第四幕 絶対領域
妖・蛇帯を封じてから、三日後のことだった。
慣れたくもねぇのに住み慣れつつある寮の部屋へ、手土産持参のとある客がやってきた。
「は? 今、なんつった?」
俺様はその客へ訝しさ全開で訊ね返していた。なぜかって? 言われた台詞の意図が視えなかったからだ。視えなかったら訊ね返すのが普通だろ? 考えを読み取るべく、上から下までじろじろじろりと眺めながらそうするのが当然だろう? あ、客が凄く嫌そうな顔になった。眼で「……なんか、いやらしいんですけど」って言ってる気がする。
陽も落ちた時間帯。唐突な来客は忠犬女子のサクラではない。
じゃあ誰かといえば、姫乃である。なぜだ? それだけで到底ありえん事態なのだが、聞き間違いで無ければ、さらに、もっと、あり得ない発言をさっきされた気がしたのだ。
「っ~、だか、ら……その――わた、私、私と――」
俺様の疑問を余所に瞳を泳がせた姫乃がもじもじとし続ける。口調はしどろもどろだし、顔は暴発寸前の爆弾のように真っ赤っかで、ついには、弾けるみたいに叫んだ。
「ぅぅ――もうっ」
びっくりした俺様は思わず「うおっ!?」とのけ反ってしまったが、姫乃はこちらに構うことなく、勢いをつけるみたいに腕をぶんと上下に振ってこう言った。
「あしたの土曜日、私とスイーツを食べに行こうって言ったんですっ!!」
「…………へ?」
待て待て、なんで? どうしてそうなった?
体調でも悪いのか、熱があるんじゃ無いのか、そう思ったが続いた台詞が否定してくる。
「玉藻くんは美食家でスイーツ好きだと、サクラから聴いたです」
言ったっけ? 全然おぼえてね~けど。
「実は今度の文化祭で、クラスの出し物がスイーツ喫茶になるらしいんです。それで料理が得意な私を含むクラスメイトたちで、試作品を持ち寄ることになったです。今日、持ってきたソレは……私の試作品なんですけど……自分じゃよくわからないです」
姫乃にうながされて、俺様は渡された手土産の箱に目を落とす。
「だ、だからソレを食べて、かんじたことを教えて欲しいです。それで、よかったら一緒に、コ、コレにも、行ってほしいんですっ」
眼をギュッとつむった姫乃は、ぷるぷるしながらチケットを差し出してくる。
「こ、れは?」
そこにはファンシーな写真と共に杏餡庵主催・和洋菓子祭と明記され、食べ放題の文字が踊っていた。そういえば以前、姫乃はお菓子作りが趣味だとサクラが言っていた気がする。
つまり要約すると、もっと上達したいから協力してくれといったところだろうか。
「く、くっくっく……」
「っ――玉藻……くん?」
笑えてきてしまった。実に願っても無い展開である。
ただでさえ、俺様が元に戻る為の情報をどうやって訊き出そうか迷っていたところだったのだ。おまけに大好物の甘いモノが思う存分食べられるとあっては断る理由など皆無である。
「いいぜ。こいつの感想と土曜日の件――了解だ」
と、不安そうだった姫乃の表情が、パッと明るくなる。
おおぅ、すげえ嬉しそうだ。夏も終わるのに、まるで向日葵が咲いたみてぇだ。
俺様が視たかった笑顔。その破壊力は抜群だったが、見惚れてばかりもいられないので咳払いをひとつ。そして、チケットを受け取りながら不敵に告げた。
「……でも、先にいっとくが、けっこう辛口なのは覚悟しとけよな?」
とはいえ、なんだかな。こんな台詞を吐いておきながら、内心ではハシャぎだしたい気持ちを抑えるのに必死だったのだが。
気分は上々。しかし長続きしなかった。
姫乃が帰ってすぐ使い魔(親父)がやってきたからだ。経過報告の名目で親父の相手。いつも以上に小言と皮肉交じりのその会話は、つくづく俺様をうんざりさせた。
苛々しすぎて、気持ち悪くなった。
× × ×
そんなこんなで土曜日。天気は快晴である。
現在の時刻は午前十時五十分。指定された場所に労せず十分前の到着ができたあたり、かったるい昼間の活動に身体も慣れてきたのだろう。
俺様は薄手の黒ジャケットに色落ちしたタイトなジーンズといった出で立ちで、天神町の中心に位置する天神駅の改札前で佇んでいた。私服を持たず、物質具現化も使えないのでネットショップで買ったばかりの下ろしたてである。
ふむ、やはりゆかりの地ということからだろうか。待ち合わせ場所は水戸光圀とその従者の像が立っていて、あの有名な印籠をかざすように設置されていた。「この紋所が眼に入らぬか」ってやってるポーズだ。それなりに目立つゆえに待ち合わせスポットとしても機能しているようで、俺様の他にも待ち人らしき連中が見受けられる。
もっとも俺様としてはこの印籠を、いや紋所を見ていると、どうしてもあの魅惑の絶対領域を思い出さずにはいられな――
「お、おまたせ、です」
桃色の妄想をしていると背後から声がして、俺様は慌てて振り返る。
と、そこには制服でもなく、守護者の正装でもない、私服姿の姫乃がいた。
「玉藻くん……制服じゃないから違う人かと思ったです。待たせちゃいましたか?」
「――――っ」
正直、くらりとした。かぁ~っと身体が熱くなってくる。
足元のふわふわファー付きの赤いミュールが映える、涼しげな白のロングキャミワンピ。いつもは結っている髪も水流のように下ろされ、露出された肩は透明感があり夜とは違って眩しいほどで、趣味じゃないはずなのに眼を逸らせなくなっていた。
いつぞや見た、ノリが空回りしている雑誌の表紙モデルなんかより断然魅力的である。
――つ~かこいつ……こんなに可愛かったっけ?
「玉藻……くん?」
反応が無い俺様を、姫乃はおっかなびっくりといった感じでのぞき込んでくる。
「あ、いや別に、俺様も今来たトコだし……つ~か今日も暑いなぁ。あ~暑い暑い。目的の店は近くなんだろ? は、早く行こうぜ?」
俺様は不自然なほどぶっきらぼうに振る舞い、ドレスコードのある店の為に着ていた薄手のジャケットを脱ぎ抱え歩き出す。
「は、はいです」
姫乃がとててっとついてくる。……やっぱり可愛い。
「…………」
「…………」
会話が無い代わりに、足音だけが交わる。
くそっ。俺様としたことが、「似合っている」と褒めることさえできないなんて。
普段通りとは程遠いこんな気分にさせられるなんて考えもしなくて――ちらりと、となりを見やれば、連れ立って歩く姫乃は退屈なのか、少しうつむいていた。暑さのせいか、ほんのり頬を染めたまま沈黙している。
すぺしゃるな俺様ともあろう者が、このままではいかん。
伊達に三百年を生きてはいないのだ。
頭脳をフル回転させて純情バージョンの姫乃が食い付きそうな話題を探し、振ってみる。
「あ~……そ、そういえば文化祭だっけか。クラスの連中と一緒に準備するなんて、ずいぶんな進歩じゃね~か。どうしたんだよ急に?」
「ッ、えっと……む、向こうから誘ってきたです。たしかに、ひき受けた自分にも驚いてはいるですが――」
なぜか慌てた様子の姫乃は顔をより赤らめて、しかし嬉しそうに続ける。
「音頭を取っているのはサクラです。生徒会の仕事もあるのに、すごくがんばってるですよ。おかげでわたしも、がんばらなきゃって思わされるです」
「へ~、優秀だな。俺様にはアイツ、仕事ができる人間には視えねぇんだがなぁ」
「ふふ、そうですよね。それはわかるです。でも――」
姫乃はこっちを向いて告げてくる。
「デタラメで身勝手に動いていると思っても、どこかまっすぐで……いつしかそれに周りが感化されてるです」
「感化、ねぇ」
サクラのことを話しているはずなのに。なんだか気恥ずかしさを感じて目を逸らしていた。
おい、三百歳……しっかりしろ。こっちまで純情になってどうする。
再び訪れた沈黙に、どうしたもんかと思案する。いきなり本題に切り込むのもさすがに無謀だしなぁ――と話題に困っていた俺様へ、姫乃が先手を打つようにこう言った。
「そ、そういえば、どうでしたか? 試作品……食べてくれたですか?」
「っ、お、おう。そうだな。まさか作ってきたのがプリンだとは思わなかったぜ。でも、俺様はプリンにはかなりうるさい方だが、想像以上だったぜ?」
実際、箱をあけて驚いたのは事実だった。カラフルなリボンを結んだ小瓶に詰められたそれはとても見栄えが良く、手作りとは思えないクオリティだったのだ。サクラに言われていた通り、腕前はかなりのものである。
「そ、そうですか。よ、よかったです。それで、……あの」
「ただなぁ――」
「っ、ただ、なんです?」
「悪い……実はまだアレ食べてないんだ。ちょっとあのあと色々あってよ……」
そう。親父の使い魔との会話で胃痛がしそうなほど小言を言われた俺様は、冷蔵庫にしまったまま口を付けなかったのだ。やけ食いしようとも思ったのだが、それもなんだか気が引けたし。朝は片っ端から買い付けた服のコーデで忙しく、じっくり味わう時間が無かったのだ。
「食べて、ない……?」
「ああ、でもぱっと見た感じは良かったから――なんつ~の、アレだよアレ。やっぱ売るからにはそれならではがあればいんじゃね? お菓子の蔵・杏餡庵名物だって、ふわとろ食感にメロン要素をくわえてあんだろ?」
「そう……ですか」
と、姫乃はなんだかおとなしくなってしまった。いや、元からおとなしかったが、なんだろうな。どんよりと暗くなっていて、そんなに辛口な意見だったろうか?
「ま、そういったもんをこれから模索すりゃ――え? おい……」
「…………」
俺様が貰ったチケットの片割れを見せつつ言いかけると、すたすたすた――ザッザッザッ。
ひらふわとスカートと髪先を捉えどころなく舞い揺らしながら、姫乃は早足になっていく。
「なんだよ? 急にどうしたんだ?」
「べつになんでもないです」
慌ててついていくもこの有様。数分前と打って変わり、機嫌が悪いのはあきらかである。
――おいおい。意見が欲しいって言ってたくせに、なんでだよ?
