『吸血鬼に襲われたら九龍城砦へ逃げ込め!!!』
「逃げろ。逃げ切れたら命は助けてやる」
薄暗い路地裏で、月明かりに照らされた白い歯が不気味に輝いた。吸血鬼だ。俺の前に立っていたのは、間違いなく吸血鬼だった。西洋の映画で見たような黒いマントこそ纏ってはいないが、異様な白さの肌と鋭い犬歯、そして何より人間離れした冷たい瞳が、それを物語っていた。
「ば、馬鹿な…」
香港の片隅、油麻地の路地裏。たった今まで酒場で飲んでいた俺が、なぜ吸血鬼と向き合っているのか理解できなかった。
「鬼ごっこだ。朝日が昇るまで捕まらなければ、お前の勝ち」
吸血鬼は舌なめずりをした。その目には獲物を前にした獣の色が宿っていた。
「じゃあ、カウントダウンだ。十、九、八…」
俺は反射的に走り出していた。狭い路地を駆け抜け、人混みの中へと身を投じる。香港の夜はまだ若い。街は眠らない。だが、その喧騒も今の俺には救いにならない。
***
1960年代半ば、香港は急激な発展を遂げていた。英国の植民地として繁栄する一方で、中国本土からの難民が流入し、街は人で溢れ返っていた。そんな中、一カ所だけ特異な場所があった。
九龍城砦。
もともとは中国の砦だったその場所は、複雑な政治的事情により、香港でありながら統治の隙間に落ちた「無法地帯」と化していた。高さ14階、面積はわずか2.7ヘクタール。その狭い空間に5万人もの人々が住み、独自の秩序を作り上げていた。
俺はそこへ逃げ込む決心をした。
「吸血鬼の弱点は日光、十字架、ニンニク…」
頭の中で映画の知識を整理しながら走る。だが、今手元にあるのは煙草の箱と半分残ったウイスキーの小瓶だけ。武器にはならない。
「九龍城砦…あそこならきっと…」
理由は明確だった。吸血鬼は「招かれざる客」を嫌う。そして九龍城砦ほど「招き」の複雑な場所はない。無数の階段、迷路のような通路、電線の蜘蛛の巣、そして何より「人間」の臭いで満ちた空間。
***
「おい、どいてくれ!急いでるんだ!」
人混みを掻き分けながら、俺は九龍城砦に向かって走った。背後から吸血鬼の気配を感じる。振り返らない。振り返れば終わりだ。
香港の夜景が視界に入る。煌びやかなネオンと、その向こうに見える暗い塊。それが九龍城砦だ。外観は無秩序に積み上げられたコンクリートの塊。窓から漏れる黄色い光が無数の星のように瞬いている。
九龍城砦の入口に辿り着いた時、背筋に冷たい風を感じた。振り返ると、10メートルほど後ろに吸血鬼が立っていた。歩いているのに、速度は俺の全力疾走と変わらない。
「迷路に逃げ込むつもりか。面白い」
吸血鬼は微笑んだ。その表情は、まるで俺の思考を読んだかのようだった。
「くそっ!」
俺は九龍城砦の暗い入口に飛び込んだ。
***
内部は想像以上だった。天井は低く、廊下は狭い。電線が頭上を覆い、壁は落書きと貼り紙で埋め尽くされている。空気は湿り、何種類もの料理の匂いが混ざり合っていた。
「どけ!通せ!」
俺は人々を掻き分けながら進む。住民たちは一瞬俺を見るが、すぐに自分の用事に戻る。ここでは「異物」に対する関心が薄い。それが九龍城砦の掟だった。
曲がり角を曲がると、突然料理店の中に出た。十数人の客が狭い空間で食事をしている。
「何か注文するのか?」
店主らしき男が中国語で尋ねた。
「隠れさせてくれ。誰かに追われている」
俺は息を切らしながら言った。
「金はあるか?」
「ある」
「なら座れ」
店主は淡々と麺を茹で続ける。その横顔には生活の厳しさと諦めが刻まれていた。
俺は店の隅に座り、入口を注視した。心臓が激しく鼓動する。数分後、吸血鬼が店の前を通り過ぎるのが見えた。しかしすぐに立ち止まり、ゆっくりと店の中を覗き込んだ。
目が合った。
「見つけた」
吸血鬼の声は蜂蜜のように甘く、毒のように冷たかった。
「くそっ!」
俺は厨房を通って裏口から逃げ出した。
