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第一幕 水戸の守護者

 常人であればなんも視えねぇ、そんなくらやみの中。

 生温い空気が滞留するのは、なにも凪のせいだけじゃないだろう。

 此処は通称・幻魔城。

 闇の世界に名高きあやかし一派【黒天衆】が根城にする天然の要塞だ。

 現世と彼岸のはざまに位置するこの場には、本来の色は緑であることを忘れてしまいそうになるほど黒となって眠りについた樹木達が節々を絡めながら生い茂っている。

 その一画で、緑樹の息吹が聴こえないからこその静寂であったにもかかわらず。

 今にもとろけてしまいそうな甘ったるい声が、無遠慮に、お構いなしに響いていた。

「よ、よろしいのですか? 玉藻さま――あっ」

「ん? なにがだ?」

「なにって……我等、妖の身体を構成する《呪い》を膨大に溜め込みし【封印の地】へ、今宵も配下の者たちは……っ、向かって、いるの、で、す、よ?」

「だから?」

「に、人間の負の感情から生まれた膨大な《呪い》の獲得は……一派の宿願なのに――こ、こんなことばかりしていては、また、幻夢様に――ンぁっ」

「へぇ~? こんなことってのはよぉ。具体的にはどんなことだよ?」

「!? にゃぁ……だ、だめ……そこは」

 淡白な俺様と違って実にいい反応だ。

 むにゅりと沈む手に加える力次第で、どんどん変化するから堪らない。

「獲得した《呪い》で妖はより成長する、か。くく、じゃあよぉ……」

「ぅにゃ!? ――ぁ……」

「もし――宿願を叶えれば、これももっと大きくなるのかねぇ?」

「っ、ぁぁ――あぁ……。もぅ……おかしくなってしまいますぅ」

 ぴちゃり。ぱしゃり。くちゅり。はぁ、はぁ、はぁ……。

 俺様が撫でてやるたびに、火照っていく柔らかな肢体。

 水の弾ける音と、次第に荒さを帯びていく吐息が、奏でられ、混じる。

「……くくっ、いい夜じゃないか。なぁ」

「ぁあっ――アアア――」

 こっちのお水はあ~まいぞ、そっちのお水もあ~まいぞ。

 さぁさぁ、あなたもおいでなさい。どうか、じらさないでくださいませ――ってな。

 聴く者に絡みついて、そんな風に解釈できるほど妖しく誘われてしまっては、今宵の月だって堪えきれないらしいぜ。まるでのぞき見るように、雲間から顔を出し始めたからな。

 ふん、そんなにのぞきたきゃご自由にどうぞだ。

 俺様はのぞき魔のお月さんを眺めつつ、辺りをぐるりと見渡した。

 開かれた夜の帳。四方は切り立った岩に囲まれ、濛々と場に満ちているのは白い濃霧。こいつを生み出しているのは湧き上がるにごりの無い湯だ。

 そして俺様の鍛え抜かれた日本刀みてぇなキレのある肉体を、つるりとした柔肌で包み込むよう密着するのは脱ぎたての旨そうな果実達。どいつもが快楽に溺れ、今にも熟れきって堕ちてしまいそうなこの瞬間は、なんど体感してもイイ。

 おっと不意打ちかよ。ひとりがびくんとのけ反り震えやがった。首筋に爪をたててきたが、くく、ほどよい痛覚はスパイスだ。思わず狐耳が反応しちまう。まったくたまらないぜ。

 もっと、もっとだ。その足で、その胸で、その唇でぞくぞくさせてくれっ。

 さっきまでは仄かだった甘酸っぱい香りがどんどん強くなる。

 そろそろか? いいぜ、好きなだけ気持ちよくなっちまいなっ。

 その代わりに――。

「聴かせろよ。おまえらの至高の啼き声で、この俺様を滾らせろッ」

「「「ぁあぁ~……だめ――たまもさまァぁ~」」」

 半身浴に興じる俺様が身震いし、果実達が絶頂の調を鳴らしかけたその時、


「ぬぅ――ぁにぃをしとるか、この馬鹿息子がぁ!!」


「うぃ!?」

「「「きゃあ!!」」」

 頭上から猛烈で耳障りな怒声がつんざいて、続いた暴風で蒸気が逃げるように散っていく。

「っ――お、親父ぃ?」 

 俺様が頓狂な声で見上げると、満月の空に腕組みして浮かぶ見知った姿があった。

 仁王立ちの九尾の狐――【黒天衆・首領】黒天狐幻夢。

 月光に鈍く輝く爪と牙。頭部には尖った耳。身の丈よりも長い白髪を煙らせ、射殺さんばかりに鋭く紅々とさせた眼をこちらに向けている。全身を漆黒の体毛で覆ったその容姿は畏れを感じさせるにゃ充分過ぎて、まったくもって尻尾が一本の俺様とは似ても似つかなかった。

「「「ッ、幻夢さま」」」

 と、俺様とイチャついていたぷりぷりの猫娘たちが湯の中からひょひょいと離脱。猫手で胸部と秘所を隠しつつ、尻尾をふりふり振ったかと思えば、妖気で簡素な服を具現化させて畏まっちまった。俺様同様上位の妖じゃあるが。本来、このにゃんこらはまじめちゃんだからな。

 ち、興ざめだぜ。

「――んだよ……せっかくいいところだったのに邪魔すんじゃ……」

「愚息め。久方ぶりに眼を覚ましたかと思えば、この一週間ずっとこのていたらく……。教えた瞳術で女とたわむれておる暇があったら、少しは若頭らしく宿願の為に動かんかっ。そんなザマで下の者に示しがつくと思っておるのか貴様は!!」

 年季の入った眉間のしわをより濃くし、こめかみに青筋をたてながら怒鳴り散らしてくる親父様。たったそれだけで俺様の能力の解除と台風並の風を巻き起こしやがるんだから――ったく、千年の時を生きた誇り高き妖狐クソジジイはすげーもんである。

 ちなみに俺様は今年でさんびゃくさい。ずいぶんと長い間寝てたせいかここ数年の記憶が曖昧だが、水も滴るいろおとこだぜ。はっは~♪

「宿願……ねぇ」

 立ち上がり、やれやれと溜息を吐きつつ、湯船に映る自分の容姿を眺めた。

 全身毛むくじゃらの親父とは違い、上腕部と下半身のみを覆うのは白金の体毛。背中まである銀髪。銀眼を納める自顔は猫娘たちと同じ半妖で、人型というより人そのものに近かった。

「ふん、焦ったって大差ねぇだろ~に。どうせ今夜も部下たちが、選りすぐりの精鋭たちが、守護者相手に必死でがんばってんだろぉ? だったらそれでいいじゃねぇかよ」

 かったるさ全開の俺様は自慢の一尾を振るい髪もかきあげると、畏まってこちらをうかがう猫娘たちに流し眼を贈る。

 途端、心を打ち抜かれたみたいに「「「はぁん、玉藻さまぁ」」」とぽわぽわした虚ろな表情になるかわいこちゃん×3。超絶格好いい俺様にだけ備わった、天下無敵のこの能力。

 そのままでもモテるが、その気になれば状況問わずどんな女だってイチコロなのさ。

「だいたい若頭の俺様にとっちゃよぉ――かわいい配下と仲良くして、親密度を上げる方がよっぽど大事だぜぇ」

 ひゃっほうっと湯船から飛び上がった俺様。両手のぷれみあむタマモふぃんがーを高速でわきわきとさせて見せると「「「いや~ん」」」と黄色い声で喜ぶ子猫ちゃんたち。

 はっは~♪ いざ、イチャイチャを再開せん――そんな矢先のことだった。

「こ、の……大馬鹿者がぁああああああああ」

 ゴゴゴゴゴゴッ……バリバリバリッ!!

