第二幕 玉藻、学校へ行く
私立三ッ葉葵高等学校は結構な進学校らしかったが、潜入工作は実に容易だった。
理事長及び校長が女性であったことから、俺様の《魅了》で虜にし、転校生という扱いにさせたのだ。実質年齢は三百歳だが、ここでは十七歳ということにした。今の容姿だけで判断すればずいぶんと見栄を張った設定だが、それでも実年齢よりマシだろう。
堅苦しいのが苦手な俺様は、制服もあえて着崩して着る。
若干、ファッショナブルにもなるしな。
「ここがあなたの教室になる二年A組です。あ、ちょっと待っててね~」
隣を歩く眼鏡の担任女教師に言われ、空いた扉の前で立ち止まる。
中を窺えたのでなにげなく見渡すと、俺様のような個性派はほとんどいなかった。制服と言う名の殻で身を固め、各々が好む者同士が集まっている。どいつもこいつもが似たり寄ったりでしかなく、学生特有の和気あいあいとした空気を生み出していたが――そのせいで窓際の奥の一画だけは異質に見えていた。
ぽっかりと空いたように人の輪が無く、ぽつんと席に座るその見知った人物は、なにをするでもなく、窓の外をぼんやり眺めている。整った顔立ちでのその佇まいは深窓の令嬢然としていて、少しばかり俺様を物思わせたが――。
そいつは背後より猛烈ダッシュしてきた人間によって邪魔された。
「うおー、ギリギリセーフやぁ」
慌ただしくブレーキングした女生徒は、こちらに気付いたのかちらりと一瞥してくる。
「あ――八兵衛さん、生徒会のお仕事ご苦労様ぁ。慌てなくていいので廊下は走らないで下さいね? 皆さんの模範になりませんよぉ」
「は~い先生、すんまそ~ん」
「よろしい」
よろしいのか。なるほど、そんな適当な感じでいいらしい。
「ではみんなぁ~、席について下さいねぇ~」
担任の女教師のなんとも間延びした声で、がやがやとした喧騒が収まっていく。
「今日は出席を取る前に~……サプライズがありま~す」
女教師がぽむっと手を合わせてそう言ったのち、「黒天弧く~ん」と呼んでくる。《魅了》したわけでもないのに、妙に馴れ馴れしかった。
「わ~髪さらさら~」「ちっちゃくてかわいい~」「外人さんかな? お人形みた~い」
「んだよ、野郎かよ」「なんか気に入らね~」「ち、はしゃぐな女子め」
男女を問わずたくさんの視線が注がれたが、俺様は意にも介さず教壇の前で足を停めると、手にしたチョークで黒板に名を記した。ふむ、我ながら達筆である。
「黒天弧玉藻だ、女どもは好きなだけ俺様に酔いな」
さらに一切ためらうことなく《魅了》の力を、クラスの女子全員に使用する。
注がれる視線の色が一気に変貌したのが伝わった。うっとりとろ~んって感じだ。
どいつも物欲しそうな眼差しを向けていて、その様子が面白くなさそうに男子たちはぼやいていたが――ただ一人だけ、ずっと変わらねぇ女生徒がいた。
瞳は酔うどころか驚愕に見開かれたまま、こちらへ釘付けている。
「え~っとそれじゃ~席は……って、黒天弧くん?」
担任に構うことなく、俺様はすたすたと窓際の最後列に座る目標に向かう。
「よぉ……姫乃ちゃん」
「――ッ、とことんあなたには常識が通じないんですね。いったいみんなに、なにをしたんです? 黒天弧くん」
「なんや姫乃っち、知り合いかいな?」
姫乃のとなりに座るとろけた顔の女生徒がそう訊ねるも、
「玉藻でいいぜ。なんなら様を付けて呼んでもらいてぇが――」
「ふざけないでほしいです」
反応することすらせず、ガタンっと椅子から立ち上がった姫乃が犬歯を剥いた。やはりこいつには、水戸姫乃には《魅了》が通じていない。得物でも忍ばせているのか、紺色のブレザーのポケットに手を伸ばすから、悔しさを感じながらも俺様は無害を演じてみせる。
「おいおい、おちつけよ。別段危害を加えたわけじゃね~だろ?」
「…………」
周囲からは、なにやら邪推する声が聴こえてくる。俺様は肩をすくめてみせた。
「まったく他の女どもみてぇに酔っとけゃいいのに、まぁ、とりあえずはいいさ。これからはクラスメイトなんだ。よろしくたのむぜ」
「妖なんかと……それもあなたのような人と馴れ合うつもりはないです。ってゆ~か、それ以上寄らないでください」
「なんだ、つれね~な。また下着姿を拝ませてくれよ」
この悔し紛れの発言にクラスの男連中は色めきだち、当の姫乃は青ざめていた。
ちょっといい気味だ。もう少しからかってやろう。
「ご、誤解を招くようなこと……いわないでほしいですっ。そもそもあれは――」
「誤解じゃね~だろ? 事実だ。そっちからわざわざ見せてきたんじゃね~か」
「――ッ!?」
どうやら致命打を与えてしまったらしい。クラスの、特に男子から好奇の眼で見られ、姫乃は赤面したまま押し黙ってしまったが、それでも俺様の飄々とした態度は気喰わないのか、涙混じりであっても殺気の籠った眼差しをぶつけてくる。
「え~っと……黒天弧くん? ひとまず席につきましょうか? とりあえず空いてる前列に」
と、担任の諭すような物言いが聴こえたので、
「ああ、俺様はこの席がいいな、代わってくれ」
姫乃のとなりに座る外跳ねしたクセッ毛風な女生徒へ、にこやかにそう言った。普通に考えれば横暴な提案だが、彼女はすでに《魅了》の術中である。「うん、ええよぉ」と素直に応じてくれた。
「サンキュ♪」
紳士的な俺様が、お礼代わりに頭をぽんぽんしてやると、暴発寸前の口火を切ったように、たちまち黄色い声があちこちから上がる。
姫乃の追従の声は騒々しさにかき消され、その隙に俺様は、ぽへ~っとした状態の女生徒と入れ替わった席へ腰を落ち着け、ふてぶてしくこっちの優位性を示すよう両手を頭の後ろで組みながら、ちらりと横目で観察する。
「…………」
姫乃は呪い殺さんばかりの熱視線を、絶賛向け続けている。
やれやれ、そんなのは養分にならないからやめてくれ。
それに、そんなに険しい顔してると小じわができるぜ?
