第二話
砦の制圧から数時間後。
血と鉄錆の臭いが染みついたあの場所を離れ、俺たちは後方拠点の野営地に引き上げていた。
指揮官用の少し広いテントの中、俺は腕を組み、極めて重要な「投資案件」と向き合っていた。
――ベッドの上で静かに眠る、銀髪と翼の少女のことだ。
「……で、隊長。あの子は一体、何者なんです?」
報告に来た副官のハンスが、声を潜めて尋ねてきた。
彼の視線は、テントの隅の簡易ベッドに注がれている。
あの礼拝堂の奥で見つけた、俺の輝かしい未来を約束するはずの「お宝」だ。
「分からん。だが、高く売れることだけは確かだ」
「そりゃあ高く売れるでしょうが……。それにしても、あの翼……天使なのか、それとも――」
「どっちでもいい。重要なのは、教会も王宮も、喉から手が出るほど欲しがる代物だということだ。下手に噂が広まる前に、一番高く買う相手を見極める」
ハンスが何を言いたいのかは、痛いほど分かる。
神の使いか、人を惑わす魔物か。どちらにせよ、人間じゃない。
だからこそ、兵たちの間に妙なざわめきが広がっている。
面倒なことになる前に、さっさと現金化するのが一番だ。
「彼女は……俺の次の地位を約束する『金の卵』だ。今はそれでいい」
「……了解しました。では王都への報告は?」
「邪教徒に拘束されていた少女を保護した。第三隊は邪教徒の残党討伐のため、当面この一帯で作戦を継続すると書け。その間に、買い手との交渉ルートを探る」
「承知しました」
ハンスが敬礼して去ると、テントに静けさが戻った。
……問題は、この金の卵が、予想以上に厄介そうだということだ。
しばらくして、少女の睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと瞼が開き、深い紫の瞳が、こちらを映した瞬間――びくり、と全身を硬直させる。
怯えと警戒。まるで値付けされる前の、傷ついた獣だ。
戦場で敵を脅しつけ、部下を従わせるのは慣れている。
だが、こういう手合いの懐柔は専門外だ。
とりあえず、俺は数歩下がり、両手を上げて害意がないことを示してみせる。
「お、起きたか。気分はどうだ?」
……我ながら、三文芝居にも程がある。
少女は答えない。ただ、毛布をぎゅっと握りしめて後ずさる。
紫の瞳が俺を睨んでいる――いや、睨んでるというより、怯えながら必死に威嚇してる感じだ。これでは話にならん。
(言葉が通じないのか? それとも、ただの馬鹿か?)
仕方ない。まずは、こいつが最低限の知能を持っているか、確認する必要がある。
「俺は、アルド・シュヴァルツ」
自分の胸を指差しながら名乗る。
少女は無反応。ただ、その瞳は俺の顔と……腰の剣を交互に見ていた。
(ああ、これか)
俺は舌打ちしながら剣帯を外し、長剣をテントの隅に置いた。
「ほら、これでいいだろ? 危害は加えない」
少女の目がわずかに動いた……気がする。
よし、少しはマシになったか。俺は再び胸を指差す。
「アルド」
次に、少女を指差して首を傾げる。「お前の名前は?」というジェスチャーだ。
商品に名前なんざ不要だが、呼び名くらいはあった方が扱いやすい。
少女は、長い沈黙の後……震える指で、自分の胸を指した。
そして、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……りぃ……な」
「リーナ、か。まあ、悪くない」
俺がそう言ってやると、リーナは驚いたように目を見開き、すぐに視線を逸らした。
テントに気まずい沈黙が流れる。こいつをどうやって手懐けたものか。
そんな時――。
ぐぅうううう~~~~~。
静寂を破ったのは、彼女の腹から響いた盛大な音だった。
リーナの顔が、みるみる真っ赤になる。
俺は一瞬、何が起きたか理解できなかったが……次の瞬間、思わず口の端が吊り上がった。
「はっ……そうか、腹は減るのか」
そうだ。生き物は、腹が減れば餌に釣られる。
単純なことだ。
リーナはさらに赤くなり、毛布に顔を埋めた。
「ちょっと待ってろ。とびきり美味いものを持ってきてやる」