「ッ、ぎゃー!?  あぼばばばぼ!!?」

「「「きゃー、玉藻様ぁ!?」」」

 突然降り注いだ雷が直撃し、痛烈な痺れが頭の先から爪先にかけて駆け巡る。

 この俺様ともあろう者が、なんとも情けない声で悶えてしまった。

            × × ×

 季節が長月に移ろうべく、ひんやりした風が吹いてくる。

「ちっくしょ~……痛んでる。ったく、すぺしゃるな俺様じゃ無かったら死んでるぜアレ」

 夜風に黒マントをはためかせながら、波立つ髪先をつまんで苛立ちを募らせた。

 先の妖雷破はクソオヤジの代名詞ともいえる技だが、おかげで自慢のキューティクルヘアーが台無しだ。毛先の縮れや枝毛があちこちにできてるし、まるでパーマを無理やり戻したみたいな有様である。

「くそったれ、あの体毛刈り上げてトイプードル(わんわん)みてぇにしてやろうか」

 そんな風に思いながらも現実問題として力量差は歴然で、実際にできんのは空想でそのように仕上げた親父を首輪でつないで、人間がやるみたいに散歩させるだけだった。

 ばうばうってな。こらこら、そんなとこでマーキングしちゃいけませんのよ。

 ~っ、ウケる。

「ははっ――ま、強すぎるってのも問題か。つながれて無くても思うように動けねぇもんな」

 目的地である【封印の地】へ向かって疾走しつつ、ひとりごちた。

 俺様たち妖の世界にも敵対関係がある。それぞれ考え方が違うのは人間と同じで、共感し合う者同士が徒党を組み一派となっているのだ。己が縄張りを持つ数ある一派は一部の人間と関係を深め、それによって互いに利を得る訳だが、一派同士のいざこざは絶えない。

 隙あらばねじ伏せ、利を増やそうとする。そんな対立には当然、力が物をいう。

 誰もが力を欲しているからこそ、宿願として膨大な呪いの獲得を強く望むのだろう。

 だったら一番つえ~やつが大勢引き連れて行けばって話だが、そう上手くはいかない。

 妖は妖気を気取る。強行に出れば察知され、さぐり合いで済んでいる拮抗した状況が瞬く間に崩れる恐れがある。親父クラスが動くと、それを危惧したように他の一派の首領も動かざるを得ない為、迂闊に動けないっつ~わけだ。

 一派はひとつじゃねぇ。争い消耗したところを好機とされ、潰されては意味が無い。

 ゆえに、今の俺様のような刺客が放たれるってわけで――けっ、こっちにとっちゃどうでもいいのに。縄張りなんぞにこだわってねぇで、楽しく生きりゃいいと思うんだがね。

 少なくとも俺様がガキの頃は、まだ親父もここまでこだわってなかった気がしたんだが。

 ここ数年、最近のパパ(笑)ったら、おめめギラギラしちゃって。玉藻さんマジひくわ~。

「ふぁあ――あ? ……あれか」

 ビルや家の屋根、木の上や電柱を飛び跳ねる夜の散歩は、ひとまず終いだ。

 やる気の出ない俺様は、あくびしつつ散歩のしめとして盛大に跳躍。猫娘たちがやっていたように物質具現化で白の淨衣へと装いを変えながら、訪れた場を高所より眺めた。

 ん? 妖のくせになんで神職の衣装を選ぶのかって? ちゃんと理由があるのさ。

 ふむ、まったくもって珍妙な構造だと思う。目的地外周は真円を描くようにコンクリート壁で覆われ、その中には丸みのあるハート型に模られた二階建ての建造物。数は全部で三つ。中心に聳える大樹に向かって頂点を突き合わせるように並べられているのは、人間達の学び舎だという。どうやら敵さんは御大層に、この地全体を家紋で縛ってやがるようで……。

 俺様は毛髪を一本引き抜き、息を吹きかけた。

 と、銀糸はぐにょんと蠢いたのち、瞬く間に掌サイズの銀狐に変化する。

 俺様の意思を持った御手製の使い魔だ。幼少時の俺様によく似て愛らしいぜ。

「いけっ」

 合図してやるとウキャキャ~って具合に元気良く飛び込んだのだが、場の偵察にと送り込んだのに途中でじゅわりと消え失せる。まるで投じた水滴が熱々の鉄板に触れ蒸発するように。

「おいおい……ご丁寧に敷地を覆う半球型の退魔結界付きたぁ……はっ、御用の方は正面へお回りくださいってか? お堅いねぇ……ん?」

 眼を凝らし妖気を瞳に集中させると、それまで視えなかった誰かが校庭に立っているのがわかった。使い魔を阻んだ術も含めて、こうまでしないと視えないってことは、どうやらかなりの強者らしいが、

「奴が守護者か? しかし、ありゃひょっとして……」

 疑念を抱きながらも敷地外に着地した。そもそも宿願なんぞどうでもいい俺様は、むりならむりで、だめならだめで構いやしないのだ。適当にでっち上げて、報告して、はい終わり~で良かったんだが……ははは、気が変わったぜ。

 好奇心をくすぐられた。楽しいことは大好きだ。

 心を満たす娯楽は大事だぜ? 人間だってゲームとかするだろ?

「どうも俺様の想像にあった水戸の守護者とは、随分な齟齬があったみてぇだな」

 突然だが、水戸光圀って知ってるか? 今よりおよそ四百年前。俺様が生まれるよりも昔に実在した古き人間だが、テレビ時代劇なんかで誰だって一度は観たことあるだろう?

 これみよがしに印籠を見せつけて「この紋所が眼に入らぬか~」ってやつをよ。

 そんなでけぇもんが眼に入ってたまるかボケッ、と俺様はツッコんでいたがね。

 お? 妖がテレビを見るのかって? あったりまえよ、スマホだって持ってるぜ。現世との狭間ってのは電波状況が良好なのさ。親父を筆頭に年寄り共は使おうともしね~けどよ。

 そいつはさておき。表向きに伝えられる史実では、水戸光圀は厄介な仲間と共に日本全土を練り歩き、悪行を働く者を懲らしめたとされるが――それは少し脚色されている。

 奴が相手にしていたのは人間じゃない。妖なのだ。

 人間と妖。持ちつ持たれつ、利用し合う協力関係の有無は今とさほど変わりはないが、その昔、妖は夜ともなれば天下の往来を我が物顔で闊歩していたのだ。対して人間たちは妖を認識し、畏れ、出歩くことなどほとんどしなかった。己が分をわきまえていたといえるだろう。

 しかし、その分を事もあろうに覆した人間がいた。それが水戸光圀である。

 親父から訊いた話でしかねぇが、かの者は厄介にも《霊術》という退魔の力に秀でており、こともあろうに全国津々浦々の妖たちを問答無用で討伐・封印していったらしい。

 当然、闇の世界の住人である妖は怒り狂い、争いが起き、それは今なお絶えることなく続いている。俺様にとっちゃどうでもいいが、まったくもってご苦労なことである。

 人~生……楽~ありゃ、苦~もあ~るさぁ~♪

 あの有名な歌は、ハッキリ言って嘘っぱちらしい。親父曰く、苦しかないとよく怒鳴っていた。ストレスが溜まって大変らしかったが、それならいっそ人間みたいにハゲ散らかせば俺様が爆笑してやるのに……そうはならないからつまらんぜ。

 ま、ともかく。閑話休題だ。

 ――私立三ッ葉葵高等学校……ねぇ。

 いさぎよく正面へ回り込むと、壁面に刻まれたその文字をなんとなく読み取った。どうやら宿願とされるこの【封印の地】の別称のようで、門の鉄柵を乗り越え敷地内へ踏み入る。

 宙空に浮遊する黒い残留物――《呪い》の残滓がそこいらに散らばっている。

 おそらく、先に来ていた連中がやられたのだろう。

 回収されてないところを見ると、僅かに入れ違いだったのか。

「よぉ、こいつはおまえさんがやったのかい?」

 俺様が率直に尋ねると、守護者とみられる相手は明らかに表情が険しくなった。

「っ……第一声がそれですか。期待していたのに最低です。本当にがっかりです。結局、妖は妖ということですね。おまけにあなたで五件目、今日はずいぶんと引っ切りなしで、節操なしです。そっちの都合は存じ上げませんが少しは空気を読んでもらいたいです。私は学生なんです。本分は勉強なんです。ただでさえ成績が落ち込んでいるのに……」

 校庭の中心で、憂鬱さを滲ませながらぶつぶつと言い続けるのは――女。

 その容姿を見て、俺様は内心かなり驚いていた。

 結われた黒髪には胡蝶蘭の花飾り。纏いしは上が白で下が赤と一見和を重んじる神聖な巫女装束にも見えたが、よくよく見れば所々に肌魅せを施されたかなり前衛的な衣装だった。袖は肩をさらして腕だけを包んでいたし、袴に見えたそれもスカートで。

「そもそも、なんです? 妖のくせにその格好は……私を馬鹿にしてるんですか?」

 急に女の声量が上がる。どうも挑発する意図で着込んだ淨衣は正解だったらしいが、俺様は「そっちこそそいつはコスプレってやつか?」と逆にツッコみたくなった。

「…………」

 しかし、あえてふれず、さらに舐めるようにじ~っくりと容姿を眺める。

 ふむふむと冷静に論理的に物事を分析し、事実を噛み砕き理解してから――。

 向けられる眼差しに、俺様も溜息で返す。

 ――ガキじゃねぇかよ。

 女のスタイルチェックはクセみたいなもんだからついついやっちまったが、今回はちょっとばかし現実逃避も入っていたかもしれねぇ。

 だって、ありえねぇだろ? 出るとこも出てねぇ年端もいかないような小娘が、よりによって【黒天衆】の精鋭を返り討ちにしたってんだから驚くなって方が無理だ。

 ん? あ~、そうか。なるほど。出るとこが出てないから生足で勝負ってか。

 まぁ、たしかにやわらかそうで、なでまわしたくなる太ももではあるが……。

「っ~、な、なにを言っているんですか、こ、この変質者……いえ、変態妖怪っ!! この服装は守護者の正装なんです。特別製なんです。そ、それに、私は、もう高二です。子供じゃないです。か、身体の方は……これから成長するんですっ」

