幕間其の三 姫乃の決意
学校から帰宅した私はキッチンに直行。慌ただしく必要なものを準備しました。
趣味のお菓子作りをするのです。卵、牛乳、砂糖、生クリームに、ラム酒とバニラエッセンスを少々ボウルに投入――忘れちゃいけないのが隠し味です。もちろんなにかは教えません。
内緒だからこそ意味があるのですから。
泡だて器で混ぜ合わせます。一心不乱に、気持ちのもやもやまでもが撹拌するまで、ひたすら、しゃかしゃかしまくります。手は一切抜きません。だって、趣味、ですから。
「ホントにもうっ……ホントにもうッ――なんなんです?」
夏の悪い夢みたいな全校集会のあと。私はみんなから妙にもてはやされて、代わりに玉藻くんはお兄ちゃんと先生たちに連行されました。催眠術の行使なんて非現実的な話、普通の人はまずもって信じないでしょうけど、彼自身の主張に加えあれだけの状況的証拠がそろっていれば、その結果は無理もないのかもしれません。
玉藻くんは、なぜこんな馬鹿げた真似をしたのか。
腑に落ちなかった私に、サクラはおずおずとこう言いました。
『ウチの憶測でしかないんやけど、弥七にいいカッコさせたくなかったんやと思う。他に方法が無かったとはいえ、やり過ぎやけどなぁ』
『え? でも……そう仕向けたのは彼じゃ』
『うん、そうや。そのあたりも、むちゃくちゃな玉藻っちらしいっちゃらしいけどなぁ。たぶん、玉藻っちは……嫉妬したんやと思う』
『嫉妬? どういうことです?』
『にしし、決まっとるやんか。玉藻っちは姫乃っちに気があるっちゅ~ことや』
『――ッ!?』
『不器用なトコ、考え込むトコ。本当は、優しいトコ。アンタら……よぉ似てるわ。こんなことはウチなんかが言えた義理じゃないんやけど、玉藻っちのこと悪く思わんといてや? 一見デタラメに視えて……でも、そこにはちゃんと筋の通った意味があんねん』
『意味……です?』
『うん……。だって考えてみ? 姫乃っち。アンタがあの場で行動したことによって、噂の悪評を払拭してるばかりか、今や全女子のヒーローなんやで?』
あの玉藻くんが、私を好き?
私の為に、動いてくれた?
「そんなわけないですっ……そんなわけないですッ……そんな――わけ……」
――しゃしゃしゃかしゃか、しゃしゃしゃしゃかしゃか…………カッ!!
「……ふぅ」
泡だて器に付着したとろみを強めに打ちつけて落とすと、少しだけ気が晴れました。
サクラの言う通り、私についていた悪いイメージは、間違いなく上書きされました。
今や悪者は完全に玉藻くんで、主犯を捕える為に動いた私は正義の味方。
この図式が、全校生徒に植え付けられていたから。
「……あとは冷やせばおっけーです」
仕上げた甘い薫りのするタネを流し込む容器は、私の中でも、とっておきのを使いました。
特別製のそれを冷蔵庫にしまい、ふと時計を見やれば、時刻は十八時をまわっていました。
厳格なお父様がいたら、こんな風に息を抜くことはできませんでした。お父様は守護者に不要なものを一切認めないから。でも、さすがにここまででしょうね。
私は身に付けていたエプロンを外すと、縁側へと向かいました。
縁側にはお銀がいました。湯呑を両手で持ったまま、首をうっつらうっつらとさせて眠りこけていて。偵察任務で飛び回っていたからでしょう。かなりお疲れのようでした。
私は静かにとなりへ腰掛けて中庭へ眼をやります。耳をすませば鈴虫の鳴き声が聴こえてきました。夜風が気持ち良くて、見上げれば月がとても久しぶりに笑っているように見えて、このままずっと涼を堪能していたくなりましたけど、そういうわけにもいきません。
これ以上のんびりしていたら、それこそお務めに支障が出てしまいますから。
「ん? 姫様? いつの間に……」
「あ、起こしちゃったですか。こんなところで寝ていては風邪ひくですよ?」
「す、すみませ――おや? ……ほっぺになにかついていますよ?」
眼覚めたお銀が指先で頬を撫でてきました。どうやら料理の跡が残っていたみたいで。
「ありがとです。なんだか……私のお姉ちゃんみたいですね?」
実際、私のそばに一番長くいるのは彼女です。
はっきりとものを言えない私の、心の支えになってくれていますから。
「そ、そんな……某如き滅相も……あれっ?」
「? なんです?」
「あ、あの……ひょっとして……なにかいいことでもあったのですか? 姫様のそんな嬉しそうな微笑みを、ずいぶん久方ぶりに見たので……」
自分がどんな表情を浮かべていたのかなんてわかりません。
けど、言われた私はなんだか恥ずかしくなって、慌てて立ち上がります。
もし、私が彼女言うとおり微笑んでいたのだとしたら、それはきっと――。
『にしし、決まっとるやんか。玉藻っちは姫乃っちに気があるっちゅ~ことや』
でも、認めたくなくて、そんなはずがなくて、そろそろお務めの準備をしなければと、言い訳のように自分へ言い聞かせその場から逃げ去ろうとして――足が、動きませんでした。
「ッ――!?」
まるで自分の足が、もう一人の私が、逃げないでと訴えているみたいで……。
いえ、違いますね。
だって、どちらも私なのです。だから、これは自分の意志なのだと思います。
「姫、様? なにか、某が気に障るようなことでも」
「そうじゃ……そうじゃないです。ちがう……です」
心配そうな声を出す彼女に、私は深呼吸してから振り返ります。
「ねぇ、お銀。お務めが終わったら――すこしだけ相談に乗ってもらえないです?」
お銀が仰天した顔をしていましたけど、なにより、そう告げた私自身が一番驚きました。普段なら、絶対に、心を晒すような歩み寄りはしないはずなのですが。
たぶん、私は変わりたいのだと思います。
だったら、やってみよう。怖いけれど、信じてみよう。
どうせ駄目だと決めつけて、殻に閉じ籠るのではなく、素直に、手を伸ばしてみよう。
もう一度、もう一度だけ。自分を、みんなを――彼を、信じて……みよう。
不意に携帯の着信が鳴りました。画面には、サクラと表示されていました。
第四幕に続く