ようやく普通に話せたと思ったのに。
小さな背中を追う俺様は、目的地に到着するまで口を利いてもらえなかった。
× × ×
床にはレッドカーペット、天井にはシャンデリア。駅近の小奇麗なホテルのレストランで行われているこのイベントは基本バイキング方式で、スイーツ好きの客たちであればこぞって食べまくるに違いない。大抵は、そりゃもう、さぞ、楽しげに。
が、客たちは皆食べる手を停め、俺様の眼の前に座る相手に意識を向けていた。
そりゃそうだ。やはり、目立つのだろう。こんなにも可愛らしい少女が、ツンツンした態度全開の仏頂面で、大量の空き皿タワーを絶賛建造しながら食べていたら。
とてもではないが、元に戻る為の情報を聴き出せるような雰囲気では無かった。
「…………」
「あのさ、なんで怒ってんだ?」
「……おこってなんかないです」
「いやいや、怒ってんじゃん?」
「おこってなんかないって言ってるです」
《トリプルチーズケーキ》《七色白玉ぜんざい》《瑞々し過ぎる羊羹》etc……。
テーブルの上に並べられるだけスイーツを並べた姫乃は、今は《男だって愛するティラミス》をご賞味中だ。がつがつ食べるサクラと対照的に姫乃は上品な所作で、とても育ちが出ている気がするが、よく食べる点は一緒らしい。
ただ、どう見てもご立腹で、やけ食いである。
げんなりした俺様は本来バクバクいきたい《ショコラドリーム》を口に運べずにいた。
「はぁ……ったく、せっかく美味いスイーツを食べてんだからよぉ……ちったぁ笑ったらどうなんだ? サクラなんかは超幸せそうに食べるんだがな」
ぼやくと、姫乃の手がピタリと停止した。
「っ――なんでそこでサクラの名前を……だいたい私だって……そうしたかったです」
「ん? なんだ? 声のボリュームが足りなくて聴き取れなかったんだけど」
「……足りないのは、玉藻くんの方ですっ」
「は? 俺様になにが足りないってんだよ?」
「デリカシーとかデリカシーとか、あとデリカシーとかです」
「デリカシーオンリーかよ!?」
「……じゃあ、身長もです」
「おい、そりゃお前のせいだろが」
「お前呼ばわりしないでほしいですっ」
「つ~かそんなに俺様はデリカシー無かったか? 今日は別にまだなんにもしてねぇぞ? そっちが来る前までは少しばかりお前さんのパンチラシーンを考えたが、それは妄想でだしっ」
「あ……ありえないです。あなたはいったい……待ちあわせ中になにを考えてるんですか?」
心底蔑んだ眼で、しかし、次第に声を沈ませながらも告げてくる。
いかん、つい口が滑ってしまった。今のは完全にこちらに非があるな。
「っ、悪かったよ。でもしょうがねぇだろ? 魅力的過ぎて忘れらんねぇんだからよ」
頭を下げたのなんて一体いつ振りだろう? 攻撃力たっぷりの視線ビームに耐えかねたというのもあるが、素直に滑り出てくる謝罪の意は自分でも驚くほど自然だった。
姫乃は眼をまんまるにして固まっていたが、やがて小さく溜息を吐いて、
「忘れられないくらい……ですか。全然、これっぽっちも、ティラミスに混じる仄かな苦みほども嬉しく感じられないから不思議です。お兄ちゃんよりひどいです…………」
ひどくぎこちない無理のある笑みでそう言った。なんとなくだが、おかしい気がしていた。
怒っているのとも少し違う、どことなく不穏な空気が流れていて。
「あのなぁ、あんな本物の変態と一緒にすんなよ。心外だ。健全と言ってもらいたいね?」
「……健全な人はここまで開き直らないです」
「そうか? 俺様は妖だが、男なんざ大概こんなもんだぜ? ムッツリスケベや特殊な性癖持ちより、よっぽど普通だ」
「普通? 普通なら、そうなのですか? 玉藻くんにとっての重要度は……忘れられないものの優先順位は……そういうものなのですか?」
「重要度? 優先順位って――って、お、おい、なんだ? どうした姫乃ちゃんよ?」
会話に妙な食い違いを感じていた矢先、座っていた姫乃が唐突に立ち上がる。
瞬間、心臓をわし掴みにされた気分になった。
だって、よりにもよって姫乃が、今にも泣き出してしまいそうだったから。
今朝は楽しみでさえあった二人の時間が、呆気なく壊れていく。
「これでも……信じてたですよ? もしかしたらって…………そう思ってがんばったですよ?」
「え? は?」
信じる? それがなんのことだかわからない俺様は、ひたすら困惑するしかなかった。
一般的な礼こそ欠いていたかもしれない。不快にもさせたかもしれない。だとしても俺様はあくまで黒天弧玉藻として、これまでと変わらない俺様らしく振る舞っていたはずだ。
そして、姫乃はそんな俺様と過ごしたいからこそ、今日は誘ってきたはずなのだ。
なのに、どうして、そんな辛そうな顔をする?
「……玉藻くん、あなたにとってはそれが普通なのかもしれないですけど、でも、私は違うです。あなたにとっては忘れてしまえるようなどうでもいいことでも……私には、私にとっては……ずっと……なによりも……忘れて欲しくないことだったですっ」
「は? 忘れたって……なに――言ってん……っ!?」
もう、その場凌ぎの声さえ出せなくなってしまう。
堪えきれずに零れ落ちる、姫乃の涙を見てしまったから。
サクラの時と同じ、いや、それ以上に胸が苦しくなって、激しい頭痛さえ伴って、なにかを言わなきゃと思っても、口はまるで言うことを利いてくれなかった。
――俺様は、本当にどうしちまったんだ?
どうすることもできずにいると、涙で濡れた声が刃の如く突き刺さる。
「やっぱりなにもかも覚えてないんですね。あのプリンを見ても思い出せないんですね? 約束したのに……ずっと、ずっと待ってたのに……最低です……本当に最低です……」
――約……束?
姫乃が走り去っていく。思えばいつもそうだ。いつもアイツを追いかけることができない。
動けなくなった情けない俺様は、ただ、痛みだけに蝕まれていた。
× × ×
今夜も姫乃は守護者の仕事に勤しんでいるのだろう。
どれだけ嫌なことがあろうとも、辛くて苦しかろうとも、使命に準じ続ける。
《呪い》を封じているはずなのに、まるで呪われているように。
「プリン、プリン、プリン、プリン、プリン、プリン、プリン――」
対して俺様は自室のベランダで星を眺めながら、大好物の名前を呪詛の如く唱え続けていた。
だって、わからねぇんだ。姫乃に言われた約束ってやつが。
よりによって……泣かせちまった。
なんとかしたくとも、なにもできない。なにも、わからないから。だから――唯一、鍵を握るのがプリンだというのなら、ひたすらそれについて考えるしかないじゃねぇか?
足元にはプリンが三つ入った箱。俺様は食べそびれていたそれをひとつ取り、ほおばる。
口にいれるとどこか懐かしい味わいで、錆びた思考のネジをくすぐられた気がした。
「プリン、プリン、プリン、ぷりん、ぷりん、ぷりん、ぷりん――」
心の歯車が軋む。いったい何時から大好物なのか不明な魅惑のお菓子。残りを見やりながら連呼していると、なんだか卑猥になってくる気が――って、いやいや、そうじゃね~だろっ?
どうしようもない自分を戒めるように殴る。殴った箇所とは異なる胸の奥が、すげえ痛い。
「なにをやってる馬鹿息子め」
柵に寄りかかり悶える俺様の横に、いつの間にかクソ親父の可愛くねぇ使い魔がいた。
「ッ――いきなり出てくんじゃね~よ、なにしにきやがった?」
「決まっているだろう? その後の経過を聴きにきたのだ。しかし、その様子だと芳しくないようだな。口ばかり達者で実に使えぬ愚息よ……それでも我が誇り高き血を引いているのか? もっとも、現状では血など薄まっているのかもしれんが」
「うるせえな、まだ猶予はあるだろ? 邪魔してくる【邪骨党】の手先は排除したんだ。もう少しど~んと待ってろよ」
「ほう。やはりヤツの手の者が入り込んでいたか。新参ながら油断ならぬ偽骸よ。その排除についてはよくやったと褒めてやるが……あいにく、時間が惜しいことには変わりない」
こちらの機嫌の悪さなど意にも介さず、使い魔はとんっと柵を蹴って宙返りすると《妖術》で浮遊しながらあぐらをかいた。
「なんでそんなに事を急く必要があるんだ? ちゃんと理由を説明してもらいたいね」
「決まっている。水戸一族の現・当主が帰ってくるからだ」
「水戸の……現・当主?」
「今、貴様が相手にしている守護者――水戸姫乃の父だ。厄介なあの男が、他の一派討伐に動いて不在中の今が、宿願成就の絶好機なのだ。これを逃すわけにはいかぬ。今の貴様は脆弱な人間だが、それゆえ奔放に振る舞えるのだ。もたもたするでない」
「俺様は人間じゃねぇ……あやか――」
「ふん、ほざくな。半妖が《呪い》を失えば、それすなわち人間よ。元の不出来な妖に戻りたくば、現状を最大限に生かせ。手段は問わぬ」
不出来な妖、その見下しはさすがに我慢できず言い返そうとしたが、
「だが、勘違いするなよ? 今回、貴様が再び水戸の守護者に接近するのはあくまで宿願成就の為であり例外なのだ。八年前のような馴れ合いで目的を見失うでないぞ?」
「ッ!? 今、なんつった!?」
続いて出た耳を疑う発言に、返す言葉を忘れ問い返していた。
俺様は姫乃と知り合いだった? 信憑性の乏しい、しかし、無視できないたった一つのこの情報は、俺様を尋常じゃないほどに狼狽させて、
「おっと、いかんな。歳を取るとどうも口が滑りやすくなる。しかし、どうやらまだ儂の瞳術は効いているようだな」
――瞳……術?
その一言はこれまで足りなかった重大な欠片となって頭の奥底にはまり込む。
途端、脳内が疼いた。小さな疼きだが、それは思考を加速させていく。疼きはやがて万力で締め上げられるような激痛へと変わり、記憶の歯車を刺激していき、
「あ……あぁ……あぁあ……俺様……は……俺……は……」
それにともない不可解だったことへ答えが、パズルの如く組み上がっていく感覚を覚えた。
忘却の彼方から、記憶の片鱗が蘇ってくる。片鱗は次第に、鮮明に広がっていく。
『たまもくん』
映し出された思い出。すべての始まり。そこには、向日葵のように微笑む幼女がいた。
――そうだ。あの日、「俺」は姫乃と約束していたんだ!!
