かえりみち 後編
昨日の夜、胡桃から電話がきた。モニターに胡桃の美しい顔が映し出される。
「――選ばれたわ」
突然聞かされた、信じられないその言葉に僕は絶句し、胡桃の言うことをすぐには理解できなかった。頭の中がぐるぐる回り、口の中は一気に渇き、不快な吐き気が僕を襲った。
「発表は、明日のはずだろう?」
僕は言葉をしぼり出すように、何とかそれだけ言った。
「当事者には事前に知らされるみたい」
胡桃は淡々と言った。まるで大したことではないと言うかのように。
「胡桃が選ばれるはずがない。ありえない。だってそうだろう?あれは成績で決まるはずだ」
この選別では、スポーツで功績を残したり、優れた学力を持ったりしている人は優遇されるという不文律があった。
それにその多くは、一年を通して行われる定期テストの成績が基準となって選ばれるはずである。
胡桃は定期テストでも、全国統一テストでも常に好成績を残していた。
まさか、あれは嘘だったのか。
「それはほんとうのことらしいわ。さっき、担任の先生から連絡がきたの。あなたが選ばれるはずがない、なぜこんなことになったのかわからないって、とてもうろたえていたわ。きっと私たちが知らなかっただけで、今までもこういったミスがあったのかもしれないわね」
本当にうろたえるべきは私の方なのにね、と胡桃は皮肉っぽく笑った。
一度決められた「選別」は覆ったことがない。例え今回のような恐るべき手違いが起きたとしても、国は表向きの「国民平等」の為、それを絶対に認めるわけにはいかないのだ。
そういった前例を作ることで、今後このシステムに生まれる大きなリスクを重々承知しているのかもしれない。
もう、どうしようもないのだ。胡桃はそのことをわかっている。そして、僕も。
「――仕方がないのよ」
最後にそう言って、胡桃は電話を切った。
現在において、世界では深刻な食糧不足と、超高齢化社会に伴う爆発的な人口増加が最重要の問題となっている。その兆候は何十年も前から言われ続けていたそうだ。
そして、それらを解消する為に、あるシステムが生まれた。
どの国の歴史の教科書にも、現在のシステムの始まりと、「それ」に至るまでの経緯が書いてある。今では何十年も続いているシステム。僕たちは小さい頃から、「それ」が当たり前にある制度として生きている。
このシステムには国同士の戦争を抑止する役割もあるとして、全世界の国々でも義務化されている。
僕の両親も「それ」を乗り越えてきた。だから僕が生まれることができたのだ。
現在では、妊娠及び出産は国に厳しく管理されており、妊娠するにも資格の取得が義務付けられている。
そして生まれた子どもはすぐに、個人ナンバーが登録されたチップを脳に埋め込まれる。昔は大家族なんて言葉があったそうだが、今そんな家族が存在していたら重罪だ。すぐに政府の人間が来ることになるだろう。
このシステムでは満六十歳になった者、そして十五歳で高校入試を受ける子どもを対象に「大選別」が行われる。そこで成績不良の者や、特に際立った能力のない者が、大量に「選別」されるのだ。
更にそれ以降も、子どもたちは高校卒業まで、毎年「選別」の対象となる。
その「選別」は、毎年末に各学校の各学年から、男女が一人ずつ選ばれることになっていた。
「選別」された子どもや高齢者たちは、他の大勢の人々を救う貴重な「食料」となるため、専用の加工施設に送られる。
そして、そこで「食料」に加工された後、各家庭の食卓へと「配給」されることになるのだ。
――胡桃が、誰かに食べられてしまう。
胡桃ほどの人間を失うことは、この国にとって大きな損失にはならないのだろうか。胡桃だけじゃない。今まで選ばれた人たちの中には、将来何かで大成する人もいたんじゃないのか。
それならば、犯罪者や自殺志願者を食料にすればいいじゃないか。僕たちより学力の低い学校からたくさん選べばいいじゃないか。
国民には人権がある。国民は平等だ。
うそだ。平等なんてものは、この世界にはないのに。
胡桃よりも、食料になるべきはずの奴はたくさんいるだろう!
