03.試用期間(前編)
ホーホーゥとフクロウが鳴く三日月の晩、ベッドの上で正座する私は、三日間の試用期間を命じられた。
「早速だが、明日から三日間の試用期間を設ける。一階の階段下にあるこの屋敷で一番小さい部屋をきれいにしてほしい」
「わかりました。禁止事項など、何か注意することはありますか?」
「捨てるものは一つもない。片づけてきれいにしてくれればよい。清掃用具は自由に使ってくれたまえ」
黒髪色白のジャックから指示を受け、クロエは頷く。鋭い眼差しがちょっと怖い。
三つ編みを胸元で揺らすミリーナがにこりと笑顔を向けて言う。
「ジャックと私は夜仕事をするのだけど、気にせず昼間に作業していいわ。ドーリーは大学に通っていて、昼間はいないの。昼食はキッチンに置いておくから」
ドーリーさんが急に私の手をとったので、心と体が跳ねた。
「もう急に倒れたりしないようにね」
「あ、もしかして気絶した私を受け止めてくれたんですかね。どうもありがとうございました」
拝むようにもう片方の手を、私の手を掴んでいるドーリーさんの手に添えて深々と頭を下げる。
おやすみと告げて、三人は揃って部屋から出て行った。
クロエは扉が閉まってからよろよろとベッドに倒れこむ。
今朝アパートを追い出され、夕方仕事をクビになるも、その日の夜新しい仕事に就けた。なんと住込みという好条件。運を使い果たしてしまったのではないかと逆に怖くなる。
採用されたとは言え、喜ぶにはまだ早い。試用期間がある。この三日間にミスをしてしまったら採用は白紙だ。お言葉に甘えて今日はさっさと寝て、早起きをして作業にとりかかろうと気を引き締める。
崖っぷちの緊張感から解放されると思い出したようにお腹が鳴った。つばを飲み込み、空腹を忘れようと目をつむり無理やり眠りを誘い求めた。
◇◇◇
眠っていても緊張感は保たれるようで、クロエはアラームより先に目を覚ました。ベッドの上で丸まり寝ていた猫も背伸びをして準備する。
残りのカロリースティックを分け合って朝食を済ませる。
「よーし! まずは三日間、気合を入れてがんばろう」
部屋を出てすぐ、視線の先に巣にかかった獲物をぐるぐる巻きにしているクモがいた。
(今のうちにたらふくお腹を満たしておくといいわ。ちっとも怖くないんだから)
進もうとした瞬間、勢いよくどんっと抱きつかれて、喉奥から「ぎゃっ」と声が出た。
「おはようクロエ。いってきます」
「ド、ドーリーさん!? ……いっ、いってらっしゃい」
気づけばドーリーはもう数メートル先にいる。嵐のような挨拶だ。
こんな朝早く家を出るなんて、大学が遠いのだろうか? とぼんやり考えながら階段を下りた。
当該の部屋は、階段下の空きスペースを活用した造りだった。近くに箒、塵取り、はたき、雑巾、バケツ、昔ながらの掃除道具一式が用意されている。
窓がないため、電気をつけ部屋を見渡す。
「立派なお屋敷だから小さいといってもどれ位か心配だったけど、この広さなら終えられそう」
部屋には、一か所だけ綻び綿が飛び出ている一人掛けのウィングバックソファと、その周りにいろんな形のクッションが、床が見えないほど敷き詰められていた。壁の一角には棚があり図鑑など書物と綺麗な石ころが並び、反対の壁面には昆虫の標本がいくつか飾られていた。天井には、中央の照明から四方に向かって飾りが垂れ下がっている。
まず、足の踏み場のない程の大量のクッションを部屋の外へ運び出す。一匹のネズミが現れたが、意外にも猫は反応することなく私の傍にいた。作業する私の足に体をこすりつけている。まぁ、猫は気ままな生き物と聞くし、気分が乗らない日もあるだろう。
照明、天井飾り、棚、本、石ころ、被っていた埃を払い落とす。ついでにクモの巣も取っ払う。それから床を掃いて、丁寧に水拭き、乾拭きしていく。
猫が頻繁に鳴くため、時間を確認するとお昼に近かった。
一旦作業を中断し、昼食をとるためキッチンを探すことにする。