× × ×
八年前。偶然の出会いは満月が妖しいほどに綺麗な夜だった。
『うえぇ……ひっく……』
気ままな散歩中。公園のブランコでひとりうつむき、泣きじゃくる幼女がどうしてか放っておけなくて、俺はそっと声をかけた。
『どうしたんだ? 子供は寝る時間だぜ?』
幼女はびくっとして顔を上げると、その場から逃げるように走りだした。至極当然の反応だったが、よほど慌てていたのだろう。つまずいて、ベチャッと転んでしまった。
『おいおい……だ、大丈夫かよ?』
『う……うぅ――うあぁ~ん』
背負うリュックに潰されたみたいな図の幼女につい駆け寄ると、せきを切ったように声を上げて泣かれた。そりゃあもう大号泣で、こちらとしても人目に付くのは好ましくなくて、不本意じゃあったが、物質具現化で創った包帯を擦りむいた右膝に巻いてやる。
『こ、これでよし、まだ痛むか?』
おかげで大泣きは止まったものの、まだ痛いらしかった。なんとか我慢しているのか眼を擦り、しゃくり続けていて、困った俺は、不本意続きではあったが物質具現化の真骨頂を見せてやることにした。
両手を握り締め、ぬぬぬぬぅんと念じ、てのひらを『はっ!!』っとひらく。
ポンっと出てくるのはセンスが超絶光る渾身の造形物。音に意識が向いたのか、泣き止んだ幼女のくりくりの眼がぱちぱちして、俺の手元と顔を行ったり来たりしていた。
『はっは~、すげ~だろ?』
俺は幼女の長く綺麗な黒髪に小鈴が付いた胡蝶蘭の花飾りを挿してやった。とても良く似合う。かなり整った顔立ちだから将来きっと美人になるだろうと、そんな風に思案していると、
『あ、あや……かし?』
『ん? ああ、そうだぜ。俺は妖、名は玉藻だ。泣き虫なお嬢ちゃんの名はなんてんだ?』
俺は頭部にある狐耳を得意気にピクつかせ、自慢の尻尾をもふもふ振ってやる。
『ッ、姫乃は……姫乃は泣き虫じゃないですっ』
『ん? だってすげ~泣いてたじゃ――って――痛ッ!? コ、コラ、尻尾を引っ張るんじゃねぇ――あ痛だだだッ、も、もげる!? わかった、わかったから』
『わかればいいです♪』
機嫌の良くなった姫乃がとててっと小走りにブランコまで戻り、ぴょんっと飛び乗る。
凛と、鈴の音色が軽やかに鳴る。
『ところで、えっと……たまもくん』
懐かれてしまったようで、いきなりくん呼ばわりだった。俺はお兄ちゃんとかじゃね~のかよと考えつつも、もげずに済んだ尻尾を息でふーふーしながら『なんだよ?』と答える。
『たまもくんは妖なのに、こんなとこでなにをしているんです?』
それは俺の台詞だろ? そう思ったが、別段隠すようなことでも無いので、
『ちょいと親父に怒られちまってよ。だけど、どうしても納得できなくて、やってらんなくなってな……気晴らしに、な~んも考えずに夜の散歩をしてたのさ』
正直に言ってみたものの、こんな小さな子供に愚痴ってどうするのだと答えてから気付く。
たぶんこの頃の俺は、口を開けば【黒天衆】の若頭としてあるべき姿を説いてくる親父に、相当参っていたのかもしれない。言い合いは日常茶飯事、時には我慢だって必要なことはわかっている。でも、その日は人間の、母の血を蔑む言い分が、どうしても許せなかったのだ。
遙かな昔。思い出の中の母さんは、とても優しかった。
そして少なくとも俺が幼少期の親父も、厳しい中にも優しさがあったはずなのに。母にある時を境に去られた親父は、極端に変わってしまった。
男と女、理由はさもありなのだろうが、それからはいつも一方的な言い分。
ガキ扱いされてまともに話合えない俺の鬱憤は堪り込み、心は荒んでいたのだ。
と、姫乃はブランコを小さくきぃきぃさせながら、子供らしかぬ苦笑いでこう言った。
『ふ~ん。じゃあ、姫乃とおんなじですね』
『おんなじ?』
『うん、姫乃もお父様に怒られちゃって……でも、納得できなくて。せっかく、がんばって作ったプリンだったのに……食べもせずに、やるべきことをやれ~って。ひどいです……』
『へ~、お菓子なんか作れるのか? すごいじゃね~か』
甘味好きの俺は素直に褒めていた。そのままとなりのブランコに腰掛ける。
姫乃はブランコの速度を上げる。そして、とんっと飛び跳ね着地すると、
『えへへ、将来はお菓子屋さんになるのが夢なんです――あ、そうだ、よかったら食べてほしいです。自信作なんですよ?』
リュックからごそごそとプリンを取り出し差し出してくる。カラフルなリボンを結んだ小瓶に詰められたそれはとても見栄えが良く、市販されていてもおかしくない代物だった。
『おお、すげ~本格的だな……』
俺は紙のフタをきゅぽんと外し、もらったスプーンで口に運ぶ。
『ッ――旨!? え? お前……すげぇな、こんなに美味いプリン初めて食ったぜ。どこの店のパティシエだよ!? ファンになりそうだぜ』
『お前じゃないです。姫乃です』
『あ、尻尾を引っ張るのはやめてくれ。姫乃……ちゃん?』
悪戯っぽい目付きで握ってきたから慌てて制すと、姫乃はうんうんとうなずいて尻尾を撫でてくる。どうやら引っ張るつもりは無いらしいが、くすぐったかった。
『しかし、こりゃ梅こぶ茶にも合うな』
俺は腰に下げていたペットボトルの梅こぶ茶を飲んだ。
『梅こぶ茶? なんですそれ?』
『なんだ? 飲んだことないのか? ほれ』
ペットボトルを受け取った姫乃は少し逡巡するような素振りを見せたが、進められるがまま口に含み、口を窄めながら小さく唸った。
『にゅぅ……ふしぎな味ですぅ』
『はっは~、お子様の姫乃ちゃんにはまだ早かったかもしれねぇな』
『むぅ』
それから俺たちは、いろんなことを話した。
本当はもっと自由に振る舞いたくて、でも、思うようにいかない者同士だったからかもしれない。歳や種は違えど、似た境遇からか気兼ねせずに語りあえたのだ。
姫乃は言っていた。あまり外に出れないから、友達がほとんどいないこと。優しい兄がいるけどちょっと変わっていること。厳しい家で毎日辛いことがあって今日は特に辛かったこと。
だけど辛いだけで終わらなくて良かったと、姫乃は俺に微笑んで、俺もいつの間にか微笑み返していた。笑い合うと心が軽くなって、プリンの甘さもより深まった気がして。
『気に入ってもらえてよかったです。でも、じゃあ――』
また食べて感想をきかせてくれるですか? たまもくん?
姫乃は、はにかんでそう言った。
『もちろんだ。そうだな……親父の眼もあるからすぐにはちと厳しいが。でも、次に月が満ちる夜には、必ず、また食いにこの場所へ来るよ』
『ホントです? ぜったいですよ? 私……まってるですからね?』
『ああ、俺はお前のプリンのファン第一号だ。嘘はつかねぇよ』
『じゃあ……ゆびきりするです』
『へ? ま、まぁ、いいけどよ』
姫乃がそろそろと出した小指に、俺は自分の指を絡めた。
『ゆ~びき~りげ~んま~ん、う~そつ~いた~らそ~のし~っぽをひ~っこぬく♪』
『おいおいこえ~よ……』
『えへへ、ゆ~びき~った♪』
俺は少々引き吊りながらまた一口、さらに一口とプリンをほおばる。
やがて瓶がからっぽになる頃には、なんだか名残惜しさが募ってしまう自分がいた。
『あ……もう食い終わっちゃったかぁ』
『ふふ、大丈夫です。まだまだあるんで、よかったらどうぞです』
その月下に咲く希望に満ちた向日葵のような笑顔は、心に癒しを与えてくれた。
偶然出会った幼い姫乃に、俺は救われていたのだ。
けど、この時は思いもしなかった。俺のせいで、この笑顔が無残にも散らされるなんて。
『この大馬鹿者がぁッ!!』
幻魔城に帰還して早々。
城を壊す勢いの怒声が響き、俺は成す術無く首領の間の石壁にめり込まされていた。
『げはっ!? 痛ぅ……そ、そこまでキレることかよ? 俺は……ただ、プリンを食ってきただけ――がああッ!?』
頭蓋骨が軋む。俺の顔を潰さんばかりにつかむ親父は、眼が血走っている。どうやら使い魔ですべてを見ていたらしいが、
『黙れ。貴様が馴れ合っていた子供は、我等の宿願を邪魔する水戸の人間だ』
――姫乃が、水戸の人間!?
俺は激痛に喘ぎながら困惑していた。
『若頭という立場でありながら大した成果も挙げないばかりか、よりにもよって憎き水戸の人間、それも守護者候補の女と馴れ合うとは……いかに愚息といえど言語道断ッ』
『ッ!? ギャアアアアアアアアアアア!!』
荒れ狂う真紅の雷閃。怒りの妖雷破が首領の間に迸った。
――やべぇ……ガチで消される?
『幻夢様ァ……お願いでございます。どうか、どうかお怒りをお鎮め下さいっ』
朦朧とする意識の中、配下の猫娘たちの悲痛な声が聴こえた。
『玉藻様は我等にとって必要でございます。どうか御慈悲を……御慈悲を』
震える声での嘆願が親父に届いたのか、それとも消す寸前まで追い込むことが目的だったのか。ともかく、蛇の如くのた打ち回る妖雷破は停まった。
親父の手から解放された俺は、ずるずると腰を落としていた。
『『『玉藻さま!?』』』と猫娘たちが心配するように駆け寄ってくる。
『ふん、愚息よ。これを観るがいい』
親父は物質具現化で大きな水晶玉を造りだし、宙に浮かべた。
俺はそこに映し出されたものを見て、全身が粟立った。
暗がりで柱に縛り付けられているのは姫乃で、その姫乃を硬鞭で幾度となく叩きつける男がいる。歳は四十前だろうか。口周りに髭を携え、とても厳格な雰囲気を醸し出しながらも、眼はギラギラと血走っている。さきほどの親父のように。
姫乃は泣き叫んでいた。その涙が網膜に、心に焼き付いてくる。俺を癒してくれた笑顔は欠片も残っておらずひたすら苦痛に蹂躙されていて、瞳は希望を埋め尽くす絶望で染まり、
――おい、なにしてんだよ?
――そいつが、なにをしたってんだ?
――どうして姫乃が、こんな責め苦を受けなければならねぇ?
