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稀ナ望ミ:天ニ使ヘ

作者: 鳥藍
掲載日:2026/06/29


 トーストを焦がした。最悪の朝だ。

 炭化しかけた食パンをゴミ箱に放り込み、私はテレビの電源をつけた。


 ——記憶が正しければ、昨日の一位は蠍座だった。


 ん? まてよ、蠍座って十二星座だっけ。

 あ、そっか。私の記憶違いでしたわ。


 ……ただ、恐ろしいのはそれだけではない。

 私は今、自分の味噌汁を信じられなくなっている。


 出汁をとり、味噌を解(ほど)いて、豆腐を沈めた朝の味。

 椀を傾け、おそるおそるその冷めた汁を喉へ流す。


 ——いつもと変わらない、温かい味だった。


 それでもやっぱり、信じられなくなっている。

 味覚(わたし)の問題なのか、少し味が薄い気がする。


 十二星座がちょくちょく変わるように、私も変わっているのかもしれないな。


 ピンポーン、とチャイムが鳴った。私は小首を傾げ、ドアを開いた。

 立っていたのは、知らない人。転がっているのも、知らない人。吊るされているのも、もちろん知らない人。

 空は変わらず、漆黒模様。


 あたりの静けさを置き去りにして、知らない人が私の家に上がりこむ。

 私の家は抵抗も反発もせず、知らない人を招き入れた。


 出すものも特になかったので、私は味噌汁をよそった。

 溢さないようにリビングに向かい、机の上にコトンと置いた。


 ——記憶が正しければ、今日の一位は小麦座だった。


 ん? まてよ、そんな星座あったっけ。

 まあ、いっか。私には関係のないことだもの。


 味噌汁を啜る音と、テレビの音と、プスプスと鳴く食パンの音。

 何が根拠なのか、相変わらず一位を発表し続けているテレビに嫌気がさして、私はリモコンに手を伸ばした。


「ちっちっちっ」


 私のテレビを消す作戦は、知らない人に止められた。

 その感触は硬いようで柔らかいようで。


 ——いつもと変わらない、やりとりだった。


 私は、ずっと同じことしか言わないのに、どうして変えちゃいけないのかと文句を言った。

 返事は返ってこなかった。なんで、と問い詰めようとして、私の問題だと気づいた。


 何となく、ベランダに出た。

 相変わらず何もない景色と、何もない空を乗算して、結局何もないと結論づける。

 ひび割れた昨日の演繹に、また新しく私が繋がっていく。


 干しっぱなしの洗濯物を取り込んで、ついでにカラカラになった知らない人も取り込んで、私は洗濯機へ向かう。

 洗剤を摘んで、指の輪っかにふうっと息を吹きかけると、丸い光が飛んでいった。

 飛んでいって、パチンと消えてしまった。不思議だなあ。


 ——私の記憶が正しければ、確かに昨日の一位は子供座だった。


 ん? まてよ、一昨日(おととい)だったっけ。

 そうだ、一昨日だった。ああ、しまった、忘れてた。


 洗濯機から子供を取り出して、水を切る。

 水を吸ってふやけてしまった。干しただけで乾くだろうか。

 不安に唆されて、私は扇風機をベランダで投げ上げた。


 リビングに戻ると、知らない人が味噌汁を飲んでいた。

 鍋の中は空っぽ、私の味噌汁がなくなっていた。

 飲み干されるとは思っていなかったので、流石の私も声を出した。


「ちょっと、なくなっちゃったんだけど」


「ああ、ごめんごめん。美味しかったからつい」


「……そっか」


 私は精一杯睨んで、鍋を天井に吊るした。音を立ててテレビが倒れた。

 知らない人は腹をさすりながら、何かを話し始めた。


 ——いつもと変わらない、どうでもいい話が始まった。


「僕はね、やっぱりノスタルジーだと思うんだ」


「そう?」


「夢とか、希望とか、綺麗な言葉じゃ、こんなことできないからね」


 知らない人が窓を開けた。

 細かい風が、天井を揺らして、私の心に染み渡った。


「そうかな」


「うん。でも実際起こってる。綺麗事じゃない、よく思われていないけど、でもやっぱり、もっと人を奮い立たせるものがあるんだ」


 ぷつぷつ音が私を責めているように感じた。

 私はゴミ袋の口を縛った。ぷつぷつ音は消えなかった。


「なんだろう?」


「『未練』だよ。麻薬みたいなものでね。過去の未練だけじゃない。将来の未練もだ」


 ——私の記憶が正しければ、明日の一位は愛憂座だった。

 

 ん? まてよ、どうして明日を知っているんだっけ。

 うーん。まあ、いっか。明日には、消えてしまうだろうし。


「どんな人もね。同じ過ちだけは、繰り返したくないんだ」


 天井に吊るした鍋から、味噌汁が流れ出た。

 それは滝のように、こぼれ落ちて床を汚してしまう。

 掃除が大変だな、とぼんやり思いながら、私は鍋をキッチンへ運んだ。


「ふーん、そっか」


 知らない人が萎んでいく。洗剤のように、パチンと一瞬で消えればいいのに。

 知らない人は、手を振ってきた。

 私は振り返さなかった。いちいちそんなことしていたら、時間が足りないもの。


 ——いつもと変わらない、それが私の日常だった。


 風船のように、真っ黒な空に吸い込まれていく知らない人を飽きるまで眺めて、私はカーテンを閉めた。

 テレビを立てて、床を破って、洗濯機のスイッチを入れて。


 いけない、昼ごはんの時間だ。

 食事が必要なくても、食事をしないと。私が私じゃなくなってしまう。


 急いでキッチンへ向かい、体の亀裂に味噌汁を流し込んで、鍋を天井に吊るし直した。

 さて次は、テレビでも見ようかな。私がそう思った時。

 

 空にひとつ、光が浮かんだ。


 私は驚いた。


「……すごい。今度は、いつまで持つのかな?」


 次のチャイムが鳴るまでは、空を眺めていよう。そう思った。

 



 

 ——————————————————————————————






 『双子の交差線』外伝。


 

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