうかと気になって仕方がない。もし部下達との相手として現れたら、自分がどうなってしまうのかと不安だ。
イライラしながら、イリヤスもいないので寝室で何度やったか分からない武具の手入れをしているとシビリが訪ねてきた。
「殿下、んー、ご機嫌は斜めですね、はい。もう少し待って下さいね。このスラーギィ、人は少ないですが結構広大らしいんですよ。もしかしたらオルフの領域と同じくらい。少なくとも半分? そんな感じ」
「そうか」
声音に不満も隠さずに言うと、隣に座って肩をくっつけてくる。これで機嫌が直ると思っているのか?
「あなたの目と声の魔術のせいでおかしな空気になっているのは分かっているし、それで気分悪いのも分かるけども、レスリャジン氏族の面子が揃うまで待ってて下さいね。結婚以外にも、した後の統治の協力方法の調整があるから手が抜けないの。私が作った方策をそのまま飲み込めるほどに理屈で固まった異常な頭をしているわけじゃないから話し合いがどうしてもいるんです。分かって」
「それくらい分かってる」
これで機嫌が直るのだ、自分は。これは情けないのか?
「出来る範囲で良いお嫁さん見つけるから待ってて。その魔術のせいで相手が信用できないのは分かるけど、跡継ぎがいないなんて論外ですからね。私に早く子供を見せなさい。殿下の子供だったら男なら男前で、女なら絶対美人なんだから。今から楽しみにしてるのよ」
「気が早い」
魔性と呼ばれる自分の目と声。目を見た者、声を聞いた者は簡単に自分に惚れ込む魔術が生来掛かっている、生じている。女と男色には特に効果があり、普通の男でも付き従いたくなるようだ。
使いようによっては”傾国”になるとんでもない術だが、自分の意志と無関係で効き目が出るのが辛い。今のような状況なら尚更無用だ。惚れさせたくもない相手が惚れてくるのだ。彼女達の夫になる部下に申し訳ない。不和をもたらす邪悪な力だ。
これには欠点がある。欠点があって良かったとも思っているが、親兄弟やシビリ、オダルやイリヤスのような特別な関係の人間には効力がほとんど無いことだ……あっても無くても変わりが無いだけかもしれないが。
それから以前に父が外交の場で使えないか試したことはあるが、一国の指導者、一軍を率いる将軍のようなそういった強固な意志を持っている人間――ただのお飾りか地位だけでのし上がったような者は除く――には効き目がないか、ほんのわずかで取るに足らない。
これの使い所は何なんだ? 女遊びに興じる気も無いのに。
他人の心を揺さぶるというのに、自分の心はどうにもならない。
「出る」
「ん? 何処に?」
「遠乗り」
「気をつけて下さいね。暗殺者とか」
「ああ」
馬を連れて桟橋へ行く。その様子を見てイリヤスを始め、護衛もついてきた。
中洲要塞の渡し船係も、ここに留まるのは遊牧民にとって辛いと分かっているので嫌な顔をしないで出してくれた。散々外へ、ここの若者達と遊びに出ているから今更でもある。
目的も無く走り回る。放牧される羊や山羊、馬に牛の群れ、それを狼から守る牧羊犬を眺める。
放牧する者達の一人一人に手を上げて挨拶をし、顔を上げさせ、向かせて逐一確認する。
アクファルはいない。
アクファルは他の女と違う。あの便利だが自分でも気味が悪い術に影響された感じが全くしなかった。それ以外に、あれは単純に生き物として強いと感じた。
この身分で長い時間、外を駆け回っては品格を貶めるので日没の兆候が見える前に中洲要塞へ戻った。
ここでアクファルを捜しているとシビリや要塞の者達に言えば話は早いのだろうが、その娘が全く高貴ではなかったり、ここの者達からはみ出し者と扱われていたら面倒なことになる。そんなことを叩き潰せる能力は我々にはあるが、無用な争いはしないほうが良い。
既婚者であるかもしれない。婚約者がいるかもしれない。ここの集まりに顔を出さない家族の一人なのかもしれない。
諦める理由を探す。出来そうにない。このことを言ったらシビリは悲しむか? いや呆れるな。それは嫌だ。ただ内々に聞くのは別だろうか?