× × ×
放課後。
靴箱に入れられていた手紙で呼び出された俺様は、来て早々に姫乃から睨まれた。
四方を転落防止用の柵に囲まれた屋上。その真ん中で立つ姫乃と、一定の距離を置いて対峙する。こうして改めて向かい合うと背丈はほとんど大差なかった。
いや、若干向こうの方が大きいか? くそっ。
「玉藻……くん。あなたはいったいどういうつもりなんです?」
ふん、さっそくかよ……仕事熱心な守護者サマだねぇ。
正直、すでにうんざりしていた。なんの役にたつのか不明な授業もそうだが、休み時間は他のクラスメイトがひっきりなしに訪れ、あ~でもないこ~でもないと質問責めにされ、昼休みは女子生徒から学校案内がど~だのこ~だの連れ回され、鬱憤がかなり溜まっていたのだ。
かといって目的の達成前に暴れちまうのは控えたかったし、いちいち《魅了》するのも疲れていたので終始されるがままになっていたが、まったく、素ですらモテる男はつらいぜ。
ただ、カッコいいじゃなくかわい~ってのはなぁ。
もみくちゃにされるのも、やっぱりなんか違う気がする。
あ~あ、今日はもう学生から解放されたかったのによぉ。帰り際でこれかよ。
だが、まぁ……その為にこんな場所へ来てんだからな――いいぜ、始めようか。
攻略難度のクソ高ぇゲームをよっ。
「どういうつもりって言われてもなぁ……」
俺様は頭を掻きながらそう答えた。
「妖のくせに昼でも動き回る、力を封じたはずなのに妙な術を使う、逃げたかと思えばこうしてまたやってくる……。加えて……よりにもよってみんなの前で、あ、あんな、セクハラ発言を――っ、あなたは、いったいなんなんです!?」
燃えるように空が黄昏に染まる中。チェックのスカートを右手で押さえながら、姫乃は声を荒げた。顔が赤いのは夕日のせいではないのかもしれない。
「はっは~、多少はえっちなくらいが男ウケはいいんだぜ? 現にクラスの男子なんかは視線を集中させてたじゃね~か」
「ば、馬っ鹿じゃないです!? 変な価値観を押し付けないでほしいですっ」
「なんだよ、親切心でのリップサービスだったんだぜ? ちょっと見てただけでクラスでの立ち位置がわかったからな。あんまし、友達いねぇんだろ?」
この分析は間違いないだろう。俺様に群がる女生徒の何人かに「姫乃はヤメておいた方がいいよ」とか苦言を刺されたし、どうもあまり好かれている風ではなかった。
「ッ――あなたには……関係無いです。それより……質問に答えてほしいです」
小さな親切、大きなお世話ってやつらしい。
まぁ、からかっていたのも事実だが、さすがにそろそろ攻略優先だ。
「はっ、俺様は【黒天衆】若頭・黒天弧玉藻だ。それ以上でも、それ以下でもねぇよ」
「そんなのは……答えになってないです」
「けっ――さっきは常識がどうとか自分で言っていたくせに、変なところでこだわるんだな。その答えはこうだと、てめぇが決めるなよ。教師にでもなったつもりか? テストの〇×じゃね~んだぜ、姫乃ちゃんよぉ」
「――っ」
ただ、凄むような勢いに怯んだのか、言葉に詰まった様子の姫乃は視線を逸らした。
――ち、いかんな。
本当ならこの場で再戦して力ずくで。それが理想だ。そうすりゃ鬱憤だって晴れるが、しかし、今の俺様ではそんなことが不可能なのはわかりきっている。
ならば交渉し、信用を得ていくしかない。無害な俺様を演じなくてはならない。
あっちも鬼共を即召喚しないことから、話し合うつもりなのは間違いないだろうから。
「今日は色んな連中から質問されっぱなしだったが、俺様にも聴いておきたいことがあるんだよ。答えちゃくれね~か?」
「…………」
こっちの質問はまともに答えなかったくせに質問する気ですか? そんな心境が読み取れる訝しい表情で、姫乃が向き直った。
「全部じゃなくてもいい。この【封印の地】に封じられた《呪い》を、取り上げられた力を、ある程度再構築できるだけの量を解放するには、アレをブチ折る以外にゃねぇ~のかよ?」
俺様は息を深く吐いてから、目線で促すようにそう言った。
三つの校舎の内側に位置する裏庭には、存在感を示す巨大な大樹が緑を広げている。夕暮れのせいかその色は黒に近くなり、神聖さより不気味さを醸し出す独特の雰囲気からか、昼間は生徒達が憩いの場として利用していた空間も、この時間には一人として見当たらない。
「やっぱり……《呪い》の解放の為に、あなたは再び現れたのですか? むだですよ。そんな真似はさせません。というか、今のあなたにソレができるとは思えないですが」
「あぁできね~よ、どっかの誰かさんのせいでな。まぁ聴けよ、先日とは状況が違う」
「状況が……違う?」
「そうだ。俺様が元に戻るには、大量の《呪い》の吸収が大前提だ。しかし、ちまちまやってたら何十年かかるかわからねぇし、んな気長なことはしたくねぇ。むかつくクソ親父に従うのは癪だが――今や【黒天衆】の宿願と俺様の当面の目的は奇しくもつながっちまっているのさ」
「え? あなたは天災すら引き起こすとされる、大妖怪・黒天弧幻夢が率いる【黒天衆】の若頭なのですよね? 若だから息子なのですよね? なのに目的が違うのですか?」
その筋では有名な親父の名だが、不仲を臭わせたことが予想外だったのか。
憤りを薄め、姫乃が少し驚いた風に眼を見開いた。
「あくまで俺様は、俺様がしたいように動きてぇだけだ。若頭なんて立場にいたって、そいつは変わらね~よ」
「それ……じゃあ、この前の夜は――」
「あんときゃ命令は出ていたが、別に遵守するつもりなんかなかった。ただ――」
ここで嘘をついても意味は無い。俺様は肩をすくめながら続ける。
「――噂に聞く水戸の守護者ってのを、実際この眼で見て興味が湧いてな。はっは~、だってこんなんだもんよっ。言っちまえば冷やかし半分だったのさ」
「だ、誰がこんなのですか?」
一度は沈静しかけた姫乃が、両腕を上下に振るって猛抗議する姿勢を取った。小馬鹿にしたのがどうやら気に障ったらしく「やっぱり……最低です」とつぶやきながら睨んでくる。
まったく、お子様の相手はむずかしいぜ。
「そう怒るなよ、別に争うつもりは今のトコね~んだ。で? どうなんだよ」
「……元に戻るだけ。それで済む保証なんて……どこにもないです。妖の言い分を信用して教えてやるほど、私は甘くはないですよ」
情報など与えてやるもんか。そんな風に、つんとそっぽを向く姫乃。
失言に気付いてね~のか、こいつ。まったく、前にも増して笑わせてくれるぜ。
「なにがおかしいんですか? 存在そのものがおかしい玉藻くんに笑われたくないです」
「クク……ひでぇ言われ様だな。だが、礼を言うぜ姫乃ちゃんよ」
「礼を言われる意味がわからないです。あたまもおかしいんですね。知ってはいましたが予想以上みたいです。病院を紹介したいくらいです。あ、でも、馬鹿に付ける薬はないですかね」
――ッ、このアマ……言わせておけばぁ……。
こめかみと口元をヒクつかせながら、俺様は反撃の皮肉を試みた。
「はっは~。いやはや、水戸の守護者サマであらせられる姫乃ちゃんは実にお優しい。《呪い》の解放手段は別でちゃんとありますよって、自分で認めて下さるんだからな」
「……あ」
言われてようやく気付いたらしい。さっきまでの威勢の良さがみるみる萎んでいく。
ぷるぷると小刻みに肩を怒らせ、実に悔しげな表情である。
現状の俺様には《魅了》という切り札はあっても、身体能力は全盛期と比べて乏しい。そんな状態では単体でどんなにがんばったところで、あんなでかい樹はブチ折れない。
ならばと試したカマかけで口を滑らせてくれたのは光明だった。
これで交渉の余地がある。
「教えてくれよ、その方法を……。俺様は元に戻りてぇんだっ」
「今が不満ですか? 妙な術を使ってはいましたが……それも最初だけで、けっこう楽しそうにしていたじゃないですか」
ジト目の姫乃がそんなことを口にする。
「んなもん演技に決まって――ん? つ~か今日一日つけまわしてたのか? ははぁ~ん、さては……みんなにチヤホヤされてる俺様が羨ましかったのか?」
まるで気付かなかったぜ。お銀より忍んでんじゃね~の?
「っ――ち、違うです!! 私はただ、あなたがみんなに妙な真似をしないか心配で……」
「妙な真似……ねぇ。俺様からすればお前さんの方がよっぽど妙だぜ」
こいつは駆け引きだ。俺様は話の流れを引き寄せる為に、ぐいっと一歩踏み出す。
が、力関係でいえば向こうが格上で、こっちは恐れる対象ですらないはずなのに。まるで近づいて欲しくないかのように、姫乃は一歩下がって見せた。
一見なごんでいるように思われているかもしれね~からことわっておくが、俺様と姫乃とでは現状、一歩間違えば瞬殺されかねないほどに力量差があるのだ。平然を装っていても、こちらにとっては命懸け。その捨て身の姿勢の甲斐あってか、流れは確実にこっちへ傾いている。
そんな気が、するのだが――ただ、なんだろうな……。
「今のお前さんはあの夜とはまったくの別物すぎる。外見も、中身もだ。懸命に気張っちゃいるのかもしれね~が、積極性が全然乏しいんだよっ。手紙なんかでの呼び出しもその証拠だ」
「う、うるさいです。前にも言ったはずです。そんなの、あなたなんかには関係ないですッ」
いや、コイツの言う通りだぜ。俺様はなにを言いだしてんだよ?
論点がずれてね~か? 目的の為の駆け引きはどこいったんだ?