『惨いとでも思ったか?』
俺の胸中を読み取ったかのように、親父は述べてくる。
『あれが現・水戸の当主……水戸国光だ。忌々しい相手ではあるが、こと躾に関しては儂と同じ考えを持っているようだ』
『しつけ……? アレが……?』
俺は呻いた。身体の奥が激しく波立っていた。
と、水晶に映る水戸の当主とやらがこちらを向いた瞬間、映像が途切れる。おそらく親父の使い魔が排除されたのだろうが、しかし映像が途切れてなお、胸中のざわめきは収まらず。
『ふん、上に立つ者は得てして責任がある。ゆえに立場を軽んじる者には相応の罰を与えねばならん。そうでなくては成り立たんのだ。奴は一族、儂は一派、目的は違えどまとめ上げなければならんという点は同じ。そして罰を与えるのは、その相手にそれだけ期待しているという気持ちの裏返しでもある』
『期待……だと?』
『そうだ。だから甘やかすことはせん――』
『ッ、ざっけんなぁあああああああああああああああああああああああああ!! そりゃただの押し付けだろうがっ。守護者だぁ? 宿願だぁ? はっ――んなもん知ったことかぁ!!』
気付けば感情が爆発していた。ずっと腹の中に溜まっていた想いを全部吐き出し、親父に背を向けると、絶句したまま身動ぎしない猫娘たちもそのままに、身体を引きずり外へ向かう。
『待て……どこへ行く気だ?』
背後から親父の低い声がした。
『決まってる。姫乃を泣かしたあのくそじじいを、シバき倒しに行くんだよ』
『貴様が手に負える相手ではない。なにより、そんな勝手は許さんっ』
『うるせえ、俺は……もう……俺の動きたいように動く!!』
痛みすら忘れ、立ち上がり、首領の間を後にしかけた、その瞬間だった。
『勝手は……許さんと言っただろう?』
一瞬のうちに正面へ回り込んだ親父が、俺の胸倉を乱暴につかみ持ち上げる。
『まったく、つくづく愚かだな。だが、それでも貴様は儂の息子だ。消されずに済ませることを慈悲に思うがいい』
『ッッッ!!?』
額を擦りつける勢いで顔を近づけられた俺は、親父の憤怒と憐憫を溶け合わせた深淵のような瞳と眼を合わせると、視界が歪み――そして、なにも視えなくなった。
× × ×
すべて、思い出した。親父の瞳術、俺のそれとは違う完成された《魅了》を受けた俺は、記憶を消され、それからずっと眠らされていたのだ。
八年間……ずっと。それはあまりに長すぎる時間だった。
あのあと、もし姫乃が、あの場所で俺を待っていたとしたら……。
いや――。もしじゃなく、待っていたのだろう。
『私……まってるですからね?』
その結果、たとえどんなめに遭うとしても。約束、したから。
『期待していたのに……最低です。本当にがっかりです』
「はぁ……はぁ……はぁ……あ……ぐぅ」
――そうだな。その通りだよ。最低だ。
なんのことはない。姫乃をあんな風に殻へ閉じ込めちまったのは、この俺だったのだ。
空に浮かぶ月は何も語らないが、その柔らかな月光に照らされていると、俺はどうしようもなく負い目を感じてくる。
不規則に跳ねる鼓動で息苦しさに喘いでいても、親父の使い魔は何食わぬ顔で。
「余計な詮索より、儂の言う通り動いていればよい。それが【黒天衆】全体の利になるのだからな。自らの立場を重んじ、今度こそ若頭として挽回してみせ――むぐぅ!?」
「親父……俺はこの仕事降りるぜ。立場なんか、もう……クソ食らえだ」
気付けば使い魔の首根っこを乱雑につかんでいた。
ずっと固執してきたものが、どうでもよくなっていた。
怒りの増幅が停まらない。真実を隠した親父への怒り。姫乃を苦しめるしがらみへの怒り。
そして、なにもできなかった、自分への怒り。
「っ……なにぃ? 儂に刃向うとは……貴様、元の姿に戻りたくないのか?」
「戻るさ。必ず……な。だけど、こっからは【黒天衆】の若頭としてじゃねぇ。ひとりの男として……黒天狐玉藻として……動く。どこまでも、やりたいようにな」
「ふざけるなっ!! そんな真似は……絶対に許さん」
「はっ、許してもらうつもりなんざね~よ」
《呪い》を封印されているはずなのに、自然と力が溢れてくる。親父の言い分に反応するように、いつしか、てのひらから光が滲んでいた。妖気じゃない。まるで霊気、だとすればこれは俺に半分流れる人間の、母さんの血の――。
なんだか、母さんに背中を押された気がしていた。黒天狐玉藻は、それでいいのだと。
「俺様に指図すんじゃ……ねぇ!!」
俺が自分を俺様と呼称していたのは、もしかしたら記憶を封じられてなお親父に抗いたかった証なのかもしれない。
未知の光はぐんぐん膨張する。気付けば相手の断末魔さえ呑み込み、炸裂していた。
「…………ふぅ」
俺は消し飛ばした使い魔を構成していた《呪い》を吸収しながら、今の自分が姫乃に対してやれることを考えた。ようやく思い出せたのだ。なぜ姫乃に惹きつけられていたのかも理解できたのだ。申し訳なさで苦しかろうとも、後悔で立ち止まっている場合じゃない。
できることはあるはずだ。泣かせたままじゃ男じゃねぇ。
吸収した《呪い》により頭部にはなつかしき狐耳が戻る。完全体にはまだ遠いが、隻眼だった眼は治癒し、十全では無くても視力が妖のそれを取り戻したことを実感していると、
「つくづく救えんな、この愚息は」
使い魔は消したはずなのに、憎らしい親父の声が。慌てて四方八方見るも、姿は視えず。
しかし、異変はすぐに起こった。
――な、なんだ……これ?
金縛りにでもかかったように身体が動かなくなったかと思えば、黒い斑点が猛烈な勢いで肌を覆っていく。さらに周りを囲むように帯状の瘴気が幾重にも伸び――
「黒呪転送」
親父のその一言で、俺は激しく蠢く瘴気に呑みこまれていく。
ベランダに残された思い出のプリンが視えなくなるのに、さほど時間はかからなかった。
× × ×
冷水を頭から被せられたのか、途切れた意識が戻ってくる。
親父の使い魔に仕掛けられた《妖術》で強制的に連れ戻されてから、もうどれくらい経っただろうか? 俺はしたたる水滴に顔をしかめながら、辺りを見渡した。
灯りはカビの生えた壁にそなえられた小振りな松明のみ。幻魔城の中でも極めて陰気な地下牢獄での仕置きは、俺の時間感覚を奪っていた。
――俺を待っていた姫乃も……こんなめに遭わされたんだろうか?
「気分はどうだ? 馬鹿息子よ」
両腕を組んで仁王立ちする親父が、蔑む表情でそう言った。
「へ……手足を拘束されて鎖で吊るされてりゃ安眠できるわけねぇだろ? おまけによぉ……寝起きにそんなツラ見せられちゃ……マジで最悪だ――ぐ!? ああああああ!!?」
「ふん。まだ元気そうでなによりだ。人質として相手を効果的に刺激するには、苦しむ声が必要だからな」
親父は妖雷破を繰り出しながら、邪悪な笑みを零す。
「が……ふ!? なんだ……それ……。どういう意味……だよ?」
「愚息よ。真の策士が目的の成就に弄する策は、幾重にも張って確実性を持たすのだ。儂がなぜ正面からぶつかって勝機の無い貴様を、水戸の守護者に近づけたか……」
より笑みを濃くした親父は、吐き捨てるように続けた。
「その真意は……貴様を人質として成り立たせる為よ。元々貴様と馴れ合っていた女であれば情も移りやすく、可能性は大いにあると儂は読んでいた。貴様を餌に幻魔城まで誘い出せればこの儂も動けるし、その間に守護者不在の【封印の地】へ【黒天衆】の精鋭を多数送り込めば……クク……。守り人の無い御神木を砕くことはそう難しくない」
妖雷破の威力が、じわじわと上がる。
「!? ぐあああああああああああああああああ――」
「クハハハ。すでに儂の手の者が水戸の守護者の元へ赴き、持たせた水晶でこの有様を見せている。さぁ、どこまでも期待外れな愚息よ……安心して存分に絶叫しろっ。なに殺しはせん。今は若頭として使えなくとも、駒として成すべき役割を果たせッ」
――はっ、来るわけ……ねぇだろ?
気が遠くなるような責め苦を受けながら、俺はそう思っていた。
んなもん策になってねぇんだよ。穴だらけ過ぎて笑えねぇ。
だって、俺はアイツを泣かせちまった。まだ、傷つけたままなんだ。
それに……。そうじゃなくたって、姫乃がこんな俺を助けに来るわけが……
ドン!!
いきなり、城全体が揺れた。
「一大事です幻夢様。誘いに乗った水戸の守護者が、城内に踏み入ってきました。近衛隊はすでに壊滅。黄金に染まった標的は凄まじい勢いで……わ、我等には止めようがありません」
間を置かず血相を変え走ってきた猫娘のひとりが、報告に現れる。
――嘘、だろ? なんで?
「ち、じゃじゃ馬め。さすがに一筋縄ではいかんか。だが、これも儂の想定の範囲。これで策は九分九厘なったも同然……。精鋭隊は予定通り【封印の地】へ向かったか?」
「はい。【黒天衆】の誇る幹部八人がすでに現地へ赴いております。幻夢様の読み通り、他の一派は完全に出し抜いたかと」
「よし。では本丸を落としている間、守護者は儂がじきじきに相手をしてくれよう。クク――久方ぶりの闘争、腕が鳴るわい」
親父は手の節をバキバキと鳴らすと、俺を放置して霧のように姿を消してしまう。
「姫乃……なんで……なんで来たんだ? どうして……」
「玉藻様、女心は殿方には読めぬモノでございますよ」
猫娘も寂しげに呟き、駆け去っていく。
「……なんだよ……そりゃ?」
「殿方には読めない、か。あいにく、長く傍に居る某にも読めませんよ」
と、静寂の中、松明の火が揺らめき、薄暗い影から分離するように見知った顔が現われた。
「ッ――!? お前は……お銀?」
「その節はどうも……。それにしても、あなたは縛られるのがお好きなのですか?」
いったいどこから侵入してきたのか。冷ややかな目をしながら歩み寄る女忍は、《魅了》の一件を根に持っているのか「ざまあみろ」と馬鹿にしくさった表情で告げてくる。
「んなわけね~だろ。つ~か何しに来たんだ? 無様な俺を笑いにでも来たのかよ?」
「本当は……そうしたいところですがね」
お銀はふぅと息を吐き、腰に差した忍刀を素早く抜刀した。
あまりの速度に再度《魅了》する間もなく問答無用にやられるのかとも思ったが、そうではなく、それまで俺の自由を奪っていた拘束が、瞬く間に切り裂かれた。
「某は忍。あるじの命令は絶対ですから。あなたなら拘束さえ解けば脱出できるでしょう?」
床に倒れ伏せた俺は、堪らず問いかけていた。
「なんで俺を……いや、そもそもなぜ来たんだ? 【封印の地】の守護はどうした?」
「……お務めである守護の任は、今夜は弥七殿がしておられます」
それは苦肉の手段だったのか。《呪い》の封印ができずとも、【封印の地】を一時的に護れればいいといった考えがうかがえたが。
あの変態のことだ。どれだけ俺を嫌っていても大好きな妹に頼られたとあっては、了承せざるを得ないだろう。あるいはサクラになにか諭されたか。
しかし、弥七がいかに強かろうと、【黒天衆】の精鋭は有象無象の集団じゃねぇ。
いくらなんでも多勢に無勢。無茶が見え見えだった。
「わかんねぇ、全然わかんねぇよ」
「……わからない、とは?」
「なぜそうまでして姫乃は、こんな俺を助ける?」
「っ、某が知りたいくらいだッ!! 城に踏み込んだからには最早退けんっ。行くところまで行かざるを得ない。それは、こちらにとって多大なリスクなのに……」
俺の問いかけに、お銀は苦々しくそう言い放ち、続けた。
「トラウマの象徴である《破羅門》化をあれほど嫌がっていたのに。よりにもよってその力を振るってまで、元凶である貴様を助けるなど――」
「俺が、元凶? なんだよそれ……」
俺の知らない情報。中でも重要な気配を孕んだその一言には尋ね返さずにはいられない。
が、そんな態度こそが気に入らないとばかりに、お銀は苛立ちを隠そうともせず叫んだ。
「く、これだ。当の本人はなにも知らないのだからまったくもって腹立たしい。いいだろう、貴様の罪を教えてやる……その生え戻った狐耳に刻むがいいっ……姫が発動するあの力――《破羅門》は水戸一族の中でも姫のみの特異能力。感情の昂りが一定値を超えた際に、異性に触れられることで発動するが、しかし、それは元からあった代物じゃない。信じた貴様に裏切られた幼き頃の姫が、自己の安定を保つために生み出した別人格なのだ」
「な――ッ!?」
絶句する俺に、お銀は畳み掛ける。
納得できないとでも言いたげに、荒ぶる声を、これでもかとぶつけてくる。
「貴様との出会い以降……姫は生まれ持った水戸の力と立場に絶望し、喜怒哀楽の感情の内、喜と楽の心のほとんどを切り離してしまっている。そして、身に宿した霊力の大半と共に別人格へ押し付けたのだ。結果……裏人格の金色の姫が生まれ、表の姫は……あのように素直に笑えなくなったのだ。妖の貴様にさえ、貴様にさえ出会っていなければ……姫は、姫は――」
姫乃の、心の絶対領域の開示。
それはなぜ彼女があれほどまでに正反対な性格になるのかを腑に落ちさせた。
お銀の言葉が真実だとすれば、俺は本当に罪深い。
あの時、俺が親父を振り切って救ってやれていれば。
あの夜、あんな約束さえしなければ。そもそも、出会ってさえいなければ。
水戸姫乃はトラウマなど抱えず、もっと自然に、笑顔でいられたのかもしれない。
元凶、すべては、この俺のせい。この黒天狐玉藻のせい。
そう考えると後悔を嫌う俺であっても、後悔せずにはいられなかった。
俺はアイツに会う資格なんかないんじゃないのか?