 と、少女は自分の身体を両手で覆い隠して身をよじった。

 顔はトマトのように真っ赤っか。どんぐりみてぇだった栗色の瞳がものすご~く鋭くなって、明らかに嫌悪感が滲んでいた。その潤んだ眼で「スケベは死ね」と言っている気さえする。

 おっとっと、こいつは失敗。

 どうやら俺様、心の声が普通の独り言として途中からだだ漏れていたらしい。

 たいして困りゃしね~けど――くっ、くくくっ――あ~だめだ――堪えきれねぇ。

「クハハハハハハ――ア~ッハッハッハッハッハ……これから、成長する……ねぇ」

 俺様は腹を抱えて大爆笑した。とてもじゃないが押えられなかった。不甲斐無いにもほどがあるだろう。こんなちんちくりんの小娘一人どうにかできないなんざ、部下共はいったいなにをやっているのだか。

「ッ――なにがおかしいんです!!」

「はぁ、はぁ、ククク……いやいや、お嬢ちゃん。充分過ぎるほどに可笑しいつ~の」

「こ、子ども扱いしないでくださいっ」

 少女は憤りを覚えたのか、地団駄を踏みながら盛大に声を荒げた。やれやれ、きゃんきゃんとやかましいねぇ。ちびっこいし、チワワかよ。

 しかしながら頭の中の今日のわんこは、パパ(笑)でもう足りている。つるぺたでも女なんだからよぉ。どうせ啼くなら艶やかに啼けよ。身震いしちまうくらいにな。まぁ、直接手を加えてないんじゃ高望みってもんかもな。

 ――っと……手を加える、か。くく……。

 趣味じゃねぇんだが、今回はそれもアリか。

 俺様はひとしきり笑ってから、ゆらりと流し見る。まだ名前も把握しちゃいねぇが、相手が女である以上、俺様の無敵の能力――《魅了》の敵ではない。

 くだらねぇ宿願を巡る攻防は今夜で終い。これにて成就。いいなりになった邪魔者は楽に排除できるし、長きに渡りこの地に封印され続けた膨大な《呪い》は【黒天衆】が独占だぜっ。

 よかったなクソ親父、勝手に祝杯でも挙げてくれ。

 俺様はさっさと終わらせて好物の甘味でもつまみながら、ちゃんとしたオトナなかわいコちゃんとイチャつこう。梅こぶ茶を飲みながら「玉藻様あ~ん」てしてもらおう。

 ――さぁ、お前の心を俺様に差し出せっ。

 怒りでわなわなとしている少女は、表情を強張らせながらも俺様を睨み続けている。

 実に、まったく、都合がいいぜ。

 そうして守護者の少女と睨み合い、どれくらい視線を絡ませただろうか? 

「…………」

「…………」

 うん? おかしいな……。

 人間の女でも妖の女でも、いつもならとっくにとろんとして擦り寄ってくるのに。視線の先にある少女は一向に思い通りの変化を見せなかった。投げキッス付きの決めポーズをしてみてもダメ。ななめ四十五度のばちこんウインク付きすぺしゃる決めフェイスでもダメで――

「この……本当に、ふざけるなです。とことんふざけ過ぎです……」

 チワワ少女はそう言うが、あいにく誰もふざけてなどいない。

 俺様はいたって大真面目だったのだが、

「もういいです。我慢はここまで……です。私がこの地を守護する限り、あなたたちの好きには絶対にさせないですっ」

 ついには少女がダンっと一歩、力強く大地を踏み締めるよう前へ出る。

 髪の結い目の花飾りが踊り、付随する小鈴が凛と鳴る。先鋭的な眼差し。懐から取り出したのは祝詞。そいつを自身の頭上に放り投げる。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前……」

 広がりを見せた祝詞が宙に浮いたまま固定され、白く発光。かと思えば、少女は九字護身法と共に手早く印を結んで見せ、ともなう白い軌跡によって正面に陣が描かれていく。

「血の契約を結びし阿吽の御柱――我が声に耳を傾けよ。我が命を啜り、天授執行の剣となりて、忌まわしき呪を携えし邪を……引き裂けっ……」

 なぞられしは四縦五横の九字格子の光陣。成った瞬間、少女は右掌底を陣に叩きつけた。

「導ノ輝絶乃段みちびきのかがやきぜつのだん――護法双鬼、現臨!!」

 まるで分厚いガラスが砕けたような、けたたましい音が響く。

 割れ砕けた光陣から白煙と共に二つのなにかが飛び出してくる。

 未だ安定しない輪郭。その小さな影が、俺様に向かってその眼をぎろりと剥いた。

 ――っ、ありえねぇありえねぇありねぇえええっ。

 柄にもなく俺様は混乱した。

《霊術》による目の前の事象なんかにじゃねぇ。絶対の自信を持つ能力《魅了》が、女を相手に発動しなかったことなんざ、これまで一度も無かったからだ。

「水戸姫乃の名において命ずる。助、格、その不届きで不浄な妖を――狩るですっ」

「「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアア――」」

 姫乃と名乗ったあるじの命を受けて、殺気を撒き散らす蒼眼と緑眼は、煙を纏ったまま地を蹴った。勢いに煙が解かれ、それぞれが持つ前頭部の角が晒されていく。

「ち、さすがは水戸の守護者サマ。鬼を使役してやがるのか――ん!?」

 動揺しながらも、俺様は迎え撃つべく構えをとろうとしたが、

 ………………。

 一瞬にしてアホらしくなり、脱力した。

「むぅお、こ、の、はなしやがれぇっ」

「――成敗成敗成敗成敗………………」

 俺様は突撃してくる二つの頭を、むんずっとわしづかみにしてやった。

「……鬼までガキじゃねぇか」

ぶんぶんぶんっ。腕を必死にふり回しているが、届かせない。八頭身の俺様と二頭身のクソガキ鬼じゃ、圧倒的かつ絶望的なまでにリーチ差があるから、これは当然の結果である。

「な――なにしてるです、助、格」

 あるじの少女が叱咤するようにそう告げると、ガキ共の腕の回転力が上がった。

 ブンブンブ~ン――って、おいおいおまえら声で反応して強弱切り替わる扇風機か。

 ひとまずうっとうしい超絶雑魚×2をぽいっと投げ捨てるが、そこは自我のある鬼。空中でくるりと体勢を立て直し、少女の傍に着地した。

「うぉんのれぃ~、あのきつね野郎……ナメおってぇ」

 右の子鬼は天パの茶髪を両手でわしゃわしゃと乱しながら、悔しげに漏らしている。

「敵、強者。我、力……不足……」

 左の子鬼は栗色の髪をぴっちりと整髪し、後ろで結っている。なんだかやたら片言でしゃべっているから機械人形みてぇだった。どちらも時代劇で観るおかっぴきのような和装だが、俺様は男には欠片ほども興味がない。これ以上の詳細は省かせてもらおう。

「助、いったいどうしたです? ちゃんと本気でやってるですか?」

「やってますよっ、けど今夜はもう五戦目だし――消耗も激しいんすよっ。これでも休眠する間もなく召喚に応じたんすからね」

 助と呼ばれた生意気そうなヤツが、言い訳がましくそう言った。

「姫。来訪者……妖気、別格。現状……勝機、皆無」

「……格……そんな」

 想定外だったのだろうか。姫呼ばわりされた少女が力無く呟いて、キッと睨んでくる。そんな眼で睨まれてもなぁ。こっちはこっちで絶賛混乱中なんだがね。すげ~大問題が起きちゃってっからよ。まったくどうしてくれんだよ、イライラしてたまらね~じゃね~か。

 くそったれが……おもしろくねぇ! おもしろくねぇぇ!! おもしろくねぇええ!!!

 なんで《魅了》がこの女には効かねぇんだ!?

