第六話
決行の夜。
王城では、国王主催の盛大な祝宴が開かれていた。
表向きは、豊穣を祝うための宴。
だが、その実態は「聖女リーナ」の威光を国内外に知らしめるための、政治的なパフォーマンスに過ぎない。
城壁の外まで漏れ聞こえてくる、陽気な音楽と貴族たちの嬌声。 その喧騒は、これから俺が成そうとしている大逆のための、またとない隠れ蓑だった。
俺は騎士団の制服を脱ぎ捨て、夜の闇に紛れる黒衣に身を包んでいた。
腰には、鞘も黒く塗りつぶした相棒の長剣。
顔はフードで深く隠している。
もはや、王国騎士アルド・シュヴァルツの姿はどこにもなかった。
「――本当に良いんだな、アルド。今なら引き返せるぜ」
王都の下水を流れる、汚泥の臭いが充満する地下水路。
その暗がりで、カイが松明の光を揺らしながら言った。
「ああ。騎士団には辞表の手紙を置いてきた。もう失うものはない」
「たく、本当に割に合わねえ仕事だぜ。バレたら俺の首も飛ぶんだからな」
ぼやきながらも、カイは目の前の古びた鉄格子を、手慣れた様子でこじ開ける。
「計画通り、俺が地上で衛兵の注意を引く。お前はこのまま水路を進んで、『暁の塔』の真下にあるはずの貯水槽へ向かえ。時間は稼げてもせいぜい30分だ。それ以上かかったら、お陀仏だと思え」
「分かっている。恩に着る」
「恩なんざ、生きて帰ってきてから、極上のエールで返してもらえりゃ十分だ」
カイはそう言うと、来た道を戻り、地上へと続く梯子を登っていった。
しばらくして、頭上から、小さな騒ぎが起きたのが分かった。
衛兵たちの怒声と、慌ただしい足音が遠くで響く。
カイがうまくやったらしい。
――今だ。
俺は、汚泥に足を取られながら、カイから渡された見取り図を頭の中で展開する。
スラムで生き抜くために培った、方向感覚や空間把握能力が、こんなところで役立つとは思わなかった。
心臓が、警鐘のように激しく脈打っている。
だが、不思議と恐怖はなかった。
やがて、水の流れが緩やかになり、開けた空間に出た。
塔の地下にある貯水槽だ。
壁には、メンテナンス用のはしごが錆びついたままかかっている。
俺はそれを登り、通気口の格子を外して、塔の内部へと侵入した。
そこは、薄暗い倉庫のような場所だった。
古い家具や、使われなくなった食器類が、埃をかぶって山積みになっている。
見取り図によれば、この塔には食事や物資を運ぶための、滑車を使った手動式の荷物用昇降路が内部を貫いているはずだ。
俺は壁を丹念に調べ、隠し扉のような小さな扉を見つけ出した。 扉を開けると、そこには太いロープと、人が一人乗れる程度の大きさの荷台が吊るされていた。
これだ。
俺は荷台に乗り込むと、壁に取り付けられた滑車とロープを使い、自力で体を上階へと引き上げていく。
腕の筋肉が悲鳴を上げたが、今は耐えるしかなかった。
最上階までたどり着くと、俺は昇降路の扉をそっと開けた。
カイの情報通り、廊下には、二人の近衛騎士が仁王立ちになって警護を固めている。
俺は、手元に用意していた小石を、反対側の廊下の奥へと投げつけた。
カラン、と乾いた音が響く。
「む、何奴だ!」
近衛騎士の一人が、音のした方へと警戒しながら向かう。
一人になったところを、背後から忍び寄り、柄で首筋を強打して気絶させた。
「どうした!……ぐっ!?」
異変に気づいて戻ってきたもう一人も、同じように闇討ちで沈める。
騎士としては卑劣な手口だが、俺には関係ない。
重い扉を、音を立てないように、そっと開ける。
部屋の中は、月明かりだけが差し込む、静かな空間だった。
豪華な天蓋付きのベッド。美しい装飾が施された調度品。だが、そのどれもが、冷たく、生命感のないガラクタに見えた。
ここは、美しい鳥かごだ。
そして、その鳥かごの中心。窓辺の椅子に、一人の少女が、力なく座っていた。
銀色の髪が月光を浴びて、幻想的に輝いている。
――リーナ。
俺は、彼女の名前を、声にならない声で呼んだ。
その時、俺の侵入に気づいたのだろう。廊下から、もう一人の男が現れた。
近衛騎士団の制服をまとった、屈強な男。胸の徽章から察するに、隊長クラスの男だ。
見張りは二人だけではなかったのか。
「……何者だ。ドブネズミが紛れ込んだようだな」
男は、俺と、倒れている近衛騎士を交互に見ると、忌々しげに舌打ちした。
「聖女様を惑わす不敬者め。その場で首を刎ねてくれる」
男は、鞘から静かに剣を抜き放った。その切っ先は、一点の迷いもなく、俺の心臓に向けられている。
俺も、長剣を抜き、構えた。
「……そこを、どいてもらおう」
「ほざけ」
会話は、それだけで十分だった。
キィン!