「…………。そうだな、関係ね~よ。ただ、いろいろと興味はあるぜ」
思惑とは裏腹に口をつくのはそんな台詞だった。なぜだろう。まるでなにかに怯えるみたいに強がる姫乃を見ていると、平常を保てなくなってくる。もしかしたら俺様は、死と隣り合わせの極度の緊張感でおかしくなっていたのかもしれねぇ。
ずい、ずいっ、ずいッ。じり……じり……じり。
俺様が一歩近づけば、姫乃は一歩下がる。おかげで距離は縮まらなかったが、物理的にそれはいつまでも続かない。やがて柵を背負った姫乃がその足を止め、一瞬、ためらうような間をとってから、まるで抜刀するが如く左手でポケットから祝詞を抜いた。
「と……とまってくださいっ」
視界に収めた姫乃の瞳には、なぜか焦燥の色が宿って見えた。
追い込み過ぎたことを察したが、同時に、どうにも腑に落ちなかった。
幾許も間を置かず、胸の奥でなにかがカッと広がっていく。
「なんだそりゃ、気に入らね~んなら躊躇無くやれよ。今の俺様なんか赤子をひねるようなもんだろう? やれよっ、やってみろよ!!」
冷静になれ、やり過ぎだ。そんな想いを頭の片隅で巡らせながらも、なお暴走が収まる気配をみせない。マジでなにをやってんだ俺様は?
これも力を封じられたせいなのか。情緒不安定で本当に人間のような有様だった。
ガシャン!!
気付けば姫乃を柵に張り付けるように両手で閉じ込めていた。この行為に名前を付けるなら壁ドンじゃなくて柵シャンか? なんだそりゃ?
困惑と憤りを抱えて見上げる俺様と、両腕を畳み縮こまりながら見下ろす姫乃。
意図せず訪れた膠着は、
「無理やり口説くのは感心できないナ」
「――――ッ!? ちぃ」
唐突に飛来した白バラの華によって破られた。
俺様は手に突き刺さったそれを引き抜きつつ「なにもんだッ!?」と怒号を上げていた。
ふざけた真似をしやがったそいつは屋上の端の給水塔で偉そうに腕組みしつつ、眼鏡の縁に右手を当てながら佇んでいた。俺様と違い改造制服のロングブレザーを羽織り、腰にはベルトではなく帯が締められている。その体格バランスは全盛期の俺様を彷彿とさせる黄金比で、左腕をお花なんぞでぶっすりやられたこともあってかなりむかついた。
「ふっ、なにものだ……と問われても、あいにく君のような輩に名乗る名を持ち合わせてはいないのだよ。だが、しかし――それでもあえて名乗るならば」
どっちだよ。そうツッコみたくなるそいつは、壁に備えられていた昇降用の梯子を使用することなく、ふわりと飛んで音も無く着地する。
なんかいけすかね~し、とりあえずこれでも食らえっ。
「可愛くて可愛くて可愛らしい。この世で一番愛しき姫だけの味方、妹がめっ!?」
うっとうしくもなにかを言おうとしたんだろうが、俺様が投げ返したバラの華がそれを許さなかった。はっ、ざまぁね~ぜ。
見事顔面に炸裂し、のけ反り倒れ――――な、なにぃ!?
「妹仮面――ここに参上ッ」
そいつは踏み止まって上体を起こすと、くわえ止めたバラの華を手に取って、何食わぬ顔で言い直した。つ~か言い直すような台詞かそれ?
そもそもなんだ妹仮面って。おまけに仮面かぶってね~しっ。
夏も終わるというのに、脳味噌溶けてんのかこいつ? そんな眼差しを向けたが、なんちゃら仮面はズレてもいね~眼鏡をクイククイッと無駄に上げて決めポーズを崩さなかった。
ひゅるりら~……。とても生ぬるい風が、沈黙の中でそよぐ。
「弥七……お兄ちゃん」
不意に姫乃が言った一言で、全身をぶるぶるりんっとさせるなんちゃら仮面は「おふ、お兄……ちゃん。嗚呼、なんて甘美な響きなんだ。妹成分が僕の身体を駆け巡っていくよ」と理解の追いつかない妄言を吐いて――ん?
え? お兄ちゃん?
「――って、は? んじゃなにか? おまえら、血の?がった兄妹なのかよ?」
「ふっ、それは違うな黒天弧くん。この僕、三上院弥七は――姫と血縁関係にはない」
「じゃ、妹じゃねぇだろ?」
「ふ、義妹であっても妹は妹だ。いや、むしろその方が萌えるじゃないか。血がつながってないってことは結婚だってできるんだぞ? まぁ、つながっていたとしても僕はするけどね。わかっているんだ。僕等は運命の愛で結ばれている。ふふ……視える……視えるよ……僕には。愛の糸、いや鎖がね。それはとても強固でそれでいて美しきゆえに何者にも分かちがたく触れられない究極の自然律だから数学的に言えば円周率の――」
諸手を広げてぺらぺ~ら。テンポが上がるべらべ~ら。熱弁するそれはほとんど呪文みてぇで、いつまでたっても停まらなかった。もはや、THE、珍獣である。だまってりゃそこそこイケてるルックスなのに、登場して速攻で台無しとは。
姫乃はといえば「あ~……また始まっちゃったです」とぼやいていたが……。
さすがにそろそろ、うぜぇよな。
「おい、変態自慢したきゃ日を改めなっ!! こっちの方が――先約だっ」
誰に舐めた真似をしたのか、思い知らせてやる。
再燃した苛立ちは視界を狭め、一瞬にして沸点を突破する。俺様は感情の赴くままに飛び掛かり、問答無用でぶん殴――ろうとして腕を捌かれ、視界の変態眼鏡が逆さまになっていた。
「な――に?」
「いい動きだが、やれやれ……生徒会長に殴りかかるなんて。妖もどきの黒天弧くん。君は転学早々に退学したいのかい?」
「――ッ!?」
「だめっ……お兄ちゃんやめ――」
勘を頼りに身を捩った刹那。いきなり激しい衝撃が訪れ、ぷつんと意識が途切れた……。
× × ×
「お~い、生きとるかいな~?」
ほっぺをつんつんされる感覚で目が覚める。
「お? 起きた起きた、また派手にやられたなぁ転校生。でも、攻撃に反応してただけすごいで? アレをまともに食らってたら、フツーは病院行き間違いなしやからなぁ」
しゃがみ込み、そう告げてくるのは姫乃では無い女生徒だった。
なぜかにこにこしながら、抱えていた紙袋をごそごそ漁りだす。
「びっくりしたで。あんたらいきなりおっぱじめるんやもん。ま、弥七にとっちゃ姫乃っちは特別やさかい……しゃ~ないわ。――ほい、これ飲むとしゃきっとするで?」
にししっっと屈託なく笑いながら、紙パックのジュースを差し出してくる。
たてがみをたなびかせる竜と檸檬果実を合成したような不細工キャラクターがラベル表示されたその飲み物は、生・一番搾りと記されていた。……ジュースだよな、これ?