 俺様は夜空を仰ぎながら、自慢の銀髪を掻き上げた。そして前方で敵視してくる三者を、見下ろすようにして睨みつける。

 悪ぃな……本意じゃなかったが、予定変更だ。

「趣味じゃねぇが……こうなりゃよぉ、腕ずくでやらせてもらぁわッ」

 めんどうだから一切手加減無し。本気の本気。やりてぇように動くが俺様のモットー。

 いったい何時振りだろうか。意識的に妖力を全解放すると、俺様を中心に紫電を伴った赤紫の奔流が吹き荒れ、砂塵を吹き散らし、場の気質そのものが変貌していく。

「【黒天衆】若頭――黒天狐玉藻……いざ参らんっ――てか」

 俺様から流れ出る妖気に含まれた弩級の負の感情を悟ったのだろう。三者の表情が強張り、特に姫乃と名乗る少女は怯えにも似た瞳を垣間見せ、


 ――― 迅ッ ――


「「「な!?」」」

 そんな奴等からすれば瞬間移動に等しかっただろう。

 驚愕に固まる三者との間合いを刹那で殺し、

「げはっ!!」

 天パのガキの腹部を蹴り飛ばし、

「がふっ!!」

 人形のガキの顔面を殴りつけ、

「ッッッ!!?」

 使役する鬼共がぶっとんだ事実を悟る間すら与えず、眼を見開いたまま身動きの取れないお嬢ちゃんへ、それはもう優しく手を伸ばした。

「五秒だけ眼を閉じな……な~んも考えれなくしてやるぜ?」

 綺麗なほっぺを指先でなぞり、くいっとあご先を上げてやりながらそう言ってやる。

 そして、ぺろりと舌なめずり。さしずめ捕食者の気分だった。成す術無くかたかたと震える小動物の、可哀そうなまでに青白くなったその唇へ。絶望さえ上書きする快楽の火照りを与えてやるように、そっと、近づく。

「っ――い、嫌……です。こんなの」

「怖ぇかよ? な~に、すぐ済むさ」

 少女は最早顔を背けることすらできないのか。整った顔立ちが、恐怖と、屈辱と、それを上回るような羞恥を感じさせる表情となって、キツく眼を閉じた。

 互いの吐息が触れ合うほどに迫った距離で、俺様はこう言ってやる。

「いい子だからそのまま震えてろよ、ビビりの守護者ちゃん」

「!?」

 そうしてその場から跳躍、置き去りにする。子供のおもりはここまでだ。

《魅了》が効かなかった理由は不明なままだが、からかいが済んでちったぁすっきりしたぜ。

「アハハハハハ、ハ~ッハッハッハッハッハ~」

 俺様は高笑いながら、敷地内のさらに奥へと踏み入る。

 宿願である封印されし膨大な量の《呪い》の解放は、この先にある蓋を排除することで成就する。敷地の中心。さっき上空から視たあの大樹こそが、蓋ってわけだ。水戸の守護者を掃除機とたとえれば、さしずめ御神木のあるこの地はダストボックスか。

「ふん、なるほど。間近で見るとたいしたデカさだな」

 校舎の壁を走り、建屋を飛び越え、目標を視認。

 漆黒の幹胴には極太の注連縄を巻き付け、『我ここにあり』と天地双方へ示すように根と枝葉を広げ伸ばす御神木。まるで大地から膝を出すみてぇに根の一部が節々を曲げて所々から突き出している。まったく樹齢何年か知らねぇが、とんでもねぇ存在感である。

 ま、今夜でそれも消え失せるわけだが。

「はっは~。さぁ~派手にブチ折ってよぉ、祝いの火にくべる薪にしてやるぜぇええええ」

 テンションの上がった俺様は疾走しながら、ふりかぶった右拳に妖力を集中。轟々と猛る赤紫の拳鉄槌をふりおろすも――唐突に大きな影が割り込んだ。

 メキョ……ベキボキッ。

「なっ!? ――んだとぉ!!?」

 渾身の一撃だったのに、信じがたかった。目の前の障害物は、噛みしめられた歯間から白い息を吐き出す緑眼の鬼。両腕を交差しながら骨が砕ける気色悪い音を鳴らしつつも受け止めているそいつはさっきまでとは違い、俺様よりも一回り以上でかい巨躯で見下ろし、俺様の二倍はある丸太のような両腕から血を吹きながらも、呻くことすらせず平然と笑っていて……。

 背筋を――ぞくりとさせてくる。

「ォオオゥラァアアアッ」

 さらに間を置かず、今度は上からなにかが叫びを上げた。

 見上げれば途方もない殺意を漲らせた蒼眼の鬼がこちら目がけて大刀を振り落として来ていて、俺様は慌てて後方に飛び退く。『切り捨て御免』というより『潰してやんよコラッ』って具合の強烈な斬閃が空振りで終わり、「ちぃ」と口惜しそうにする奴に、

「……助、馬鹿? 不意打、大声、不要」

 緑眼の鬼はそう言った。

「ぐぬ……う、うっさいな。こういう時は気合が必要なんすよ」

 スマートな俺様に近い体格となった蒼眼の鬼は、若干恥ずかしそうに刃を斬り払う。

 ギシギシと不快な音がして、自覚する。親父のような例外は除き妖界では最強クラスのこの俺様が、よりにもよって歯軋りなんかをしちまっていたのだ。特徴を色濃く残しているから、こいつらはさっきの雑魚鬼だとは思うが、感じとれる霊力がデタラメに桁違いである。

 くっ、マジでどうなっていやがる!? 鳥肌がたっていた。そりゃこんな連中が相手じゃ、先にここへ赴いた部下達の散々な結果も納得できるが、一体、なぜ、急に?

 収まりを見せていた動揺が再び加速、混乱が限界突破しかかっていた矢先、

「ふふふ。ヌシが悪名高い【黒天衆】の若頭だったとはのぅ。いやはや、さすがに驚いたわい」

 背後よりなんとも雅な調が届いて、俺様は、ぎこちなく、振り返る。

「ッッ!!?」

 息を、呑まされた。

 すらりと伸びた美脚で緩やかに歩み寄ってきたのが、とんでもなくイイ女だったからだ。

 特徴的な巫女姿は先の少女のもの。しかし、薫り立つような柔肌を強調するが如く露出された腰周りは艶めかしい曲線を描き、胸部は凶暴的なほどに主張されていた。さらに束ねられていたはずの元・黒髪が解かれ、自由を得たことを喜ぶように闇の中でたゆたっている。彩りは視線を奪うどころか、感嘆の息が零れちまうくれぇに淡く輝く黄金色で、その残滓なのか周囲には蛍火のような粒子光が漂っていた。

「なんじゃヌシよ。鳩が豆鉄砲でも食らったようなマヌケ顔をしおってからに。おぉ、よだれが垂れておるぞ。豆でも欲しいのかや? それとも……ヌシはきつねの妖のようじゃから油揚げかの?」

 くすくすと笑いつつそんなことを口にして、優雅に、しゃなりしゃなりと距離を狭めてくる。

 俺様は慌てて口元を拭う。

 その女から眼を離したのは、ほんの瞬きほど。にもかかわらず、

「――――ッ!?」

「冗談じゃよ。ふふ、のぅ……ヌシよ……。わっちの美貌に見惚れておったところ、とても恐縮なのじゃが……早々に、守護者の仕事を再開してもよいかの?」

 髪同様に金色となった瞳を細め微笑む女はすでに眼の前にいて、こともあろうに先の俺様の行動を真似るよう祝詞であご先をなぞってくると――グシャッ!!

「こいつは姫の言う豆の代わりっすよ、きつね野郎っ」

 唐突に意識の外から衝撃が訪れ、そのあと吐き捨てるような台詞が聴こえた。

「うごっ!? げ、ぬぼぁぁッ」

 薙ぎ弾かれた俺様は平衡感覚を失い、不格好な声を吐きながらごろごろと転がった。ズキズキと頭が割れるように痛みやがるし、目の前がチカチカと輝いてどうにも立ち上がれない。

 と、首の後ろがざわついた。容赦ない追撃と思わしき殺気が迫るのを感じ、勘を頼りに飛び退くと、轟音が響き渡る。

「っ――ぶねぇなぁ、くそったれッ」

 視界がなんとか回復してくると、案の定、蒼眼の鬼が大刀を振り落していたようで、はからずもこっちと奴の舌打ちが重なっていて――あぁ、そんなことはどうでもいい。

 俺様の惑乱は、もう天井をふり切っていたのだから。

「……やれやれ、呆れたタフさよのぅ。ヌシは痛覚神経が麻痺しているのではないかや? まったく、感心してしまうよ」

 女がそう言いながら、さっきブチ折った緑眼の鬼の両腕に触れる。

 と、あれよあれよと映像の巻き戻しのように復元。回復し終えた奴は「姫、感謝」と口にして、完治した両腕を開閉しながら俺様を睨んだ。

「でわ、二回戦の開始といこうかの【黒天衆】若頭殿? 不肖ながら守護者たるわっちが、この水戸姫乃がお相手しよう。ビビったりせぬゆえ、存分に参られよっ」

 鬼共を左右に従え、凛々しさと妖しさを携えた金眼の片目を挑発するようにつむると、白い輝きを帯びた祝詞を斜に構える。

 あえて狙っているのか? そう思わされてしまうくらいに。

 ゆっさと理性を奪わんばかりに、たわわな胸が揺れた。

「マジかよ」

 水戸、姫乃……。二重人格どころかまるで別人だった。《魅了》が通じない理由はきっとこの辺にありそうだが、考えたところで現状は変わらない。この俺様が、超絶すげ~いい女を目の前にして、手をこまねいている事実は変わらないのだ。ならば、どうするか?

