第五話
リーナが王都に連れ去られてから、一月が過ぎた。
辺境の砦での日々は、まるで何もなかったかのように、以前の殺伐とした日常に戻っていた。
王都からは、俺の邪教徒討伐の功績を称える書状と共に、莫大な報奨金が届けられた。
俺は自分に言い聞かせた。
これでいいのだ、と。
リーナは聖女として、王城で手厚く保護されている。
こんな辺境の、いつ命を落とすか分からない騎士のそばにいるより、よほど幸せなはずだ。
俺も、この金でさらに上の地位を買うことができる。
互いの未来のための、最良の選択だったのだ、と。
だが、王都から届く知らせは、そんな俺の自己正当化を、内側から少しずつ蝕んでいった。
「――聞いたか? 王都に現れた聖女様が、長年日照りに苦しんでいた西の地方に、祈りを捧げて雨を降らせたらしいぜ」
「ああ! それだけじゃない。生まれつき足の悪かった貴族の子供が、聖女様に触れてもらっただけで、歩けるようになったとか!」
「まさしく奇跡だ! これも全て、国王陛下のご威光と、聖女様のお力のおかげだな!」
部下たちが噂話に花を咲かせている。
その内容は、日に日に熱を帯び、おとぎ話のように誇張されていった。
聖女リーナ。
今や、その名は王国中に知れ渡り、民衆の熱狂的な崇拝の対象となっていた。
彼女の肖像画は飛ぶように売れ、彼女を称える歌が酒場で歌われているという。
増税案は聖女の名の下にすんなりと通り、教会への寄進は後を絶たない。
だが、俺には分かっていた。
そんなこと、ありえるはずがない。
リーナは、ただの心優しい少女だ。
俺の胸の奥で、言いようのない不安が、黒い染みのように広がっていく。
***
やがて、俺たち第三隊にも、王都への帰還命令が下った。
表向きは、邪教徒討伐の功績を称えるための凱旋。
本当の目的は、俺を王都に呼び戻し、監視下に置くことだろう。
王都の巨大な城門をくぐった時、その熱狂ぶりは俺の想像を遥かに超えていた。
沿道は、俺たち凱旋部隊を一目見ようとする民衆で埋め尽くされている。
だが、彼らの歓声は、俺たちに向けられたものではなかった。
「聖女様!」
「我らが聖女、リーナ様!」
彼らが見ているのは、パレードの終着点である大聖堂。
そのテラスから、白いドレスをまとったリーナが、民衆に手を振っているのが見えた。
俺は、馬上で息を呑んだ。
一月ぶりに見るリーナの姿。
高価な絹のドレスを身にまとい、銀色の髪は美しく結い上げられ、まるで人形のように完璧に飾り立てられている。
だが、その顔に、砦で俺に見せてくれたような、はにかむような笑顔はなかった。
表情は抜け落ち、ただ言われるがままに手を振っているだけ。
そして、その瞳。
夜の湖のように美しかった紫色の瞳は、光を失い、深く、暗く澱んでいた。
心が、死んでいる。
俺の胸を、激しい痛みが貫いた。
***
その夜、王城で開かれた祝賀会は、これ以上ないほどに華やかだった。
聖女リーナは「聖なるお体を休めるため」という名目で、この祝賀会には出席していない。
やがて、会場の明かりが少し落とされ、壇上にヴァレリウス卿が立った。
「静粛に! これより、国王陛下にかわり、我が王国にとって、歴史的な発表を行う!」
ざわついていた貴族たちが、一斉に口をつぐむ。
「本日、聖女リーナ様の下に、神託が下された!」
その言葉に、会場が大きくどよめいた。
「神は、こう告げられた!『東の帝国は、神の教えに背き、不義の限りを尽くしている。我が信徒よ、聖女を旗印とし、かの地に正義の鉄槌を下せ』と!」
ヴァレリウス卿は、高らかに叫んだ。
「これは、聖戦である! 神が、聖女様を通して、我らに勝利を約束されたのだ!」
うおおおおお! と、会場は狂信的な歓声に包まれた。
俺は、全てを理解した。
ヴァレリウス卿が、聖女という都合のいい大義名分を使って、隣国であるアル・サファ帝国を侵略し、さらなる権力を手に入れようとしているだけだ。
そして、そのための道具に、リーナが使われている。
俺が、この手で、彼女をこの地獄に突き落としたんだ。
俺は間違っていた。完全に、間違っていた。
ヴァレリウス卿は、興奮冷めやらぬ会場を見渡し、満足げに頷くと、俺の方へと視線を向けた。
「そして、この聖戦の先鋒を担う、栄誉ある部隊を発表する!」
嫌な予感がした。
