鎖を断つ歌
城門の外で、夕陽が麦畑を赤く燃やしていた。旅の吟遊詩人を名乗る私は、肩の琵琶を弾きながらローデンの町に入った。秋祭りを明日に控え、通りには花冠と紙灯籠が吊るされ、人々は笑っていた。広場の端では、白い外壁の建物が光を返している。孤児院《白鹿院》――この町でもっとも尊敬される慈善の場だと聞く。院長は聖女メルダ。貧しい者に無料の食事を出し、孤児に読み書きを教え、働き口を紹介する。町の掲示板には、彼女への感謝を記した木札がびっしりと並んでいた。
だが、感謝は多ければ多いほど、匂いが濃くなることがある。偽物の香水のように、鼻の奥に甘さが張り付く。私は木札をひとつ手にとって、裏を指で撫でた。目に見えないほど薄い刻印――三重の輪。古い誓約術の符丁だ。
「触っちゃだめだよ」
背後で小さな声がした。振り向くと、すすけたマントをまとった少女がこちらを睨んでいる。年は十か十一、琥珀色の瞳に傷つけられた猫のような警戒が宿る。
「どうして?」
「それ、剥がすと怒られる。メルダさまが悲しむ」
「悲しむのは、誰だろうね」
私は木札をそっと元の場所に戻し、少女に笑いかけた。「名前は?」
「ニア。あなたは?」
「ソレン。歌を売って歩いてる」
「歌でお腹、ふくれるの?」
「ときどきね」
ニアはふっと笑った。笑うと、警戒は薄くなるが、消えはしない。私は彼女と並んで通りを歩いた。屋台の匂い、焼いた甘パン、香草のスープ。白鹿院の前に立つと、扉の上にかかる鹿の角飾りが、空の赤をすくっていた。
「ここ、いつも人がいっぱい。夜は炊き出しがある」
「ふむ。君もここで食べるの?」
ニアは首を振った。「私は…ううん、たまに。けど、友達がいる。リーゼって子。三日まえから来てない」
「三日も?」
「『働きに出たのよ』って。紙をもらって、笑って、馬車に乗って行った。嬉しそうだった…けど、なんか、変で」
変。私は扉を見た。白鹿院の中から漂うのはスープの匂いと、祈りの歌声、そして、淡く鉄の匂い。血ではない。誓約の鉄、契約の鎖に使う粉の匂いだ。
「中を見てもいいかな」
「やめたほうがいいよ。よそ者には優しいけど…たまに、目がこわい」
私は笑って、琵琶の弦を鳴らした。「歌を一曲、奉納したいだけさ」
扉を叩くと、すぐに開いた。白の法衣に身を包んだ女性が立っている。銀の髪が肩に流れ、微笑みは完璧な半月の形だった。これが聖女メルダか、と私は思った。なるほど、噂に違わない。彼女の歩き方、視線の置き方。人の心の湿った部分に火を灯す術を知っている。
「旅のお方、ようこそ。子どもたちも喜びます。どうぞ中へ」
広間は温かかった。長机の上に木の椀が並び、子どもたちがすすりながら笑っている。壁には神の慈悲を描いた壁画。床は磨かれ、塵ひとつない。完璧。完璧すぎる。
私は琵琶を抱えて中央に立ち、短い賛歌を奏でた。子どもたちが拍手をする。メルダは手を合わせ、目を閉じて天に感謝の言葉を捧げる。彼女の指の関節、薬指の内側。そこに、三重の輪が刻まれていた。薄い火傷のような跡。誓約術の主印。やはり。
歌のあと、私は礼としてスープをいただいた。匙を口に運ぶふりをして、匂いを嗅ぐ。香草、芋、塩、そして微かな写印粉。飲んだ者の体温で溶け、肌の下に薄い印を描く粉だ。印は肉眼では見えないが、特定の符歌で浮かび上がる。
「メルダさま、すてきなスープですね」
「神の恵みです」
恵みは、ときに鎖だ。私は微笑みで返し、椀を置いた。
その夜、私は広場の噴水の縁に腰をかけ、弦を調律しながら空を見上げた。紙灯籠が風に揺れ、星をかすめる。ニアが影のように近づいてくる。
「リーゼ、見つかる?」
「明日が秋祭りだね。白鹿院は賞を受けるだろう。寄進者たちの前で」
「うん。大きい人たちが来る」
