『アオハル』~拗らせ系吸血鬼の対処法~
夜の街灯が薄暗い路地を照らす中、井ノ川洋子はバイト帰りの足を早めていた。三月の風は意外と冷たく、洋子は首元のマフラーを引き上げた。
「近道で帰ろう」
洋子は髪をかき上げながらつぶやいた。ショートカットを伸ばそうにも、この癖毛では女らしい髪型は夢のまた夢だった。
「お兄さん、とてもよい味がしそうだ」
突然背後から声がした。洋子が振り向くと、色白で長身の男が立っていた。黒縁メガネの奥の瞳が赤く光っている。
(もしかして...吸血鬼?マジか)
男は洋子の前に一歩踏み出し、微笑んだ。歯の間から小さな牙が覗いていた。
「いや、ショタとは私も運がいい」
男はそう言って舌なめずりした。その表情には純粋な喜びが見えた。
洋子は思わず目を丸くした。
「いや、私...女」
男の顔から笑みが消えた。
「えっ?」
洋子は首元のマフラーを下げ、自分の喉を見せた。
「見て、のど仏ないでしょ?私、女だよ」
男は眼鏡を外して目を細め、洋子の喉をじっと見つめた。
「その声と喉...お、女」
男の態度が一変した。先ほどまでの強気な態度が消え、急によそよそしくなる。視線は合わなくなり、少し離れてもじもじし始めた。
(こいつ...もしや...童貞か?)
洋子の頭にある考えが浮かんだ。吸血鬼だけど、女性の血を吸った経験がないのでは?男性ばかり狙っていたのだろうか。
「ね、女性の血は吸わないの?」
洋子が尋ねると、男は顔を赤らめた。
「男性の...血の方が...栄養価が高いからね」
男はそう答えたが、嘘くさかった。
洋子は少し面白くなってきた。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、私の血は吸わないわけ?」
「いや、その...今日はもう満腹だから」
男は明らかにうろたえていた。
洋子はくすっと笑い、試しに投げキッスをした。
「それじゃ、またね♡」
男は凍りついたように動かなくなり、顔が真っ赤になった。洋子が立ち去ろうとすると、男は慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待って!」
洋子は立ち止まり、振り返った。
「なに?」
「あの...俺、ヴラドっていうんだ。ヴラド誠一。あなたの名前は?」
洋子は笑顔を見せた。
「井ノ川洋子」
「井ノ川さん...また会ってもいい?」
ヴラドは恥ずかしそうに言った。
洋子は考え込むふりをした。
「条件があるけど」
「な、なに?」
「吸血鬼のこと、もっと教えて欲しいな。あと、私の血を吸うなら...」
洋子はヴラドに近づき、耳元でささやいた。
「ちゃんとデートしてからにしてよね」
ヴラドの顔が見る見るうちに赤くなった。
「デ、デート?」
「うん、デート。明日の夜、この近くの公園で会おう。8時ね」
洋子はウインクをして立ち去った。後ろを振り返ると、ヴラドはまだ同じ場所に立ち尽くしていた。
(拗らせ系吸血鬼か...面白いかもしれないな)
洋子は笑いながら家路についた。明日の夜が少し楽しみになっていた。
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ヴラド誠一は自分のアパートに戻ると、ベッドに倒れ込んだ。
「やってしまった...」
彼は枕に顔を埋めて唸った。200年間の吸血鬼生活で、こんな失態は初めてだった。女性と間違えてしまうなんて...いや、女性を男性と間違えてしまうなんて。
「井ノ川...洋子...」
その名前を口にすると、胸がキュンとした。ヴラドは慌てて枕で顔を覆った。
「明日のデート、どうしよう...」
近くの本棚には『吸血鬼の生き方200年』『現代人間社会適応マニュアル』『恋愛for吸血鬼』などの本が並んでいたが、どれも今の状況には役に立ちそうになかった。
ヴラドは天井を見つめながら思った。
(デートか...生きて200年、初めてだな...)
窓の外では、満月が優しく微笑んでいるように見えた。