一体どのツラ下げて会えっていうんだ?
そんな負の連鎖は、出口の見えない思考の迷路に俺を引きずりこんでいく。
再び、城が大きく揺れた。それは闘いの激しさを、読み取れない姫乃の心を物語るようで。
「……すみません」
間を破るみたいに、お銀がそう言った。
「え?」
「罪と言いましたが――傍に居た某とて……立場に苦しむ姫を救ってやれなかったのは事実。あなただけを責めるのはお門違いでした。見苦しいところをお見せしたこと、お詫びします」
急にしおらしくなったお銀は、くるりと背を向ける。
「ただ、悔しかったんですよ。あの消極的な姫が、あなたにだけ、ここまで執着するのが」
「執着って、おい――待てよ、どこへ行く気だ?」
「しれたこと。姫の元に戻ります。いかに《破羅門》化が強力であっても、相手は千年を生ける災厄、黒天弧幻夢。あるじを護る兵は、闘う強者は多いほうがいいっ」
そう告げ、振り向くことなく彼女は去ろうとするも、「あ」と唐突に、なにも無いトコロでつまずき、見事なくらい派手に転んだ。
シリアスな雰囲気を台無しにしつつ、お銀は恥ずかしそうに立ち上がると駆けていく。
つい笑えてしまった。最後が締まらないドジっぷりはともかく、俺へぶつけてきた忍びにあるまじきその猛りは、あるじに肝心なところを打ち明けてもらえない八つ当たりだったのか。
それとも――。
「へっ……へへ……ったくよぉ、どいつもこいつも勝手なもんだな」
不満を漏らしながらも気分は悪くなかった。なんだか自分自身を見ているようだったから。
後悔から始まる思考の迷路は、おかげで出口への光が見えた気がした。
結局、なぜ姫乃が助けに来たのか不明のままだし、約束を守れなかった俺は胸を張れない。
それでも、情けないし身勝手だとはわかっていても、俺はアイツに会いたかった。
会って、声が聴きたい。笑顔が視たい。
やっぱりどこまでも我儘な俺は、足を引きずり歩き出す。妖雷破によるダメージは甚大だ。大火傷に加え、裂傷と擦過傷により全身ズタボロで、万全な状態からは限りなく遠い。行ったところでなにも出来ずに終わる可能性が大きかったが、まだ動ける。だったら、踏み出せる。
「待ってろ……姫乃」
やるべきことが決まれば、もう迷いは無かった。
俺は姫乃に聴きたいことがある。言いたいことがある。言葉は万能じゃないから、きっと言い訳がましくて、ひょっとしたら男らしくなくて、たぶんみっともないかもしれない。
だけど、言葉にしなきゃ伝わらない想いだってある。この時、俺はそう思っていた。
地下を出るとすでに城内は妖の残滓たる《呪い》が散乱し、それは首領の間へ近づく度に濃くなっていく。さらに衝突音と粉砕音、怒号と悲鳴も大きさを増していく。
急く気持ちに反し、俺の動きは鈍重だった。
ふらつきながらも首領の間へ辿り着くと、やはり熾烈な大乱戦が繰り広げられていた。
実力者ぞろいの精鋭隊が出払っていても【黒天衆】の本拠地ゆえに、妖の粒は揃っている。
しかし、侵入者は皆一騎当千の実力者だったようで――俺は思わず目を見張る。
「破ァ!!」
数にものを言わせて巻き付き襲いかかる一反木綿たちを、残像すらできる素早さで翻弄し対象を一太刀で確実に仕留めていく女忍・お銀。
「……笑止」
首領の間の番人にして腕力なら一派最強の巨体妖ぬりかべを、無表情で軽々と背負い投げ、腕の関節を極める変身した護法双鬼・格。
「はんッ、なめんじゃね~すっ!!」
さらに親父の直属の配下である猫娘たちの疾風怒濤の狂爪乱舞を、大太刀で巧みにさばき続ける変身した護法双鬼のクソ鬼・助。
そして、部屋の中央では激突を繰り返す金と紅の輝き。水戸姫乃 VS 黒天狐幻夢。
上限知らずの別次元の二つの技は応酬し合い、ぶつかるたび苛烈な波動を引き起こしていた。
「さすがに……わっちを逃がしてはくれんようじゃのぅ」
「クハハハハ……やりおるな。こんなに力を振るったのは久方ぶりよ。実に、実にッ……愉快なりッ。では――これならどうだ小娘ぇッ」
親父がすでに突き破られた天井を抜け空へ跳躍――《破羅門》化した姫乃の頭上をとると禍々しい紫電の奔る極大の楕円体を放つ。まるで小隕石を彷彿とさせる規模の妖雷破は大気がおびえるような震撼を生み、飽くほど喰らい続けた俺の知覚までを狂わせていく。
そんな恐怖の対象に向かい合う姫乃の、羽衣のような髪がたなびく。
「くっ、なんの……あなどってもらっては……困りんす――青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝久・文王・三台・玉女――」
左手で印を結びながら、美しく光芒を引く右の手刀が九芒星の陣を描き、
「導ノ輝三乃段、裏……鈴鳴円」
唱えると陣は大量の鈴が弾けるような音と共にぐにゃりと歪み、彼女の正面へ大きく展開する。状況的におそらく、敵の術を弾き返すつもりだったのだろう。
これだけの規模の妖雷破を打った直後に跳ね返せれば、流石の親父でもただでは済まない。
まさに逆転の一手のはずだったが、しかし、
「やはり、まだ青いな……」
途端に親父の口元は最大級に吊り上がり、眼は完全に勝ち誇っていた。
放った楕円体が荒々しく裂ける。左右へ別れた稲妻。竜の如くうねり、姫乃の陣壁を逸れると、雷咢を側面から姫乃へ向けた。
致命の読み違いに、強気だった姫乃の表情があきらかに震慄する。
助が、格が、お銀が、あるじの危機を察知し、身をひるがえす――
「姫乃ぉぉおおお!!」
――よりも速く俺は疾走していた。間にあえと必死だった。燃えるようななにかが全身を駆け巡っていて、ダメージで動きの悪かった身体が嘘のように軽かった。
疾く。もっと速く。力強く地を蹴りつけ、全力で手を伸ばす。届けっ!!
姫乃の驚きに満ちた瞳と視線が交じった刹那、俺は彼女を突き飛ばして……………………
× × ×
「――ヌシよ……しっかり、しっかりせいッ」
意識の淵より、誰かが呼ぶ声がする。何度も、何度も、呼んでいる。
擦れて消え入りそうなその声に導かれるように、俺は重たいまぶたを開いた。
「……ひめ……の?」
目の前には、潤んだ瞳を金と栗色にゆっくりと明滅させる姫乃がいた。
大人びても視えるし、幼くも視える。とても不確かな状態で俺を抱きかかえている。
「へ……へへ、ひざまくらでお目覚めたぁ……実に男冥利に尽きるぜ。いいふとももしてるじゃね~の、姫乃ちゃんよ」
「――っっ、ばかもの……こんなときまで――とことん、あなたは最低です。なんで……なんで、こんな無茶をしたんです?」
老獪な口調を崩す姫乃が、駄々っ子みたいに俺の肩を叩いている。
でも、俺はそれを感じとることができなかった。痛みや熱さや痺れも無く、少し――寒い。
あれほど混沌としていた戦場が、いつのまにか静寂に包まれている。
助も、格も、お銀も、配下の者たちも……戦闘を停止していた。
あの親父でさえも、俺の有様にピクリともせず眼を見開いたまま固まっている。
「なぜ、か。ただ、そうせずにはいられなかったんだよ……姫乃もそうじゃないか?」
俺がそう告げると姫乃は口を開きかけては閉じ、うまく出せない声をしゃくりあげる。綺麗な瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ、俺の顔を濡らしていく。
姫乃がリスクを冒してまで此処に来た理由。それはたぶん、理屈じゃ説明できない俺と同じなのだと、こんな風になってようやく気付く。
「ごめんな――泣かせてばっかで」
やっと言えた謝罪の言葉。伝えたかったのは何の工夫もない、装飾の欠片も無い裸の想い。
俺はかろうじて動く左手を伸ばし、姫乃の頬を伝う涙を指先で拭った。
俺の手に姫乃は自分の手を重ね添えてくれた。小さく震えていた。触れているのに、いつかのような《破羅門》化はうかがえなかったから、ようやく彼女の殻が破られたかにも視えたけれど――当の彼女は、笑顔じゃない。
「ごめんな……約束……忘れてて。ファン失格だよな。ごめん…………ごふっ!?」
「――ッ、玉藻くん!? 玉藻くんッ!!」
吐血した瞬間、力が抜け落ちる。落ちかけた俺の手を、姫乃はしかとつかんだ。
「が――ぅぅ……は、はは、あ~あ……失敗しちまったなぁ。こんなことなら……意地でもあのプリンを……全部食っときゃよかったなぁ」
「っ、食べて……くれたですか?」
「最高に美味かったよ。もう、食えないのが……すげ~心残り――」
「なにを、なにを弱気になってるですか。気をしっかり持つですっ。このままじゃ許さないです……もっと……もっと食べてくれなくちゃ……絶対に許さないですっ。こんどは、こんどは……さらにおいしくするです。隠し味だって……まだ…………だから、だから――」
ぽたぽたと降り注ぐ悲しみの涙雨。違う。俺が視たかったのはこんなんじゃないのに。
笑顔にもしてやれず、涙を拭ってやりたくても、もう、指一本、動かせそうになくて。
なにもしてやれない自分を恥じるように、俺は「ごめん、な」と呟くしかなかった。
落ちてくる姫乃の涙に混じって、頬を伝うなにかは、くすぐったかった。
「っっ――だめです……だめ……です。いつもみたいに、もっと、ふてぶてしく自信たっぷりにしろですぅぅうううううううううううううううううううううううううう!!」
姫乃の叫びが遠くなっていく――。
――ふてぶてしく、自信たっぷり……か。
そうだよな。このままじゃ、あまりに格好悪いし、なにより俺らしくない。
「髪飾り……まだ……付けてくれてたんだな……よく似合ってる」
俺がかつて贈った胡蝶蘭の花飾り。その鈴音が微かに響いた。
視界はすでにぼやけていて、姫乃の顔は、もうまともに見えない。
しかし、それでも俺は最後の力を振りしぼる。絶え絶えの息を、呑みこんで口にする。
「へへ……この俺がこんなにハマるなんてよ……誇っていいぜ?」
お前は、こっちが参っちまうくらいにイイ女だよ――姫乃。
……………………。
最後の声が届いたかどうかは知覚できなかった。もうなにも視えない、なにも聴こえない。
意識が冷たく暗い海に沈むようだ。凍えそうな寒さだけがこの身を支配している。
不死の妖ではありえない現象、《呪い》への分解とも違う感覚。
ああ、これが――死か。
三百年生きて自分が死ぬなんて考えたことも無かったけど、実際にこうなるとやり残したものが沢山ある気がする。後悔しないように、我儘を貫き通していたはずなのに……。
一番の……心残りは、やっぱり――
俺がどうにもならない葛藤をしつつ、暗い海の底へ辿り着きかけたその時、
とても優しい温もりが、唇に触れた気がした。
「!!? ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――」
死を匂わせた海の底より、意識が強制的に浮上する。
太鼓を打つみてぇな脈動が始まり全身が焼け付くような熱を持っていた。獣よりも荒々しい雄叫びが自分のモノだと気付くのに数秒かかった。何が起きているのか理解不能であっても、迸る力の激走は収まらない。服を裂き、白と紅の紫電が乱れ狂う《霊気》とも《妖気》とも異なる奔流内で、いったい、どれだけ咆哮し続けただろう?