冴えない思考と身体を軋ませる鈍痛の中。いつの間にか手当てされていた俺様は、不審度満点のそいつを受け取りつつ辺りを見渡すも、屋上にはすでに他の姿は無かった。
「……お前は?」
「おっと、自己紹介が遅れても~たね。ウチは桜子、八兵衛桜子いうんよ。こ~見えて生徒会の副会長なんやで? よろしゅうな転校生。てかウチ……あんたとクラス一緒やし、朝は頭をぽんぽんしてくれたやんか? 忘れんといてや~」
??? あ~、居たな、こんなやつ。
「それにさっきだって弥七と一緒にいたんやけどなぁ、眼に入ってなかったんか? どんだけ頭に血ぃ昇ってたんや?」
「……ひとつ訊いてもいいか? ハチ」
「こらこら、再会して十秒で人をどこぞの忠犬みたいに呼ばんといて~。一応皆にはサクラって呼ばれてんねん、転校生もそう呼んでや?」
素早い突っ込みのハチ、もといサクラは頭頂部のアホ毛を上機嫌にぴこぴこさせて言った。
「……サクラ」
「なんや?」
人懐こい性格が滲み出ているような、外跳ねのボブカットが良く似合うサクラへ、俺様はぶっきらぼうに問いかける。
「お前はなんでこんな真似をする? 生徒会の副会長っつ~なら、あの変態眼鏡に組みしてる人間だろう? なにが狙いだ?」
「むぅ、【黒天衆】の若頭さんは疑い深いんやなぁ。別に狙いなんかあらへんよ。その一番搾りも、毒入りなんてオチはないで安心しぃ」
本来なら毒なんざ効きやしね~が、今は正直わからねぇ。警戒すんのは当たり前だ。
「っ、俺様の正体を知っている人間を信用しろってのか?」
「ん~……そんなに深く考えんでほしいわ。しいていうなら、そやなぁ……」
言いながらサクラはふと視線を空へ向け、続ける。
「ウチはアンタに興味をそそられたんよ。お近づきになりたいんや。皆が注目の転校生に興味を持つのは、なにもおかしいことあらへんやろ? それに」
疑心の俺様は耳を傾けながらタイミングをはかった。すでに一度目の《魅了》の効果は切れているハズだが、疑わしきは何度でも術中にしてしまえばいい、
「あの姫乃っちがあそこまで感情をあらわにする相手は珍しいさかい。お? なんや、姫乃っちの話になった途端食いつきがええなんて、ウチに失礼ちゃう? ほんにわかりやすいやっちゃな。食いつきつながりでこいつもど~や、ソースが美味いで?」
そう思案していたのに。なぜか流れで焼きそばパンまでもらってしまった。
どうも《魅了》を踏み留まるどころか、無意識のうちに身を乗り出していたらしい。
当のサクラはといえば、自分のぶんの一番搾りと焼きそばパンをとりだし、あ~んとパクつきだす。「くぅ~……たまらん」とか言ってる。
変な女に嫌悪でも憐みでも無い感情を向けられ、著しく妙な気分になってしまった俺様は、紙パックへストローを刺し、口に含む。どうせ飲むなら梅こぶ茶がよかったがな。
「っ――すっぺぇ」
「あはは、それがクセになんねん。濃いめの焼きそばパンとの相性も抜群なんやで?」
顔をしかめる俺様を能天気に笑うサクラは早くも二つ目のパンをほおばり始めた。もぐもぐしてすごく幸せそうな表情で悶えている。細いくせによく食べるやつだが、つ~か、少しは俺様を警戒しろよ。
なんだかどっと力が抜け落ちた。作戦は出だしからつまずいちまったし、余計な邪魔者の出現で先行き不透明。全然おもしろくねぇくせに攻略難易度がさらに跳ね上がったこのゲーム。当たり前だがリセットなんぞできず、かといってやめるわけにもいかず、
「はぁ……」
どうやってやられたかも覚えていない俺様の憂鬱になる心とやられた傷に、檸檬のジュースはただ沁みた。
× × ×
俺様は黒革張りのソファーベッドの上で、陰気な朝を迎えた。
ここは私立三ッ葉葵高等学校の同敷地内に併設される、男子寮の一室である。
規律により寮生は夜九時から朝六時までの間は外出禁止で、そのルールのおかげか姫乃が夜に守護者としての仕事をしていることを一般生徒は知らないようだった。
しかし、ただでさえ最悪な初日を終えたばかりだってのに。
こんなにも憂鬱なのは、追い打ちのような昨夜のせいである。
どうやって結界を擦り抜けたのか知らねえが、親父の使い魔である真っ黒な九尾の子狐(可愛くねぇ)がやってきたのだ。俺様はそれとなく経過報告をしたんだが(いきなりボコボコにされた事実は伏せた)、案の定さっそく苦言がきやがった。
『他の一派の動きもある……古豪の慎重派はともかく、血気盛んな現代妖怪が集う過激派に察知されても面倒ゆえに、手早く成果を挙げよ。できんとは言わせんぞ?』
――わかってんよ、うるせぇな。
まだ身体のあちこちが痛むものの、それでも昨日よりは幾分マシだった。
手を天井に向かって伸ばし、開閉すると、力は入る。
「よっ――と」
俺様は跳ね上がるように立ち上がり室内を眺めた。
与えられた部屋は六畳ほどの1K。人間らしく生活する為の家具等は一式揃ってはいるが、慣れない俺様にとってはいかんせん息苦しく感じた。カーテンを開くと、うっとうしい日差しが射しこんでくる。床には脱ぎ散らかした制服が放置されたままだ。ベランダからは校庭を挟んで校舎とあの樹が視え、今置かれている現状が夢じゃ無いことを嫌でも実感させてくれる。
テレビを点ければ静かな部屋に、通販番組のおおげさな謳い文句が響く。チャンネルを変えると、美人なのに喋り方が残念なお天気お姉さんのリポートが始まった。
『今は快晴でも午後から崩れちゃうナリ。折り畳み傘があった方がいいカンジかも~』
……一人だ。ここには面倒な攻略相手も、邪魔する変態も、口うるさいクソ親父も、梅こぶ茶を淹れてくれる部下も、カワイコちゃんもいない。
誰も……いない。
それが癪に思いつつもお湯を電気ケトルで沸かし、インスタントの梅こぶ茶を作ろうとしていると、ピン――ポ~ンと、朝っぱらから来客を知らせるインターホンが鳴った。
寮で俺様を尋ねてくるヤツはいないはず。
不審に思いながらも、のそのそとドアの覗き穴より外をうかがうと、
「おっす、玉藻っち。健気なウチが出張サービスに来てやったで~」
アホ毛を犬の尻尾みてぇにピコピコ振りながら、制服を着たサクラが立っていた。手にはなにやらビニール袋を下げている。つ~かその呼称はやめろっ。
いつまでも転校生呼ばわりじゃアレだが、なんの育成ゲームだそりゃ。
「……なにしてんだ、お前」
そもそも、ここって男子寮じゃなかったっけ?
俺様はガチャリとドアを開き、顔だけ出してやる。
「にしし、押しかけ女房ってヤツやで。ウチも女子寮なんやけどぉ……あんた朝ごはんまだやろ? ウチが作ったるから一緒に食べよ」
「ごくろ~さん、頼んでね~よ、帰れ」
「そんな冷たいこと言わんと入れてや~。こう見えてウチ料理得意やねん。デザートも持ってきたさかい……ほれ、杏餡庵名物やで? これウチめっちゃ好きやねん♪」
「…………」
騒がれても面倒だったし、ひとまず俺様はサクラを部屋に上げた。
決して大好物のスイーツに釣られて、というわけではない。
「おっじゃまっしまぁ~す」と朝から楽しげな忠犬女。
《魅了》して追い返してもよかったが、なんだかそんな気分にもなれなかった。
「すぐできるで、ちょび~っとだけ待っとってや?」
持参してきた真っ白いエプロンをつけると、手早く調理しだす。
トントントン……ジュジュ~……小気味の良い音がリズムを刻み、ほどなくして狭いミニキッチンからはいい匂いが漂い始めた。
ソファーに腰掛ける俺様は梅こぶ茶をずず~っとすすりながら、横目で眺める。
ふんふふ~ん♪ と得意気な鼻歌に合わせてミニスカートの裾がふわふわ揺れている。カモシカのようにスレンダーな脚線美は、どうにも視線を惹きつけた。
う~ん、もう少しむっちりしてる方が好みだがなぁ。欲を言えばより大人っぽく、それこそあの夜会った艶やかで食べごろな姫乃みてぇに――
「さ、食べごろのウチ食べてや」
――っ、なに言ってんだ急に……《魅了》だってしてね~ぞ?