「そこで歌うことになった」
ニアの目が丸くなる。「すごい」
「そこで、ちょっとした手品をしようと思う」
「手品?」
「善の仮面って、剥がせるんだ」
翌日、町は祭りで沸いた。太鼓、角笛、踊り。午後、広場の舞台に偉い人々が並ぶ。領主、商会長、教会の司祭、そして白鹿院の聖女メルダ。子どもたちは新しい服で笑い、感謝の言葉を読み上げる。リーゼはいない。空の椅子が一つだけ、舞台袖の影に押しやられていた。
司会が私の名を呼ぶ。私は琵琶を抱えて舞台に上がり、深く礼をする。観衆の期待が、夏の雲のように膨らむ。
「旅の歌を一つ。名付けて《真名の調べ》」
ざわめき。真名――魂の根に触れる歌。古い迷信。だが、迷信は時に刃より鋭い。私は弦を静かに弾き、喉の奥で小さく呪をほどく。音が空気に染み、日本語ではない古語の節が町を撫でていく。観衆の肌が粟立つ気配があった。
見えない印が、浮かびはじめる。まずは子どもたちの手首に薄い輪。三重の輪が、白い花のように。客席の数人の胸元にも、同じ輪が淡く灯る。領主の袖の内側、商会長の首筋、司祭の掌。
誰かが悲鳴をあげ、誰かが笑ってごまかし、誰かが首を押さえた。メルダは微笑んだまま、瞼の奥を凍らせた。彼女の指の印もまた、まばゆく浮かんでいる。主印は主の印――この印が鎖の起点だ。
「これは祝福の印ですわ」メルダは即座に言う。「子らを守る加護。旅の方、怖がらせてはいけません」
私は演奏を止めず、言葉だけを返す。「祝福ならば、ひとつ試してみましょう。加護なら、解いても痛みはない」
私は指を滑らせ、解印の句へと旋律を落とし込む。真名の調べは、鎖の結び目に触れる。子どもたちの皮膚に咲いた輪が、揺らぎ、軋み、外れた。数人の大人の輪は、逆に締まった。苦鳴が漏れる。聴衆の目が一斉に舞台へ向く。隠れていた輪が、露わになる。慈善家の仮面が、軋んで外れかける音がした。
「やめなさい」
メルダの声は柔らかく、しかし鋼だった。彼女は一歩前に出て、観衆へと手を広げる。「皆さま。この方は悪意を持っております。祭りの日に混乱を招き、私たちの善い営みを汚そうとしている。子らは祝福を受け、仕事を得て、未来へ歩み出しているのです」
「どこへ?」私は尋ねた。「どこへ歩み出して、戻ってこない?」
「世界は広いのです。学ぶべきこと、働くべき場所がある」
「リーゼはどこだ」
ニアの声だった。小さな体で観衆を押し分け、舞台の前に立つ。「リーゼを出して。戻ってこないのはおかしい」
メルダは微笑んだ。「あなたはニアね。心配しなくていいのよ。彼女は幸せに――」
「幸せなら、手紙くらい書く」
沈黙。私の指は旋律を糸のように細くし、舞台袖へと這わせた。そこに別の音が返ってくる。鈍い脈動。地下だ。舞台の下に、薄い空洞がある。鍵のかかった床。私は弦をはじき、音の針を差し込む。隙間に眠る錠前の歯が、かちりと鳴った。
「開けてみますか」私は言い、弦を強く鳴らした。床板がわずかに浮き、警備の兵が顔を見合わせる。領主が立ち上がる。「何をしている!」
「わかりませんわ」メルダは涼しい顔で首を傾げた。「保管庫があるだけです。麦粉や衣服や…」
私は床板を持ち上げた。冷たい空気が吹き上がる。階段の先に、暗闇の中で、鉄の檻。檻の中には、痩せた子どもたちの瞳が光った。十、二十、三十。口元に布。手首には、手製の鉄輪。輪には、三重の刻印。
広場から、押し殺した悲鳴が波のように広がった。ニアが息を呑み、名前を呼んだ。「リーゼ!」
細い手が檻の格子に伸びる。彼女はいた。頬はこけ、瞳はまだ生きている。私の旋律が彼女の輪に触れる。輪がゆっくりと外れる。檻の鍵は、私の指の音型と共に外れ始めた。兵たちが慌てて駆け寄り、領主は青ざめた顔でメルダを振り返る。