整わぬ呼気を浅く繰り返し、俺は、自分の身に何が起きたのかを遅まきに悟った。
「カハッ――ハッ――ハッ――ハ……ま、さか……戻っている?」
そう。俺、黒天狐玉藻は元の完全体として構成されていたのだ。腕や足の長さはもちろん、筋肉もしなやかでありながら力強いそれだ。自慢の尻尾は変わらず美しい毛並みで、髪の長さも封印前の状態に直っていたが、異なる点もあった。
胸から右腕にかけての広範囲に部族的紋様の如く、幾何学的な曲線が刻まれていて、
「ありえんっ。こんなことが……」
親父がたじろぐ。見渡せば俺の復活劇に唖然としたのか、配下の連中が注視していて、
――っ、そうだ、姫乃は?
俺が振り返ると、そこにはすでに助と、そしてお銀がいた。床に横たわるあるじを護るようにこちらへ厳しい表情を向けており、格だけが姫乃の身を案じていた。護法双鬼の二人は変化が解かれ子鬼の状態である。
「お前等……姫乃は……」
「それ以上近寄るなっすっ」
助が吠える。構えた刃の切っ先は畏怖を示すよう小刻みに震えていた。
お銀は腰に差した苦無をいつでも放てる格好で停止している。
よほど俺の変貌ぶりが尋常ではなかったのか、二人とも警戒心が剥き出しだった。
元から信用されちゃいなかったが、この様子では姫乃の安否確認のしようが無い――
ヴーン……ヴーン……ヴーン……。
と、緊迫した空気を破ったのは着信のバイヴ。出所は俺が破り裂いた服の破片からで、ひとまずスマホを拾い上げ画面を見やると、そこには犬の文字が踊っていた。
「もしも『出るのが遅いっ。何回かけても?がらんから、死んでも~たんかと思ったやろがっ』
とりあえず出た途端、サクラの割れるような怒鳴り声が音漏れした。
耳が、きーんとする。どうやら落とした際にスピーカーがオンになっていたらしい。うるさすぎるので解除しようにも壊れているのか戻らない。親父の妖雷破を散々喰らって作動しているだけマシだが、そのあたりはスマホカバーのおかげだろうか? ううむ。通販侮りがたし。
「…………っ、そいつは悪かったな。ひとまず俺は生きちゃいるが、今はお前のせいで鼓膜が破れそうだ。声のボリュームを下げてくれ。会話にならん」
『この、どんだけウチが心配したと――あ、弥七、まだウチが話してる途中――』
『玉藻っちのあほー』といったサクラの喚きが遠くなり、代わりに『無事でなによりだ、姫に感謝したまえよ? 黒天狐くん』と聴こえてくる。
「随分涼しそうな声だな? そっちにゃ【黒天衆】の精鋭が行ってるはずなんだが」
『ああ、今しがた秘策を持ってすべて片付け終わったところさ。さすがに骨が折れたがね』
「はぁ? いったいどんな手を使ったんだよ。ウチの幹部共は雑魚妖怪の集まりじゃ……」
『ふっ、企業秘密だよ』
お前はサラリーマンか。そうツッコミたくなったが、仮にも弥七は水戸家に使える一族、やはり、相応の手段が無ければたとえ一晩でも守護者の任を請け負ったりしないのだろう。
幹部全滅の報に場がざわめき出すが、
『でも、まだ《呪い》が浮遊した状態だ。できれば早々に封印してもらいたいんだが、姫はそこにいるのか? さっきから電話しているんだが、一向に?がらなくてね』
「っ、姫乃は……」
話題が移り口をにごす俺に、格が「無事」と告げてきたことでひとまず安堵を得たが、
「ですが姫は……禁術の反動で今暫し動けません」
お銀が付け加えたそれを聞いた弥七が絶叫する。
『なにぃ!? よりにもよって禁術をぉぉ? き、貴様ぁ――』
「その禁術ってのはなんなんだよ? 姫乃は……いったいどうしちまったんだ?」
困惑気味の問いかけに、助が重苦しい雰囲気のままこう言った。
「……吸引された《呪い》を、姫は意図的に逆流させ解放したんすよ。本来、呪封経絡は一方通行で、解放するようにはできていないっす。それを無理やり行うのが……禁術。当然、身体への負担は並じゃないっす」
つまりどうやってかは知らないが、俺がずっと求めていた元に戻る為の別手段を、姫乃が取ったってことらしい。
「……実際、姫が禁術を使ったのはこれが初っす。まだ不明な点の多い術っすが、本当ならてめぇを救える最低限の量だけ《呪い》を解放すればよかったはず。でも、調整できなかった。結果、ケタ外れの量が逆流し、妖の一線を越えたてめぇを、化物を生み出したっす」
「俺が……化物?」
「そうっす。その身体に刻まれた禍々しい模様は……化物の証に他ならないっす」
「違うな、それは神域。森羅万象における絶対的な領域に近づいた証よ」
俺たちの会話に、親父が割って入る。
「まさか、たかだか三百歳の貴様が《空弧の紋》を発現させるとは……。本来、闇に手を染めずに千年を生きねば発現する代物ではないのだが、これも半妖ならではのことなのか……クフフ。どうやら、もう貴様を愚息とは呼べなくなりそうだな」
親父はゆっくりと歩み寄りながら、手を差し伸べてくる。
あれだけの仕打ちをしておきながら、一切悪びれる様子は皆無だった。
「守護者不在でありながら、【黒天衆】の精鋭がやられたのは完全に想定外だったが……これはお釣りがくる事態よ。さぁ、我が息子よ。その力を持って【封印の地】へ赴き、我等が宿願を果たすのだ!! 純粋な妖気ではない貴様の力であれば他の一派に気取られる心配もない。成功させればこれまでの失態――すべて不問にしてやらんこともないぞ?」
生きる災厄。千年の時を生きる妖・黒天狐幻夢は、最強にして最凶。
薄い笑みを浮かべていながら、その薙ぎ倒すような圧迫感は敵対者の戦意を瞬く間に削ぐ。
あるじを護る三者は苦しげに眼を伏せていた。電話の向こうも静まり返っていた。
頼りの水戸の守護者が戦えぬ今、誰も太刀打ちできないことは明らかだったのだろう。
「おおおおッ」「ついに【黒天衆】が天下を取るのですね?」「宿願がついに……」
代わりとばかりにそれまで大人しかった配下たちが騒ぎ出すが――ったく、どいつもこいつもよぉ。つくづく、な~んもわかっちゃいねぇんだな?
俺は小さく息を吐いて、横たわったままの姫乃を見やる。
――ありがとよ、お前に貰ったチャンス……活かさせてもらうぜっ。
「……けっ、で? そんな大層な存在のお狐様は、今後どうなさるおつもり――」
助が諦めの境地に陥ったような皮肉を吐きかけた瞬間、
「うるせぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
俺は身体に満ちた力を意識的に解放。吹き荒れる闘気の奔流に、再び視線が集約する。
「神だぁ? 化物だぁ? はっ、知ったことかよ。この俺様を誰だと思ってやがる!?」
言葉を失っている助を一瞥後、周囲をぐるりと見やる。ふてぶてしく、ゆっくりと。お銀と見つめ合い、猫娘たちと見つめ合い、最後に、この場において一番の脅威に向けて吠える。
それは俺が俺らしくある為に必壊の、巨大で分厚い最大の壁。
「黒天狐玉藻はやりたいように動く。だから指図は受け付けねぇよ、クソ親父!!」
「…………貴様」
張りつめる空気。怖くないかと訊かれれば、怖いに決まってる。身体には嫌というほど根付いている。だが、退かない。退く訳にはいかない。
わなわなと肩を怒らせる親父を横目に、俺は言う。
「つ~わけだ。おい、変態。心配せずともすぐに姫乃と帰るからよぉ、それまでとなりのワンコと【封印の地】の番をしとけよっ」
おかしなものだ。姫乃と帰る。そう口にしただけで、恐怖心が薄らいでいくなんて。
力が、より漲ってくるなんて。
『君には言いたいことが山ほどあるっ。戻らないと許さ』『こらー犬あつかいせんとい』
そうして電話を切ると、バリバリバリ……と耳障りな音が。
見やれば、握り締める右手に烈烈たる紫電を幾筋も奔らせる親父がいた。
「あくまで刃向う気か? 水戸の守護者に組みすることで貴様にどんな利がある?」
「そうだなぁ。くだらね~こと言い合える連中と……気になる女は失わずに済むかもなぁ」
親父の眉根がピクリと動き、寒気がするほど冷えついた声で威嚇してくる。
「…………。聞くがいい愚息よ」
「あんだよ」
「奴らは、そしてその女とて、所詮人間。ましてや退魔の一族なのだ。束の間どれだけ情を移そうとも、いずれの決別は避けられん。それが人と妖の理なのだ。利用の範疇を超え深みに嵌まって時を過ごすことは、取り返しのつかぬ傷を生むだけよ」
「へ……そりゃ自分の経験からの言葉かよ、親父?」
「……なにが……言いたい?」
「母さんと上手くいかなかったから、正しさとして押し付けてんじゃね~のかってことだよ」
「ッ――もう黙れ。子は親の言うことを聴くものだ。貴様は儂の言う通りにしていればいい」
怒声と共に妖雷破の一部が石床を穿つ。
だが、自らの正当性を威圧で示し続けるこれは油断だと俺には思えた。親父の妖力は絶大だが、もっとも恐れるべきは妖雷破よりも完成された《魅了》だ。それだけは断じて喰らえない。
「なぁ親父よ。勘違いして貰っちゃ困るぜ……」
怒りに染まった眼を直視しないようにしつつ、俺は手にしたスマホを真上にひょいと放る。
親父の視線が僅かに釣られたその隙を、俺は逃がさなかった。自分でも不思議なほど自信があった。今の強化された俺の力なら、油断しきっている親父の背後を取れると確信していて、
「子はよぉ……駒じゃねぇんだよ」
「――っっ!? な……貴様……」
そして、その通りになった。
姫乃に封じられる前を遥かに凌駕する身体能力。瞬動を成功させた俺は初から全力全開。驚愕の声を漏らす親父の背中を、一切遠慮無しでぶん殴った。
先制の鈍い衝撃音。親父の顔が苦悶に歪むが、次の瞬間、後ろ向きのまま身をよじった親父の鋭い右手刀が横薙ぎで訪れ、俺を引き裂かんとする。
仰け反り避けると、躱し切れなかったのか胸の辺りに痺れるような熱が奔り、鮮血が飛ぶ。
その間に親父が距離を取って体勢を立て直そうとするも、しかし、尾をつかんだ俺の右手がそれを阻止。逃がすものかと強制的にこちらへ向けて、
「――ァアア!!」
左右の突きを連打。親父が腕を交差し防御していてもお構いなし。攻撃を続行。二度とないかもしれない好機。反撃を許す間を与えぬよう気迫で攻撃を回転させると烈風が吹き荒れる。
「ッラァアアアアアアアアアアアア」
まだだっ。徐々に視界が朱くなっていく。まだまだ回転力は上がる。
まだ、まだ、まだ、まだ――
「くぅ――お、の、れぇ……」
交差する腕の中で親父の眼光が纏う殺気が増長した。視たら駄目だ。視線を逸らすべく、右足にて全力で蹴り上げる。骨が悲鳴を上げるような音が伝導したが――果たして効いたか?