***
九龍城砦の内部は三次元の迷路だった。上に行くか、下に行くか、左か右か。選択肢は無数にある。俺は直感で階段を駆け上がった。
3階、4階、5階…
息が上がる。足が痛い。それでも俺は走り続けた。廊下は徐々に狭くなり、天井は低くなる。顔を覗かせる住民たち。彼らの表情は様々だ。無関心、好奇心、軽蔑、同情。
「外国人か?誰かに追われているのか?」
廊下で洗濯物を干していた老婆が尋ねた。
「はい…助けてください」
「上に行きなさい。8階の張おばさんの家だ。彼女なら誰にでも門を開ける。言っておくが、代価はかかるよ」
俺は感謝の言葉を残して、さらに上へと向かった。
7階と8階の間の階段で、下から聞こえる悲鳴に気付いた。吸血鬼が他の住民を襲っているのか?罪悪感が胸を締め付ける。しかし、立ち止まるわけにはいかない。
8階に到着し、廊下を走り抜けると、開いた扉から温かい光が漏れていた。
「だれ?」
「来なさい、急いで」
部屋の中から声が聞こえた。俺は恐る恐る中に入った。
***
部屋は驚くほど広く、清潔だった。壁には道教の護符が貼られ、机の上には香炉が置かれている。
「座りなさい、あたしは張」
張おばさんは60代くらいの女性で、顔には深い皺が刻まれていた。しかし、その目は若々しく、鋭い光を宿していた。
「あなたを追ってきたのは、"夜の子"ね」
「夜の子?」
「この街では色んな者が隠れて生きている。人間だけじゃない」
「信じられない…」
「信じるも信じないも、もう関係ないでしょう?あなたの前に立ったのだから」
張おばさんは香炉に何かを投げ入れた。甘い香りが部屋に広がる。
「これで少しは時間が稼げる。"夜の子"は特定の匂いを嫌うんだよ」
「なぜ私を助けてくれるんですか?」
「九龍城砦には掟がある。困っている者は助ける。だが、その見返りは必ず払う。それが我々の生き方だ」
「どんな見返りでも構いません」
張おばさんは笑った。その笑顔には何か不気味なものがあった。
「あなたの血を少しいただくよ。"夜の子"から守るための儀式にね」
俺は躊躇した。しかし、選択肢はなかった。
「わかりました」
張おばさんは小さなナイフで俺の指先を切り、数滴の血を小さな碗に落とした。それを別の粉末と混ぜ、呪文のような言葉を唱えながら俺の額に塗った。
「これで"夜の子"はあなたを見つけにくくなる。でも、朝日が昇るまでは油断しないことだ」
「ありがとうございます」
「さあ、行きなさい。ここにいても長くは持たない」
***
再び廊下に出た俺は、上へと向かった。張おばさんの言葉を信じるしかなかった。
9階、10階…
住民の数が減り、廊下はより狭く、より暗くなった。天井は頭のすぐ上にあり、時々頭をぶつけそうになる。壁からは水が染み出し、足元には不明な液体が溜まっていた。
11階で、俺は奇妙な光景を目にした。廊下の突き当たりに小さな神社のようなものがあり、数人の男たちが取り囲んでいた。
「お前、誰だ?」
一人の男が俺に気づき、振り向いた。その目は充血し、顔色は悪かった。
「すみません、通りすぎるだけです」
「外国人か…こんな時間にここで何をしている?」
「誰かに追われていて…」
男たちは顔を見合わせた。そのうちの一人が笑った。
「"夜の子"に追われているのか?」
俺の表情が答えになったらしい。男たちは大声で笑い出した。
「馬鹿な外国人だ。ここに逃げ込むとは」
「なぜ?」
「ここは"夜の子"の巣窟だからさ」
俺の血の気が引いた。男たちの笑い声が遠のいていく。
「でも安心しろ。今夜は俺たちの儀式の夜だ。"夜の子"は俺たちの供物に満足するだろう」
男たちの後ろの祭壇には、一羽の黒い鶏が縛られていた。その横には小さな血溜まりがあった。
「行かせてもらいます」
俺は慎重に後ずさりした。男たちは再び自分たちの儀式に戻り、俺のことは忘れたようだった。
***
階段を駆け下りる。もう上には行けない。下も危険だ。どこに行けばいい?
