3.私考錯誤
きれいに掃除され、オシャレに飾られた店内。
一番手前のセット台では、美容師と客がとりとめのない話で盛り上がっていた。
あの人は真由が憧れる、”美容室を楽しめる人”なのだろう。
いや、彼女だけではない。
その奥に座る客も、その奥も。雑誌を読んだりタブレットを弄んだりしつつも、時折かわす美容師との間に不自然な緊張は感じない。
(…帰りたい)
心からそう思う。
場違いすぎて居心地の悪いことこの上ない。
やっぱりいいです、帰りますと、言えもしないくせにそんな言葉がぐるぐると頭を巡る。
そうして身を縮めていると、受付をしてくれた若い店員がやってきた。
「おまたせしました。こちらへどうぞ」
(…あうう)
結局逃げだすこともできまいままに、美容室恒例、気まずさ耐久レースの舞台に上がることになったのだった。
(…やめときゃよかった…)
こう思うことも、結局毎回恒例となっているのだ。
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サラッさらになった髪で、ぐったり疲れ果てた真由は美容室のドアを開けて外へ出た。
ありがとうございましたーと、元気な声が追いかけてくる。仕事とはいえ、真由のような無愛想な客の相手をして施術をして、そのうえでまだあんなに元気があるのはすごいと思う。真由にはその声に応える気力は皆無だ。ぺこりと頭を下げて、店の外に出ると一気に緊張の糸がほどけた。
はぁーっ、とお腹の底からのため息が出来る。
(疲れた…)
セット台に通されて早々に、コミュニケーションのプロである美容師は真由のコミュニケーションレベルを把握したらしい。雑誌にタブレットと、一人の世界に没入できるアイテムを手厚くそろえてくれて、飲み物まで完備してくれるおもてなしを施してくれた。
おかげで真由は施術の要望を必要最低限だけ告げる程度で済んだのだが、最高のおもてなしをされようと気まずいものは気まずい。そして人に見られながら雑誌を読むのも苦手なため、無難な今晩のおかずレシピページの熟読か、全く興味のないファッションページの流し読みで、頭の中はいつも通り何か喋った方が良いのではなかろうかとひとりあわあわしまくっていた。
そこからくる、完全に独り相撲の疲労だ。
想定より短く切られすぎた髪は、頬の上をサラサラ滑りくすぐったい。
するりと手櫛の抜ける手触りは、確かに真由のこれまで体験してきたことのないもので感動すら覚える指通りで気持ちが良いが、果たして自分はこの状態をどれくらい維持できるのだろうか。
何はともあれ、綺麗になった髪に心が幾分浮き立つ。軽くなったのは髪だけじゃなく、気分も幾分スッキリとしていた。
せっかく綺麗にセットしてもらったのだ。
このままどこかに行ってしまおうか。
そんなことを、ふと思う。
あんなに疲れていたはずなのに、このまま家に帰るのではもったいないような気がしてしまうから、やっぱり今日、美容室に来たことは正解だったのだろう。
ぐずぐずぐずぐず、部屋の中で燻り続けるよりよっぽど良い。
(…どこに行こうかな。あんまりお金がかからないところ…)
正直、美容室代も厳しかったが、自分を労うための投資だと奮発した。
自分にお金をかける。
自分を甘やかす。
自分を労る。
好きなことをやってあげる。
全部が全部、今の状況では難しい。
こんな生産性のない人間が…しかもただただ自分の為にお金を使うことへの罪悪感。
不相応だ、贅沢だと、真面目に今も働いている人達から白い目で見られてしまうような恐怖感。
こんなだめな人間なのだから、贅沢をする必要も、労う必要もないと、自分で自分を責め続け、人にも会わないからどんどんおざなりになっていく自分への扱い。
だけど、そんな状況を変えたくて。
ネットの中でキラキラとしていた彼女達のように、少しでも輝いて見える世界を真由も見たくて。自分を大事にしたくて。
「…えいやっ」
小さく呟く。
必要なのは、思い切りだ。
全部、やってしまおう。
やりたい事、全部。
それで明日から困って、ほらやっぱりと世間に笑われても。自業自得だと罵られても。
今日だけは、真由は真由のために生きようと、そう決めた。