第四話
地平線の彼方から土煙が立ち上るのが見えた時、俺はこれが悪夢であってくれと、柄にもなく神に祈った。
だが、無情にも土煙はみるみるうちに大きくなり、やがて整然と隊列を組んだ一団の姿を現した。
先頭の旗手が掲げるのは、王家の紋章である「黄金の獅子」。
そして、その旗を囲むように進軍してくる騎士たちが纏う、白銀に輝く豪奢な鎧。
間違いなかった。
国王直属、近衛騎士団。
俺たち辺境の第三隊とは、装備も練度も、そして何より家柄も格が違う、エリート中のエリートたちだ。
俺が喉から手が出るほど欲しがっている、権力の中心にいる連中。
「――第三隊隊長、アルド・シュヴァルツ! 王命により参上した近衛騎士団をお迎えせよ!」
砦の門前で、先駆けの伝令兵が甲高い声で叫ぶ。
俺は固く拳を握りしめ、背後にいるリーナにだけ聞こえるように、小さな声で囁いた。
「リーナ。何があっても、俺の後ろから離れるな」
俺のただならぬ気配を感じ取ったのか、リーナはこくりと頷き、俺の外套の裾を固く握りしめた。その指先が、氷のように冷たい。
門をくぐり、近衛騎士団が次々と馬を進めてくる。
先頭に立つのは、一際見事な装飾が施された鎧を纏い、冷徹な仮面のような無表情を浮かべた男だった。
近衛騎士団長、ヴァレリウス卿。
貴族の中でも名門中の名門の出で、その剣腕は王国最強と噂される男。
先王が若くして亡くなり、年端のいかない現王陛下の摂政も務めている。
そして、金とコネで成り上がってきた俺のような平民出の騎士を、虫けらのように見下している男だ。
こいつの鼻を明かしてやることが、俺のささやかな目標の一つでもあった。
俺は部下たちを整列させ、ヴァレリウス卿の前で騎士の礼を取った。
「辺境の拠点まで、ご足労いただき恐縮です、ヴァレリウス卿。第三隊隊長、アルド・シュヴァルツ、謹んでお迎えいたします」
「うむ。貴官の武功、王も大いに御満悦であらせられる。して、報告にあった『少女』とやらはどこかな」
ヴァレリウス卿は馬上のまま、値踏みするように俺を見下ろし、そしてすぐに俺の後ろに隠れるリーナへと視線を移した。
その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
まるで、珍しい骨董品でも検分するかのような、冷たい光だけが宿っていた。
「……こちらに。名はリーナと申します」
俺がそう言うと、リーナはびくりと体を震わせ、さらに俺の背中に隠れようとした。
「『翼のある少女』で相違ないか?」
ヴァレリウス卿の言葉に、俺は体を震わせた。
クソッ、どこから漏れた。情報管理の甘さを突かれれば、俺の評価に響く。
ヴァレリウス卿は、焦っている俺の様子を鼻で笑うと、馬からひらりと降り立った。
「人の口に戸は立てられぬな」
カシャン、と鎧の立てる音が、やけに大きく響く。
「ふむ。確かに、噂通りの見事な翼だ。穢れを知らぬ純白……。これは、まさしく神が我ら王国に遣わしたもうた奇跡の証」
彼はうっとりとした表情で呟くと、一枚の羊皮紙を取り出した。
「王命である」
その言葉に、俺も部下たちも、その場で膝をついた。王の命令は絶対だ。
「『翼持つ聖女』を、速やかにかつ恭しく王都に護送せよ。その者は、神が我が王国に繁栄を約されし紛れなき徴なり。ゆえに、これを教会ならびに王家の庇護の下におき、その聖なる御力をもって広く万民に示すべし。かくて、神威と王威とを揺るぎなきものとせよ」
ヴァレリウス卿が、抑揚のない声で王命を読み上げる。
その内容に、俺は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
聖女? 王国の繁栄の証?