火花と共に、二振りの剣が激しく打ち合わされる。
重い。一撃一撃が骨に響くほどの重量だ。
さすがは近衛騎士団の隊長。その剣腕は、辺境の騎士とは比べ物にならない。
俺は、男の猛攻を受け流すので精一杯だった。
「どうした、鼠! その程度か!」
男が、嘲笑うように叫びながら、渾身の力で剣を振り下ろしてきた。
俺は、それを紙一重で躱し、床を転がる。直後、俺がいた場所の石の床が、轟音と共に砕け散った。
クソッ、化け物じみた力だ。
だが、負けるわけには、いかない。
俺の視界の隅に、椅子から立ち上がり、震えながらこちらを見つめる、リーナの姿があったからだ。
俺は、男の剣筋を、注意深く観察した。
彼の剣は、確かに剛剣だ。
だが、その分、動きが大振りになっている。
一撃を放った後の、ほんの僅かな隙。狙うなら、そこしかない。 男が、再び必殺の一撃を放ってきた。
俺はそれを、避けるのではなく、前に出て受け止めた。
ガキン! と腕が痺れるほどの衝撃。
「愚かな! 自ら死にに来るとは!」
男が勝利を確信した、その瞬間。
俺は、受け止めた剣の勢いを殺さず、回転するようにいなした。そして、がら空きになった男の脇腹に、カウンターで剣を突き込む。
「ぐっ……!?」
男の顔が、驚愕に歪んだ。俺は、躊躇わなかった。剣を引き抜き、返す刃で、男の剣を握る腕の腱を切り裂く。
カラン、と乾いた音を立てて、男の剣が床に落ちた。
「……ば、かな……この俺が……」
男は、信じられないといった表情で俺を見上げ、そしてゆっくりと床に崩れ落ちた。
激しい動悸を抑えながら、俺はゆっくりと、リーナの方へと振り返った。
彼女は、両手で口を覆い、大きな紫色の瞳を、信じられないといった風に見開いている。
俺は、顔を隠していたフードを、ゆっくりと外した。
「……リーナ」
俺が、彼女の名前を呼ぶ。
その瞬間、リーナの瞳から、堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出した。
「……ある、ど……?」
掠れた、震える声。
「ああ。迎えに来た」
俺は、一歩、彼女に近づいた。
リーナは、ふらつく足取りで、俺の胸に飛び込んできた。
「アルド……! アルド……!」
俺の名を、何度も、何度も呼びながら、彼女は子供のように泣きじゃくった。
一月ぶりに抱きしめた彼女の体は、驚くほど軽く、そして小さくなっていた。
そして、俺は気づいてしまった。彼女の背中の翼が、ありえないほどみすぼらしくなっていることに。
かつて神々しいほどに輝いていた純白の翼は、その見る影もなかった。
風切り羽根が、根元から無残に引き抜かれている。
これは、ただ手入れを怠ったのではない。飛んで逃げられないように意図的に、力ずくで引き抜かれた跡だ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アルド……! 私のせいで……!」
俺の胸に顔を埋め、リーナはしゃくり上げる。
「……リーナのせい?」
「私が、私がちゃんと言いつけを守らないから……! 私が逆らうと、アルドの罪が一つずつ増えていくって。ムチに打たれて、牢屋に送られるって……ヴァレリウス卿が……!」
その言葉で、全てを悟った。
あいつらは、言う事を聞かないと俺に罰がくだされるとおどして、リーナを縛り付けていたのだ。
彼女の心を殺し、翼をもぎ取り、偽りの聖女を演じさせていたのだ。
部屋の隅のテーブルには、豪華だが手つかずの食事が、冷たいまま置かれていた。その手つかずの食事が、彼女のささやかな、命がけの抵抗の証だった。
「すまない。遅くなった」
「……ううん。きて、くれた……」
俺の胸に顔を埋め、リーナはしゃくり上げる。
「信じてた……。アルドは、絶対に来てくれるって……!」
その言葉は、どんな褒賞よりも、どんな名誉よりも、俺の心を温かく満たした。
だが、感傷に浸っている時間はない。
外が、にわかに騒らしくなってきた。おそらく、今の戦闘音を聞きつけられたのだろう。
衛兵たちの怒声と、足音が、塔の下から響いてくる。
俺は、リーナの肩を優しく掴んだ。
「リーナ、行くぞ。ここから、脱出する」
彼女は、涙に濡れた瞳で、こくりと力強く頷いた。
その瞳には、かつて砦で見た、強い光が戻っていた。