「ん? どうしたのじゃ、かかってこぬのかや? がまんなぞ身体に毒じゃ、えんりょなどいらぬ。ふふふ、わっちにはわかっておるよ……ヌシは、この薄布に遮られた肌の奥が視たいのじゃろう? 触れたいのじゃろう? 思うがまま、存分に支配して、気持ちよく……なりたいのじゃろう?」

 けっ、あぁその通りだよ。だから、答えは決まりきっているぜッ。

 変貌したアイツは扇情的な吐息と共に、自分の指を首筋から胸元にかけて、つぅ~っと這わせてみせる。そんな挑発を重ねられたせいだろうか。血の味がする唾を呑み込むとまた笑いが込み上げてきて、それがさきほどまでの相手を見下したモノじゃねぇことは、理解していた。

 あぁ、今日はなんて日だ――なぁ、おい。どうしてくれるよ?

 滾っちまってしょうがねぇだろッ、姫乃ちゃんよぉ!!

「はっは~――ったく、ガチでイイ夜じゃねぇかっ。てめぇ、最高だぜ」

 俺様は抑えきれない未知の衝動の赴くままに、全力で地を蹴った。

            × × ×

「嘘ですっ……そんなのありえないありえないありえないありえないありえないありえない――」

 元に戻った姫乃が頭を抱え、かぶりを振ってうずくまっていた。

「ぜ~んぶ事実っす。久方ぶりに視ましたけど、今回の《破羅門バラモン》発動は、これまでに見たことがないくらい、す~んごく、半端じゃなく、乱れまくっていたっす。なぁ格?」

「肯定。今宵、裏姫……淫靡絶好調――」

「っ――だまるですだまるですだまるですぅッ!!」

 同じく元の子鬼となった連中より事後報告を受け、当のあるじは顔を真っ赤にして立ち上がると、叫ぶようにそう言った。

「はうぅ~……もぅお嫁にいけないです……最悪……死にたい……」

 さらに顔を両手で覆いながら、ぶつぶつぶつ。どうやら、あの状態を覚えていないらしい。

「まぁまぁ姫、もぅ済んでしまったことっす。それより――」

 助とかいうガキは姫乃をなだめつつ、汚物でも見るようにこちらを向いた。

「――散乱したままの《呪い》もそうっすが、封印術の為にひかえさせた粗大ゴミをさっさと片付けねば帰れませんよ? 明日は、え~っと、テストとやらがあるんすよね?」

「このガキィ……俺様をゴミ扱いしてんじゃ……ねぇ……潰されてぇか――ゲホッ」

 それは完全に虚勢だった。血反吐混じりじゃハッタリにもならないだろう。

 薪にするはずだった御神木にもたれたままの俺様は、現状が未だ信じられなかった。

 この俺様が全力全開で闘って、コテンパンにされた。それも親父クラスの妖ならいざ知らず、人間の小娘に。この揺るぎない現実は、途方もなく、尋常じゃなくショックだった。

 力でねじ伏せて無理やり手籠めにするつもりだったのに、なんだよこれ。こんなことならムキにならず、《魅了》が通じなかった時点で撤退しときゃよかったか。

 ……いや、まだ手は残っている。

 基本的に不死の妖は、粉々になっても時をそれなりに待てば再生する。

 しかし、それには超がつく時間が必要だし、そんな悠長なヒマは無い。

 だったらと思案した俺様が、起死回生の一手を実行しかけた矢先のことだった。

「むり……。だってあいつ……まだ意識があるです」

 姫乃はちらりとこっちを見ると、ぷいっとそっぽを向いて続けた。

「視られてちゃ、嫌ですっ。絶対に嫌ですッ。それでなくても……すっ――――ごく恥ずかしいんです……アレ」

「そうは言っても……。姫が《破羅門》状態から戻ったことで我等もすでに《限突鬼》ではありませんし、現状じゃ無駄にタフなあのゴミの意識を刈り取る力は、もぅ残ってないっす」

 と、人形野郎が姫乃の袖をちょいちょいと引っ張りながらこっちを指差した。

「姫……封印、早急。来訪者、……吸収開始」

「え?」

 ちぃ、気づきやがった。あの野郎、無愛想なくせに抜け目ねぇ。せっかく散らかり放題だった《呪い》を取り込んで傷を急速で癒そうとしていたのに。《呪い》を身体に取り込むには、それだけに精神を集中しなくちゃならねぇから、邪魔が入れば全部おじゃんだ。

 ヤバい、動けよ俺様っ。動け動け動け動け動けぇええッ。巡る痛みを無視しようとしても、かろうじてできるのは錆びついたロボットみてぇな動作であまりにノロい。

《呪い》不足なだけに。ってマジで詰んでるっ――絶体絶命だ。

 ちくしょう。俺様が、この俺様が、ここまでだってのかよっ!?

 葛藤している間に、無言で身体をぷるぷるさせながらこっちに近づいてくる姫乃嬢。その顔は上気し、下唇を噛み締めている。なんだかんだでトドメを刺す気なのだろうが、しかし、残り数メートルの距離を置いて、なぜかスカートの裾をぎゅっと握りしめて立ち止まる。

 凄まじい覚悟を感じさせるそのつぶらな瞳と、再び視線が絡み合って数秒後。


 ――――は? 


 なんだこの展開は? そんな疑問詞が、俺様の頭の中を埋め尽くしていった。

「お願い――だから――こっちを――視ないでぇ……」

 消え入りそうな声に追従して、今日一番の驚愕が俺様を支配していく。

 視るなと言われても、男子たる者なら絶対に眼が離せなかったと思う。

 そろり……するり……すすす……。震える小さな両手が、まるで舞台の開演を知らせるビロード幕のように、スカートの裾を持ち上げていく。徐々に露わにされていくのは眼を強制的に惹きつける絶対領域。月明かりに照らされていても周囲は未だ黒の方が多い。しかしそのせいで、余計に少女の持つ濁りのない白肌が神秘的なまでに際立って見え、やがて大切な秘所を申し訳程度に覆う純白の下着までが顔を見せる。学生なら青縞柄がお約束だろうに、背伸びでもしているかのような白レースは所々に透け感有りのけしからん代物で、今にも溶けてしまいそうなほど恥じらう少女という素材もあって相乗効果は計り知れなくて――

「ッッッッッ――!!?」

 度肝を抜くパンチラシチュエーション。

 が、下着そのものよりも、すべすべの生肌よりも、俺様の眼をもっとも惹きつけたのは。

 左の太ももの際に刻まれた拳大の三つ葉葵の家紋だった。

「じゅ……呪封経絡じゅふうけいらく……開ッ――吸引!!」

 髪と瞳が金と黒に明滅しだした姫乃が、凝視にこれ以上耐えられないといった様子でそう唱えると、きぃぃぃん……と刻まれた《紋印》が鳴動。印を始点に周囲の空間が歪み始め、歪みは拡張し、渦を描き出す。

「は? はぁぁ? 待て待て待てぇェッ」

 困惑の臨界を超えた俺様の腕が、足が、さらさらと黒い粉雪のようになって削られる。黒天狐玉藻を妖として構成する《呪い》が、徐々に、しかし確実に失われていく。掃除機を前にしたホコリのように、ぐんぐんと吸い取られる俺様の身体。パンツがこんばんわなんてアホみてぇな状況下であるにもかかわらず、恐怖が圧倒的に増大した。

 消える、消えちまう。

 情けなく嫌だと訴えても、みっともなく消えたくねぇと願っても、無慈悲な異界の門は停まらない。次第に、俺様の意識さえも、削ぎ落していき――。

 パキンッと薄氷が割れるような音を最後に、すべてが、闇に染まる。

 この紋所が眼に入らぬか?