「説明しろ、メルダ!」
「救済です」メルダは言った。声は静かだが、血の色が滲んでいた。「この子たちは、道に転がる命でした。私は買い手を見つけ、学びの場を用意し、働き口を…」
「買い手」私は言葉を繰り返した。「それを、人は売買という」
「言葉の問題ではありません。善のためには、現実的な手が必要なのです。誰もが救えるわけではない。少なくとも、私は彼らに価値を与えた」
「価値はもともと彼らが持っている」私は言い、最後の鍵を外した。「あなたは、仮面に値札をつけて売っただけだ」
檻が開き、子どもたちが光の中へ出てくる。ニアはリーゼに駆け寄り、抱きしめる。観衆の何人かは泣き、何人かは顔を背け、何人かは怒りで震えた。司祭は震える指で印の消えた掌を見つめ、商会長は襟を正し、領主は兵に命じた。「メルダを拘束しろ」
兵が近づくと、メルダは微笑み、わずかに肩を震わせた。笑っているのでも、泣いているのでもない。仮面が裏返るとき、人はこういう表情になるのかもしれない。
「私は善をしただけですわ」
「善をしたいなら、鎖はいらない」
私はそう言い、弦を深く鳴らした。白い外壁の上で、光がひときわ強く揺らいだ。三重の輪はすべて消え、子どもたちの肌から、鎖の匂いが風に溶けた。
夕刻、祭りは中断された。広場はざわめきに満ちていたが、やがて人々はそれぞれの家路へ散っていった。兵が白鹿院を封鎖し、帳簿と印章を押収する。領主は渋い顔で私に礼を言い、司祭は短い祈りをささやいた。商会長の何人かは、静かに姿を消した。消える背中には、まだ消しきれない輪の跡が微かに灯っていた。
私は噴水の縁に戻り、琵琶を抱えて座った。夜風が紙灯籠を揺らす。ニアがやって来て、無言で隣に腰をおろす。少し間を置いて、彼女は小さな声で言った。
「ありがとう」
「礼なら、リーゼに」
ニアはうなずいた。「でも、どうしてわかったの?メルダさまが、悪いって」
「悪い、とは限らない」私は空を見上げた。「ただ、いい匂いが強すぎた。完璧な笑顔は、ひび割れを隠すために使われることが多い。感謝の木札の裏に、同じ刻印があった。善が本物なら、印で縛る必要はない」
ニアは膝を抱え、考える顔をした。「悪い人は、どうして善いふりをするの?」
「自分が悪いと知っているから。善で飾らないと、世界が自分を拒むと知っているから。だから、仮面を磨く。磨きすぎて、鏡になる。自分の醜さが映るのに、目をそらして他人に見せる鏡」
ニアは黙って、灯籠の光を見つめた。私たちの間に、祭りの名残の音が遠くで鳴った。彼女がぽつりと言う。
「仮面は、どうしたら外せる?」
「二つの方法があるよ」私は指で弦を撫でた。「一つは、待つこと。仮面は重い。長く被れば、首が折れる。もう一つは、光を当てること。真名の歌でも、記録でも、声でも。光に弱いのは、仮面じゃなくて、仮面の下の影だから」
ニアは小さくうなずいた。「私、覚えておく」
「覚えて、選ぶんだ。君が善いふりをする日が来たら――ふりじゃなくて、選ぶ」
その夜遅く、私は町を出た。背中の琵琶がいつもより軽い。道の先で、風が草を撫でる音がする。振り返ると、白鹿院の上に浮かぶ鹿の角飾りが、月の光で青白く光っていた。それはもう聖なる記号ではない。ただの飾り。飾りに戻った。
旅は続く。善と悪の境はいつも滲んでいて、そこを歩く者は、足裏で濡れた線を感じる。だが、たった一つ確かなことがある。
――悪は、善を装う。自分が悪だと知っているからこそ、仮面を被る。仮面が重いほど、首はたやすく折れる。
私は月に向かって一度だけ弦を鳴らし、歩き出した。次の町でも、きっと紙灯籠が揺れている。揺れるたびに影は歪むが、光は減らない。減らさせない。それが、旅の理由であり、歌の意味だ。