真っ昼間だというのに屋敷内は廃墟のような静寂に包まれている。夜仕事をすると言っていたので、ジャックとミリーナは寝ているのだろう。
上司も同僚も、誰もいない静かな空間が落ち着く。
一人で仕事をする方が自分には合っていると今更気づく。過去の自分は、仕事選びの段階からミスしていたなんて笑うしかない。
キッチンのプレートがついた扉を見つける。中に入って驚いた。
「えっ……えぇ!?」
汚部屋なんてことはなく、歴史を感じさせる屋敷とは真逆の現代的なシステムキッチンが並んでいた。毎日使っているからだろうか、クモの巣もなく小ぎれいである。一番目を引いたのは、ほぼ床と変わらない位置に設置されたコンロと、そこに吊るされた大きな鉄鍋。いかにも魔女の大鍋! 黒を基調にゴールドの金具で統一されたキッチンは、完全にオーダーメイドと思う。
圧倒されて棒立ちしていると後方で猫が鳴いた。振り向くとテーブルに一人分の作り置きの昼ごはんと、なんと猫缶が置いてあるではないか。
「昨日の今日で、もう猫缶が?」
私の相棒として一緒に採用してくれた猫の分まで用意してくれるなんて。過去に猫を飼っていたのだろうか。
ちなみに、私の昼ごはんは茄子の入ったミートパスタ。ご馳走様でした。
お昼休憩を終え、午後は拭き掃除に没頭した。本も石ころも全て一つずつ拭き上げていく。
壁に飾られた昆虫標本の額に手を出そうとしたとき、足元で猫が強く鳴いた。まとわりつく猫にどくように伝えるため視線を下ろすと、水の入ったバケツがすぐ近くにあった。
「ああ、バケツがあるなんて! ぶつかってたら床を水浸しにするところだった……ありがとう」
猫に助けられた後も、黙々と掃除をこなした。途中、帰宅したドーリーから嵐のような挨拶があったが、日が暮れて夜空が広がっても、静かに心に刺さるような声を聞くまでは作業の手が止まることはなかった。
「ほう、なかなかやるな。何の問題もなく進んでいるように見えるが?」
様子を見に来たジャックの声で手が止まる。
観察されている、評価されていると思うと、手に力が入ってしまう。今のところ失敗はしていない……はずだ。緊張のあまり、呼吸さえ止まっていた。深く息を吸い込む。
ジャックを見た猫は部屋からするりと出ると、運び出したクッションの上で呑気に寝始めた。
「お、おかえりなさい」
「……うむ」
「問題ってわけじゃないんですが、明日洗濯機をお借りできないでしょうか。クッションカバーを洗濯したいのです」
ジャックの後ろからひょいっと姿を現したミリーナが返事をする。
「もちろん。バスルーム、ランドリールームを案内するわ。さ、ついてきて!」
クロエはミリーナの後を追いかける。
振り返ると、ジャックは小部屋に入り清掃の程度を確認しているようだった。天井まで見渡すような仕草に、クロエは心臓がきゅっと縮まった気がした。
「トイレは、中央階段を挟んで左右にあるの。一つはバスルームの中。もう一つは客室のとなりよ。残念ながら二階にはトイレがないからね。バスルームとランドリールームは隣同士よ」
お風呂が大浴場だったら掃除するの毎日大変だな~なんて心配したが、可愛い猫足バスタブだった。
バスタブはミリーナしか使わないらしく、周りにアロマキャンドルが並んでいた。ジャックもドーリーもシャワーで十分なのだそうだ。トイレもバスタブとお揃いの金の蛇口をあしらったレトロな内装というだけで、現代の水洗式だった。
外観とは裏腹にリフォームされていて、日頃使っている場所はキッチン同様に最低限掃除しているようだった。水回りがきれいなのは嬉しい。
最後に、明日さっそく使わせてもらう洗濯機を見にランドリールームへ向かう。
「使えるかしら~」
「使えますよ~」
最新式だとしても、どのメーカーでも洗濯機の機能は大差ないだろう。
「……」
相手が言った言葉の意味を、受け取る側が百パーセント一致させ解釈することは難しいことである。
クロエの目の前には、放置されこんもり埃を被った古い型式の洗濯機がぽつんと置かれていた。