突然、背後から冷たい風を感じた。
「見つけたぞ」
吸血鬼の声が耳元で響いた。振り返ると、彼は階段の上に立っていた。その姿は先ほどよりも恐ろしく、より非人間的に見えた。目は赤く光り、爪は長く伸びていた。
「逃げ場はないぞ」
「くそっ!」
俺は階段を駆け下りた。足がもつれ、何度も転びそうになる。壁にぶつかり、肩が痛む。それでも止まらない。
6階の廊下に出た時、狭い窓から外を見た。東の空がわずかに明るくなり始めていた。夜明けだ。あと少しで太陽が昇る。
「時間だ」
背後の声に振り返ると、吸血鬼が数メートル先に立っていた。その表情は勝利を確信していた。
「まだだ!」
俺は廊下を走った。しかし、すぐに行き止まりに出た。窓があるだけの壁。
「終わりだ」
吸血鬼が近づいてくる。俺は窓に向かった。外を見ると、下は中庭のようになっており、洗濯物や鳥かごが所狭しと並んでいた。
「飛び降りるのか?面白い」
吸血鬼は笑った。その笑い声が、俺の決心を固めた。
「さようなら」
俺は窓から飛び降りた。
***
落下の瞬間、時間が遅くなったように感じた。下の洗濯物が徐々に近づいてくる。
「うわあああ!」
幸いなことに、洗濯物のロープが俺の落下を少し緩和してくれた。それでも着地は激しく、足首に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
立ち上がろうとするが、右足に体重をかけることができない。捻挫か、もしかしたら骨折かもしれない。
中庭には早朝から活動している住民が数人いた。彼らは俺の落下を見たが、特に驚いた様子もなく、自分の仕事を続けている。
「助けてください…」
俺は這うようにして、中庭の端にある階段に向かった。
上を見上げると、窓から吸血鬼が俺を見下ろしていた。その顔は怒りに歪んでいた。
そして、東の空から最初の光線が九龍城砦の壁を照らし始めた。
「くっ…」
吸血鬼は顔を歪めた。太陽の光が徐々に強くなる。
「今回は運が良かったな」
その声を最後に、吸血鬼の姿は見えなくなった。
***
朝日が九龍城砦を照らす中、俺は中庭の隅に座り込んでいた。足首は腫れ、体中が痛む。しかし、生きていた。
「大丈夫か?」
見上げると、朝食の屋台を出している老人が立っていた。
「ええ、なんとか…」
「外国人か。昨夜は大変だったようだな」
「ええ…信じられないような夜でした」
老人は笑った。その笑顔には何か諦観のようなものがあった。
「九龍城砦では、どんな夜も誰かにとっては信じられない夜さ。お粥を食べるか?金はあるか?」
「ありがとう…いただきます」
老人は小さな椀に熱々のお粥を注ぎ、俺に渡した。
「ところで、"夜の子"に追われていたそうだな」
俺は驚いて老人を見た。
「どうして…」
「この街では噂が早い。特に珍しい噂はな」
「あなたも…彼らの存在を知っているんですか?」
「知っているどころか…」
老人は首筋を見せた。そこには、かつて何かに噛まれたような二つの傷痕があった。
「ここには様々な者が共存している。人間も、"夜の子"も、そして両方の世界を知る者もな」
「なぜ…彼らを追い出さないんですか?」
「この場所は、皆が隠れるための場所だ。誰もが何かから逃げてきている。我々は問わない。ただ、掟に従えばいい」
俺はお粥をすすりながら、老人の言葉を噛みしめた。
「九龍城砦を出たら、もう二度と夜に一人で歩くな。彼らは一度獲物と決めたら、簡単には諦めない」
「わかりました…」
「そして、この話は誰にも言うな。言っても、誰も信じないがな」
老人は笑った。その笑顔の奥に、何か悲しげなものを感じた。
九龍城砦の朝は、他の場所と変わらない日常の光景が広がっていた。洗濯物を干す女性、朝食を食べる子供たち、仕事に向かう男たち。夜の恐怖は、朝日とともに霧散したかのようだった。
しかし、俺の記憶からは消えない。そして首筋に残る違和感も。
「お粥、美味しいですね」
俺は微笑んだ。老人も微笑み返す。その目には、何か共謀めいたものが宿っていた。
俺は知っていた。もう元の生活には戻れないことを。九龍城砦の夜を知ってしまった者の宿命を、俺もまた背負うことになったのだ。
そして、夜が来れば、彼らもまた活動を始める。
この迷宮のような街の、どこかで、鬼ごっこがはじまる。
プロンプト
『『吸血鬼に襲われたら九龍城砦へ逃げ込め!!!』。1960年代。そこには雑多な人と際限なく膨らむカオスが存在していた。場所は香港、夜中に吸血鬼と遭遇した私。吸血鬼は私に対して鬼ごっこを提案する。私は夜に吸血鬼から逃れるために、思考を巡らせる。吸血鬼の弱点は日光。朝まで逃げれば勝てる。しかし、逃げきれる保証はない。吸血鬼の弱点はいくつもあるが、結局あそこしかない。そう九龍城砦だ。このプロットを元にシリアスコメディ短編小説を書きましょう。エモーショナルに逃げる私と不気味に迫る吸血鬼と九龍城の住人の対比が印象的な作品を目指して書いてください。』