稀ナ望ミ:天ニ使ヘ
トーストを焦がした。最悪の朝だ。
炭化しかけた食パンをゴミ箱に放り込み、私はテレビの電源をつけた。
——記憶が正しければ、昨日の一位は蠍座だった。
ん? まてよ、蠍座って十二星座だっけ。
あ、そっか。私の記憶違いでしたわ。
……ただ、恐ろしいのはそれだけではない。
私は今、自分の味噌汁を信じられなくなっている。
出汁をとり、味噌を解いて、豆腐を沈めた朝の味。
椀を傾け、おそるおそるその冷めた汁を喉へ流す。
——いつもと変わらない、温かい味だった。
それでもやっぱり、信じられなくなっている。
味覚の問題なのか、少し味が薄い気がする。
十二星座がちょくちょく変わるように、私も変わっているのかもしれないな。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。私は小首を傾げ、ドアを開いた。
立っていたのは、知らない人。転がっているのも、知らない人。吊るされているのも、もちろん知らない人。
空は変わらず、漆黒模様。
あたりの静けさを置き去りにして、知らない人が私の家に上がりこむ。
私の家は抵抗も反発もせず、知らない人を招き入れた。
出すものも特になかったので、私は味噌汁をよそった。
溢さないようにリビングに向かい、机の上にコトンと置いた。
——記憶が正しければ、今日の一位は小麦座だった。
ん? まてよ、そんな星座あったっけ。
まあ、いっか。私には関係のないことだもの。
味噌汁を啜る音と、テレビの音と、プスプスと鳴く食パンの音。
何が根拠なのか、相変わらず一位を発表し続けているテレビに嫌気がさして、私はリモコンに手を伸ばした。
「ちっちっちっ」
私のテレビを消す作戦は、知らない人に止められた。
その感触は硬いようで柔らかいようで。
——いつもと変わらない、やりとりだった。
私は、ずっと同じことしか言わないのに、どうして変えちゃいけないのかと文句を言った。
返事は返ってこなかった。なんで、と問い詰めようとして、私の問題だと気づいた。
何となく、ベランダに出た。
相変わらず何もない景色と、何もない空を乗算して、結局何もないと結論づける。
ひび割れた昨日の演繹に、また新しく私が繋がっていく。
干しっぱなしの洗濯物を取り込んで、ついでにカラカラになった知らない人も取り込んで、私は洗濯機へ向かう。
洗剤を摘んで、指の輪っかにふうっと息を吹きかけると、丸い光が飛んでいった。
飛んでいって、パチンと消えてしまった。不思議だなあ。
——私の記憶が正しければ、確かに昨日の一位は子供座だった。
ん? まてよ、一昨日だったっけ。
そうだ、一昨日だった。ああ、しまった、忘れてた。
洗濯機から子供を取り出して、水を切る。
水を吸ってふやけてしまった。干しただけで乾くだろうか。
不安に唆されて、私は扇風機をベランダで投げ上げた。
リビングに戻ると、知らない人が味噌汁を飲んでいた。
鍋の中は空っぽ、私の味噌汁がなくなっていた。
飲み干されるとは思っていなかったので、流石の私も声を出した。
「ちょっと、なくなっちゃったんだけど」
「ああ、ごめんごめん。美味しかったからつい」
「……そっか」
私は精一杯睨んで、鍋を天井に吊るした。音を立ててテレビが倒れた。
知らない人は腹をさすりながら、何かを話し始めた。
——いつもと変わらない、どうでもいい話が始まった。
「僕はね、やっぱりノスタルジーだと思うんだ」
「そう?」
「夢とか、希望とか、綺麗な言葉じゃ、こんなことできないからね」
知らない人が窓を開けた。
細かい風が、天井を揺らして、私の心に染み渡った。
「そうかな」
「うん。でも実際起こってる。綺麗事じゃない、よく思われていないけど、でもやっぱり、もっと人を奮い立たせるものがあるんだ」
ぷつぷつ音が私を責めているように感じた。
私はゴミ袋の口を縛った。ぷつぷつ音は消えなかった。
「なんだろう?」
「『未練』だよ。麻薬みたいなものでね。過去の未練だけじゃない。将来の未練もだ」
——私の記憶が正しければ、明日の一位は愛憂座だった。
ん? まてよ、どうして明日を知っているんだっけ。
うーん。まあ、いっか。明日には、消えてしまうだろうし。
「どんな人もね。同じ過ちだけは、繰り返したくないんだ」
天井に吊るした鍋から、味噌汁が流れ出た。
それは滝のように、こぼれ落ちて床を汚してしまう。
掃除が大変だな、とぼんやり思いながら、私は鍋をキッチンへ運んだ。
「ふーん、そっか」
知らない人が萎んでいく。洗剤のように、パチンと一瞬で消えればいいのに。
知らない人は、手を振ってきた。
私は振り返さなかった。いちいちそんなことしていたら、時間が足りないもの。
——いつもと変わらない、それが私の日常だった。
風船のように、真っ黒な空に吸い込まれていく知らない人を飽きるまで眺めて、私はカーテンを閉めた。
テレビを立てて、床を破って、洗濯機のスイッチを入れて。
いけない、昼ごはんの時間だ。
食事が必要なくても、食事をしないと。私が私じゃなくなってしまう。
急いでキッチンへ向かい、体の亀裂に味噌汁を流し込んで、鍋を天井に吊るし直した。
さて次は、テレビでも見ようかな。私がそう思った時。
空にひとつ、光が浮かんだ。
私は驚いた。
「……すごい。今度は、いつまで持つのかな?」
次のチャイムが鳴るまでは、空を眺めていよう。そう思った。
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『双子の交差線』外伝。




