第八話
――冷たい。
石の床の冷たさが、薄いドレスを通して肌に伝わってくる。
ここは、『暁の塔』の塔の最上階。
私は、また、『鳥かごに』戻ってきてしまった。
「……アルド」
彼の名前を呼んでも、返事はない。
部屋にいるのは、私一人だけ。
扉の外では、鎧の擦れる音が聞こえる。
きっと、前よりもずっと厳重に、見張られているのだろう。
私は、震える体でゆっくりと起き上がった。
アルドは、どうなったの?
悪い人達に捕まって、どこかへ連れていかれてしまった。
嫌な予感が、心臓を氷の指で鷲掴みにするような感覚がした。
私は、ふらつく足取りで、窓辺へと歩み寄った。
窓の外には、王都の夜景が広がっている。
きらびやかな街の灯りは、まるで何事もなかったかのように、静かに瞬いていた。
でも、一つだけ、いつもと違うものがあった。
王城の前の、大きな広場。
そこに、煌々と松明が焚かれ、たくさんの人影が、何か大きなものを作っているのが見えた。
木材を運び、槌を振るう音。
時折、怒声のようなものも聞こえてくる。
夜を徹して、何かを建設している。
あれは、なんだろう。
私は、その光景から目が離せなかった。
胸騒ぎが、どんどん大きくなっていく。
***
夜が明け、朝の光が王都を照らし始めた頃、私は、広場に建てられたものの正体を、理解した。
それは、広場の中央にそびえる、巨大な木の柱。
その周りには、薪が、うず高く積まれている。
――火刑台。
大罪人を、炎で焼き尽くして処刑するための場所。
どうして、あんなものが。
誰が、処刑されるの?
その時、塔の扉が開き、ヴァレリウス卿が入ってきた。
「やあ、聖女様。よくお休みになられましたかな?」
ねっとりとした、蛇のような笑顔。
私は、思わず後ずさった。
「……アルドは、どこ?」
震える声で、私は尋ねた。
「ああ、あのネズミのことですか。ご心配なく。本日、民衆の前で、その罪を償うことになっております」
「罪……?」
「いかにも。聖女たるあなた様を唆し、あまつさえ王城から誘拐しようとした大逆人。その罪は、万死に値します」
ヴァレリウス卿は、楽しそうに、残酷に告げた。
「本日正午。あの男は、広場の火刑台にて、炎の裁きを受けるでしょう。あなたも、この窓から、しっかりと見届けるがよろしい。それが、あなたを惑わせた男の、惨めな末路です」
頭の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
世界から、音が消えた。
ヴァレリウス卿が何かを喋り続けているが、もう、私の耳には届かない。
アルドが、処刑される?
悪いのは、私を鳥かごに閉じ込めた、この人たちじゃないか。
絶望が、冷たい水のように、私の心の底から溢れてくる。
何もできない。
私には、力がない。
鉄格子を壊すことも、見張りの騎士を倒すこともできない。
ただ、ここで、アルドが殺されるのを、見ていることしかできない。
嫌だ。
そんなの、絶対に嫌だ。
涙が、次から次へと溢れて、視界が滲む。
ごめんなさい、アルド。ごめんなさい。
――その時だった。
私の心の中に、もう一つの声が、響いた気がした。
『……本当に、それで良いのか?』
それは、私の声じゃない。もっと低く、怒りに満ちた声。
『無力だと嘆くだけ? あの男の死を、ただ見ているだけか?』
誰? あなたは、誰なの?
私の問いかけに、声は答えない。
代わりに、私の体の中に、今まで感じたことのない、熱い何かが、渦を巻き始めるのを感じた。
それは、悲しみだった。
それは、怒りだった。
それは、アルドを失いたくないと叫ぶ、私の魂そのものだった。
『思い出せ。お前は、ただのか弱い娘ではない』
『お前の血には、古の空を支配した、誇り高き力が眠っている』
力? 私に、そんなものが?
熱い渦は、どんどん大きくなっていく。
背中の翼の付け根が、焼け付くように熱い。
やめて。怖い。
私が私で、なくなってしまう。
『怖れるな。それは、お前自身だ。愛する者を守るための、牙であり、爪だ』
『さあ、受け入れろ。その怒りを、悲しみを、力に変えるのだ』
窓の外で、教会の鐘が鳴り響いた。
正午を告げる鐘だ。
広場に、大勢の民衆が集まっているのが見える。
そして、その中央。
兵士に引きずられるようにして、一人の男が、火刑台へと連れてこられた。
――アルド!
彼の服はボロボロで、両手を縛られている。
顔には殴られたような痣があり、足取りはひどく覚束ない。
でも、その瞳は、まっすぐに前を向いていた。
何かを、受け入れようとしている瞳だ。
やめて、やめて、やめて!
彼を、殺さないで!
私の心の叫びと、体の中の熱い渦が、完全に一つになった。
私の意識が、徐々に熱い奔流の中に沈んでいく。
少女としての「私」が、溶けていく。
最後に脳裏に浮かんだのは、砦で見た、アルドの優しい笑顔だった。
――大儀であったのう、小娘。お前の役割はここまでで良い。
次の瞬間、世界は全く違って見えていた。
涙は、とうに乾いていた。
恐怖も、絶望も、消え失せている。
あるのは、絶対的な力への確信と、眼下で蠢く愚かな人間どもへの、冷たい怒りだけ。
背中が、裂けるように痛い。
だが、それは苦痛ではない。殻を破る、誕生の歓喜だ。
純白だった翼が、夜の闇よりも深い、禍々しい黒へと染まっていくのが分かる。
華奢だった指先が、岩をも砕く、鋭い鉤爪に変わっていくのが分かる。
口から漏れ出したのは、もはや悲鳴ではなかった。
空気を震わせる、甲高い、獣の咆哮。
――我が名は、ハルピュイア。
大空を駆け、嵐を呼ぶ者。
窓枠の石の壁が砕け散る、けたたましい音がした。
鉄格子が、飴のようにぐにゃりと捻じ曲がる。
私は、もはや私ではない何かへと変貌しながら、空へと飛び出した。




