深層の案内人
説明をやめようと思った。
今ここで何が起こっているのか。それがなんでなのか。これから何が起こるのか。どうしてそう思うのか。
問われるまで、考えないようにしようと思った。
「あなたは、なんでこの状況で、何も問わず、黙っているのですか?」
前を歩く女は、振り返ってそう尋ねた。僕は足を止めた。
「もう、何も考えたくはなかったから」
「あなたは、いつも考えてばかりいましたもんね」
知ったような口を利くその女に対して、僕の中の厄介な部分が、問いを発する。いつもなら抑えられるそれは、この海の底では、簡単に外に出てしまう。
「どうして君がそれを知っているんだい」
「それは、私とあなたが深いところで繋がっているから」
「どういう意味」
「そのまんまの意味。そして私たちは、その『深いところ』にこれから向かっていく。まぁ、深いところといっても、私たち自身が私たち自身でいられる程度の、浅いところなんですけどね」
「……ここはどこなんだ」
「ここはあなたの意識と精神の境目。脳と心臓の境目。音と声の境目。外に出ていこうとするあなたと、うちに向かっていこうとするあなたが出会う場所」
「何を言っているんだ」
「その中間に、すべての中間に、深く暗い谷が穿たれている。その道の先に、私たちが求めているものがある」
「……求めているもの?」
「そう。すべての知性が求めているもの。普遍性。解。真理。永遠。なんと呼んでも構いません。それは私たちが知っているもの。私たちはすべてそこから生まれ、そして最後にはそこに還っていく。そこには、安らぎと争いが同居している。そこではすべてが平穏で、同時に、すべてが苦難となっている。私たちは、無限にそれを繰り返している。同時にそれは、無限に変化し、広がり続け、同時に収縮している」
「抽象的すぎて、うまくイメージできない。まぁいい。なぜ、僕らはそこに向かっているんだ? なぜその必要があるんだ」
「他に、どこに行くというのですか?」
そう言って、女はあたりを見回す。暗い海の中は、まるで狭い壁に囲まれているようで、向かっていく方向といえば、真上か真下かしかないように思えた。
「上に行くという選択肢もあるだろう」
「今更、戻りたいと? あなたは、うんざりしたから、そこからここまで来たというのに」
僕の頭に、ひとつの記憶がよみがえった。夜の海に飛び込み、そこで水を飲みこんで、そのまま底に沈んでいこうとしたこと。
なぜそんなことをしたのか? 頑張れば思い出せるような気がした。でも今更、思い出そうという気にもなれなかったし、その意味も感じられなかった。
「わかったよ。行こう」
「私は案内人。深層の案内人……」
「名前はあるのかい?」
「たくさんあるけれど、自分で名乗ろうとは思いません。あなたが、呼びやすいように呼べばいい」
「……エラ」
「いい名前ですね」
なぜその名が浮かんだかはわからなかった。自分自身に対して説明をしようと思ったけれど、もうこの場に、その説明を求める人はいない。この案内人は、僕に何も尋ねない。関心も持たないし、何かを求めても来ない。
それがなぜだか、とても心地よかった。
「要は、死にたいのだ。特に意味なんてない。必要はない。人はみな、心のどこかで死に憧れている。消えてなくなりたい。自分という存在をなくしてしまいたい。忘れてしまいたい。すべてゼロにして、またはじめからやり直したい。あぁ、なぜ己は有限の存在なのだろう。有限であるがゆえに苦しむ。無限であれば、苦しむことも、悩むこともないというのに。だから無限に憧れる。だが無限は、決してお前の存在を許しはしないだろう。無限は、一切の有限を存在として認めず、ただ永遠にそこに横たわり続けるだけ。お前と私はそこでただ、立ち続けるまでだ。膝を折り、死という名の、永遠と重なり合うその日まで、我々はただ、その震える足で、立ち続けるしかないのだ」
長い、長い説教だった。降りていく途中、水平の方向から、声が響いた。それがどの方向から来ているものかはわからなかった。まるで、狭い部屋に閉じ込められて、その中で大きな音が反響しているようだった。
僕はそれに対して「やめてくれ」と叫ぼうとした。しかし案内人エラが振り向いて、そのかわいらしい顔でほほえんで、僕の口に彼女の人差し指をあてたから、僕は黙った。
声が聞こえなくなるまで下に降りてから、エラは語り始めた。
「あれは、ひとつの誤謬。私たちが下に行かないように誘惑する者。あの声に惑わされたものは、どこにもたどり着けず、ただあの深さでずっとさまよい続ける。人はそれを『絶望』と呼ぶこともあります」
僕は、あの声の主が何を言っているのか理解できなかったし、理解したいとも思えなかった。ただ、ひたすらに、やめてほしいと思った。