 消えゆく直前。

 記憶の片隅にあった馬鹿にしていたあの台詞を、俺様は苦々しく思い出していた。

            × × ×

「――う……ぅん?」

 まどろみの中、眩しさを感じてゆっくりと目蓋を開く。

 寝起きでぼやけた視界が定まってくると、まず茶色い木目が視えた。古式豊かさを感じさせながらもぴかぴかに磨き抜かれた板間に、陽光がきらきらと反射している。

 う~む、どうやら床に寝ていたらしい。……ということは、さっきまでのできごとは悪い夢だったということか。はぁ、まったく脅かしやがって。

 ひとまず起きようとして、異変に気付く。夢で削られていた腕が、足が、ちゃんとあったことは良かったのだが、なぜか全身をロープでぐるぐる巻きにされている。

「なんだこりゃ……。はっ――誰だかしらねぇけど、こんなもんでこの俺様の自由を奪えると思ったら大間違いだぜッ」

 ひとりごちながら拘束を破ろうと力を込めるが、ブチブチッと切れてしまうはずのロープがビクともしない。ふんぬぅ~っと目一杯力んでみても変化なし。

「……っ~」

 俺様はすぺしゃるだから夜じゃなくても活動できるが、朝が好きかと言えばノーだ。

 人間だってたまにいるだろ? ようするに俺様は夜型で、朝は嫌いなのだ。

 なのに、眼が覚めてしまったことですでにダルイのに、この意味不明な状況は苛立ちを増長させるには充分だった。ロープより先に血管がキレそうで暴れまくっていると、

「ドッタンバッタンうるさいです。静かにして下さい」

 意識の外から声がした。

 俺様がそちらに目線を向けるのと同時に、そこにあった襖がパンっと開かれる。

「……………………ッ!? て、てめぇは――」

 数秒間、事実の認識に戸惑ってしまったが、すぐにその相手が誰かを悟った。

 あれは夢なんかじゃなかったのだ。

「てめぇ呼ばわりしないで下さい。私の名前は姫乃です。それにしても、妖のくせに朝から元気がいいんですね? 寝起きも良さそうでなによりです」

 きっとこの先どんな可愛いコちゃんが現われても、絶対に忘れることができそうにないその少女は、眠そうに目元をこすりながら皮肉っぽく告げた。

 昨夜と違い、ふわふわしたピンクのパジャマ姿で枕を抱えていたが、

「昨日のパンチラおん――なふっ!?」

「姫乃だって言ったです、その耳は飾りなんですっ? 変態はそうなんですっ?」

 言い終わるより早くこちらの顔面に枕が飛んでくる。

「ごらぁッ、なにしやがる!? 自分からパンチラしたのは事実だろうが――っておい、やめろ枕ならともかく刃物を投げんな」

「だまるですだまるですだまるですぅっ」

 そればかりか、壁にかけられていた刀を鞘から抜き去り、次々と投げつけてきた。串刺しになりたくない俺様はあっちへゴロゴロこっちへゴロゴロ必死に回避し続ける。びゅんびゅんざくざく板間に刺さる凶器の嵐。うおっ!? かすった。

 やがて手近なものを投げ尽くし、肩で息をする姫乃が言う。

「はぁ、はぁ、はぁ……私だって……私だって、好きであんなことしたんじゃないんですッ」

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……ったく、わけがわからんぜ。てめぇ……本当にあのいい女と同一人物かよ? 容姿も違ぇから趣味じゃねぇし、女としての色気も無ぇ、大人らしい余裕も無ぇ。ねーねーねーのスリーN。有るのはきゃんきゃんやかましい威勢だけじゃね~か」

「ッ――本当に黙って欲しいです。妖なんかに私のなにが――」

「はっ、わかんねぇよ。な~んもな……」

 それは思うがままに出た台詞だったが、姫乃は表情を酷く堅くしていた。

 わからんことだらけなのに、異常に張りつめた空気。

 暫し沈黙が場に満ちていたが、やがて「ふぅ」と息をついた姫乃が冷静さを取り戻し、

「厳格なお父様が、不在でよかったです……。あなたには色々と聴きたいことがあるですが、あいにく私はこれから学校へ行かなくてはいけないです。学生の本分は勉強なので。だから、私が帰ってくるまでおとなしくしていてください」

「こんなんで俺様の自由を奪ったつもりかよ。はっ、甘く見てもらっちゃこまるぜ」

 俺様の精一杯の強がりに姫乃は一瞬考える素振りをとってから、こう言った。

「……そうですね。では見張りをつけておきます。お銀……居る?」

「ここに」

 カタンと天井の一部が開き、しゅたっと誰かが下りてきたかと思えば――グギッと変な音がした。途端に悶え、震えだす。着地に失敗したせいで足がそうとう痛いらしい。涙目である。

「う、くっ、こ、の……無礼者は……手打ちにせずとも?」

「コホンっ……え、ええ、逃がさないようにだけしてもらえるです?」

「……承知しました」

 いつものことなのだろうか? ドジっ子忍者の失敗にあえて触れない姫乃はふふんと得意気な顔をする。まるで、逃げられるものなら逃げてみなさいとでも言われたみてぇだが。

 いやいや、こんな奴でいいのかよ? ひょっとしなくても絶対完璧舐めてるだろ俺様を。

「さ、着替えて学校行くですかね」

 姫乃はこちらの睨み付ける視線を気にも留めず、スタスタと去っていく。

 おかげで開きっぱなしの襖の外が視界に入る。中庭らしき情景が窺えたが、その僅かな情報をシャットアウトするかの如く、見張りを命じられた女忍がぴしゃりと閉めた。

「…………」

 さらになにごとも無かったかのように黙したまま俺様の方に振り返ると、強烈な敵視の眼差しを携え襖の前に礼儀正しく正座する。姫乃より二つ三つ年上であろうクールビューティーな女忍は、黒が七、赤が三の割合の忍装束だった。胸元には巻かれたサラシ、残暑が厳しいのに紅い襟巻で口元を隠したまま、まるで置物のように微動だにせず沈黙を貫いている。長い髪をアップサイドにし、大きな六方手裏剣を模った髪留めでまとめてあったが、正座していると先端が床に着きそうだった。

 えっと、たしかお銀とか呼ばれていたっけ。投げつけられたままのいい匂いのする枕にふせって観察していると、彼女はなにか思い直したように急に立ち上がり、

「っ、痛ぇ!?」

 そのまま、有無を言わせず、げしっと蹴り飛ばされた。このまま暴行が続くのかとも思ったが、そういう訳では無く、奪取した枕を胸に抱えたまま再び襖の前で正座し直す。枕強奪の後は本当にただ見張っているだけだった。

 ちゅんちゅんと外からは雀のさえずりが聴こえてくる。

 ロープで縛られていなければなんとものどかな情緒だったが――くぅ~……きゅるるぅ。

「むぅ」

 思わず俺様は小さく唸っていた。不死の妖怪だって腹は減るのだ。そして一度それが始まると、まるで聞き分けのない子供のように欲求が停まらなくなるから不思議なもので、そういえば昨日の晩からなにも口にしていなかったことを思い出す。

 溜息をついてから辺りを見渡し、思案する。三十畳はあろう板間の奥には祭壇が備えられ榊の枝と幣が祀られている。他に太刀や鏡、数珠などが置かれ、壁にはうんたらかんたら長ったらしい呪文が記された掛け軸が、これ見よがしに幾つも吊るされていた。

 どうやら神聖な場所らしいので、きっと結界の類も張られていることだろう。

 出入り口は正面の襖のみ。しかし、そこには正座する番人がいる。

 つまり結論から言ってしまえば……ちょろすぎるぜっ。こんなものはヌルゲーだ。

 俺様はみのむしみてぇに横になったまま、しばらくじ~っと眺めていた。

 切れ長の眼をした女忍・お銀は、視線を不快に思ったのか眉根を寄せていたが……。

 ――はっは~、見てろよ姫乃ちゃんよぉ。

 俺様はニヤリとほくそ笑んでいた。

            × × ×

「はい、玉藻様……あ~ん」

 デレッデレの猫撫で声になったお銀はそう言った。

 俺様は、スプーンに乗せられた《ふわとろめろんぷりん》をぱくりとほおばる。

 瞬間、じゅわっと濃厚な完熟果肉の甘さが口の中でほどけ、カラメルソースの仄かな風味が鼻孔をつきぬけていく。喉をくぐり胃に沁み込んだ糖分は、しびびッと脳を活性化させ、俺様をより格好良くすべく表情筋を引き締めた気がした。

 効果を裏付けるみてぇに、お銀がうっとりした眼差しで固まっている。

 おいおい、見惚れてないで次をくれ。

 催促するように彼女の頬へ右手をそえてやると、かえって逆効果だったのか、擦り寄ってきてしまった。ふぅ。まぁ仕方ない。《魅了》によって、最早完全に俺様の虜だからな。

 昨夜の一件。姫乃に通じなかったことで能力が喪失したのかとも考えていたが、そうではなかったらしい。とりあえずは一安心だ。

 しかし、となり合わせて座って気付いたが、この女忍……。なんだか妙に背が高いな。

 おかげで見上げる形になっちまうが、そいつはとりあえずおいておこう。

 拘束を外させた俺様は縁側に腰掛けて、池泉庭園を鑑賞しながら持ってこさせたプリンを堪能する。甘味好きな俺様だがプリンにはこだわりがある。他はそうでもないんだが、プリンはなぜか別格なのだ。

