苦痛
私は多分、ゲームというものに人生における時間の大半をつぎ込んできたが、たとえそうだとしてもゲーム一般というものを心のどこかで見下し、低く見積もっている節がある。しょせん娯楽であり、命や人生そのものを賭ける価値はないと。
ゲームはいつだって私が人生を耐えるためのツールでしかなくて、それゆえにゲームは私の救いではなく、単に衣服や住む場所、食べるものに過ぎなかった。
端的に言えば、私はゲームというものを愛していないのだ。
だからゲームに本気で取り組んだり、自分でゲームを作ってみようという気にあまりならない。楽しいゲームがしたい、面白いゲームがしたい、と私が言うとき、同時に私は「楽しくて面白いならゲームでなくてもいい。正直スポーツができるなら、その方がいい」とさえ思っている。私にとってゲームとスポーツは同一線上のものであり、同時にスポーツの方が格式が高く、有用性も優れている面が大きいとさえ思っている。ではなぜスポーツをやらないのか。スポーツのほとんどは、金と時間、労力が要求されるし、飽きた時に別のスポーツをやろうと思ってもうまくできないからである。ゲームの方があらゆる点で初心者向けであり、手ごろであり、ユーザー目線なのである。楽な選択肢なのである。
私は人生というものがあまり好きではない。ただ、楽しみや快楽、幸福よりも苦しみに価値を置き、愛を感じているから、私は人生全体というものを、それから逃れるための一切よりも高い場所に置いているし、それゆえに私はライフイベントもあらゆる娯楽も、私の中で最高の価値を持つことがないのだろう。
人生はもっと厳粛で苛烈であるべきものなのではないか。
酒浸りの人間だって、酒より大切なものがこの世界にあることくらいわかってる。ただ私が、酒やたばこ、麻薬や人間関係ではなく、おそらくもっとも依存性が弱く、もっとも豊富な体験が付随するゲームというものを、苦痛をごまかす手段として選んだにすぎない。
それで、私の苦痛に何の意味があるんだ? 私はなぜまだ死んでいない? 何も生み出さないのに。何も成し遂げないのに。ただ生きているだけでいいというのは、生きていること自体に喜びや幸福が付随する場合のみで、私の喜びや幸福や、娯楽なしでは成立せず、私の人生から娯楽を抜き去ったなら、そこにあるのは絶えまなく、そして波のある苦痛である。
苦痛を除去すること、すなわち幸福になることは人生の目的として十分ではない。すでに味わった苦痛にふさわしいだけの価値をこの世に残すことであれば、人生の目的として設定するのに十分な可能性はあるが、そうするだけの能力を持つのは一握りの人間だけであり、能力があったとしても、実際にその人間の成果が意味のある形で残されるかどうかは運であり、そしてあらゆる物品には展示数に制限があり、限られた席を争う競争でもある。
今すぐ死ぬこと。もっとも賢い人間はそうするかもしれないが、私はあいにく賢くないので死ぬことは自らに禁じている。死を自らに禁ずることでしか、語る権利が得られないと思い込んでいるからだ。」
実際のところ、すべての言葉は生者に向けられており、死者は言葉を受け取れない。であるならば、生きることを肯定する態度がとれないのであれば、受け取り手の存在そのものを否定することになる。
そんなロジックに何の意味がある? 意味がなかったとしても、それは私にとって重要なことだから。
「お前は人間が好きなのだ。本当にお前が好きなことは、人と関わることであり、心の奥底でそれが触れ合うことであり、その人間が、その人間でなくてはならないその固有性に同意することなのだ。お前にとって人生に意味があるかどうかはそこだけにかかっている。にもかかわらずこの世は人間を代替可能可し、それどころか、そこで生きている人間ひとりひとりが、自分がいかにあらゆるものに対して代替可能的な存在になれるかを競い合い、そう主張するのだから、お前が人生に苦痛を覚えるのは当然である。人々は語る。『それで、君はどんな役割を演じられるの? 何の代わりが務まるの? 何の代わりも務まらないなら、君は何者でもない』そう、お前は何者でもないことを選んだ。お前がお前でしかないことを望むのならば、お前は誰からも認められず、受け入れられない。そして、お前が、誰かでしかない誰かを望むなら、誰もお前のためにそんな自分にはなろうとしない。誰もが、何者でもない者のために、何者でもない自分を引き受けようなどとは思わないからだ」
実際のところそれは嘘である。私は知っている。私が特別でないことを。たとえ少数でも、私と同じように、誰でもないことを望み、時にはそれを選ぶ人間がいるということを。
だから私は、言葉を発し続けるし、自分の中の意味の不在を、沈黙して放りだすことをしない。
意味がわからないなら意味がわからないと語り、意味がないと感じるなら意味がないと語る。私は私が感じたことが、私の経験したことや成し遂げたことよりもずっと価値があると信じたい。それは、他の人間が経験したことや成し遂げたことよりも、その人間が語るその感覚の価値を信じたいのと同じことだ。
だって人生は苦しみであり、苦しみによってしか私たちは人生を人生だと感じることができないだろうから。苦しみをごまかした人生は単なるゲームに過ぎず、そんなものははじめてからあってもなくても変わらないような、空虚なものになるだろうから。
そうして私は私のためだけに地獄を選んだのだから、私はその地獄をまっとうする義務があるのだろう。