ちょっとびっくりした俺様をよそに、小さなガラス製の丸テーブルへ「じゃ~ん」と並べられる品々。こんがりと焼き色の付いたBLTサンドに、濃厚な香り漂うコーンポタージュスープ、フルーツヨーグルトと彩り豊かな朝食だった。
んだよ、メシのことかよ。よく見れば二人分ある。どうやら本当にサクラも食べるらしい。
基本俺様は規則正しく食べる習慣がない。食いてぇ時に食いてぇものを食うスタンスだったが――これも力を封じられてしまったせいだろうか。まるで示し合わせたように腹が鳴った。
ま、実際美味そうではある。三百年生きた俺様はこうみえて舌が肥えているとはいえ、朝は和食じゃなきゃダメなどという頑固者でもねぇので、
ぱくり――むしゃむしゃむしゃ……
「!! へぇ~……」
トーストに塗ったコクのあるタルタルソースが、レタスの仄かな苦みとトマトの酸味に絶妙に合っていて、噛みしめるほどベーコンから出る旨みを多段階的に上げていく。
ん? 鼻孔に抜けてくるこの感じ、隠し味で辛子を入れているな。後を引くような絶妙な辛さが食欲をそそるぜ。カブりつくたび鳴る音もイイ。サクッ、シャキッ、そしてじわっと広がる味のハーモニーに、二口、三口と停まらなくなる。
んん? コーンポタージュはインスタントか? BLTサンドに比べてイマイチだが、僅か十五分程度でこのクオリティー。フルーツヨーグルトで栄養面も補いつつ、濃い味に慣れた舌をさっぱりさせるこの気遣い。
やるなこの忠犬料理人。褒めてつかわそう。
「せやろ、せやろ玉藻っち。ウチの腕前はなかなかやろ? 小声じゃなくてもっと大きな声でぞんぶんに褒めてくれてかまへんで?」
いかんいかん。どうも、また気持ちが台詞になっていたらしい。
俺様の様子をうかがっていたサクラが、ドヤ顔でむふーって鼻息が荒くなっている。調子に乗らせると、ちょっとめんどくさいタイプかもしれない。
「いや、うん……まぁまぁだな、つ~か玉藻っちはやめろ」
「え~、口に合わんの? 玉藻っち」
「……合わんわけじゃないが……こっちの話も聴け」
「まずいの? うまいの? どっちやねん玉藻っち」
訂正。どっちにしろめんどくさいらしい。そして玉藻っちはやめろっ。
「どちらかといえば……うめ~よ」
「なんや、そっけないなぁ。そんなんじゃ女の子にモテへんよ?」
サクラはほっぺをフグみてぇにふくらませる。残念でした。俺様はモテてます~。
と、まぁ、それはさておき、誰かとこうして食うメシは悪くは無いが、おかしくはあった。
「んなことよりよぉ――やっぱどう考えても怪しいだろ。昨日会ったばっかでこんなことしてくるくらいだ。……なんか目的があんじゃね~のか?」
俺様がポタージュの入ったカップを持ちながら切り出した瞬間、サクラの眼がきらんと鋭さを帯びた。相変わらず口はもぐもぐとBLTサンドをほおばりハムスターみてぇな顔である。
「もももごも、もごもご。もももごも」
「……いや、待っててやるから飲み込んでしゃべれよ女子高生」
「ふんももー」
よく伸びるほっぺの中身をポタージュで流し込んだサクラは一息入れて、こう言い直した。
「なぁ、玉藻っち? あんたは姫乃っちのこと……どう思う?」
「どうって……ずいぶんぼんやりした質問だな?」
思春期真っただ中の高校生でこういった質問の場合、大抵がコイバナらしい。前に読んだヤェイエイティーンズとかいうノリが空回りしている雑誌にそう書いてあったぜ。
特集は〈★彼のハートを射止めるおしゃれ催眠アイテム★〉だったっけ。頭の悪そう通販グッズが羅列されていたことはさておき、こいつは俺様の正体を知っているし、昨日屋上でチラッと話した感じでは、姫乃が水戸の守護者であることも知っている風だった。
つまり、そういう意味での問いなのだろう。
「ウチ、あのコ大好きやねん。なんか、こう……小動物っぽいのに一生懸命背伸びしてて、思わず護ってあげたくなるっていうか~。にしし、玉藻っちもそう思うやろ? 転校して早々にちょっかいだしてたくらいやさかい」
「ちょっかいって……あれはだな」
「にしし。姫乃っちはな、ああみえて料理が得意なんやで? 特にお菓子作りにかけては研究熱心やし。ウチもたまに一緒に作るんやけど、そんじょそこらのお店のやつよりずっとうまいんやで? プリンなんか杏餡庵名物に引け劣らんくらいなんよ。どや? どや? 女子力高いやろ? もっと惹かれてまうやろ? どや?」
全然コイバナらしかった。マジでどうでもいい。あと、どやどやうるさい。
しかし、アイツ……プリンなんか作れんのか。
「まぁ……ツラはいいかもしれね~が、あいにく趣味じゃね~よ」
実際気にかかっている点は否定できなかった。俺様にとっちゃ姫乃は憎むべき敵で、目標物でしかね~はずなのに。胸の奥が、もやもやとして気持ち悪い。
「え~? そうなん? てっきり脈ありと思ってたんやけどなぁ」
納得できないのか首を傾げるサクラを余所に、俺様はデザートに手を伸ばす。
うむ、安定の旨さ。相変わらずこのプリンは最高だ。
「でも、姫乃っちの方は玉藻っちに脈ありやと思うで?」
「――っ!? ゲホッ……ゴホッ、はぁ?」
気管に入ってむせちまった。プリンだけに、鼻からぷりんっと逆流しかけた俺様は口元を押えながら、なに言っちゃってんだコイツ的な目線を向ける。
と、サクラはにししと笑みを浮かべてこう続けた。
「昨日言うたやん。姫乃っちがあんだけ感情をあらわにする相手はおらんよって。普段のあの子は人前では借りてきた猫みたいに大人しいんや。でも、最近じゃあの弥七にだって見せんかった感情の起伏を、玉藻っちには見せた。これはすごいことなんやで?」
弥七? ああ、あの変態か。
「そりゃ、単に嫌い方の差異だろ」
俺様が姫乃だったら、話しかけられるのも嫌だぜ。「お兄ちゃん」とか死んでも言わね~し、たぶん、手の方が先に出る。あんな変態と一緒にはされたくね~が――ん?
でも、だったらなんであの時、姫乃は俺様への攻撃を躊躇したのだろう?
「嫌いな相手には、そもそも近寄ろうとせんやろ?」
「そ、それは……そうだが、アイツは水戸の守護者なわけで……俺様の動向を気にかけるのは普通じゃね~のか?」
そう。俺様は妖で、姫乃からすれば排除せねばならない存在。
その事実は、揺るがないはず。決して、相容れることなど――。
「いやいやいや、今の玉藻っちは妖力が皆無やん。ウチもその手の家系や。《霊術》を使えるほど卓越はしとらんけど、感じとるくらいはできるんよ。それにウチ……これでも男を見る眼はある方なんや。だから――わかる。今の玉藻っちはせいぜい無害なおいなりさんや」
言ってポケットから取り出したお札を、ぺたんと額に張り付けてくる。元の俺様なら致命打になりかねないそれだが、絞りかすの今はキョンシーみてぇなビジュアルになるだけだった。
「なにしやがる、冷や汗かかせやがって。怖~いおいなりさんになって昇天させてやろ~か」
「朝だけに? ウチとしてはあんまり大きいのは堪忍やで? きゃ~」
当のサクラは勝手に下ネタにしてケラケラ笑っている。
ったく、ホント変なヤツだぜ。なんか……不思議と憎めねぇ。
しかしサクラの言い分はわかったが、コイツはたぶん知らないのだ。
あいにく、姫乃の方は俺様に少なからず脅威を感じているに違いない。不可解な力に。
俺様の瞳術――《魅了》を。そして、それを教えてやるほど俺様はまぬけじゃない。
「感情を露わにしない……ねぇ。つ~かよぉ、教室で浮いてんのはそのせいじゃね~の?」
《超》と記されたお札をべりっと剥がし、ぶっきらぼうに話を戻したのだが、どういうわけかそれまでずっと笑顔を崩さなかったサクラの表情が、不自然なくらいに強張った。
なんだ? 俺様は変なことを口にしただろうか?
「どうした?」
「あ――もうこんな時間なんやね。生徒会の仕事があるから、ウチ先にいくわ」
急によそよそしく立ち上がり、スカートのしわを伸ばすようにパンパンと払うと、慌ただしく玄関に足を向ける。
「おい……まだ聴きてぇことが――」
「にしし、気が向いたら……またご飯作りに来てあげるさかい」
姫乃っちとも、仲良くしたってな?
玄関先で振り返ったサクラは元の屈託ない笑みでそう言い、小さく手を振り去っていく。訊きたいことは別に、後で学校でも聴けるからいいんだけどよ。
そもそもここは男子寮だっつ~の。警戒心なさ過ぎだろ?