 そんなこんなで部下にもよく買いに行かせるお菓子の蔵・杏餡庵あんあんあん名物ふわとろめろんぷりん参個セット四九八円を味わいつつ情報収集をすることにした。

 河川と湖に挟まれて東西に広がる天神町。その外れに位置する此処『水戸神社』は、水戸の末裔たる姫乃の家だそうだ。この部屋は本殿が立つ敷地内にある離れらしい。姫乃の部屋も隣接しているとのことだが、今は当の本人は学校に行ってしまったし、見張りは腕利きで(?)信頼されているお銀だけだそうで。完全に二人きりとは、実に都合がいい。

「はっ、お前さんの方を食べたくなっちまったぜ。この唇はプリンの千倍は甘そうだ」

 俺様は襟巻をそっとズラし、桃色の唇を露わにさせた。

「いけません……やめてくださいまし。おてんとさまが顔をだしたばかりなのに」

 全然嫌そうじゃなかった。俺様の手にほっぺをすりすりしてるし。

「それもまた一興じゃないか。全部見せつけてやろうぜ……熱い情事をよぉ」

「玉藻さまぁん、恥ずかしいですぅ」

「はっはっは、よいではないかぁ~」

 潤んだ瞳はゴーサイン。劣情に火のついた俺様はどこぞのお代官様ばりに「うひょ~」っと装束の帯を解こうとして――

「あーっ!!? きき、きつね野郎、なんで? てか、てめ……お銀となにしてるっす!?」

 まさにこれからってところで、聞き覚えのある声に邪魔された。

 見れば渡り廊下の角に、あの助とかいうガキ鬼が立っていたのだ。

 通常、《霊術》によって使役されたモノは行動とその範囲が制限されている。あるじから一定以上距離が離れれば人造物なら動けなくなり、生物なら己の意志を取り戻す。本来鬼は人間なんかと馴れ合うような存在じゃねぇのにこうしていることから、姫乃がコイツらに用いている術式は水戸一族ならではの特殊な代物のようだった。まぁ、こんな奴への興味はゼロだがね。

 第一今は、お子様の出る幕じゃねぇ。騒ぎにされても面倒だ。ここいらが、潮時か。

「おっと……お銀、俺様は急用を思い出したぜ。ちょっくらでかけてくる」

「え? 待って下さいまし……玉藻様」

「な~に、すぐ戻ってたっぷり可愛がってやるさ。だから、今はあの邪魔なガキの身動きを封じちゃくれねぇかい?」

 大嘘を言いながら頭を撫でてやると寂しそうな顔のお銀が「……はい」と頬を染めてみせた。

「玉藻様の邪魔は――誰にもさせませんっ」

「え? なに、ちょ――お銀?」

 さらにこの忍びの者、ただのドジっ子ではなかったらしい。

 乱れた衣服であっても意にも介さず、ひたすら俊敏な動きで困惑するガキの背後に回ると、息もつかせぬ連続技で腕を絡め取り、床に突っ伏させてみせて、

「おいおい、だらしねぇな。ひょっとして姫乃が傍にいなきゃ力が出ないタイプか?」

「うっさいっす――って、なっ!? 逃げんなてめ――ってかそれ……姫が楽しみにしていたやつじゃないっすかぁ!! お銀もなにしてるんすか――あ痛だだ!?」

「はっは~、あんがとよ、お銀。プリンごちそうさん。あばよクソガキ」

 締め上げられ、ジタバタともがく奴に向かって俺様は、んべっと舌をだしてやった。

「今のてめぇにいわれたくないっす。このきつね野郎っ、お銀になにをしたんすかぁ!?」

 意味不明なことを喚く馬鹿を置き去りに、すたこらさっさと逃亡。境内にはせっせと掃除に勤しむ者なんかがいたが、特別な手練れというわけでもなく、人目を掻い潜り『水戸神社』の外に脱出するのは容易だった。

 が、どうにも身体のキレが悪い。シャキッとしない、というか力が出ない。あのガキと違って俺様は、誰にも使役されてね~のに。朝一で顔を洗ってねぇからか? いやいや、顔が汚れて力が出ないなんざ、人間のちびっこに人気の菓子パンヒーローでもあるまいし。

 てってれ~♪ 顔をとっかえたら元気百倍っ。とか――。

 あいにく上位の妖たる俺様にも、そんなグロイ能力はねぇ。

 駆けながらも身体の変調への疑問は留まらなかった。妖力の解放どころか単純な身体能力さえ劣化していたのだ。そういや拘束のロープも切れなかったし、本気で地面を蹴ってみても笑えないほど跳躍できず――これじゃ、まるで……。

 思案しながらも『水戸神社』のとなりにある森林公園を突っ切り、街中へ出ると、ふと甘い薫りが鼻孔をくすぐった。

 視界に入ってきたのはお菓子の蔵・杏餡庵。俺様は思わず立ち止まる。店先にはガラス製のショーケース。中では和洋折衷の甘味がきらきらと主張していて、甘いものに眼が無い俺様としては視ているだけでテンションが上がるハズだったのだが、

「な、ぬ、ぬぁんじゃこりゃああああああああああああッ!!?」

 ケースに映りこんだ自分のあまりに変わり果てた容姿に、絶叫した。

 八頭身を誇っていた美麗な体躯が精々あって五等身程度に服共々縮んでいて、毛並みが自慢のもふもふ耳と尻尾が無くなっていたのである。ロングだった髪さえもミディアム程度になっていて、元からクソ親父のような純潔の妖と違いはあったが、これでは人間そのもの、それもガキにしか見えない有様。

 俺様を妖らしくかたどるモノが、きれいさっぱり消え失せている現実に愕然としつつ、昨晩の悪夢のような記憶が、これまでの違和感が、ありありと脳裏に蘇る。

 差異があって当然。力は、あいつに封印されていたのだ。半妖だった俺様は《呪い》を失った搾りかすで、それでも消されずこうして命があるのは、懇願の祈りを、そんな俺様を、

 

 ――憐れんだってことなのか? 

 

 俺様が、この……俺様がぁ――水戸姫乃ぉぉ。やってくれるじゃねぇかぁ……。

「いらっしゃいませ。あら可愛い坊っちゃんね、おつかいかしら?」

 と、店先に店員の女がやってきて、こちらに目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「ッ――新発売の……《幸せを感じる抹茶クリームスフレ》を一ケース……よこせっ」

 激しい苛立ちを視線に込めて、怒りに打ち震える俺様はそう言った。

 小一時間後。幸せ感皆無の俺様は、店員に買ってもらったスフレをもっしゃもっしゃと口一杯にほおばりつつ、町外れの河川敷を訪れる。

 人気の無い草原をぷらぷらと歩いていると、隔たれた陸地をつなぐ橋の上を電車がガタゴトと通過していく。どうしてわざわざ、あんなにぎゅうぎゅう詰めで苦しそうに移動するのだろう。最近の人間の考えていることは理解に苦しむぜと、そんなどうでもいいことを考えて現実逃避していた。しかたね~だろ? なんだこの展開?

 それもこれも水戸姫乃、全部あいつのせいだ。まったくもって腹立たしいぜ。

《魅了》が使えるだけまだよかったと思うしかなかった。それだけが唯一の救いである。

 俺様が把握している限り、《魅了》は通常の《妖術》とは一線を置いた代物だ。ざっくり言えば水戸の一族が使う使役を始めとする《霊術》も、上位妖怪が使う物質具現化を始めとする《妖術》も、自身が内に秘めし領域、いわゆる【源芯波動】を出力変換することで発現する。

 しかし親父に教わったすぺしゃるな俺様が持つこの《魅了》の能力は、そういったモノを必要としない。練られた念を、眼を通し脳に直接作用させるこれは、分類してしまえば催眠瞳術と言える。昔話なんかで人間共が語るみてぇに対象を化かす狐の妖の性質を孕んだ特異でもあり、ゆえに封印を施された現状でも使用は可能だったようで――。

 相手の心を掌握して操る手順は、超簡単なツーステップ。

 一、対象となる女と、視線を五秒以上からめ合う。

 二、デレたらやりたい放題(個人差はあるがだいたい十分程度)。

 と、まさに便利な能力だが、所詮は一時的な催眠術なわけで。

 しかも俺様の場合、効果は長時間続かない。本来は性別さえ問わず、さらに術中に収めた相手の記憶さえ忘却することが可能だというのだが、親父のそれと異なり俺様のは限定的だし、強い刺激があれば容易く解除できてしまうし、同じ相手への使用は時間をある程度空けなくてはならねぇ。

