2. ふたりの後継者
彼がそのプロ野球人生の最後の一年を日本で過ごしたいと思った理由はもうひとつあった。
大学野球界で、そして高校野球界で、投打にわたって卓越した記録を残し、
泉澤幸希の後継者と評されている二人の選手。
野口保と牧正太郎が来シーズン、日本プロ野球の世界に新人選手として入団する。
そのことであった。
泉澤は、自分が世界一の野球プレーヤーと称されている今、この二人と戦いたい。そう思ったのであった。
現役をあと5年続けるとしたら、精神と肉体をそのことを前提に保ち続ける必要がある。
だが一年と限定し、自分の中に残っているものをその一年に全て解き放つ。
そうであれば、自分はあの昨シーズン、奇跡の一年のパフォーマンスを再現させることができる。
最高レベルの泉澤幸喜が、牧正太郎と野口保に対峙するのだ。
泉澤幸喜の一年後の引退表明。そして最後の一年を日本のプロ野球でプレイするという声明が流れたあと、日本のプロ野球に存在する12球団の全てが、泉澤幸喜の獲得に名乗りをあげた。
特に泉澤が高校を卒業してメジャーに移籍するまで五年間在籍した北海道アークトゥルスの、過去の実績を踏まえてのアプローチは凄まじいものがあった。
が、泉澤幸喜がおのれのプロ野球人生の最後の一年を過ごすチームとして選択した球団は、それは彼の心の中ではもう揺るがすことのできないものであったが、
高校球児の聖地、甲子園球場を本拠地とする球団、ナショナルリーグの摂津ペガサスであった。
野口保は高校時代、東京の野球の伝統校、早稲田実業において一年の夏から三年の夏まで、五シーズン全てにおいて、甲子園の全国大会に出場した。
一年夏はベスト8
二年春は準優勝
二年夏はベスト4
三年春は準優勝
三年夏は優勝。
その3年間の、チーム甲子園通算は21勝4敗。
野口は、一年時からエース兼主砲(一年時は主に五番、二年時以降は一番)として活躍した。
その3年間の通算成績は、投手としては
17勝3敗(1年夏 2勝1敗、2年春 3勝、2年夏 4勝1敗、3年春 3勝1敗、3年夏 5勝)。
176イニング、自責点18、奪三振221。
防御率0.92、奪三振率11.30。
打者としては、95打数41安打。
打率.432、本塁打4(2年春 2、2年夏 1、3年春 1)、
打点24。
高校卒業後はプロには進まず、早稲田大学に入学。
東京六大学野球で、在学中の8シーズンで5回優勝。
(1年春 2位、 1年秋 2位
2年春 1位、 2年秋 1位
3年春 1位、 3年秋 3位
4年春 1位、 4年秋 1位)
通算で、投手としては37勝11敗。
(1年春 2勝1敗、 1年秋 4勝2敗
2年春 6勝1敗、 2年秋 6勝2敗
3年春 4勝0敗、 3年秋 5勝3敗
4年春 4勝1敗、 4年秋 6勝1敗 )
426イニング、自責点58、奪三振501。
奪三振率10.58、防御率1.23。
打者としては、333打数117安打。
打率.351、本塁打19、
(1年春 0本、1年秋 2本
2年春 4本、2年秋 2本
3年春 1本、3年秋 4本
4年春 2本、4年秋 4本 )
打点81。
191cm、93kg。右投左打。
牧正太郎。その在籍した高校は、西宮市の兵庫県立鳴尾高校。
鳴尾は、昭和26年、27年に2年連続で春の選抜に出場し、準優勝、ベスト4となったが、甲子園の全国大会出場はそれだけ。
以降は普通の平凡な公立高校として、甲子園の全国大会への出場などは夢物語となったが、2年前に兵庫県の全県下の中学生を対象とするスポーツ推薦制度を取り入れ、高校野球界では実績も充分な著名指導者を野球部監督として招聘。
牧正太郎は、鳴尾高校がその制度を取り入れてからの一期生であった。
一年夏 兵庫県大会決勝戦で敗退。
二年春 準優勝
二年夏 優勝
三年春 優勝
三年夏 ベスト4
その3年間のチーム甲子園通算は18勝2敗。
牧は一年時から、エース兼一番打者として活躍。
選抜と夏。甲子園の全国大会での通算は、
投手としては14勝2敗(2年春 4勝1敗、2年夏 4勝、3年春 4勝、3年夏 2勝1敗)。
141イニング、自責点11、奪三振202。
防御率0.70、奪三振率12.89。
ノーヒットノーラン2回(2年夏、3年夏)。
打者としては、79打数33安打。
打率.418、本塁打2(3年夏 2)、打点16。
194cm、90kg。右投右打。
牧は総合的にみてその奪三振率は、泉澤、野口を上回る。が、泉澤のストレートが最速160kmを超え、野口は最速150km後半なのに対して、牧は150kmそこそこ。その奪三振率の高さは彼が持つに至った多種多様な変化球に拠るところが大きい。
直球であるフォーシームが彼のピッチング全体の中で占める割合は、概ね1割程度であった。
牧正太郎は、その運動能力の高さ。若年でありながら、ツーシーム、カットポール、スプリット、チェンジアップ、カーブ、スライダー、ナックル、パームボール、シュート、シンカー、フォークボールと各種の変化球を次々に修得するに至った類い稀なセンスなど、野球選手としての素質の大きさは図抜けていた。
が、それはピッチャーとしての球速、バッターとしての飛距離に直接結びつく性質のものではなく、野球選手としての全体のバランスが極めて高いレベルで際立っていると表現するのが至当な性質のものであった。
高校時代は、打者としてもホームランバッターと呼べるほどの実績は残しておらず、むしろアベレージヒッターであった。
プロの世界に入って、高校卒の新人選手としては新記録となる数のシーズン本塁打を放ったのであるが、そのホームランは、泉澤のような驚異的な飛距離というのはあまりなく、メジャーで計ったようにフェンスを少しだけ越えるというのが、かなりの割合を占めたのであった。
ふたりの卒業時のドラフト会議。それは泉澤幸喜が一年後の現役引退を表明したのと同じ年の秋であったが、
1位指名で野口保には5球団。牧正太郎には7球団が重複指名した。
すなわちその年の1位指名をふたりで独占したわけである。
抽選の結果、野口保は球界の盟主と称され、通算の優勝回数が図抜けて多い、ナショナルリーグの東京ジェネラルスがその交渉権を獲得した。
そして牧正太郎は、大阪ドームを本拠地とする、ジャパンリーグの関西ナイツがその交渉権を獲得した。
野口保と牧正太郎は、ドラフト会議からさほどの日数も置かず、交渉権を獲得した球団への入団記者会見を行うことになった。
「プロ野球選手となったその年に、憧れ続けていた泉澤幸喜選手と対決できる。そのことが凄く嬉しいです」
ふたりは入団記者会見で同じ言葉を語った。
野口保の背番号は11、
牧正太郎の背番号は1,
となった。
前人未到、空前絶後、唯一無二と思われた、投打に傑出した実績を残し続けている泉澤幸喜の衣鉢を継ぐ存在が、ひとりならずふたり出現した。
しかもふたりとも学生時代の実績においては、泉澤幸喜のそれをはるかに凌駕する。
そして野口保と牧正太郎はともに、高貴な雰囲気、気品ある佇まいを備えた神秘的な美貌であった。
なお、摂津ペガサスでの泉澤幸喜の背番号は、
ロサンゼルスロビンス時代と同じ17となった。
193cm、100kg。右投左打。