排水口の祈り-間宮響子-
間宮響子のもとに相談が来たのは、六月の終わり、雨が腐った布のような臭いを街に沈める夜だった。
相談者は四十代の女性――野口由紀子。
開口一番、彼女は言った。
「先生……浴室から、“生き物の臭い”がするんです」
響子は黙って話を聞いた。
東京都郊外。築三十五年の古いアパート。
最初は、ユニットバスの排水口からだったという。
ドブのような臭い。
夏場にはよくあることだと不動産会社は笑った。
配管洗浄もした。
薬剤も流した。
だが臭いは強くなった。
そして変わった。
「血の臭いがしたんです」
由紀子は青ざめた顔で言った。
「鉄みたいな……病院の処置室みたいな……」
浴槽に湯を張ると、蒸気とともに血液の臭いが充満した。
息子は吐いた。
夫は怒鳴った。
だが翌月、夫は脳梗塞で倒れた。
軽度だったが、仕事を辞めた。
その頃から観葉植物が一斉に枯れ始めた。
元気だったポトス。
モンステラ。
サンスベリア。
葉が黒く変色し、根元から腐った。
「水が悪いんだと思いました」
だが、近所のホームセンターで買い直しても三日で死んだ。
異常は続く。
飼っていた犬が死んだ。
十二歳の柴犬。
老衰と言われた。
その二週間後、もう一匹の若い雑種犬が急死した。
泡を吹いて。
獣医は原因不明としか言わなかった。
由紀子は震える唇で言った。
「その頃から……夜になると聞こえるんです」
上の階から。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
何かを叩く音。
午前三時。
壁が震えるほどの鈍い音。
そして。
低い声。
粘ついた、喉が裂けたような声。
『死ね』
ゴン。
『死ね』
ゴン。
『死ね 死ね 死ね』
響子は眉をひそめた。
「上の階には誰が?」
「空室です」
沈黙。
部屋の空気が微かに冷えた。
響子は現地へ向かった。
アパートに着いた瞬間、嫌な感覚があった。
空気が重い。
呼吸が遅れる。
建物全体が、何か巨大な内臓のようだった。
ユニットバスの前で響子は立ち止まった。
鼻を刺す臭気。
――ドブ。
違う。
その奥に。
鉄。
古い血液。
さらに。
もっと深い場所。
焦げた卵のような。
硫黄。
地獄の匂い。
響子の背筋を、冷たいものが這った。
(悪魔憑き……?)
扉を開けた。
その瞬間。
排水口から。
ぶくぶく、と黒い泡が浮いた。
湯など張っていない。
なのに。
ぬるい水が逆流していた。
赤黒い。
血ではない。
だが血を真似たような色。
そして。
鏡。
曇った鏡の奥に。
いた。
誰かが。
細長い顔。
異様に裂けた口。
そして。
目。
――ヤギの目。
横に裂けた瞳孔。
黄色い。
笑っていた。
響子は霊符を取り出した。
瞬間。
鏡が内側から叩かれた。
ドン!!
浴室全体が揺れる。
由紀子が悲鳴を上げた。
鏡の向こうの“それ”が口を開いた。
歯が、人間のものではない。
砕いた骨を埋め込んだような歯列。
「……か……え……」
響子は低く呪文を唱えた。
だが。
反応が違った。
普通の霊障ではない。
祓いが届かない。
まるで。
土地そのものに根を張っている。
その時だった。
天井から。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
響いた。
上階。
空室のはず。
そして。
真上から。
声。
『死ね』
ゴン。
『死ね』
ゴン。
『返せ』
響子の顔色が変わった。
霊視が開いた。
見えた。
上の階。
誰もいない部屋。
だが床一面に黒い染み。
中央に。
逆さ吊りにされたヤギ。
腐り果てた肉。
その周囲に。
人。
何人も。
顔が潰れた人間たち。
壁を叩き続けている。
骨が砕けても。
皮膚が剥がれても。
『死ね』
『死ね』
『死ね』
その中央に。
“あれ”がいた。
ヤギの目。
だが顔は人間。
首だけ異様に長い。
裂けた口。
笑っている。
響子を見て。
言った。
「ようやく見える者が来た」
浴室の排水口から、長い黒髪が溢れ始めた。
蛇のように。
由紀子の足に絡みつく。
響子が叫ぶ。
「見ないで!!」
だが遅かった。
由紀子が鏡を見た。
鏡の中。
自分の背後に。
母親が立っていた。
入退院を繰り返していた母。
点滴姿。
痩せ細った顔。
そして。
笑っていた。
首が折れたまま。
「あなたのせいよ」
由紀子が絶叫した。
浴室の電球が弾ける。
闇。
硫黄臭。
獣の吐息。
そして。
耳元。
湿った声。
「次は腎臓」
響子は結界を強制展開した。
浴室の鏡が割れる。
悲鳴。
怒号。
悪臭。
壁を叩く音。
『死ね』
『死ね』
『死ね』
やがて。
静寂。
……
一週間後。
祓いは終わった――はずだった。
上階の空室は何もなかった。
管理会社にも記録はない。
誰も住んでいない。
最初から。
十年以上。
空室だった。
由紀子は引っ越した。
植物も買わない。
犬も飼わない。
浴室に長く入らない。
だが。
異臭だけは消えなかった。
新居でも。
排水口から。
かすかに。
ドブ。
血。
硫黄。
そして深夜三時。
天井から。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
『死ね』
ある夜。
彼女は気づく。
ユニットバスの鏡。
曇りの中。
自分の後ろに。
誰かいる。
長い首。
黄色い目。
ヤギの瞳。
笑っている。
そして。
鏡に指で、ゆっくり文字を書く。
「まだ終わっていない」
翌朝。
由紀子は失踪した。
浴室だけが、異様に濡れていた。
排水口から。
黒い毛が詰まるほど溢れていたという。
今でも、そのアパートでは空室の上階から、毎夜三時に音がする。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
そして。
誰かが呟く。
「次は、お前だ」
―(完)―