「っ……ぐは!?」
親父が空高く舞いながら血反吐を吐き散らした。
いける。その確信を追い風に追撃を与えるべく、床を踏み穿ちながら跳躍する。
「舐めるで――ないわぁ!!」
が、親父もやられたままではなかった。宙で身を翻し、九尾と両手を左右に突っ張るように広げる。すると、轟きと共に親父を中心に九個の紅玉が展開し、
「に、人間などに毒されおって。二度と刃向えんよう張り付けにしてから躾直してくれるッ」
紅玉は雷の槍となって放たれる。激烈な暴風と閃光を孕んだ九つの紅槍は、触れる者を灰塵に帰す勢いで唸りを上げる。凄まじい速度だ。まともに回避不能と判断した俺は両拳を妖気で硬質化し払い捌くが、捌ききれず。
ドジュッ。肉を裂き、焼ける音がして、鋭い痛みが一気に拡張していく。
「グ……ア……ガァァアアア!? ちぃ――ッ!!?」
親父の宣言通り三本の槍が突き刺さり、床に張り付けられた。動けなくなったその隙に、攻守逆転の追撃が来る。今度は雷の紅槍ではなく親父自身の飛来、接近した拳によるその一撃は俺の腹部に深々とめり込み、堪らず俺は血を吐くも、それで終わらせるほど親父の怒りは甘くなかった。先のお返しとばかりに拳の弾幕が降り注ぎ、今の俺を否定してくる。
右に左に跳ね上がる俺の頭部は揺らされ、意識を膿漏とさせていく。一発一発が重い躾と称した攻撃。千年も生きてるジジイのくせに、どこまでも反則級の強さ。大妖怪・黒天狐幻夢。
負けられねぇ、負けたくねぇ。ここで負けたら俺は、俺はッ――。
と、不意に攻撃が止み、親父がぬぅ……と顔を近づけてくる。
や……やべぇ、目を合わせたらすべてが終わる。《魅了》されるわけにはいかない俺は咄嗟に眼を固く閉じるも、親父はこちらの瞼を無理やりに開かせようとしてくる。
「こんなものか愚息がァ!! この程度の力しか出せぬなら、儂に、逆らうなぞ、千年早いわ」
「ク――冗談じゃ……ねぇ」
このままじゃ、終われねぇ。終わりたくねぇ――でも、俺には親父の遠近万能な妖雷破や、姫乃のような多様な技も無い。俺に――やれることは、これだけだった。
「だったら、こっちも飛び道具を使わせてもらうぜ。お銀っ、親父に苦無を放て」
「影苦無・五月雨」
俺の合図で魅了したお銀が苦無を飛ばす。忍術を使用しているのか、八本の黒鋼は飛来しながら倍倍に増殖していく。
「ぬぅ……小癪な……」
残念ながら親父に致命傷を与えられるような攻撃ではない。だが、その手数は意識を向けさせるには充分。その間に俺は張り付ける槍を引き……抜くっ。痛がっている暇は――ねぇッ。
「ウオラァアアア!!」
俺は親父を振り払い体勢を崩すと同時に、勢いのまま組み伏せ顔面に頭突きを三度かます。
流石に堪らずくらりとしたのか、しかし、その隙に俺は親父を担ぎ上げるとその身を振り回し、宙空に向かって遠慮無用にぶん投げた。
「くぁッ――お、おのれ……ふざけおってェ……」
「あいにくこっちは大真面目だぜ。猫娘っ、親父をこっちに叩き落とせ!!」
「「「ニャァー」」」
「なっ――ごはッ!?」
さすがの親父も戦慄していた。まさか直属の配下たる猫娘たちが牙を剥くとは夢にも思わなかったらしい。お銀同様に《魅了》してあった猫娘たちは瞬く間に頭上を取り、三位一体の集中打撃による打ち落としを繰り出し、まともに食らった親父が急降下してくる。
妖は力がすべてだと親父は言っていたが、はっは~、なぁ、どうだよ?
だらしない愚息も、それなりのもんだろ?
時間稼ぎが功を制した。体勢を整えた俺は右拳一点に全身の漲りを集中。溜める、溜める、溜めるっ。相手を殴ることなら俺にもできる。後は全霊を込めたそいつが、目前の壁を壊せるか否か――身に宿された《空弧の紋》も、抗いの意思に共鳴するように甲高く鳴動する。
さぁ、蹴散らせと、力が、満ち満ちていく。
「こ、の――愚息がぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「うるっせぇえぇんだよっ、このクソ親父ぃィィィイイイイイイイイイイイイイイ!!」
胸に渦巻く想いさえも、壁を壊す力に変えて。誰の為でも無い、自分の為に。
アイツの笑顔を見たいから。アイツに胸を張って会いたいから。
俺はそんなひたすらに我儘な想いを乗せた拳を、まっすぐに振り抜いた。
× × ×
どれほどの時間、暴力のぶつけ合いをしていただろうか?
下手な天災より荒れた親子喧嘩は、気付けば終止符を打っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ――」
俺は倒れ伏す親父を見下ろしていた。少し離れた場所には親父の攻撃を受けたお銀と猫娘たちが倒れている。周囲を見渡せば巻き添えを食った形で配下の連中も軒並み気絶していて、一部は粉々にされたのか《呪い》が浮遊している。首領の間はすでに元の原型を一切留めておらず、立っているのは、俺だけだった。
「――玉藻……くん?」
不意に俺を呼ぶ声がして振り返ると、そこには起き上がった姫乃がいた。
すぐ傍には護衛し続けたと見られる護法双鬼の二人が仰向けでのびきっている。たしか《限突鬼》だったか。あの状態を維持していればこんな不格好な有様にならなかっただろうに。
しかし、おかげでなんだか笑えてしまって力が抜け落ちる。意志とは関係なく膝が折れ、すとんと尻餅をついてしまったことから、どうやら体はとうに限界を迎えていたらしい。
「まさか……黒天弧幻夢が倒れるなんて――あなたが、やったですか?」
「……ちと派手な喧嘩になっちまったがな」
誰も想像できなかったであろう光景に、姫乃は最初なにか物思う様子だったが、やがておずおずと近づいてきて、俺の前でしゃがみこんだ。
「と、とりあえず無事でよかったです」
そう告げた表情は、安堵からか柔らかいものだった。
「お互いに、な。姫乃が禁術ってのを使ってくれたおかげだ」
俺が肩をすくめながらそう言うと、どうしたことか姫乃はぼしゅんと上気した。
「どうした?」
「な、なんでも……ないです」
姫乃は、ぱたぱたと手で扇ぎながらそう言った。
「……そうか」
これだけの戦いの後だ。疲れが溜まっているのかもしれない。
実際、俺もクタクタだった。うんと冷えた梅こぶ茶が飲みたかったが、こんな状況じゃ無理だし、それに――あまりのんびりもしていられなかった。
「で――どうすんだ姫乃?」
「どうするって……なにがです?」
「決まってんだろ」
と、まだ倒れ伏せる親父に対し、俺は目線を気怠く向けながら告げる。
「……封印のことだよ」
俺が俺らしくある為にぶち壊した壁――大妖怪・黒天弧幻夢。
そして、今なら【黒天衆】そのものを一派ごと一網打尽にできる。水戸の守護者が【封印の地】を離れてまでの異例の出張封印だが、こんな機会は早々無いはず。
「親父が復活したら全部パーだぜ。ひょっとしたら怒り狂って自ら【封印の地】に攻めてくるかもしんね~ぞ?」
可能性を口にしてみたがそうなれば当然、他の一派の首領クラスだって黙っちゃいないだろう。下手すりゃ妖怪大抗争の勃発だ。
「そうですね……それは……色々と困るです」
が、姫乃はどこか上の空だ。普段とどうにも様子が違う。
「だったらよぉ、さっさとやること済ました方がいいんじゃね~の? あ、もしかしてパンチラが嫌なのか? 恥ずかしいなら目隠ししててやるから――」
「うるさいです。それも――あるですが、そうじゃなくて……」
「? そうじゃないなら、なんだよ?」
「……。玉藻くんは……それでいいのですか?」
姫乃がどこか遠慮がちに視てくる。
水戸の守護者である彼女が妖を討伐し、《呪い》を封印するのは当然のことなのに。
「ホントに玉藻くんは、それでいいのですか? 私が封印しても、あなたの居場所を奪ってしまっても構わないのですか?」
「…………」
眉根を寄せてそう言われた俺は、返す言葉が出なかった。
居場所。俺がこだわり、返り咲こうとした場所。
そんなものに未練なんざこれっぽっちもない。とは、なぜか言えなかった。
親父の前であれだけ啖呵をきっていたのに、いざとなると了承の言葉が出てこない。
「私は彼等を封印しにここへ来たわけじゃなく、ただあなたを放っておけなかっただけです。でも、それは、水戸の守護者としてあるまじきことをいくつもしでかす事態につながったです。キ、キ、禁術さえも使ってしまいましたし、結果、玉藻くんに途方もない力を持たせてしまいました。もちろん、この責任はちゃんと取るつもりです。たとえ……どんなめに遭おうとも」
「っ――責、任」
「……はい、責任です。だから、どうなろうと悔いはないです。誰かさんと一緒で、やりたいように……私がしたいようにしたことですから」
姫乃のその声は決して大きくないのに、力強かった。
俺が心に消えない傷をつけてしまった彼女が、殻に閉じ籠っていた彼女が――ぎこちなくとも、確かな成長を遂げていく。
そしてすべての発端を作った俺に、向かってくる。堅い表情で、まっすぐに。
「玉藻くん、あなたにも後悔はしてほしくないです。だから、もう一度訊くです……」
妖のあなたは、本当にそれでいいのですか?
