第十話
空を見上げた誰もが、言葉を失った。
雲一つなかったはずの青空が、まるで墨を流したかのように、急速に暗雲に覆われていく。
そして、その暗雲の中心に、小さな、白い影が浮かんでいた。
「リーナ……!?」
なぜ、どうして彼女がここに。
「聖女様だ!」
「聖女リーナ様が、裁きのために降臨なされたぞ!」
包囲していた兵士たちや、遠巻きに見ていた民衆が、ひざまずき、祈りを捧げ始める。
だが、俺だけは気づいていた。
リーナの様子がおかしい。
彼女の顔には何の表情も浮かんでおらず、その瞳の奥に、見たこともないほど深く、暗い、怒りの炎が燃え盛っている。
次の瞬間、俺たちの耳に届いたのは、聖女の祈りの言葉ではなかった。
――キィィィィィィィィィィィッ!!!!
空気を引き裂くような、甲高い咆哮。
その咆哮と共に、リーナの体に、信じられない変化が起こり始めた。
純白のドレスは引き裂かれ、翼は禍々しい黒へと染まっていく。
鋭い嘴、爛々と輝く紅い瞳。
その姿は、もはや人間のそれではない。
「ひっ……!」
「ば、化け物……!」
民衆の祈りは、一瞬にして恐怖の絶叫へと変わった。
魔鳥――いや、リーナは、そんな下界の混乱など意にも介さず、巨大な翼を、ゆっくりと一度、羽ばたかせた。
ゴォォォォォッ!!!!
暴風が、広場を蹂躙する。
最前列で槍を構えていた重装備の近衛騎士たちが、まるで紙くずのように宙を舞い、悲鳴を上げながら建物の壁に叩きつけられた。
自慢の鋼の鎧が、ぐしゃりと嫌な音を立ててへこむ。
「怯むな! 弓隊、構え!」
ヴァレリウス卿が叫ぶ。
弓隊が一斉に矢をつがえた、その瞬間。
リーナが、再び咆哮した。
暗雲から、紫色の稲妻が鞭のように迸り、弓隊の頭上へ降り注いだ。
バリバリバリッ!!!!
閃光と轟音、そして肉の焼ける匂い。
兵士たちの手から弓が落ち、黒焦げになって倒れ伏す。
もはや組織的な抵抗は不可能だった。
それは、戦いではない。
もはや災害だ。
リーナが、地上へと急降下してきた。
その動きは、目で追うのがやっとだった。
黒い流星のように敵陣の中心に舞い降りると、巨大な鉤爪を振るう。
ザシュッ! !!
と肉を断つ生々しい音。
屈強な近衛騎士が、自慢のプレートアーマーごと、胸から腹にかけて一直線に切り裂かれ、血の雨を噴き出して崩れ落ちた。
「うわあああ!」
「助けてくれ!」
王国最強を謳われたエリートたちのプライドは、絶対的な力の前に粉々に砕け散った。
彼らは武器を捨て、我先にと逃げ惑う。
だが、リーナは逃がさない。
翼をはためかせて巻き起こす風の刃が、逃げる兵士たちの足を次々と切り裂いていく。
俺とハンスたちは、火刑台の陰で、ただ呆然と、その光景を見上げていた。
「……すげえ。これが、嬢ちゃんの、本当の……」
ハンスが、唖然として呟いた。
混乱の中、瓦礫の陰でこそこそと逃げ出す男の姿を、リーナは見逃さなかった。
カイだ。
リーナは、彼を直接狙うことすらしなかった。
ただ、翼を鋭くはためかせると、巨大な風圧が、カイがいた場所の真上の建物を薙ぎ払った。
ドッゴォォン!!!!
轟音と共に、大量の瓦礫が降り注ぐ。
「ぐわあああっ!」
カイの短い悲鳴は、瓦礫の崩れる音にかき消された。
あいつは、リーナの怒りを買いすぎたのだ。
やがて、広場には虫の息のヴァレリウス卿と、俺たちだけになった。彼は雷の余波を受け、鎧は焼け焦げ、背中を瓦礫に預けて座り込んでいる。
俺はヴァレリウス卿の前に立ち、剣を突きつけた。
「ひっ……! た、助けてくれ……! わ、私は、王国の摂政だぞ! 命だけは……金ならいくらでもやる!」
ヴァレリウス卿が、地面に這いつくばり、無様に命乞いをする。
俺は、その姿を見て、すっと剣を下ろした。
「……隊長?」
「……もういい、ハンス。そいつはもう、戦えない。殺す価値もない」
俺は、ヴァレリウス卿に背を向け、ハンスたちと共にその場を立ち去ろうとした。
その時だった。
「――死ねぇぇぇっ、下郎がぁぁっ!」
背後で、ヴァレリウス卿が絶叫した。
振り返ると、彼は懐から取り出した短剣を握りしめ、俺の背中に向かって飛びかかってくるところだった。
だが、短剣が俺に届くことはなかった。
俺よりも早く、上空でリーナが反応していた。
彼女は、天に向かって、静かに、だが鋭く一声鳴く。
バリバリバリバリッ!!!!
一条の巨大な稲妻が、空から、ヴァレリウス卿の体を、正確に直撃した。
悲鳴を上げる間もなく、彼の体は閃光に包まれ、一瞬にして炭化し、そして塵となって崩れ落ちた。
後には、焦げ付いた石畳と、溶けて歪んだ短剣だけが残されていた。
リーナは、その光景を見届けると、高く舞い上がった。
「リーナ!」
俺が叫ぶと、彼女は一度だけ、俺を安心させるように小さく鳴き、そして一直線に国境の彼方へと飛び去っていった。
「隊長! 俺たちもずらかりますよ!」
ハンスの声に、俺は頷いた。
「全軍、撤退! 王都を脱出する!」
俺たち第三隊の生き残りは、馬を奪い、大混乱の広場から嵐のように駆け出していく。
後には、指導者を失い呆然と立ち尽くす近衛騎士団の生き残りと、恐怖に支配され、ただ祈ることしかできない民衆だけが残されていた。