俺は急いで厨房へ向かい、兵士用の粗末なスープではなく、俺個人のために確保しておいた上等な干し肉を入れた特製のスープと、焼きたてのパンを盆に乗せて戻ってきた。
ベッドから少し離れた場所に置いて見せるが……彼女は動かない。
(……毒でも疑ってんのか? この俺の貴重な食料を)
仕方なく俺はパンをちぎって、スープに浸して大げさに食べてみせた。
「な、毒はないだろ? 食えるうちに食わなきゃ損だぞ」
我ながら、胡散臭い商人のような口ぶりだ。
だが、効果はあったらしい。
リーナはおずおずと降りてきて、椀を持ち、直接口をつけてスープを啜り始めた。
(……スプーンを知らないのか? 育ちが悪いな。これでは貴族相手に売る時に作法を教え直さねばならん)
手間のかかる商品だ、と内心で舌打ちする。
だが、夢中でスープを飲むその姿は、どこか見覚えがあった。
そうだ。スラムで、食い物を奪い合っていた頃の、妹の姿に。
食事が終わった後、俺は薬箱を取り出す。
これも商品価値を維持するためのメンテナンスだ。
「手を見せろ。手当てする。傷物じゃ、値が下がるからな」
小さな手を取ると、手首の赤黒い傷に薬を塗り込む。
リーナの肩が、微かに震えた。
「……痛むか?」
思わず、口から言葉がこぼれた。
返事はない。ただ、彼女の瞳が、俺の無骨な手をじっと見ていた。
治療が終わり、俺が手を離そうとした、その時。リーナの指先が、ほんの僅か、俺の指に触れた。
驚いて顔を上げると、彼女はすぐに顔を伏せてしまった。
俺は、その仕草に、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
***
その夜、俺は自分のベッドをリーナに譲り、床に座って書類仕事をしていた。
規則正しい寝息を立てる彼女の顔を見つめているうちに、俺の意識は、遠い過去へと沈んでいった。
――スラムの子供は、病気になっても見殺しにされる。
たった一人の妹、ハンナが疫病に倒れた時、俺はそれを骨の髄まで思い知らされた。
親のいない俺たちにとって、ハンナは唯一の家族だった。
ギャングの抗争に巻き込まれて両親が死んでからは、俺が盗みやゴミ漁りをして、二人で何とか食いつないできた。
ハンナは、いつも笑っていた。
どんなに腹が減っていても、どんなにひどい仕打ちを受けても、俺がいるから大丈夫だと、太陽のように笑っていた。
その笑顔が、熱に浮かされて歪んでいくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。 医者に診せる金なんてない。貴族街の病院に担ぎ込んでも、汚物のように追い出されるだけだ。
「……お兄ちゃん、さむいよ」
燃えるように熱い体で、ハンナはそう言った。
俺は、ボロボロの毛布をかき集め、彼女を抱きしめた。
だが、俺の腕の中から、彼女の命はどんどん零れ落ちていく。
結局、この世は、金と権力がある奴だけが助かるようにできている。
正義も、神も、ありはしない。
ハンナが息を引き取った日、俺の心も一緒に死んだ。
俺は、金と権力を手に入れると誓った。そのためなら、どんな汚い手でも使う。誰を蹴落としてでも、上に行く。
二度と、無力感に殺されないために。
大切なものを、守れずに失わないために。
俺は、眠るリーナに視線を戻す。
この子は、俺にさらなる力をもたらすはずの存在だ。
――こいつを最高値で売り払い、手に入れた金と地位で、二度と誰にも奪われない、揺るぎない力を手に入れる。
そうだ。それが、妹への唯一の弔いだ。
俺は、自分の心を固めるように、そう誓いを立てた。
リーナの毛布を肩まで掛け直そうと立ち上がった時――
裾に、何かが触れた。
見ると、リーナが小さな手で、俺の外套をぎゅっと掴んでいた。
目は閉じたまま。無意識だろう。
だが、その仕草に「行かないで」という声が聞こえた気がした。
「……面倒な商品だ、全く」
俺は悪態をつき、その場に腰を下ろした。
こいつが完全に俺に懐くまで、少しだけ、そばにいてやるか。
その方が、商品管理もしやすいだろう。
テントの入り口から差し込む月明かりが、俺たち二人を、静かに照らし出していた。