「なんなんだ、アイツ……」
俺様は独りごちながら、頭を掻いていた。
登校には徒歩五分もかからねぇ。だから、着たくもねぇ制服に袖を通して部屋を出たのは、始業のチャイムが鳴る十五分前で充分だった。
登校時に、あの弥七とかいう変態眼鏡と並んで歩く姫乃を見た。
身振り大きくなにかを話す奴に対し、反応の薄い姫乃。登校する他の生徒はまるで道を譲るように距離を取っていたが――ふむ、なんだろうな。
二人へ向ける視線のほとんどが、どこか刺々しく感じられるのは気のせいだろうか?
おまけにまた胸の奥で、もやもやが膨れ上がってくる。あの変態には昨日のカリもある。
くそったれ、リベンジだこの野郎。そう思い近づきかけたのだが――。
「ッ!?」
ぞくっとした……。あきらかに、他の視線とは一線を画す嫌な粘つきを感じたのだ。
慌ててその相手を探そうと辺りを見渡すも、今度は鬱陶しくも女生徒共に囲まれてしまう。
「おはよー、黒天弧くん」「きゃー、今日もかわいー」「さらさら髪うらやまし~」
うおっ!? こらこら、もみくちゃにするな。俺様を雑に扱うなっ。
ったく、ぬいぐるみじゃね~んだぞ?
結局、リベンジもそれ以上の捜索も叶わなかった。《魅了》を使って抜け出した頃にはすでにその感覚は無くなり、二人の姿も見失っていたからだ。
ちっ。まぁ、今は姫乃と話す方が優先だ。幸いにも同じクラスだしな。
教室内は先日と変わらぬ仕様だった。あちこちで歓談する集団が見受けられる中、やはり今日も一画だけ切り離されたようにぽっかりと空いた空間がある。「おはよー」のあいさつが、楽しげな語りかけが、水戸姫乃にだけは向けられていない。
サクラはまだ生徒会の仕事とやらから戻っていないようで、姫乃はつま弾きの異物の如く、それでいてなにをするでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
だから――。
「よぉ」
深い意味なんか無い。ただ、俺様の席は姫乃のとなりで、知らない間柄じゃね~し、今後こいつから元に戻る為の方法を聴き出さなきゃならなくて、その為にはむしろ関わりを多く持たなきゃいけないから、声ぐらいは、かけてやることにしただけだ。
「昨日は世話になったな」
すると、なぜかクラスの視線の集中と不穏なざわめきが伝わってくる。特に、女子の物が多い。俺様は《魅了》を使用してねぇんだけど――って、あ、そ~か。俺様は話題の転校生だからなぁ。昨日も今朝もモテモテの引っ張りだこだったし、みんな関心が高けぇんだな?
が、今は超どうでもいい。んなことよりも、こっちだこっち。
「…………」
呼びかけに姫乃はピクリと反応を示したが、こちらを視ようとしなかった。
「姫乃ちゃんよぉ、社交辞令って知ってるか? 嫌でも愛嬌よくすんのが、人間社会では必要なことなんじゃねぇのかよ?」
この距離でシカトって、そんなだから孤立すんじゃね~のか?
そう思い、若干苛つきながら言うと、
「……話しかけないで、ほしいです。私のことは――放っておいてくださいっ」
「――ッ!?」
驚くほど疲れ切った眼と震えるか細い声が予想外で、俺様は二の句がすぐ続かなかった。
「だいたい、あなたのお世話をしたのはお兄ちゃんです」
「あ……ああ。あの変態生徒会長には、そのうちキッチリお礼してやらね~とな」
「むりですよ。今の玉藻くんでは、お兄ちゃんには……絶対に勝てないです」
「あん――――って、なんだよっ!? どこいくんだよ」
暗く青白い表情の姫乃は唐突に立ち上がると、教室を早足で出て行く。
呼びかけに振り返ることもなく、残ったのは好奇の視線と大きくなるざわめきで、
「どいつもこいつも……ったく」
やり場のないもやもやを抱えたまま、独りごちる。
その後――午前中の授業に、姫乃はなぜか出席しなかった。
× × ×
昼休み。俺様は異様な気怠さを覚えながらも一階に下り、購買前に設置された町中ではまず見ない珍妙な自動販売機のボタンを押す。
うぃ~ん――うぃんうぃん。ボトッ……。
パックの梅こぶ茶(冷)が落ちてくる。取り出すと同時に溜息が出た。朝聴きそびれた追加の情報収集をサクラからしようとしたのに、かえって余計なことを訊いちまったせいである。
『姫乃っちは体調が優れんみたいで保健室におるよ』と。
「…………」
しかも、アイツまた生徒会の仕事がとか言っていなくなるし。
ここの生徒会はそんなに忙しいのかよ?
おかげで俺様が元に戻る手がかりが、本当に必要な情報が一向に手に入らない。
《魅了》して他の生徒からとも考えたが、この余計な情報のせいでそんな気分になれなくて。
そもそも、一般生徒は水戸の守護者を知らね~だろうからやる意味も――。
「ふん……まぁ、元は姫乃から聴きだそうとしていたんだし、再交渉にいくだけだぜ」
言い聞かせるように呟いてその場を後にしようとするも、気付けばもう一度自動販売機に百円を投入しボタンを強打していた。二本目である。俺様の喉はそこまで乾いていない。
ああ――くそっ、ホント……なにしてんだかな。
そんな時だった。裏庭から、誰かの嬉々とした声が聴こえてきたのは。
「ね~、きいてきいてぇ。あのおまじないの結果……本当に当たってたのぉ」
「え~まじで?」
「すご~い手に入ったんだぁ」
「やっぱり噂は本当だったんだね~」
「下手な占いと違って百発百中らしいもんねぇ~」
「一番安い予知めいた物でも超当たるっていうし~」
「一番すごいやつだと具体的にわかるらしいじゃん」
「あの○○先輩には好きな人がいて――」
「○○ちゃんは二又してて」
「清純ぽい○○ちゃんは裏じゃ実は――」
「えー? やっぱりそうなんだ。最悪だね~」
「でも、信用売りらしいよぉ」
「あたしもやってみようかなぁ」
「あんた金欠っていってたじゃな~い」
「あははは」
がやがやとした、雑多なガールズトーク。
いかにも青春してますというそれは実に楽しげで、見なくたって表情が眼に浮かぶ。
俺様が手にした梅こぶ茶は二本。ひょいひょいと片手でお手玉しながら、物思う。
「そういや、見たことね~な」
――姫乃の……笑顔を。
足は保健室へと向いていた。
休み時間の喧騒から外れるように、ひっそりとしたその場所。扉の前に立って、開こうとして、逡巡した。右手に持った二つの梅こぶ茶は、しっとりと汗を掻き始めている。
「……邪魔するぞ」
俺様は声のトーンを下げてそう言った。
スライド式の扉が音もなく滑らかに開く。常駐しているはずの養護教諭の姿は無く、換気の為か窓が解放されていたせいで消毒液の匂いがこちらへ一気に漂ってくる。
空気の流れでベッドの周りを囲う白いカーテンが揺れる。まるで誘い招きのような風の撫でつけに俺様は自然と導かれ、そっと、カーテンに手をかける。
微かな寝息をたてる姫乃が、そこにいた。
伏せられたままのまぶたを視て、意外に睫毛が長いと気付く。よほど疲れているのか。毛嫌いしている俺様の訪れに気付く様子がないから、眠りの深さがうかがえる。
考えてみれば姫乃は守護者として夜も活動している。
十七の少女の小さな身体には堪えるのかもしれない。
「ぅ……ん」
小さく鳴いての寝返り。布団が少しズレ、あご先から首筋が露わになる。
綺麗だった。雪のように白くてきめ細やかな肌だ。あの夜のような支配的な色っぽさはなくても、こうして口を開かなければ、女として充分に魅力があると思えた。
ひょっとしたら、普段の俺様なら悪戯のひとつもしたのかもしれない。でもこの時は、まだあどけなさが残るこの寝顔を、純粋に愛でていたいと、そう思わされていた。
好みじゃね~のに。なんで、だろうな。
「っ~、なんか……調子狂うぜ」
出直すことにした。無理やり起こして交渉を再開することも、寝込みを襲うこともできたはずなのに。頭を掻きむしった俺様は、枕元に梅こぶ茶をひとつ置きその場を後にする。