そんな姫乃に気圧されて、言いよどんでしまう。
――どうしたら姫乃はもっと笑えるようになるのだろう。
その思慮に対し俺は単純だから、俺のように我儘に振る舞えばいいと思っていた。
自由に生きればいいと思っていた。
お菓子作りが好きで、中でもプリンが絶品で、人見知りだけど、心は芯が強い少女。そんな姫乃が普通の女子高生として生きることが、間違っているとは思わないし、だから姫乃も、苦しむ立場など捨ててしまえばと、そう思っていたのに……。
殻から踏み出し、思うままに動いた姫乃は、どんなめに遭おうともその責任を取ると言う。
それはつまり、立場から逃げない道を選んだということで――今の俺とは、異なる答えで。
「っ、俺は……」
それでいいのかよと詰め寄ることも、頭ごなしに否定することもできなかった。
心に大きな矛盾を抱えたまま、問いかけから逃れるように首を振ると、
「「「――――」」」
意識が戻ったのか、猫娘たちがこちらを視ていた。
若頭としては決して褒められない身勝手な俺。力を失い、配下から馬鹿にされる状況であっても、蔑むどころか寄り添ってくれた彼女達。
憐れみを嫌った俺だったが、考えてみれば彼女達はずっと俺を慕っていた。《魅了》など使わなくても、親父の直属でありながら、いざという時は俺の味方になってくれていた。
そんな彼女達が、立場を捨てようとしている俺を悲しそうに見つめている。
姫乃に封印させるということは、彼女達を見捨てるということで。俺がそれを望んでいたかといえば、そうではなくて――。
「どうなのです? 玉藻くんっ」
迫る姫乃の胸中が読めない。笑顔とはほど遠い真剣な眼差しで、俺にどんな答えを求めているのだろう? 我儘を貫いてきたはずなのに、姫乃といると、自分がブレてわからなくなる。
俺は、本当はどうしたいんだ?
「いつもは我が強いくせに、いざとなると思い悩むところは母親に似たのだろうな」
「ッ!? 親……父……」
葛藤を破る、最大脅威の復活。
警戒を露わにしたのは姫乃も同様で、封印の好機を逸したかにも見えたが――。
起き上がる親父の表情は、信じられないほど穏やかなものだった。
その場にどっかりとあぐらをかいて、俺と姫乃を見やりながら情感たっぷりに言う。
「ふ、案ずるな。もう争う気は無い。貴様が贔屓する女の心根も知れたことだしな。しかし、親の心子知らずとはよく言ったものよ。なにも儂と同じ過ちを繰り返さんでもよかろうに……つくづく愚かな息子よ」
そうして親父は柔らかく眼を細める。
俺と姫乃から感じ取るなにかを、とても懐かしむように。どこか遠くを見つめ始めた親父にとって、それは大切なものだったのかもしれない。失ってなお、どれほどの時が経とうとも。
もしかしたら本当は、親父は今でも、母さんのことを。
「水戸の守護者よ。答えの定まらん愚息の代わりに、儂の提案を聴いてはもらえんか?」
「……提案……です?」
「ああ、そなたに儂は……大人しく封印されよう。代わりにこの場の者を、【黒天衆】を見逃してはもらえんか」
「は?」
予想もしなかった台詞に、姫乃を差し置いて俺はとんまな声を零してしまった。
「これを受領してくれるのであれば抵抗はせん。それにたとえ【黒天衆】が残っても、千年の時を生きる妖・黒天狐幻夢を封じたとあれば……いかに厳格なそなたの父であっても責任は問うまいて。むしろよくやったと褒め称えるだろうよ」
同じ父だからこそ、気持ちがわかるのか。言われた姫乃は、ただ眼を丸くしていた。
「大人しく封印されるなんて……親父、本気かよ? 宿願はいいのかよ?」
「ふ……儂が宿願にこだわったのは、貴様を含めた半妖の為よ。純粋な妖と違い、半妖は人の世にも闇の世界にもないがしろにされやすいからな。必要以上に厳しく当たってきたのも、立場以上に、強くあって欲しいとの願いからだったのだ」
親父は一度言葉を切り、直属の配下だった猫娘たちを見やる。
「だが、儂のような古い考えは好かれんのだろうな。結果、息子に続いてお前たちの心は離れたのだから」
「「「幻夢様」」」
「……親父、さっきの猫娘たちは俺が《魅了》したから――」
「ふ、それだけで動いたのではないと今の貴様なら理解できるだろう?」
「…………」
「玉藻よ。貴様はどこまでも儂とは違うが、しかしそれでよい」
名で呼ばれるなどいつ以来か。これまで気付こうともしなかった親父の本音を含む、らしくないほど温かい説法だった。
「人間の感情より生まれし《呪い》で構成された妖は、力がすべて。そして力とは、個による単純なものだけでは無い。取り巻く者たち、大切な存在、その支えや想いも含めれば善悪さえ超えあらゆる限界を抜けるのだ。《空狐の証》もそのひとつ、貴様は経緯がどうあれ、千年生きてなお儂にはできぬ手段を持って儂を圧倒した。世代交代の時期が訪れたのだ。最早、長として、親として儂に心残りは無い。今より、貴様が【黒天衆】の首領を名乗るがよいっ」
「ッ――俺が……?」
「「「おめでとうございます、玉藻様ぁ~♪」」」
突然訪れた継承に困惑していると猫娘たちが飛び付いてくる。それはもう、もみくちゃにしてくる。おい、こらヤメろ。しがみつくなっ、頬擦りするなぁっ!!
「っ~……わかりました。その願い、聞き届けるです」
緩みかけた空気を張りつめるように、姫乃の声が響いた。
なんだろうな、妙に威圧感が……気のせいだろうか?
ともあれ、これで騒動も一件落着――とはいかなかった。
「…………」
姫乃は猫娘にたかられたままの俺から距離を取り、じゃりっと足場を踏み鳴らして親父に歩み寄る。そこまではよかったのだが、そのまま石みてぇに固まってしまったからだ。
「あの……幻夢……さん?」
「なんだ? 提案を受領したのだろう? 封印するなら早くせよ」
もじもじと「さん」付けする姫乃に、首を傾げる親父。
あ、だめだコレと俺は悟った。思えば俺の時もそうだった。
おそらく《破羅門》化していない姫乃は封印対象が意識を保っていることに慣れていないに違いない。通常ならば護法双鬼で相手の意識を刈り取るなどして対応しているのだろうが、今回に限っては状況が例外。相手は名高き大妖怪で、しかもわざわざ頭を下げて封印しろと言ってきているのだ。無理やり気絶させるなんて、空気を読まない真似ができるはずがなかった。
「いえ、あの……眼を、閉じてもらえないですか?」
「眼を? なぜだ?」
「……その……そうしてもらえると……こちらとしては助かるですが」
「儂の最後なのだ。自分を封じる相手から眼を逸らすなどできんよ」
「……ですよね」
親父は封印手段を御存知無いらしい。アレは完璧に素で言ってる。
けれど、あんまり手際がよろしくないと、ひかえた親父にだって悪いので、
「しょうがねぇな……」
俺は猫娘たちをどけて、姫乃の元に歩み寄る。
そして硝子細工を扱うようにそっと後ろから、首元と腹部に手をまわす形で抱擁した。
「「「にゃにゃにゃ!? た、玉藻様?」」」
「ッッッ――にゃ、にゃにしゅんですぅ?」
動揺で猫娘の言葉使いが伝染した姫乃へ、俺は絹にも等しい髪を梳りながら耳元で囁く。
「びっくりしたか? でも、覚悟を決めた男をあんまりじらすもんじゃねぇよ」
「う……ぅ~」
顔どころか肌という肌を火照らせた姫乃は漫画みたいに瞳をぐるぐるさせている。抵抗を受けるかとも思ったが、幸いにも腕の中で悶えているだけで、てんで大人しいものだった。
俺の作戦は姫乃の《破羅門》化である。トラウマに頼るのは気が引けたが、あの自信たっぷりの金色の姫乃であれば、この状況を打破できると考えたのだ。
が、次第に黒髪が金色に明滅しだすもそこまでで、肝心の変身はいつまで経っても発生しないから、え~……なんでやねん、と心の中でサクラみたいにツッコんでしまう。
う~ん。考えられる要因としては大きな闘いの直後ゆえの霊力不足か?
はたまた、殻を破ったことで体質が直ってしまったのだろうか?
それとも、他に、理由が――。
「おい、たわむれもたいがいにせよ」
ガチで困っていると、不機嫌さを露わにした親父がそう言った。堅物の親父にしてみれば俺がイチャついているようにしか見えないのだろう。断じてそうではねぇんだけど、仕方ない。
「たまも……くん……おねがい……もぅ……はなれてぇ」
「悪いな姫乃、先に言っとく。これはあくまで手伝いで……その……不可抗力だからな?」
皆の視線を感じつつ、俺は意を決し行動を開始した。
その行為により姫乃の身体がびくんと震え、硝子をこするような声が奏でられる。
「……ひぁ――――!!? ……な――ぇぇ!? う……そ?」
さらにその小さな身体から羞恥の鳴き声が漏れた。鳴かせているのは俺の指先だ。腹部にまわしていた右手を優しくすべらせ、彼女の腰をなぞり、右の太ももを這わせていく。
「……だめ……です。こん……なの……いや……ですぅ」
やばい。そんなつもりじゃなくてもぞくぞくする。弥七を変態呼ばわりできないかもだぜ。
姫乃の懇願を含む拒絶さえも愛苦しく映ってしまうことに、罪悪感でいっぱいになりながらも、やめられない、止められない――スカートの裾を摘まみ、そろりそろりと開いていく。
俺は直視したい衝動を堪え、眼を親父へ向けた。
「っ――――ぅ~~~~~~~~!!!」
姫乃の声にならない絶叫と、御開帳の《紋印》が鳴動したのは同時だった。
「な――? これが……封、印!?」
釘入るような親父を尻目に、みるみるうちに拡張された空間の歪みは螺旋を描く。
俺の時より吸引力が段違いに増幅された術式は、黒天狐幻夢として構成する《呪い》を容赦なく削り取っていき、存在を消していく。親父の本音を知ったせいだろうか? その在りようは、あれだけ憎さを覚えていたはずなのに感慨深かった。
「よぉ……この紋所は……眼福だろ?」
「――――――――」
俺の何気ない問いかけに、返す声は無かった。ただ消え際、真一文字に噛み締めた口元を、微かに緩めてこちらを見つめる顔がとても印象的だった。
封印される瞬間、親父はなにを思って消えたのか。
妖と水戸の守護者の新たな関係性に安心していたのか、それともあとを任せてしまったことを後悔していたのか、今となっては知る由もない。
ひょっとしたら、滾っちまってたりして……。
親父に限ってそれはあまりに馬鹿馬鹿しい考えかもしれないが、可能性はゼロじゃない。
なぜなら人間の女性に滾り、愛した確かな証拠が、ここにあるのだから。
第四幕 了