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排水口の祈り-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/05/18

 間宮響子のもとに相談が来たのは、六月の終わり、雨が腐った布のような臭いを街に沈める夜だった。


 相談者は四十代の女性――野口由紀子。

開口一番、彼女は言った。


「先生……浴室から、“生き物の臭い”がするんです」


 響子は黙って話を聞いた。

 東京都郊外。築三十五年の古いアパート。

 最初は、ユニットバスの排水口からだったという。


 ドブのような臭い。

 夏場にはよくあることだと不動産会社は笑った。

 配管洗浄もした。

 薬剤も流した。

 だが臭いは強くなった。

 そして変わった。


「血の臭いがしたんです」


 由紀子は青ざめた顔で言った。


「鉄みたいな……病院の処置室みたいな……」


 浴槽に湯を張ると、蒸気とともに血液の臭いが充満した。

 息子は吐いた。

 夫は怒鳴った。


 だが翌月、夫は脳梗塞で倒れた。

 軽度だったが、仕事を辞めた。

 その頃から観葉植物が一斉に枯れ始めた。

 元気だったポトス。

 モンステラ。

 サンスベリア。

 葉が黒く変色し、根元から腐った。


「水が悪いんだと思いました」


 だが、近所のホームセンターで買い直しても三日で死んだ。

 異常は続く。


 飼っていた犬が死んだ。

 十二歳の柴犬。

 老衰と言われた。

 その二週間後、もう一匹の若い雑種犬が急死した。

 泡を吹いて。

 獣医は原因不明としか言わなかった。

 由紀子は震える唇で言った。


「その頃から……夜になると聞こえるんです」


 上の階から。

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。

 何かを叩く音。

 午前三時。

 壁が震えるほどの鈍い音。


 そして。

 低い声。

 粘ついた、喉が裂けたような声。


『死ね』


 ゴン。


『死ね』


 ゴン。


『死ね 死ね 死ね』


 響子は眉をひそめた。


「上の階には誰が?」


「空室です」


 沈黙。


 部屋の空気が微かに冷えた。





 響子は現地へ向かった。

 アパートに着いた瞬間、嫌な感覚があった。

 空気が重い。

 呼吸が遅れる。


 建物全体が、何か巨大な内臓のようだった。

 ユニットバスの前で響子は立ち止まった。

 鼻を刺す臭気。


 ――ドブ。


 違う。

 その奥に。

 鉄。

 古い血液。


 さらに。

 もっと深い場所。

 焦げた卵のような。

 硫黄。


 地獄の匂い。


 響子の背筋を、冷たいものが這った。

(悪魔憑き……?)

 扉を開けた。


 その瞬間。

 排水口から。

 ぶくぶく、と黒い泡が浮いた。

 湯など張っていない。

 なのに。

 ぬるい水が逆流していた。


 赤黒い。

 血ではない。

 だが血を真似たような色。


 そして。

 鏡。

 曇った鏡の奥に。


 いた。

 誰かが。

 細長い顔。

 異様に裂けた口。


 そして。

 目。

 ――ヤギの目。

 横に裂けた瞳孔。

 黄色い。

 笑っていた。


 響子は霊符を取り出した。

 瞬間。

 鏡が内側から叩かれた。

 ドン!!

 浴室全体が揺れる。


 由紀子が悲鳴を上げた。

 鏡の向こうの“それ”が口を開いた。

 歯が、人間のものではない。

 砕いた骨を埋め込んだような歯列。


「……か……え……」


 響子は低く呪文を唱えた。


 だが。

 反応が違った。

 普通の霊障ではない。

 祓いが届かない。


 まるで。

 土地そのものに根を張っている。

 その時だった。


 天井から。

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。


 響いた。

 上階。

 空室のはず。

 そして。

 真上から。

 声。

『死ね』

 ゴン。

『死ね』

 ゴン。

『返せ』


 響子の顔色が変わった。

 霊視が開いた。

 見えた。

 上の階。

 誰もいない部屋。


 だが床一面に黒い染み。

 中央に。

 逆さ吊りにされたヤギ。

 腐り果てた肉。


 その周囲に。

 人。

 何人も。

 顔が潰れた人間たち。

 壁を叩き続けている。

 骨が砕けても。

 皮膚が剥がれても。


『死ね』


『死ね』


『死ね』


 その中央に。

 “あれ”がいた。

 ヤギの目。

 だが顔は人間。

 首だけ異様に長い。

 裂けた口。

 笑っている。

 響子を見て。

 言った。


「ようやく見える者が来た」


 浴室の排水口から、長い黒髪が溢れ始めた。

 蛇のように。

 由紀子の足に絡みつく。

 響子が叫ぶ。


「見ないで!!」


 だが遅かった。

 由紀子が鏡を見た。

 鏡の中。

 自分の背後に。

 母親が立っていた。

 入退院を繰り返していた母。

 点滴姿。

 痩せ細った顔。

 そして。

 笑っていた。

 首が折れたまま。


「あなたのせいよ」


 由紀子が絶叫した。

 浴室の電球が弾ける。

 闇。

 硫黄臭。

 獣の吐息。

 そして。


 耳元。

 湿った声。


「次は腎臓」


 響子は結界を強制展開した。

 浴室の鏡が割れる。

 悲鳴。

 怒号。

 悪臭。

 壁を叩く音。


『死ね』


『死ね』


『死ね』


 やがて。

 静寂。


 ……




 一週間後。

 祓いは終わった――はずだった。

 上階の空室は何もなかった。

 管理会社にも記録はない。

 誰も住んでいない。

 最初から。

 十年以上。

 空室だった。




 由紀子は引っ越した。

 植物も買わない。

 犬も飼わない。

 浴室に長く入らない。


 だが。

 異臭だけは消えなかった。

 新居でも。

 排水口から。

 かすかに。

 ドブ。

 血。

 硫黄。


 そして深夜三時。

 天井から。

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。


『死ね』




 ある夜。

 彼女は気づく。

 ユニットバスの鏡。

 曇りの中。

 自分の後ろに。

 誰かいる。


 長い首。

 黄色い目。

 ヤギの瞳。

 笑っている。

 そして。


 鏡に指で、ゆっくり文字を書く。


「まだ終わっていない」





 翌朝。

 由紀子は失踪した。

 浴室だけが、異様に濡れていた。

 排水口から。

 黒い毛が詰まるほど溢れていたという。


 今でも、そのアパートでは空室の上階から、毎夜三時に音がする。


 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。


 そして。

 誰かが呟く。


「次は、お前だ」



 ―(完)―

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