「あ~あ……なにしてんだかな」
ぽんぽんぽ~んっとパックの梅こぶ茶をもてあそびながら、ゆっくり飲める場所を求めてふらふらり。教室は論外だし、中庭もさっきの感じじゃ落ち着きが無さそうだし、それにしても身体が重だるいなと思案していると――
「待ちたまえ、黒天弧くん」
「あん? ――ッ!?」
階段の踊り場で振り返った瞬間、体温が急上昇する感覚を覚えた。眼鏡の縁をくいっとさせて、俺様を見上げるように近づいてきたのは、忘れもしねぇ。朝、カリを返し損ねたあの変態生徒会長だった。
「懲りずに僕の妹へ近づくとは……また痛い目に遭いたいのか?」
「けっ、俺様が誰となにをしようが、てめぇにゃ関係ね~だろっ」
「ふっ、大いにあるよ。君はどうやら物覚えが悪いようだね? それともボコボコにされたショックで忘れてしまったのかい?」
「変態の戯言なんざ知るかボケッ。だいたい、そんなに近寄らせたくね~んだったら、四六時中そばにいろや」
「やれやれ。品性を感じさせない物言いはさすが半妖、いや今はもどきだったね。僕とてそうしたいのはやまやまなんだよ。しかし僕は生徒会長でね。生徒達が、先生方が、僕の優秀な力を学校に役立ててほしいと求めてくるのさ」
弥七は、役者がかった仰仰しい仕草と共に首を振る。
「僕は常に姫を、妹成分を感じていたいのに。その為の妹仮面なのに……。残念だけど、それを許してくれないのだよ。嗚呼、姫。どうして姫はあんなにも可愛いんだ」
と、ただでさえ突っ込みどころ満載なのに。
なにを思ったのか懐から写真を取り出し、一句読み出した。
「ふふ、卯月頃 春風薫る 八重桜 散華は憂う 微笑みの姫――これは春に撮った彼女の生写真で、僕の大事な妹コレクションのひとつだ。正直、手放すのは口惜しいが……手切れ金代わりに譲ろう。だから、もう妹には近寄らないでくれ」
手裏剣のように飛ばされた写真を、俺様は指先で捕まえる。
初めて視た。写真の中の姫乃は今より幼かったが、笑っていた。
隣に写っているのはサクラのようだ。舞い散る桜の花びらと共に、それはとても楽しげで、写真を撮っている相手に微笑んでいる。
俺様はこめかみをヒクつかせつつも、思案する。
目の前のコイツはあいかわらず理解不能な変態だが、こんなものまで持っているなら姫乃と近しい間柄なのは間違いないようで、ならば、状況が状況である。
ここは使えそうな相手は使うべきと、大人らしく情報の聴き出しを試みる。
その驚愕の事実を、ここに開示するとしよう。
(俺様の質問)
其の一「姫乃が学校で孤立している理由は?」
其の二「御神木を排除する以外の《呪い》の解放条件は?」
其の三「そこまでして俺様を姫乃に近づけたがらないのはなぜ?」
(弥七の回答)
其の一「拒否する。それが妹の為だから」
其の二「拒否する。それが妹の為だから」
其の三「もちろん、それが妹の為だから」
――うっぜぇ~……。
「ッ――じゃあ……あいつが別人みてぇに変身する理屈はなんだよ?」
「もしや《破羅門》化のことを言っているのかい? 水戸の歴史は長いが、あれは姫だけが持つ特異体質だよ。あいにく、どういった仕組みでなぜそうなったのかは、この僕とて把握していない。姫も話したがらないからね。しかし、僕にはいつか打ち明けてくれるはず……。なぜなら僕達は運命で結ばれているのだから」
ああ、もう、いいや。
「……ふ、ふ~ん。ところで……てめぇは生徒会長なんだろ? 実に丁度よかったぜ。一生徒としてのチンケな望みを、ひとつ聴いてくれよ? なにタダでとは言わね~よ、ほれ」
まともに情報が手にできないと悟った俺様は、持っていた梅こぶ茶を緩やかに放り投げた。
「ほぉ? 生徒として君が僕に? 興味深いね? 聞くだけ聴いてあげよ――っ!?」
弥七が、駄賃代わりのそれを右手で受け取るのを、俺様は待たなかった。
「てめぇのツラは視てるだけでムカつく。一発……いや、ボコボコに殴らせろコラァ」
昨日のダメージがあるし、異常に気怠いし、本調子じゃねぇが……あいにく、やられっぱなしでいられるほど寛容でもねぇ。騒ぎになったら面倒だが、幸いここには人目が無い。
油断して近づいたのが運のツキだ。
変態クソ眼鏡め、全殺しにしてやる。
不意打ち。封印によって縮んでしまった身体を、より低くしての体当たり。
その勢いのまま奴の足を抱えるように取り、倒しにかかる。がっしりと腰部を掴み、肩を捻じ込み、転ばせてマウントを取れば、今の俺様でも勝機はある――そう、思っていたのに、
――倒せ……ない? つ~か……力が……全然入らねぇ!?
なぜか全身が痺れて動けなくなっていた。
「ふふっ、学習しないな黒天弧くん。せっかくだから再度調教し、そして刻んであげるとしよう。君の、身体にっ――二度と抗えなくなるほどの正義をっ!!」
「――ッ!!?」
ぶわりっ。
全身をざらついた舌で舐めまわされたような嫌悪感に陥り、背筋を冷たい汗が伝っていく。
弥七の放つドス黒い殺気と死角からの攻撃による圧迫感が、押し潰すように迫ってくる。
……げっ、マジで終わったかも。
「っ――やめてぇぇッ!!」
刹那、身体が意図せず横に弾かれる。
「くっ……どうなって――!?」
床に転がり仰向けにされた俺様だったが、それに気付いて驚いてしまった。押し倒される形で上になっていたのは、あの格とかいう人形みてぇな子鬼だったのだ。背中には攻撃跡と見られる拳型がくっきりと残り、ぶすぶすと、白い煙が立ち昇っている。
「こんなやつを護法双鬼で庇うなんて――正気かい!?」
声を荒げて弥七がそう言った。視線はこちらでなく、階段の下へ向いている。
壁際で倒れている俺様からは位置関係上その姿は視えないが、こいつのご主人様が誰なのかはよく知っている。だからこそ困惑せざるを得なかった。階段を駆け上る足音。動揺の為か、弥七は後ずさっている。やがて上り終えた護法双鬼のあるじは、弥七の横を通り過ぎ――
「――無茶させてごめんです、格」
俺様の近くでしゃがみこむと、申し訳なさそうに負傷部位へ触れる。
と、苦しそうにしていた子鬼の表情が和らぎ、その後、白い光に包まれ姿が消えていく。
「なん……で、こんな真似を……」
理解が追い付かない俺様に構うことなく、姫乃は無言で立ち上がる。
「もうすぐ、授業がはじまるです。お兄ちゃん。お願いだから……この場は収めて」
「――姫、僕は……」
「お願い――だから」
姫乃を後押しするように、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。弥七は眉間へしわを寄せていたが、あくまで平静を装うように、右手で眼鏡のズレを修正してみせた。
「ふん、ここは姫に免じて退こう。だが、いいかい黒天狐くん? 妹と僕の永久に続く美しき円周率に、君が代入することは決して無い。だから、これ以上……手をわずらわせるなよ」
いや、意味がわからねぇよ。そう思っても俺様の声は出てこなかった。痺れが侵食し、声帯までもが完全に麻痺していて、呼吸さえやっとの有様だったのだ。
弥七と姫乃が擦れ違う。二人の胸中は俺様には読み取れない。
言葉を交えることなく階段を上り去っていく弥七だったが「あぁ、そうそう……」と途中で振り返り、こう言った。
「僕はね――梅こぶ茶より、一番絞り派なんだ」
緩やかに放り返された駄賃の品。
俺様はそれを受け取ることができず、ぽてっと床に落ちたパックは角が不細工に潰れた。
× × ×
「おいサクラ」
「ん? はんやままもっひ」
放課後になった瞬間、俺様は逃がすものかとばかりに呼び止めた。
カロリー補給菓子をくわえた当のサクラは、呑気にもぐもぐしている。
「お前、俺様に一服盛りやがったな?」
と、こちらの睨みにサクラの咀嚼が停まり、まるで逃げるように視線を逸らした。痺れに思い当たる節はコイツが作った朝飯しかないが、俺様も浅はかだったと思う。きっとまだ心のどこかで、自分がまともであった頃の慢心があったのだろう。