 このあたりはだらしないと親父に言われているけれど、そういった弱点を補って余る汎用性がこの《魅了》にはあった――はずだった。

 なのに、姫乃にはなぜか通じなかったし、俺様はこんな有様だし……。

 腹の虫がおさまらなかった。とはいえ、このままじゃどうにもならないのもたしかで。

 俺様は高架下の陰間に入り、最後のスフレを平らげ終えると、

「非っ常ぉ~に気は進まねぇけど……」

 盛大に溜息をついてから、薄汚れたコンクリートの壁面に手を当てる。

 途端、闇色の渦が瘴気を発しながら現れる。こいつは【黒天衆】のアジト・幻魔城への直通の門で、この天神町には人目を避けるよういたるところに設置されているのだ。

 まれに人や動物が迷い込んでくるが、そん時はしかるべき処置をとっている。

「親父に頼るしかねぇ……のか」

 呟いた声が擦れていた。認めたくはない。けれどたぶん、これは怒りのせいだけじゃなく恐怖心からくるものだろう。どれだけ強がってみても、相手は幼い頃たしかに憧れた圧倒的な存在であり、成長するごとに畏れへと変わっていたから。

 波立つ心を鎮めるように舌打ちしながら、門を通り抜ける。少しの浮遊感が身体を包み込んだあと、目の前には太陽を知らない黒に塗り潰された世界が広がっていた。

 いやいや、マジで視界が悪過ぎる。俺様は、こんなところまで劣化しているのかよっ。

「侵入者がきたよぉー、侵入者がきたよぉー」「にんげん、にん、げ~ん」

「うるせぇぞ低能共ッ。てめぇら、この俺様の顔を見忘れたのか?」

 足を踏み入れて早々に、見張り役の小烏天狗がバタバタと頭上を舞う。烏は本来かしこいはずなのに、こいつらは単純な命令ひとつしかこなせない低級妖怪だった。

「ケケケ、報告しなきゃー、報告しなきゃー」「にんげんのこども、にんげんのこども~」

「やかましいっ!!」

 苛立ちに拍車をかけられ、思わずぶん殴ってやろうと跳躍するも、手が届かなかった。

「くっ……」

 空しい、空し過ぎる。

 いつまでも馬鹿にするかのように、反響して聴こえる「にんげんのこども」発言に、

「違えぇ……違えぇ違えぇ違えぇえええええええええええええええええええええええッ。俺様は……俺様は……【黒天衆】若頭――――黒天狐玉藻だァアアアア!!」

 いつしか己を主張する叫びを上げていた。

 心の安定を、保つように。

            × × ×

「今の貴様は人間と変わらん」

「――――ッ」

 親父の冷徹な声音に返す言葉が出なかった。あご先より冷たい汗が伝い落ち、かろうじて保っていた平常心は、なますぎりにされた気分だった。

 幻魔城の最上階。五十畳は下らない広さの首領の間にて、無骨な石造りの下座にひれ伏す俺様。漆塗りで黒光りする板間を挟んだ先には、畳の上座に座る親父。

 火灯りのおかげで視界は晴れても、気分はそういかなかった。目的に失敗した報告だけならこんな風にはならなかっただろう。五体満足であれば口八丁に言い訳して、なんとなくやり過ごす自信はあったのだ。

 しかし今は、親父の言葉の通りでしかない。間違って妖雷破でも喰らった日にゃ、まず消し炭になる。恐怖を感じる。圧倒的な恐怖を。

 だったら逃げちまえばよかったか? できるわけねぇだろうがっ。

 俺様が俺様でいられるのは妖だからだ。そして俺様は妖なんだ。戻れるなら――俺様は。

 かろうじて意地だけで眼を背けずにいる俺様の不安を察したのか、隣で一緒に畏まる猫娘たちが背中をさすってくる。

 彼女たちは半妖でありながら親父直属の配下に自力で上り詰めた実力者だ。

 他の一派と異なり【黒天衆】は半妖が多い。すぺしゃるだった頃の俺様を含め強者であれば問題は無いが、弱者は扱いががらりと変わる。そして、基本力が劣る半妖はあまり優遇されないのが普通だった。実際、この場に来るまで他の配下、生粋の妖怪共の態度は明らかにほとんどが落胆と蔑みのものだった。

 なのに視界不良でまともに帰城さえできない劣化した俺様を、小烏天狗共のように笑うことなく此処まで連れてきてくれたばかりか、報告に付き添ってくれている。

《魅了》したわけでもないのに。これは純粋な好意なのか。それとも、これも……。

 自分が情けなかったが、惨めな思いをしてでも戻りたい気持ちの方が勝っていた。

「っ~……話をちゃんと聴いてくれ親父。俺様が……若頭の俺様が出向いてなお、宿願の成就に至らなかったのは、申し訳ないと反省している。それに……こんな有様にされちまった自分も、これ以上なく悔いている。このままじゃ終われねぇ……終われるわけがねぇ……たのむ親父ッ、奪われた分の《呪い》をくれっ。俺様を――」

「……貴様を元に戻すことはできん」

「――ッ、そんな!?」

 すがりつきに対して、これ以上無いくらいに蔑みの眼差しを向ける親父は、手前にあった折敷から酒の入った朱色の盃を手に取り、静かに煽ると、

「クク……水戸の守護者め……。どういうつもりで生かしたか知らんが、わざわざ墓穴を掘りおったわ。これは分を弁えぬ人間共に加えて――クフフフッ、他の一派を出し抜き、目にモノを見せてやるには実にいい展開よ……フハハハハハハ――」

 寒気がするほど邪悪な笑いを上げながら、そう言った。

「な、なんだよそれ? どういう意味だよ!?」

「恥知らずで愚かな我が息子よ、貴様に《呪い》の譲渡なぞせぬ。【黒天衆】の若頭という立場でありながら、このような結果に陥るとは。自分の不始末は自分でしてみせろ」

「お、俺様だってそのつもりだ。だけど……こんなんじゃできることなんざ――」

 悔しさを覚え、思わず詰め寄りそうになったが、

「あるとも。むしろそのような状態でこそ成せることが、貴様にしかやれんことがな」

 口元を吊り上げた親父はこちらに向かって右手をかざす。

 妖雷破かと思った俺様は萎縮しちまったが――しかし、そうではなかった。

 ぼふんっ、と白煙に包まれたかと思えば、

「――げほっ、いったいなんだってんだよ親――ッ!!?」

 身に纏っていた衣装が変わっていた。いわゆる学生服である。紺色のブレザーの胸には、記憶に刻み込まれたあの忌まわしき家紋が校章として縫い込まれていて、

「これはいい機会だ愚息よ。貴様はこれより人間の学生として【封印の地】におもむき、宿願の成就の為に動くのだ」

 物質具現化さえ出来なくなった俺様に、親父は冗談みてぇなことを真顔で言う。

「なっ……この俺様に、人間として振る舞えってのかよ? んなことやれるわけ――くぁっ!?」

 ふざけんなと言い切る前に、足元目がけて盃が鋭く投げつけられた。

 カシャンと飛び散った破片の一部が俺様の頬をかすめ切り、猫娘たちが心配からか声を上げるも、彼女達が動くことも俺様自身が頬を伝う血を拭うことさえもできなかった。

「拒否などさせんよ」

 親父の放つ圧倒的な威圧感。

 その右手でバチバチと猛り狂っている真紅の電撃に、戦慄してしまう。

「知っているだろうが、改めて覚えておくがいい。妖は力がすべて、力無き者は論ずる資格すら持たぬのだ。貴様は立場だけなら仮にも若頭。だったらそれに相応しい働きをしてもらう。結果を出せば自らの尻も拭えるのだから、丁度よかろう?」

「…………」

 親父に言われ、押し黙る。俺様が元に戻る為に必要とする《呪い》は、並大抵の量じゃねぇことは理解している。【封印の地】の《呪い》の解放さえできれば、まさに一石二鳥。しかし、現状では到底に達成困難な仕事だった。

 だからといって、あきらめたくねぇ。

 親父の助けを期待できない。他に手立ては無いのも事実。なにより、ここでゴネて機嫌を損ねた親父から本当に妖雷破を食らった日にゃ、マジで笑えないことになる。

 最早、頼れるのは自分自身だけだった。自分らしさを取り戻すには踏み出すしかない。

 どんな屈辱にも耐えて、足掻き抜くしかない。

「わかったよ――やってやろうじゃね~か、くそったれっ」

 にぃっと笑みを濃くする親父と、睨み合う。

 わなわなと肩を震わせる俺様の脳裏に過ぎるのは、すべてを狂わせた腹立たしくもとびきりいい女。不可思議な二面性を持った守護者、水戸姫乃の顔だった。

                            

                                          第一幕 了

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