『吸血鬼に襲われたら浜松!』
深夜の東京、新宿の路地裏。終電を逃した私は、タクシーを拾おうと人気のない通りを歩いていた。突然、背後から感じる視線。振り返ると、そこには西洋の貴族のような装いの男が立っていた。
「こんばんは」
男は微笑んだ。その口元から覗く尖った犬歯が、街灯の光を反射して光った。
「吸血鬼…?」
思わず口にした言葉に、男は嬉しそうに頷いた。
「そう、私は吸血鬼。ドラキュラ伯爵とは遠い親戚でね。日本に来て三百年になる」
彼は優雅に一礼した。
「で、どうする?血を吸われる?それとも、ゲームをする?」
「ゲーム?」
「そう、鬼ごっこだ。朝日が昇るまでに捕まらなければ、君の勝ち。捕まったら…」
彼は舌なめずりをした。
「逃げる時間はあげよう。10分ね」
私の頭は急速に回転し始めた。吸血鬼の弱点—日光、ニンニク、十字架、流水…。しかし今、夜中の新宿でニンニクや十字架をどこで手に入れる?教会まで逃げる時間もない。そもそも吸血鬼は人間より遥かに速い。朝日まで逃げ切るなんて不可能だ。
待て。
「浜松…」
思わず呟いた。
「何?」と吸血鬼が不思議そうに首を傾げる。
「いや、何でもない!」
私は走り出した。まずは駅へ。タクシー乗り場に向かう。
「面白い!鬼ごっこ、始まるよ!」吸血鬼の声が後ろから響いてきた。
***
タクシーに飛び乗り、「東京駅まで急いでください!」と叫んだ。
「お客さん、何か追いかけられてるの?」運転手は心配そうに聞いてきた。
「はい、命がかかってます!」
バックミラーを見ると、吸血鬼が微笑みながら手を振っている。彼は追いかけてこない。なぜだ?
そうか、彼は私の計画を楽しんでいるのだ。猫がネズミと遊ぶように。
東京駅に着くと、私は最終の新幹線の時刻表を必死で探した。
「あった!」
あと15分で最終の「のぞみ」が名古屋行きで出る。そこから浜松に向かう手段を考えよう。
切符を買い、ホームに急ぐ。背後には吸血鬼の気配。彼は私を見失っていない。
新幹線に乗り込むと、すぐに発車した。窓の外に吸血鬼が立っている。彼は笑顔で手を振り、そして…消えた。
「え?」
次の瞬間、車内の別の座席に吸血鬼が座っていた。他の乗客は彼を見ても特に驚いた様子もない。どうやら彼は一般人には見えないらしい。
「新幹線に乗るとは。面白い作戦だね」彼は優雅に言った。
「でも、これでどうやって逃げるつもりなのかな?名古屋に着いたところで、朝日はまだ昇らないよ」
私は黙って窓の外を見た。計画はまだ始まったばかりだ。
***
名古屋に着くと、私はすぐにタクシーを拾った。
「浜松駅まで行ってください」
「浜松?愛知県じゃなくて静岡県の?」運転手は驚いた顔をした。
「はい、急ぎなんです」
「でも、それなら新幹線の方が…」
「時間がないんです!お願いします!」
運転手は不思議そうな顔をしたが、頷いた。
タクシーが走り出すと、後部座席に吸血鬼が現れた。
「浜松?なるほど」彼は興味深そうに言った。「でも浜松に何があるのかな?」
私は黙って前を見つめた。浜松には、ある特別なものがある。それは…
***
浜松に到着したのは深夜3時過ぎ。まだ朝日まで時間がある。
「ここからどこへ行くつもりだい?」吸血鬼は楽しそうに尋ねた。
私は地図アプリを開き、目的地を確認した。
「浜松城…」
吸血鬼は笑った。「お城?そこに何があるというんだい?」
私たちは浜松城に向かった。閉まっている城門の前で立ち止まる。
「さて、ここで何をするつもりだ?」吸血鬼は首を傾げた。
私はポケットから小さな袋を取り出した。東京駅のコンビニで買ったものだ。
「これは…」吸血鬼は目を細めた。
「浜名湖うなぎパイ」
私は袋を開け、中身を取り出した。
「うなぎパイ?」吸血鬼は混乱した表情を浮かべた。
「浜松と言えば、うなぎ。うなぎと言えば…」
「まさか!」吸血鬼の顔色が変わった。
「そう、ニンニク」
うなぎパイの原材料の中には、微量ながらニンニクが含まれている。浜松名物のうなぎ料理には、ほとんどニンニクが使われるのだ。
吸血鬼は一歩後ずさった。「なるほど…浜松に来た理由はそれか」
「それだけじゃない」
私は城の方を指差した。
「浜松城は、徳川家康が17年間過ごした城。家康は何を大切にしていたと思う?」
「それは…」
「そう、家紋だ」
徳川家の家紋は、三つ葉葵。葵はキリスト教の三位一体を表すとも言われ、日本におけるキリスト教の象徴の一つともなっている。
吸血鬼は苦笑した。
「まさか、そんな歴史的な繋がりまで調べていたとは」
「そして最後に」
私は東の空を指差した。
「浜松は『出世城』と呼ばれている。なぜか分かる?家康がここから天下統一への道を歩んだから。つまり…」
「日の出…!」吸血鬼が悟った顔をした。
そう、浜松は「浜の松」。海に近く、東からの日の出が早い場所なのだ。
空が白み始めていた。
「負けだよ」
吸血鬼は肩をすくめた。
「君の頭の回転の速さには感心したよ。東京で鬼ごっこを始めた時から、浜松を目指していたんだね」
「ええ、吸血鬼に襲われたら浜松。それしかないと思ったんです」
「興味深い。では、約束通り。君の勝ちだ」
朝日が地平線から顔を出し始めた。吸血鬼は薄れていくその姿で微笑んだ。
「次は、もっと面白いゲームをしよう」
そう言って彼は消えた。
私は朝日を見つめながら、疲れた体を引きずって浜松駅へ向かった。次の鬼ごっこの時は、もっと研究しておかなければ。静岡の伊豆あたりも、何か使えるかもしれない。
でも、まずは帰ってしっかり寝よう。そして本物のうなぎパイでも買って帰るか。