「ほらよ、それで流し込みな。温くなっちゃいるがな」
俺様は歪んだパックの梅こぶ茶をくれてやった。
「…………」
受け取ったサクラの手は、微かに震えていた。
「ふん。安心しろよ。別に毒入りなんてオチはねぇ。どっかの誰かさんと違ってな。とりあえず、色々聴かせてもらおうじゃね~か。ここじゃなんだし場所を変えようぜ」
俺様は周囲をぐるりと見渡す。
すでに下校した者や部活へ向かった者がいたおかげで人気は減っていたが、まだ残っていた生徒の視線が集中している。人の眼が無い方が話やすかろうという気遣い。それはともすれば大人に視えるかもしれね~が、単純にもたもたしたくなかっただけだ。
俺様は教室の隅へ目線を向けるも、窓際の最後列の席に姫乃の姿は無いままだった。
× × ×
「姫乃っち……早退したんやね」
「……みてぇだな」
帰り支度をした俺様は、サクラと一緒に屋上を訪れていた。
空はどんよりとした曇り空。空気が少し湿っていて、強めの風が吹いてくる。
サクラはいたたまれないのか俺様から離れるように歩きだし、転落防止の柵を掴む。
「よぉ」
「ん?」
俺様の呼びかけに、力無く声を出す。こちらを振り向くことなく空を見上げている。風がより強くなってきて、サクラは髪を荒めに煽られていたが、気にする素振りさえ見せなかった。
「ありゃ《呪術》を使用した麻痺毒だろ? どっから仕入れたんだよ」
「…………」
人間が操る《霊術》にも派生する術式が多々あるように、妖が操る《妖術》にもいくつか種類がある。《呪術》もそのひとつだ。
昼休みの一件。俺様の身に起こった不可解な痺れはどうやら《呪術》の一種のようだった。
あのあと多くを語らねぇ姫乃より《霊術》と思わしき術で浄化されたあと、すぐに動けるようになったからこそわかったことだが。残念ながら助けられた理由を問う間もなくアイツは走り去っちまったけど。
ともあれ、こんな目に遭わされてなお穏やかな自分が、少し意外だった。
もっと感情に任せて、目の前の人間を罵ってしまうかと思っていたのに。
いいわけするようだが、あえて何度でも言わせてもらおう。本来の俺様であれば、こんなことは絶対に在り得ない。《呪術》なんぞが効いちまったのは、あくまで弱体化しているからこそで、だからこそ陥った窮地なわけだが、いや、今回の一件で、重要なのはそこではない。
俺様は無言を貫くサクラに近づき、踏み込むように問う。
「まぁ、普通の人間が使う代物じゃね~《呪術》の仕入れ先なんざ、この際どうでもいいさ。問題は、俺様にそれを使ったってことだ。はっ――ったくよぉ、人懐こい顔してずいぶんエグい真似するじゃね~か。妖の俺様が気に入らねぇんだったら、最初っからそう言えよ。回りくどい真似しやがって」
「ッ――ち、違うんや」
サクラが振り返る。その表情は苦しそうに歪んでいる。
「なにが違うんだよ。妖のくせに騙された俺様もずいぶんとまぬけだったが、サクラ……お前さんは下手な妖よりよっぽどタチが悪いぜ。――ああ、別に怒ってるわけじゃね~んだ。かえってよぉ……勉強になったと思ってるくらいだぜ」
俺様は口調穏やかなままそう言った。今回の失態は、人間を信用したツケなんだろう。
認めたくはないが、こんな状況下で弱っていたのかもしれない。心ってやつがよ。
やってくれたものである。事実、姫乃がこなければどうなっていたことか、まったく、三百年を生きるこの俺様が、人間の小娘に化かされたってんだから笑えねぇ。
でもよ、やられたらやり返すのが俺様の流儀だ。
「話を、ウチの話を――聴いて……くれん?」
「話なら聴くさ」
ただし、《魅了》したてめぇの、な。
「っ――た、まも……っち?」
化かし合いならこっちが専売だ。俺様は、サクラの思考を支配する。
そのうえで、嘘偽り無き真実を聴き出すつもりだった。
「教えろよ、なぜこんな真似をしたのかをよ」
「あ……うぁ――」
大きく開いたままの瞳孔。まるで質問に抗うように、小さな唇が震えている。以前、術中にした際にはこんなことは無かったのに。
「言えよ……言えっ!!」
予期せぬ抵抗に苛立ち、気付けば詰め寄り、サクラの肩をゆさぶっていた。
「したくて、したんや、ないっ。そう……指示、された、んや」
「指示、だと? 誰にだッ?」
「生徒……会長……三上院、弥七」
それは実に不思議な現象だった。俺様に《魅了》されているはずなのに、サクラはとても苦しそうに、絞り出すように言ったのだ。堪えきれず溢れ出た涙を、頬に、伝わせながら。
「――――ッ」
瞬間、記憶の奥、その片隅を刺激されるような感覚に陥っていた。サクラより明かされた真実。その片鱗に触れたことよりも――泣かせたことそのものに、思考を乱されていた。
俺様は、女の泣き声が極端なくらい苦手だ。それがいつからかはわからない。
けれど、胸の奥を抉られるみてぇな気分になって、とても遣る瀬無くなるから嫌なのだ。
どうせ聴くなら滾るような啼き声いい。その方がお互いに気持ちいいだろう?
大昔、どっかの武将がこんな名言を残している。
泣かすより、啼かせてみせよう、いい声でってな。まったくもってその通りだと思うぜ。
「ひんっ……ぐすっ……」
サクラはその場にぺたんと膝を付き、顔を覆いながら泣きじゃくる。あんなに無邪気だった少女の面影は、今や見る影もない。
俺様は、その涙の理由を問い詰めることができなくなっていた。
せっかく《魅了》したのに。そればかりか、なにを言ってやることもできず。不意に雲行きの悪かった空から、ぽつり、ぽつりと雨粒が降ってきて、俺様達を冷たい雨が叩いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい……」
苦悶を孕んだ嗚咽の中で、擦り切れてしまいそうな声で繰り返される謝罪を、どれくらい聴いていただろうか。
「っ~」
ほとんど無意識に持っていた鞄から折り畳み傘を取り出し、開いていた。物質具現化の能力を失っているから、高校生らしく購買で購入したチンケな代物である。
とても二人分のゆとりが無いそれを、目の前の少女がこれ以上濡れてしまわないように俺様はとなりにしゃがみこみ、さし続けた。
「……玉藻っちは……優しいんやね」
ひとしきり泣いてようやく落ち着いたのか、サクラは涙声で呟いた。
「ッ……優しい? お前を泣かせたのに、か?」
「ううん、それは玉藻っちのせいやない。ウチの……自業自得やから」
もう《魅了》の効果は切れているのだろう。サクラは自分の意志で言葉を選ぶよう告げた。
「それにしても不思議な力を使うんやね。そういえば最初もそうやったっけ……。ふふ、やっぱり妖なんやね。でも、おかげで区切りがついたわ」
「区切り?」
「……うん。もう、隠し通せるものでもないし。そうでなくても、玉藻っちには聴いてもらいたいねん。この学校に蔓延っているものと、姫乃っちの現状を……」
うっすらと涙を湛えた瞳をこちらに向けて、八兵衛桜子はこう続ける。
「ウチなんかが、こんなこと言える立場じゃないのは……わかっとる。けど、けど……お願いやっ。どうか……どうか……姫乃っちを助けてあげてほしいんやっ」
「!? 姫乃を――助ける?」
「そうや。それができるのは、救ってあげられるのは、玉藻っちしかおらへん!!」
話の全容が視えてこない。しかし、初めて見せる真剣な眼差しで、幾重にも絡まった複雑な感情を滲ませて叫ぶ彼女からは、嘘を感じられなかった。
――だから?
だから、なんだってんだろうな。救うだって? 馬鹿馬鹿しい。
こいつは人間で、俺様は妖で。姫乃だって、人間なのに――それなのにっ。
ああ、本当に、どこまでも、らしくねぇよ。
「……くわしく聴かせろよ」
この台詞を吐いた俺様は、いったい――どんなツラをしてたんだろうな?
第二幕 了