第十二話
「……ふん。愚かな地上の民どもよ。好きにいたせ。我が故郷アニムスフィアまで送り届けられたら、それなりの褒美をつかわす」
「アニムスフィア?」
「なんじゃ、知らぬのか。まったく使えん奴ら……っつ」
ハルピュイアの体が、ふらりとよろめいた。
「おい、大丈夫か!」
俺は慌てて、彼女の華奢な体を支える。触れた肌は、驚くほど熱かった。
「……心配いらぬ……。少し、力を、使いすぎた、だけだ……」
ハルピュイアは虚勢を張るが、その声には明らかに力がなかった。
王都での激しい戦闘、そしてここまで休まずに飛んできた疲労が、限界に達しているのだ。
彼女の赤い瞳の光が、急速に弱まっていく。
「……仕方ない。少し、あの娘に、体を、返して……やる……」
その言葉を最後に、彼女は糸が切れたように、俺の腕の中で意識を失った。
――数秒後。
「……ん……」
俺の腕の中で、彼女の睫毛が、ゆっくりと震えた。
そして、開かれた紫色の瞳。そこに宿っていたのは、女王の威厳ではなく、俺のよく知る、臆病で、心優しい光だった。
「……アルド?」
か細い、聞き慣れた声。
「リーナ! 気がついたか!」
部下たちの安堵の声が聞こえる。
「うん……。ごめんなさい、私、また……」
彼女は、不安げに俺を見上げてくる。
どうやら、ハルピュイアの時の記憶はないらしい。
「いや、何も。それより、体は大丈夫か?」
「うん、ちょっと疲れただけ……。よかった、アルド、無事だったんだね……!」
リーナは、心底安堵したように、俺の胸に顔をうずめた。
「よーし! 嬢ちゃんも戻ったことだし、さっさとこの国とはおさらばしますか! 皆で国境を越えましょう!」
ハンスが、わざとらしく明るい声で言った。
だが、俺には一つ、懸念があった。
「……だが、教会がおれたちを放ってはおかないだろう。『聖女を惑わした異端者』として、どこまでも追手を差し向けてくるはずだ」
「ああ、その心配はご無用ですぜ、隊長」
ハンスは、ニヤリと笑うと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、教会の紋章と、何やら小難しい文言が書かれている。
「こいつは?」
「免罪符ってやつですよ。広場が大混乱になった時、腰を抜かしてる司祭様を、瓦礫の下から助けてやったんですよ。そしたら、命の礼にと、これをね」
そこには「アルド・シュヴァルツと、彼に従う者たちの全ての罪を赦し、神の祝福を与える」といった内容が、司祭の署名入りで記されていた。
「……ハンス、お前……」
俺も、部下たちも、ただただ感心するしかなかった。こいつの機転と抜け目のなさには、本当に頭が下がる。
「……よし、それじゃあ、出発しよう」
俺がそう言うと、ハンスがひらりと馬に飛び乗った。そして、リーナに向かって、にこやかに手を差し伸べる。
「さあ、嬢ちゃん! 俺の馬に乗りな! 特等席だぜ!」
「……いいの?」
「おうよ!」
リーナは、嬉しそうにハンスの手を取り、その前にちょこんと座った。
「おい、ハンス! なぜ、お前の馬なんだ!」
俺が抗議すると、ハンスは勝ち誇った顔で言った。
「俺は、隊長を助けようと真っ先に駆けつけたんですぜ? このくらい役得ってもんでしょう」
ぐうの音も出ない。
その時、静かな森に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。
音の発生源は、ハンスの前に座るリーナだった。
「……ハンス。お腹、すいた」
リーナが、潤んだ瞳でハンスを見上げる。その破壊力は絶大だった。
「よっしゃあ! 嬢ちゃんには何でもご馳走するぞ! 国境を越えたら、一番美味いもんを腹一杯食わせてやる!」
ハンスが快活に笑うと、他の騎士たちも「俺は肉だ!」「酒だ酒!」と囃し立てようとして――その言葉は続かなかった。
一人の若い騎士が、無理に上げた拳を力なく下ろし、苦しげに息をついたのだ。
「……すいやせん、隊長。俺たちは、どうやらここまでみてえです」
その言葉に、俺はハッとして仲間たちを見渡した。
生き残ったのは、俺とハンスを除いて三名。
広場での激戦で、誰もが無傷ではいなかった。
ある者は腕に深い傷を負い、ある者は足を引きずっている。
その傷が彼らの体力を限界まで奪っていたのだ。
これ以上、馬を駆って長旅を続けるのは、どう見ても不可能だった。
「……無理をさせた。すまない」
俺が頭を下げると、負傷した騎士の一人が、力なく首を振った。
「隊長が謝ることじゃありません。俺たちが、勝手について来ただけです。……けど、隊長。俺たちみてえな手負いを連れてちゃ、あんたたちの足手まといになるだけだ。この先の旅は、きっともっと厳しい」
「俺たちは、国境を越えた先の村で、傷を癒しながら暮らすことにします。もう剣を振るうことはできねえかもですが、ここまで生き延びたんだ。これからは、静かに生きていきます」
「隊長たちの武運を、遠くから祈ってますぜ」
彼らは、悔しさを滲ませながらも、晴れやかな顔でそう言った。
俺の足手まといになることを、彼ら自身の誇りが許さなかったのだ。
「……そうか。分かった」
俺は、それ以上何も言えなかった。
代わりに、ハンスが一歩前に出た。
ハンスは、懐からずしりと重い金貨の袋を取り出すと、三つの小さな袋に分け、それぞれの手に握らせた。
「餞別だ。カイの奴からふんだくった、あぶく銭なんでな。遠慮はいらねえ。これで当面の生活の足しにしな」
「ハンス副官……」
「馬鹿野郎、もう副官じゃねえ。ただのハンスだ」
三人は、涙を堪えながら、深く頭を下げた。
「「「隊長、ハンスさん、嬢ちゃん。どうか、ご無事で!」」」
俺たちは、言葉もなく頷き、馬の向きを変えた。
背後で、かつての部下たちが遠ざかっていくのを感じながら、俺たちは再び東を目指した。
道連れは、減った。だが、俺の背負うものは、さらに重く、そして温かくなった気がした。
「それで、隊長。どこを目指しますかい?」
ハンスが、俺に尋ねた。
俺は、昇り始めた朝日を見つめながら、答えた。
「……そうだな。まずは、この大陸の北西にある港町ハイゼンを目指す。あそこは海洋貿易が盛んな都市国家だ。アニムスフィアについての情報があるかもしれん」
「港町か! そりゃあ、面白そうだ!」
「アルド! 海が見れるの!?」
リーナが、キラキラした瞳で振り返る。
「ああ。どこまでも青くて、広くて、水がしょっぱいらしいぞ」
俺の言葉に、彼女は心の底から嬉しそうに笑った。
その笑顔。
俺が全てを捨ててでも、取り戻したかったもの。
これから先、どんな困難が待ち受けていようと、この笑顔さえあれば、俺はどこまでも進めるだろう。
朝日が、俺たちの新たな旅路を、黄金色に照らし出していた。
俺たちは、三人で、それぞれの希望を胸に、自由な空の下、未来へと続く道を、力強く駆け出した。