「邪教徒を討伐し、今や王国で最も士気の高い部隊! アルド・シュヴァルツ隊長率いる、第三隊である!」
会場の視線が、一斉に俺に突き刺さる。貴族たちは「平民上がりに、なんという名誉だ」と、嫉妬と羨望の入り混じった目で俺を見ていた。
何が名誉なものか。先鋒の死傷率が高いのは子供だって分かる。
要は体良く俺達を始末しようとしているだけだ。
「シュヴァルツ隊長、壇上へ。国王陛下より、直々に先鋒の剣を賜るがよい」
ヴァレリウス卿が、仮面のような笑顔で俺を手招きする。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。そして、壇上へ上がると、国王陛下には向かわず、ヴァレリウス卿に向かって、はっきりと告げた。
「その任、お断りいたします」
俺の言葉に、会場は水を打ったように静まり返った。
ヴァレリウス卿の眉が、ぴくりと動く。
「……何と申した? 私の聞き間違いかな?」
「いえ。その任、お断りいたします。俺は、辺境の泥にまみれている方が性に合っておりますので」
俺は、かつて彼に言われた言葉を、そのまま皮肉を込めて返した。
ヴァレリウス卿の顔から、すっと笑みが消える。
「……面白い。一介の部隊長が、国王陛下の御前で、聖戦の先鋒を断るとは。己の立場を、分かっているのかね?」
「ええ。ですから、ご辞退申し上げるのです。俺のような下賤な騎士では、聖戦の先駆けなど、到底務まりますまい」
俺はそう言うと、彼に背を向け、祝賀会の会場を後にした。
背中に突き刺さる、殺意にも似た視線を感じながら。
***
王城を抜け出した俺は、王都の裏通りにある、一軒の酒場に足を運んだ。
薄暗い店内は、安酒と汗の匂いが渦巻いている。
俺は店の奥の席で、一人、エールを呷っていた男に声をかけた。
「……久しぶりだな、カイ」
男――カイは、ゆっくりと顔を上げた。スラムで、泥水啜って一緒に生きてきた、俺のスラム時代を知る唯一残った仲間だ。
「アルドか。何の用だ、俺らの出世頭の騎士様が、こんなドブみてえな場所に来るなんてよ」
カイは、昔と変わらず、皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
「仕事の依頼だ。お前なら、王城の内部情報にも詳しいだろう」
「……仕事、ねえ。内容によるな。俺は、命を懸けるようなデカいヤマはごめんだぜ」
「聖女リーナが囚われている場所を、突き止めてほしい」
俺の言葉に、カイの表情が険しくなった。
「……おいおい、正気か? 聖女様だぞ。下手に嗅ぎ回れば、国家反逆罪で首が飛ぶ」
「だから、お前に頼んでいるんだ。もちろん、報酬は弾む」
俺は、懐から金貨が詰まった袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
俺がこれまで貯めてきた、全財産だ。
カイは、金貨の袋と俺の顔を、交互に見た。
「……あの聖女様と、何かあったのか?」
「彼女は、聖女なんかじゃない。ただの、か弱い少女だ。そして、俺が……俺が、地獄に突き落としちまった」
俺の真剣な瞳に、カイは何かを感じ取ったようだった。
彼は長いため息をつくと、金貨の袋を懐にしまい込んだ。
「……分かったよ。そこまで言われちゃ、断れねえな。昔のよしみだ、今回だけだぜ」
***
数日後、カイは約束通り、情報を運んできた。
「ビンゴだ、アルド。聖女様は、王城の東にある『暁の塔』の最上階に幽閉されてる。窓には鉄格子、出入り口は常に二人の近衛騎士が固めてるそうだ」
カイが広げた羊皮紙には、王城の簡易的な見取り図と、警備兵の交代時間から『暁の塔』の最上階から地下につながるダストシュートの位置まで必要な情報がびっしりと書き込まれていた。
「……だがな、アルド。忠告しておく。やめておけ。相手は王国そのものだ。お前一人がどうこうしたって、何も変わりゃしねえ」
「それでも、俺は行く」
俺は、カイの忠告を遮るように言った。
「彼女の、あの光のない瞳を、俺は見てしまった。見て見ぬふりなんて、俺にはできない」
「……そうかい。変わったなお前。金と権力にしか興味がなかったのによ」
カイは、やれやれと肩をすくめた。
「手筈が整ったら連絡する。それまで目立つ行動はとるな」
カイは俺にそう告げると、酒場を後にした。