ふざけるな。
こいつらは、リーナを、ただの「道具」としか見ていない。俺があの砦で見つけた時と、同じ目だ。
だが、今の俺は――。
「お待ちください、ヴァレリウス卿!」
俺は、気づけば立ち上がり、叫んでいた。
周囲の部下たちが「隊長!?」と驚愕の声を上げる。
王命が下された場で立ち上がるなど、反逆と見なされかねない行為だ。
頭のどこかで、冷静な俺が「やめろ、馬鹿なことは」と警告を発している。
だが、口は止まらなかった。
「リーナは、まだ……! 長い間囚われていたせいで、心も体もひどく衰弱しております! 王都までの長旅は、彼女には酷です!」
「ほう?」
ヴァレリウス卿は、心底意外だといった顔で、俺を見た。
「これは驚いた。金と出世のことしか頭にない、平民上がりのハイエナが、感傷的な口を利くとはな。シュヴァルツ隊長、貴様、この『奇跡の証』を、もっと高く売りつける算段でもしていたのか?」
「……滅相もございません。ですが、せめて彼女の体調が回復するまで、数日の猶予を頂きたく……!」
「ならん」
俺の懇願は、間髪入れずに、冷たく切り捨てられた。
「聖女様の降臨は、一刻も早く民に知らしめねばならん。これは、王国の安寧に関わる一大事だ。貴様のような下賤な男の損得勘定で、遅滞が許されると思うな」
ヴァレリウス卿はそう言い放つと、リーナに向かって手を差し伸べた。
「さあ、聖女様。参りましょう。王都では、あなた様を歓迎する準備が整っております」
その声は、羊の皮を被った狼のように、ねっとりと甘ったるかった。
リーナは、俺の外套を掴んだまま、首を横に振った。
「いや……」
か細い、だがはっきりとした拒絶の言葉。
その言葉に、ヴァレリウス卿の眉がぴくりと動いた。
「……どうやら、邪教徒どもの穢れた気に、少々当てられておられるようだ。シュヴァルツ隊長、貴官の管理不行き届きだな」
ヴァレリウス卿は俺を睨みつけると、部下の近衛騎士たちに顎をしゃくった。
「何をしている。聖女様を、馬車へお連れしろ」
「はっ!」
命令一下、二人の近衛騎士がリーナへと歩み寄る。
「やめろ!」
俺は反射的に、リーナの前に立ちはだかり、剣の柄に手をかけた。
その瞬間、場の空気が凍りついた。
「……抜けば、どうなるか分かっているな?」
ヴァレリウス卿の静かな声が、死刑宣告のように響いた。
抜けば、王命への反逆。俺だけでなく、第三隊の部下たち全員が、反逆者として断罪されるだろう。
俺が、スラムから這いあがり、必死で積み上げてきたものが、全て、ここで終わる。
俺の握る剣の鯉口がカタカタと鳴る。
どうする。どうすればいい。
ここでリーナを渡せば、俺の地位は安泰だ。
だが、こいつは、ハンナと同じ目にあう。
俺はまた、見殺しにするのか。
と、その時だった。
「……アルド」
俺の外套を、リーナが後ろから、くい、と引いた。
振り返ると、彼女は涙をいっぱいに溜めた瞳で、俺を見上げていた。そして、小さく、小さく首を横に振った。
俺がここで剣を抜けば、みんな殺される。それを、この子は理解しているのだ。
俺の腕から、力が抜けていく。
リーナは、俺の外套を握っていた手をそっと離すと、自ら一歩、前へ出た。そして、ヴァレリウス卿を見上げ、か細い声で、だがはっきりと告げた。
「……いきます」
その一言は、俺の心臓を、冷たい刃で抉るような響きを持っていた。
近衛騎士に両脇を固められ、リーナは豪華な装飾の施された馬車へと連れていかれる。
その小さな背中が、馬車の扉の向こうに消える瞬間、彼女は一度だけ、こちらを振り返った。
その瞳は、悲しげに揺れていた。
俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
理不尽な現実への怒りと、何もできなかった自分への無力感で、張り裂けそうだった。
***
やがて、近衛騎士団は来た時と同じように、整然と隊列を組んで去っていく。
ヴァレリウス卿は、最後に馬上から俺を一瞥すると、侮蔑とも憐れみともつかぬ、歪んだ笑みを浮かべた。
「――貴官も、いずれ王都へ帰還することになろう。その時まで、せいぜい辺境の泥にまみれていることだ。もっとも、その頃には聖女様は、貴官のような下賤な騎士のことなど、お忘れになっているだろうがな」
吐き捨てるような言葉を残し、彼は踵を返した。
遠ざかっていく馬車の姿を、俺はただ、呆然と見送っていた。
砦に、いつもの殺風景な静寂が戻ってくる。彼女がいた温もりも、彼女がくれた笑顔も、すべてが奪い去られてしまった、空っぽになった静寂だ。
「……隊長」
ハンスが、心配そうに声をかけてくる。
「あはは! 良かったじゃないか、ハンス。これで恩賞は思いのままだ。国もリーナを厚遇すると言っている。WIN-WINじゃないか」
俺はわざと明るい声で、空元気で言った。そうだ、これでいいんだ。俺は俺の道を進む。リーナも、王都で丁重に扱われる。それが、一番合理的で、正しい選択だ。
「本当によろしいんですかい?」
「当然じゃないか。リーナだってこんな所にいるよりずっといい。そうだ、いっそのこと王都内に邸宅を作ってもらうか。そうしたら、たまにリーナに会いに行けるじゃないか」
俺はそう言ってハンスの両肩を叩くと、部下たちに背を向け、歩き出した。
向かった先は、リーナと過ごしていた部屋だった。
そこには、彼女がかけていた毛布が、きちんと畳まれてベッドの上に置かれていた。部屋の隅には、いつの日か俺が髪に飾ってやった、しおれたリリアンの花が落ちている。
俺は、その花を拾い上げた。
あの時、はにかむように笑った彼女の顔が、脳裏に蘇る。
クソッたれ。
何がWIN-WINだ。何が合理的だ。
俺は、また、守れなかったじゃないか。金と権力の前で、結局、大事なものを差し出しただけじゃないか。
スラムにいた頃の、無力な俺と、何一つ変わっていない。
――聖女、か。
俺は、そう呟き、怒りのままにベッドを蹴り上げた。
ガタン! と大きな音を立てて、粗末な木製のベッドがひっくり返る。
理屈じゃない。損得勘定でもない。
ただ、無性に、腹が立った。
あいつらの思い通りになんて、させてたまるか。




