第七話
塔の最上階、倒れ伏した近衛騎士団長を背に、俺はリーナの手を固く握っていた。
「行くぞ!」
階下から迫る複数の足音と怒声が、もはや猶予がないことを告げている。
か、窓の外には頑丈な鉄格子。
「アルド!?」
「こっちだ! 俺を信じろ!」
俺は彼女を抱きかかえると、部屋の隅にある豪華な絨毯を勢いよくめくった。
そこには、埃をかぶった古い木製の床板がある。
俺は長剣の柄で、床板の一点を強く叩いた。すると、見取り図にあった通り、床板の一部が回転し、下階へと続く古いゴミ捨て用のダストシュートが現れた。
「少し汚れるが、我慢しろ!」
俺はリーナをしっかり抱きしめ、ためらうことなくその暗い穴へと身を投じた。
螺旋状の滑り台のような通路を、猛烈な勢いで滑り落ちていく。
埃と、乾いたゴミの匂いが鼻をついた。
ドン! と衝撃と共に、俺たちは塔の地下にあるゴミ集積所に吐き出された。
ほぼ同時に、塔の上階から衛兵たちの怒声が響く。
「侵入者だ! どこへ消えた!探せ!」
「クソッ、気づかれたか!」
俺はリーナの手を引き、ゴミの山をかき分けて地下通路を駆け抜ける。
迷路のように入り組んだ通路を、俺はスラムで培った嗅覚を頼りに進んでいく。
湿った空気、水の流れる音。
目指すは、俺が侵入してきた貯水槽のある地下水路だ。
「はぁ……っ、はぁ……」
リーナの息が、すぐ隣で荒くなっているのが分かった。
無理もない。長い幽閉生活と、もがれた翼の痛みで、体力はすっかり落ちているだろう。
「もう少しだ、頑張れ!」
俺は彼女を励ましながら、闇雲に走った。
『バウッ! バウッ!』
犬の鳴き声が、背後から迫ってくる。
軍用犬だ。このままでは、追いつかれる。
俺は、通路の先から水の音が大きくなっているのに気づいた。
「リーナ、少しだけ息を止めろ!」
俺は彼女を抱えると、ためらうことなく通路の脇を流れる汚水路の中へと飛び込んだ。
冷たく、悪臭を放つ水が、全身の熱を奪っていく。
水中で息を殺し、犬の嗅覚をごまかす。
スラムで追手から逃げる時に、何度も使った手だ。
犬の吠え声と、衛兵たちの足音が遠ざかっていくのを確認し、俺たちは水面から顔を出した。
「……ぷはっ! 大丈夫か!」
「……う、ん……さむい……」
「もう少しだ! 頑張れ!」
震えるリーナを抱え、俺たちは再び暗い水路の中へと駆け出した。
目指すは、王城の裏門。
カイが手配した馬車が、そこで待っているはずだ。
希望が、すぐそこまで来ている。
カイの顔が脳裏に浮かぶ。
あいつには、いくら感謝してもしきれない。最高の酒を、腹一杯おごってやらなければ。
やがて、地上へと続く梯子を登り、マンホールのような蓋を押し上げると、月明かりの下に、古びた小さな門が見えてきた。
裏門だ。
その前には、一台の幌馬車と、見慣れた人影が立っている。
「カイ!」
俺は、安堵のあまり、思わず声を上げた。 人影――カイは、こちらに気づくと、ひらりと手を上げた。
「よう、アルド。おせえじゃねえか。ひでえ臭いだな、まるでスラムのドブネズミみてえだぜ」
そのいつもと変わらぬ軽口に、俺は完全に警戒を解いていた。
「すまん! 助かった!」
俺はリーナの手を引き、カイと馬車へと駆け寄った。
だが、馬車の数メートル手前で、俺は足を止めた。
何かが、おかしい。
カイの顔。いつも浮かべている皮肉っぽい笑みとは違う。
もっと深く、暗く歪んだ、嘲りの笑み。
「……悪いな、アルド」
カイが、呟いた。
その言葉が、引き金だった。
次の瞬間、俺たちの周囲の物陰から、槍を携えた城兵たちが、一斉に姿を現した。
その数、二十は下らないだろう。
ギラリと光る槍の穂先が、寸分の隙もなく、俺たちを取り囲んでいる。
――罠だ。
理解した瞬間、全身の血が凍りついた。
「カイ……! てめえ、どういうことだ!」
俺は、裏切られた怒りと絶望で、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「どういうことも何も、見ての通りだよ」
カイは、やれやれと肩をすくめる。
「聖女様を保護し、お前を通報した報奨金。そいつに、逆らえなかったってだけのことさ」
「金のために……! 俺たちを、売ったのか!」
「金だけじゃねえ。俺はな、アルド。昔から、お前が気に食わなかったんだよ。同じスラムの泥水啜ってたはずなのに、てめえだけ上手いことやりやがって。気が付きゃ今では騎士様だとよ」
「……何だと?」
「だが、それも今日で終わりだ。お前は聖女をたぶらかした罪人として、ここで捕まる。そして俺は、お前を売って手に入れた金とコネで、お前が行けなかった、もっと高い場所へ行ってやる!」
カイの叫びが、夜の空気に虚しく響く。
「……っ!」
俺は怒りのままに剣を抜き、カイに斬りかかろうとした。
だが、それより早く、背後から屈強な城兵に羽交い締めにされる。
「離せ!」
暴れるが、数人の城兵に押さえつけられ、身動き一つ取れない。
「アルド!」
リーナの悲鳴が響く。
彼女もまた、近衛騎士に腕を掴まれ、自由を奪われていた。
「やめろ! その子に触るな!」
俺の叫びも虚しく、リーナは再び、絶望の鳥かごへと引き戻されていく。
ドン!!!
腹に、重い一撃を食らった。剣の柄で、思い切り殴られたのだ。
視界がぐにゃりと歪み、膝から崩れ落ちる。
「……りぃ、な……」
意識が、遠のいていく。
最後に俺の目に映ったのは、絶望の表情でこちらに手を伸ばしながら、闇の中へと連れ去られていく、リーナの姿だった。
「悪く思うなよ。アルド」
そして、そんな俺たちを、金貨の袋を弄びながら、嘲笑うカイの顔。
約束したのに。
必ず、故郷に連れて行く、と。
果たせなかった約束の言葉が、脳裏で木霊する。
俺は、深い、深い絶望の闇の中へと、意識を沈めていった。




