幕間其の一 姫乃の憂鬱
彼、黒天狐玉藻の逃亡を許した、その日の夜。
学校から帰った私は報告を受けましたが、助やお銀を責めようとは思いませんでした。
むしろ心のどこかでは、納得さえしていたかもしれません。
でも、それは私だけで――。
「も~――――しわけありませんっ」
当事者のお銀は頼んでもいないのにお風呂で背中を流してくれて、さらに深々と下げた頭を浴槽の中にじゃぼんとさせました……&%$!#ッッッ……ぶくぶくぶく。水中土下座です。大小の泡がぽこぽこぽこ。お湯の中でなにかを叫んでいるみたいでしたが、
「済んでしまったことはもう仕方がないです。頭を上げるですよ」
私が彼女の肩に手を添えてそう言うと、お銀は、ざばぁっと頭を上げてくれました。
映画の怪獣みたいに水びたしのまま「姫様ぁ……」と凄い顔でしたけど。
「と、とりあえず落ちつくですよ」
ひとまず自分の頭に乗せていたタオルで、彼女の顔を拭いてあげましたが。
拭きながら、つい見比べてしまったのです。「……いいなぁ」と。
「姫様?」
いつのまにか拭く手が止まっていたみたいで、お銀が訊ねてきました。
「なんでも、ないです」
ぺたぺたと自分の胸を触って、溜息。
『てめぇ……本当にあのいい女と同一人物かよ? 容姿も違ぇから趣味じゃねぇし、女としての色気も無ぇ、大人らしい余裕も無ぇ。ねーねーねーのスリーN。有るのはきゃんきゃんやかましい威勢だけじゃね~か』
――っ、……むぅ。
逃げられてしまった彼の台詞を思い出して、また溜息。
お銀は首をかしげていました。彼女はとても美人です。私と違って背も高いし、肌だって綺麗だし。普段はサラシを巻いているからわかりにくいけど、胸だって……。
おっちょこちょいなところは忍としてアレでも、女性としては魅力的だと思うのです。
「どうか……されたのですか? やっぱり某の失態のせいで――」
「ん~ん、そうじゃないですよ。少し、のぼせたです」
湯船から出て、椅子に腰掛けます。
そして、流し場の前にある曇った鏡をこすって、ぼんやり眺めました。
お世辞にも大人っぽいとは言えない、幼い自分の容姿。それも、再び曇っていって。
『本当のあなたはこうではないでしょう?』
まるで、鏡にそう言われているみたいでした。
――だったら、今の私は……偽りだとでもいうですか?
ぱしゃりと風呂桶に入った水をかぶって、雑念を振り払いました。余計なことを考えても仕方ありません。今夜も大切なお務めが、【封印の地】の守護があるのですから。
不意に、ずくんっと左の太ももの際に刻まれた《紋印》が疼きました。
妖力を感じます。どうやら今夜も懲りずに、妖が近づいているみたいです。
それにしても代々、守護者に具現する大切な証ではありますけど、どうしてこんな恥ずかしい場所なのでしょう? 歴代の守護者の皆さん、ちょっとだけ、本当に少しだけ言わせて欲しいです。絵的にこれってどうなんです? たとえば男の人の場合、ふんどしでばーんですよ?
……つくづくかっこわるいと思うのです。
それとも、こんな所にあるのは私だけなんですかね?
だとしたら大切なお務めだとわかっていても、溜息しか出ませんよ。
おまけに、あちこちある幼少期の修練で受けた傷跡が、明るい場所だと、どうしたって眼についてしまいます。普通の女の子を、望まなかったわけじゃないのに。そんな風に考えても、やっぱりどうしようもなくて、今度は大きな溜息。
「先に出るです。お銀……どうやらあなたには、これから動いてもらう機会が増えそうです。今日の失態を、次へ活かせるようにして下さい」
「姫……様」
「期待――しているですよ?」
申しわけなさで満ちた表情のお銀へ、私はできる限り柔らかくそう言いました。
湯船の中で畏まって見せる彼女は凛々しい顔つきで「っ、承知!!」と答えてくれました。きっと、今度はいい働きをしてくれるに違いないでしょう。
身体の清めを終えて、身支度を整えるべく自室へと戻ります。
くわえておいた紐で髪を丁寧に結って、
「ん――」
小鈴が付いた胡蝶蘭の花飾りを、そっと挿そうとして――逡巡しました。
これは昔、信じていたあの人に貰ったモノ。約束の証だと、私が勝手に思っていたモノ。
「ばかみたい……」
ずっと大事にしていた宝物だったのに。
「…………っ」
不意に、床へ叩きつけたくなる衝動に駆られましたが、かろうじて踏み留まりました。
強く握りしめて、散々に迷った挙句、いつもどおり髪へと挿してしまう。
まったく、自分でもどうかしていると思います。
捨ててしまえばいいのに、捨てられないなんて。
「……ふぅ」
守護者の正装に身を包むと、自然と身が引き締まります。最近特に色々と思うことの多い学生から、使命に準ずる思考へと切り替われるのです。
使命、それは人に仇なす邪悪な妖を封じること。
「うん。それじゃ……今夜もいくですか」
そうだ、お務めに集中しよう。成すべきことをするのです。
だって、私は――水戸の守護者だから。
第二幕に続く