夜になってからシビリの寝室を訪ねる。蝋燭に火を灯し、要塞の長老方と話し合った内容を書き取ったと思われる帳面を睨んでいる。
「いいか?」
「もしかして私を貰ってくれるんですか?」
どうして母国を出てから誰にも貰われなかったのか不思議な笑顔で返してきた。やはり、復讐を果たしてからは顔が変わった。
「父に言え」
「イディル様とはそういう関係じゃないんですよ。相手の能力を侮辱する感じが死ぬほど気持ち悪いんです、おそらく陛下もね。と、さてどうしましたかね?」
「ここに来て言い辛いはないな。アクファルという女は候補の中にいるか?」
「アクファルですね。珍しい名前ではないので二名おりますが」
「どんな娘か分かるか? 服は……着替えていたらどうしようもないな。目はまぶたが重たい感じに切れ長、あの十人殺しの女戦士だ。弓の弦の張りが強いから体はしっかりしている」
「例のあの女性ですね。なるほど、あーなる、なるほど。あーそうなの? えー、まー、うふふふふ! ホントに!? 嘘、いやー、ま、殿下が? 殿下が、あのイスハシルが? あっと、すみません。失礼しました」
「いい。そのアクファルか?」
「違いますね。レスリャジン氏族において武芸を良く仕込まれている女性とは、末端の雑兵と言って良い下層階級の者、死んでも捕まって売られてもいいような者です。私の知るアクファルはそうではない女性です。あの長老達から出ない名前の女には価値が認められていません。今回の婚約においては論外です」
それは父の言葉と同じ。
「第二夫人……いや、妾ですね。格落ちにして迎え入れるという手もありますが、第一夫人を迎えたばかりでは侮辱になりますし、時間を置いたとしてもしばらくは政治のために別の高貴な女性と結婚するのが王子の務めで筋であります。姉妹や双子、保護者を失った母娘など何らかの形で”組”になっていれば別ですが、無論そういった繋がりは期待できません。妻に高貴、下賎の違いを気にしない文化ならばまだよいのですが、アッジャール、セレードにオルフを加えてみてもその違いを気にする文化です。文化の呪いから逃れる方法は、私はそこから出るか滅ぼすかの二つしか知りません」
そして父の影が無くてもシビリの言葉は重い。
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数日して花嫁候補が揃い、こちらと相手の目通りの順番や組み合わせが決まり、顔合わせが始まる。
決められた組み合わせで男女向かい合い、気に入った相手をこちらが指名するという方法。
争いを防ぐため男は一人、簾の陰に行く。一人で選ばせるのは勿論女の取り合いにならないようにするため。死人は出したくない。
女の方はその向こう側で、保護者同伴で並ぶ。並ぶのはその男と吊り合う格がある者だけ。誰が誰を決めたかは保護者にだけ知らせる。男の姿を簾で見せないのは、彼女達で喧嘩にならないようにするため。
一番手は勿論自分だ。目の前に現れたのは、このレスリャジンの中では王子イスハシルに嫁がせるのに不足ない、厳選された血筋の女達ということになる。
あのアクファルの顔がまだチラつく。まったく目の前の、まあそれほどに悪くはない女達の顔が気に入らない。
約束破りに近いが、この中に意志の強い者がいないか確かめるために簾を上げてこちらの顔を見せる。どうだ?
期待外れ! 女と保護者からも息を飲むような、抑えた悲鳴のような声すら上がる。それは偽物の感情だというのにその昂りよう、反吐が出る。まったく何だお前等の下品な顔は? 見とれてだらしない。こんな魔術ごときに心を下されて、それを顔に出す誇りも品性も無い奴等。保護者も揃って、いい歳した男が何だ?
魔性の美少年と言われて、今は美青年などという評判。自覚はある。ただそれをあんな面で評価されるのが昔から気に入らない。
アクファル、彼女は完全にこちらを見ても冷めていた。こちらの軍勢を前にして平気な顔で戦利品の馬を持っていった。十人を瞬く間に殺したというのに冷静で、羊が散ったことを気にした程度。
駄目だ、これは決まらない。しかし決めねばならない。シビリが見ている。
恋ではなく、ただ外交の相手と考えろ。ならば分かりやすく一番身形の良い、それもこちらの真正面に分かりやすくいる女を選ぶことになる。そういう意味だろう、間違いない。指差して選ぶと相手は喜びすぎて失神しそうになって何とか持ち応えた。他の女は力が抜け、泣きさえした。拍手が鳴る、下らない。
その分かりやすい女がこちらを見てくる。目を合わせると更に……糞、だらしない顔をするな! 自制を強くしなければ初夜にくびり殺しそうだ。
婚約がなった後、他の者達の顔合わせがされた。シビリが長老達と調整したおかげか問題も起きず、速やかに全員終えた。
終えた後、気分を誤魔化そうとまた武具の整備をしようと思ったが、刃物を扱ったら手を切るのではないか考えが巡り、寝ることにした。
そして寝付けるわけでもなく、また遠乗りに行こうと思ったが、そろそろ中洲要塞を出るのだから止めた。
そのように悶々としているとシビリが訪ねてきた。なだめすかしに来たか。
「婚約者の名前はフルンです。レスリャジン氏族の各分派の長老達を束ねる本家の長老、その長男の四女で、三女までは嫁いでいるので未婚女性の中では最も高貴であります」
「そういう飾りに配置だったものな。分かりやすくて良かったよ」
「怒らないでくださいよ。妾に愛人だったらいくらで作れるじゃないですか」