昨日の電話で僕は、まるで呪いを吐くかのように、そのような言葉を胡桃にぶつけた。
きっと、この時の僕はとても醜い顔をしていたことだろう。
「――ありがとう」
それでも、胡桃はいつもの美しさのまま、モニターの向こうで静かに微笑むだけだった。取り乱して泣いたり、怒ったりもしなかった。
「――でも、それはやっぱりフェアではないの。この世界に生きるなら、この世界のルールに従わないと。人間にとって、それは必要なのよ。ルールは、約束は、必要なの。それが人間ってことだもの」
「なぜ、胡桃はそんなに落ち着いていられるんだ」
僕は嘆くように聞いた。
「あなたが代わりに怒ってくれるもの。誰よりも悲しんでくれるもの。それで充分よ」
「それなら、僕も胡桃と一緒にいきたい。他の選ばれた人に代わってもらえばいいんだ。同じ人間なんだから、僕がその人に成り代わればいいじゃないか」
僕は、そう胡桃に伝えた。
「無理よ。私たちは厳重に管理されているのだから。ナンバーの照合ですぐにわかってしまうわ」
そんな小学生の時に習った、今では当たり前の知識を、胡桃は諭すように僕に言った。
「それなら、自殺する。自殺者も状態によっては加工施設にまわされるって聞いたことがある。それなら、死んだあとでも胡桃と一緒にいられる。僕たち、今までずっと一緒だったんだ。いいだろ?」
僕がそう言うと、初めて胡桃の表情が泣きそうに歪んだ。
「だめ。あなたには、私の分まで生きて、私の分まで幸せになってほしいの」
「君がいない世界では生きられないよ」
すると胡桃は、とてもかなしそうに、でもうれしそうに、モニター越しの僕を見つめる。
「大丈夫。私たちは繋がっているわ。ずっと。どの世界でも。だから、あなたは生きて、ずっと笑っていて欲しい。私はあなたの笑った顔が好きなの」
胡桃は優しい声でそう言って、そっと笑った。その声が、スピーカーを通して僕の耳に触れた。
「――あなたに食べてもらえるなら、本望だけれど。でもきっと、それは、とても難しいでしょうね」
「――そういえば」
また、あきらが不意に言う。そこで僕ははっと我に返った。
気づけば辺りは薄暗くなっていた。遠くで夕日が自らの役目を終え、地平線に沈もうとしている。すでに街の灯が点き始めていた。
「――私、先輩のこと好きだったんですよ」
あきらからの突然の告白に、僕は驚き、思わずあきらの方を見る。あきらは僕の目を真っ直ぐに見つめていた。その目は、とても綺麗だった。
「なんだよ、突然」
僕はごまかすように笑った。しかし、動揺を隠せずひきつったような顔になったのがわかる。自分の頬が紅潮していく。これは、寒さのせいではないだろう。
あきらは、泣きそうな顔で笑っている。
「先輩とキスしたいって、ずっと思ってました。今日、間接キスできたのは一生の思い出です。絶対に、忘れません。これも――」
そう言ってあきらは、さっき僕が買ってあげたミルクティーを鞄から取り出す。
「これも、その日が来るまで、大事にとっておきます」
僕はあきらが何を言っているのかわからなかった。これは、告白じゃなかったのか?だったら、なんで過去形なんだ?
――その日って、なんのことだ。
僕の頭の中を、色々な感情がぐるぐると回っている。心はぐちゃぐちゃにかき乱されて、整理が全く追いつかない。
「なに、言ってるんだ?よくわかんないよ」
僕は何とかそれだけ言った。本当にわからない。わかりたくない。まるで、あきらが別の人間になったみたいだった。
「――私の学年、今年は誰が選ばれたか、先輩、知ってます?」
あきらの言葉に、僕の紅潮した頬が一気に冷えるのがわかった。心の芯が凍りつく。まるで電流を流されたかのように頭の奥が痺れた。
僕はまばたきすらせずに、あきらの瞳を見つめ続ける。
「私、先輩に嘘をついていました。私、テストを受けられなかったんです。そのとき私は熱で意識をなくしたまま、病院にいたんです」
あきらはそんな僕の目を逸らすことなく、真正面から受け止めた。
「周りに心配されたくないので、先生にお願いして、学校の人たちには病院でテストを受けたってことにしていました」
嘘だ。やはり僕には、あきらが何を言っているのかわからない。こんなことを言う子ではなかった。こんなタチの悪い冗談を言うなんて、一体どうしてしまったんだ。
「――どういうことだよ?」
僕には、それ以外の言葉が思いつかなかった。胡桃と、あきら。胡桃の微笑んだ顔。ずっと、一緒だったんだ。このマフラーだって、胡桃が編んでくれたんだ。
あきらの真っ直ぐな瞳。赤く染まった頬。さっきまで、校庭で一緒に走ってたじゃないか。一緒にコーヒーだって飲んだんだ。今もそばにいる。生きている。間違いなく生きているんだ。
「――やっと私のこと、ちゃんと見てくれましたね」
あきらが、今にも泣き出しそうな顔で、かなしそうに笑った。
ひどく気持ちが悪い。目が回る。まるで世界が僕だけを残して回っていくようだ。
胡桃の柔らかい手、唇、肌、綺麗な髪。あきらの長いまつ毛。赤い鼻。白い吐息。
生きてるじゃないか。だって、今も息をしている。何を言っているんだ。みんな、どうしてしまったんだ。
口の中に残るコーヒーの甘ったるい後味が、とても気持ち悪い。僕は二度とコーヒーなんて飲まない。いや、もう飲めない。
僕の中で、何かがぷつりと切れてしまった。
僕の目からは涙がボロボロとあふれてくる。声は出ない。昨日、胡桃と話しているときだって、僕は泣かなかった。
だって、胡桃が泣かなかったから。
今だって、あきらは泣いていない。
だから、僕も泣いてはいけないのだ。
これは、この世界では当たり前のことなんだから。
でも、涙は、とまることなく僕の頬を流れ落ちていく。
胡桃が作ってくれたマフラーが、僕の涙で濡れていく。
僕はずっと我慢していたんだ。昨日から、ずっと。胡桃と、あきらと、共に。胡桃とあきらの両親と共に。
あきらは困ったように微笑みながら、そんな僕を見つめている。
その表情には胡桃が持つものと同じ、僕や世界を包み込むような母性があった。
そして、あきらは優しい声で、僕に言う。
「――仕方がないですよ」
終
読んでいただいてありがとうございます。
連作短編なので、他の短編もぜひぜひ。
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