07.クロエの悲鳴
水の入ったコップを持ってミリーナが戻ってきた。クロエは受け取ると、一気に水を飲み干す。
「顔色は戻ったようね。……大丈夫?」
「もう、大丈夫です」
「ベッドシーツとカバーを取り換えに来たのよね? 何かあったの?」
「はい。あの……ミリーナさんって魔女だったりします?」
こういう時は単刀直入に聞くのが良い――というのがクロエの持論。遠慮しても疑心暗鬼になってよくない。
「この部屋をみて思ったの?」
「さっき、『仕上げに魔法を』って仰ってましたよね。キッチンの大鍋も普通はないですし……この部屋も凝ってるなーなんて」
伺うようにミリーナを見上げる。
ミリーナは、 “魔女”という言葉の使い方として現代で通用する“美魔女”らしい妖艶な笑顔を向けた。
「ふふっ。私、夜に仕事してるって言ったでしょ。魔女のオンラインショップを運営しているの」
「魔女の……オンラインショップ?」
「オンラインショップなら仕事する時間帯は自由でしょう? 日常とかけ離れた世界観に癒しを求める女子は多いのよ」
クロエは瞬きも忘れて、ぽかーんと間抜けな顔を披露する。
確かに、ここまで本格的な魔女の世界観は魅力満載で現実を忘れることができそうだ。
「じゃあ、『仕上げに魔法を』っていうのは……」
「さっきまで動画を撮ってたのよ。役作りは徹底しないとね。……そうだ! クロエちゃんにも一つあげるわ」
役作り……ということは本物の魔女ではない?
ミリーナは窓際の作業台から小さな花束を一つ取り、はみ出た枝を花ばさみでジャキンっと切ってからクロエに渡す。
「タッジーマッジーって言うの。魔除けのブーケ」
こじんまりとした可愛らしい花束。花の甘い香りに癒され、ハーブのつんっとした香りで心が静まっていく。クロエは深呼吸をした。優しい香りが体を包み込み、それが奥深くまで浸透していく。
(すごい音で切断していたのは、ブーケの枝を切っていた音だったのか)
「落ち着いた?」
「……はい。ありがとうございます」
寝室もある意味豪華だった。くるくるひらひら動くもの、照明に反射してきらめく彩り石、繊細な編み込みで大小さまざまなドリームキャッチャー、多種多様なまじないの類が天井から天幕と一緒に垂れ下がっていた。
「お騒がせしました」
深々とお辞儀をし、取り換えたシーツとカバーを抱え猫と一緒に部屋を出る。
貰った花束を部屋に飾ってから、続いてジャックの部屋へと向かった。用心棒のように猫もついてくる。
ジャックの部屋は一切無駄のない厳格な書斎だった。アンティーク調の書斎机には図書館で見かける定番のバンカーズランプと数冊の本しか置かれていない。背にした壁面には歴代の当主が横並びに見下ろしていて、その下には家族の写真や絵画が美術品のように優雅に飾られている。
廊下側の壁にぽつんと一つ古い地図が飾られていた。いかにも高価な――値段などつけられない美術品かもしれないが――歴史を感じさせる地図である。地図を目にして違和感を覚えたが、仕事中だと視線を変えたためクロエの記憶に残ることはなかった。
椅子の肘掛けに体重をかけながら本を読んでいるジャックは映画のワンシーンそのもの。伏し目から流れる睫毛も骨ばった男らしい手も、黒髪と白肌のコントラストさえも魅力的に映る。つい魅入ってしまったが、猫の鳴き声で現実に連れ戻される。
書斎机から少し離れた場所にモニターが三台、三面鏡のように配置されている。中央にキーボードがあるが椅子はなく、台の高さから見るに立ったまま仕事をするスタイルのようだ。
ミリーナからは、ジャックはトレーダーだと聞いている。モニターを見ているときは話しかけないようにと言われているので、きっとやり手なのだろうなぁと勝手に想像する。
ミリーナとジャックの部屋は隣同士で反転した造りなので、あの扉奥が寝室だろう。クロエは一言断りを入れてから寝室へ猫と入っていく。前室の書斎と同じように厳選された家具が並んでいるかと思っていたが、予想は外れ、他の客室と大差なくシンプル――なのはベッドだけだった。
普通に考えて部屋にあるはずのないモノが置かれていて、あまりに異様な光景にクロエは持っていた新しいシーツとカバーを落としてしまった。
「……え」
クロエの視線の先、部屋の奥にガラスケースがあり、そこにはきれいな生首が眠っていた。
ガラスケースは四角にそれぞれ古代文字のような読めない字が刻まれていて、囲うように装飾が施されており、現代のショーケースではなく昔の骨董品に近い。
生首は男性で目を閉じている。遠目から見ても肌質や髪がリアルで、目を瞑っているのが逆に本物の死体に見えて鳥肌がおさまらない。
時が止まったような異様な静寂を何処かから飛んできた一匹のハエが打ち破る。
テーブルに置かれたチェスの駒の天辺に止まったハエに気づき、はっと我に返ったクロエは、生首なんてあるはずがない、蝋人形かマネキンだろうと言い聞かせ自分の仕事に意識を戻す。
背中に感じる視線のようなまとわりつく違和感をクロエは無視した。生首とベッドの間にあるテーブルにやりかけのチェス盤があろうが、へんに意識しすぎているせいだと、蝋人形から視線が届くなんてありえないと言い聞かせる。早々に作業を終わらせ、視界に入らぬよう首と頭を固定したまま部屋を後にする。
生首は作業している後姿をうっすら目を開けて見ていたのだから、クロエの第六感は正しかった。
(今日、寝られるかな? 夢に出てきたらどうしよう……)
クロエは脳裏に鮮明に映る生首のことを別の何かで早く上書きしたかった。
そして、その願いは早々に訪れる。
寝室を出て視線をずらすと、座っていたはずのジャックがいなくなっていた。焦った顔を隠す必要がなくなったとクロエは緊張を解き、表情を崩す。大きく息を吐き、背筋を伸ばすと天井からぶら下がっているモノが視界に入った。それを見て、背筋にぞわりと冷たいものが走る。
モニターを眺めるジャックの姿。
床にあるはずの足が天井についている。逆さまでモニター画面を眺めている。
筋トレ? いやいや、逆向きでモニター見る必要ある? じゃあ、罠に引っかかった? いやいや、何の罠。自分で引っ掛かってたら意味ないし。本人冷静だし。
――あ。
「ドラキュラ伯爵」
クロエの言葉に反応したジャックが、ぐるりと顔を向けた。
「私はドラキュラ伯爵ではない。親戚にそんな名前がいた気もするが……。私は由緒ある吸血鬼だ」
「ぎゃぁあああああーーーーー!!」
クロエの悲鳴が屋敷中に響いた。