フルンだったか? 思い出しても顔は歳相応に美人だったと思うが、アクファルとは根底から格が違う。
「その内諦めるから出てってくれ」
「もう」
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日取りやどのような形で結婚式を挙げるのかも、結納金はどうして家族の世話はどうする、とそれぞれでの話し合いも一日かけて終り、引き上げる用意が始まった。
結婚の準備が相当忙しいので互いにここでのんびりしている暇は無い。こちらはペトリュクの問題もある。信頼し合う兄弟王子の関係でもない。長居し過ぎなのだ。
自分と結婚相手フルンの親との話し合いは既にシビリが済ませてあるので、自分は何もしていない。本当に、母親より母親だ、全く。
出発前に自分の馬に水を飲ませていると、普段は話しかけてこないような下の兵士がやってきた。
「殿下、あの十人殺しの女が市場に来てますよ」
「話があるから足止めしておいてくれ。イスハシルの名を使って必ずだ」
「はいっ!」
結婚を申し出ると瞬時に決めた。
書類を分類して籠に詰めているシビリの腕を引き、人気の無いところへ連れて行く。
「どうしたの?」
当然ひと悶着するだろうからシビリに相談するしかない。直接自分が言って即決できればいいのだが、アッジャールの王子とは黄金の羊より立場は下だ。
「あのアクファルが今要塞にいる。変更だ」
「変更? そう、うん……」
シビリは勿論苦い顔をする。
「まだフルンとは婚約の段階です。結婚式は挙げていないし、勿論出産どころか妊娠もしていない。手すら触っていないですよね? そこが破棄を出来る論拠になります。まだ互いの都合が合わなくなったというだけになりますから。ただ勿論、相手と家族を侮辱したとして禍根が残ります。公の場で指名したのだから尚更残ります。我等アッジャールのご機嫌窺いの側面もあるので長老達は反論しないでしょう。フルンの親も力関係に正常な判断が出来れば歯を食いしばって頷くはずですし、結婚相手としてあのアクファルを呼ばなかったのは不誠実であると抗議を含めれば相手側は反論不可能になります。慣例として高貴な者を集めたのであって、わざわざ指定したわけではありませんので。しかしそれは不誠実と言われても仕方がありません。そういう状況です」
頭に血が上る。
「スラーギィを間接的に統治するのはペトリュクのイスハシル、自分だ。シビリではない。懸念はやはり既婚かどうかだが、離婚させる手もある。あの若さだからしていない可能性が高いと思うが、どうか?」
シビリは黙ったままだ……しまった、言い過ぎたか。
「少し、お時間を頂きますよ。相談してきます」
シビリは長老達がいる会議場へ向かった。
言うだけ言って、後はシビリ任せだ。自分が馬鹿に思えてくる。
要塞の柵を蹴っ飛ばして、その辺にあった箱の上に座る。イリヤスが何事かとやってきたが無視する。酒の入った皮袋だけ手渡され、飲み干す。
少ししてシビリが戻ってきた。
「婚約は破棄されませんでした」
感情のままに立ち上がったが「が」とシビリが言葉を続けた。
「あのアクファルとの婚約が優先されます。彼女との婚約が不成立になった時にフルンと結婚するという約束です。全てこちらに都合良く話をつけました」
普通そんなことに短時間で納得する高貴な者などいない。相談しに行ったのではなく、下知しに行ったのか。
「長老達が名前からどこの誰かを拾い上げるのに苦労するぐらい身分は低いのです、あのアクファルは。それと彼女は結婚しておりません。あとは相手の了承を取るだけです」
ここでアクファルに暗殺の可能性が浮上だ。アクファルに何かあったら仕返しをすると暗に言っておく必要がある。
「それから、婚約が成らなかった場合は約束通りに結婚するが、その過程に問題があった場合は相応の行動を取らせてもらうことがある、と言っておきました。軽々しく排除しに行くことはないでしょう。さ、待ってますよ」
シビリに笑顔で背中を叩かれた。完全に敵わない。
走って市場に向かう。引き止められていたアクファルは馬の側に立って待っていた。鞍に下げた、膨らんだ袋の中から伸びる作りかけの帯を手に、細かい刺繍を入れている。気分を誤魔化すためにそんな細かな手作業を出来るものか。やはり彼女だ。
こちらに気づき、手を止めて帯をしまう。待たせてしまった。
「すまない、待たせた」
「問題ありません、イスハシル様。ご用件を」
何と簡潔に喋る。これから婚約を申し出るんだぞ?
イリヤスに感謝か? 多少酔いが回っているおかげで口が滑らかに動きそうだ。飲んでいなかったらみっともない喋り方になっていただろう。
「私と結婚して欲しい」
申し出ると、アクファルは全く表情も崩さず一言、
「家長が判断することです」
と言い切る。驚きもしない。
「義理の父は伯父のトクバザルと言います。今の季節はここから南、アラザン村近くで放牧していますのでそちらをお尋ね下さい」
今までの熱が一気に下がるようなやり取りだった。それを侮辱だと食って掛かりそうになった兵士の肩を強く掴む。
「それが道理だ。そのようにする」
「はい」
それでは、とアクファルは自然体で一礼をしてから去った。
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義理の父トクバザルを探しに行く伝令と、連絡用の伝令を置いて我々はシストフシェへ予定通り戻ることになった。これらの段取りもシビリがつけた。
シビリ無しでもやっていけるように将来なれるのか?