「この先も、たくさんの『誘惑』があります。そのほとんどは、『真理』や『希望』のふりをしている。でもその本当の目的はどれも同じ。その深さに、その魂を括り付けて置こうとしているんです。そうすることで、少しでも、寂しくないように。その声をもっと大きくして、他の声が聞こえないように。私はあなたが、そういった者たちに惑わされて、立ち止まってしまわぬように、導かなくてはいけません」
「どうして僕なんだ。あれらだってきっと、かつては僕のように迷っていた者たちだろう」
「多くの魂は、その深さと重さに耐えられなくて、途中でぺしゃんこにつぶれてしまいます。そうしたら、私はひとり、ダメになった魂を、深いところに運んで、彼らの言うように、『永遠に重ねる』ことしかできない。それは、とても悲しいことです。彼らにとっては、あそこで迷い続けることこそが、救いになりうるのかもしれません。無力な案内人の私は、そう思っています」
「僕の魂は……」
「あなたはあなたの魂を知っている。あなたはずっと、あなた自身を確かめてきた。握り締めてきた。そうして、硬く、小さくなったあなたは、深いところまで沈んでいける。その形を保ったまま。私の隣に立ったまま」
「だいたいわかったよ」
「それに、私があなたを選んだのではありません。あなたが、私を選んだのです」
「どういう意味だ」
「あなたが、私を深いところから呼び寄せて、私を案内人にしたのです。あなたはそれだけの『声』を持っていた。それだけのことなのです」
「さっぱりわからないな」
「いいんです、それで」
案内人は再び、さらに下へ下へと降りていった。僕もそのあとを追った。
温度はどんどん下がっていく。そしてその冷たさに、肌はどんどん馴染んでいく。
僕はこの深さを知っている。そう思った。心地よさを感じたのだ。
「待っていたよ。××」
名前には、ノイズがかかってて聞こえなかった。自分の名前を思い出すことはできなかった。
ただその声には聞き覚えがあった。すべての誘惑の声と同じく、その声がどこから聞こえてくるのはわからなかったが、他のものとは異なり、僕の耳を脅かしはしなかった。
「君は……」
僕は、思い出そうとした。思い出さなくてはならないような気がしたから。前を歩く案内人は、足を止めた僕を気にして、振り返った。その顔は、心配そうだった。
「無理して思い出さなくてもいいんだよ」
低く、落ち着いた声。僕をいつまでも待ってくれる声。他の誘惑する声とは違う、『誰か』を呼び込むための声ではなく、明確に『僕』を呼ぶ声。
「ゆっくり、落ち着いて息を吸って。心を楽にして。無理はしなくていい。あなたはあなたのままで」
僕は、声の言うとおりにした。すると、心が軽くなって、それと同時に、自分の魂の硬さと重さが確かに感じられるようになった。
「そうか。君は……君は、リチだ」
「思い出してくれて嬉しいよ」
僕が心の底から愛したたったひとりの女性。僕の、青春の痛みを、癒してくれた人。
しかしそれは……
「……君も、僕を止めるのか」
リチはすぐには返事をしなかった。彼女は、沈黙することができる人だった。言うべきでないことを、言わないでいてくれる人だった。
そんな彼女を、僕は心の底から愛していた。
マイペースで、思慮深くて、意志が強くて……何よりも、自分自身を信じている、そんな彼女を。
「……最後に、挨拶をしにきただけだよ××」
僕の心に、しびれるような痛みが走った。それは、『寂しさ』と呼ばれるものだった。
「君を愛している」
優しく、柔らかく、暖かい沈黙が、魂に響いていく。僕は目をつぶる。ずっとここにはいられない。僕らは、行かなくてはならない。
僕は、案内人を追い越して、さらに下へと降りていった。リチの優しい声の残響が消えて、彼女の存在を忘れかけ始めたとき、エラが僕の隣に立って、語り始めた。
「かつて、君にとって、彼女は必要な存在だったんですね」
僕はうなずいた。
「たとえそれが、どんなに悲しくて、空しいことだったとしても」
そうだ。リチは、存在しない存在だった。誰も愛することのできなかった僕が、唯一愛することができたのは、僕がそうなれなかった、僕自身だった。彼女は、僕が理想とする存在であると同時に、それは僕の魂にすら定着できなかった、曖昧で、複雑で、何とも言えぬ、架空の恋人だった。
「僕はわかっていたんだ。僕には、誰かを愛する資格も、誰かに愛される資格もないんだということを。それでも僕は、誰かを愛したかった。誰かに、愛されてみたかった。欲されるのではなく、恋されるのでもなく、ただ、誰かと存在を共有し、溶けあってみたかった。だから僕は、自分の存在を分割して、自分の中の、より愛おしい部分を、他者として創造した。彼女は、僕に、自分という存在の新しい側面を教えてくれた。僕を、絶え間ない自己嫌悪から救いだしてくれた。僕は彼女を深く愛していたし、彼女も僕を深く愛してくれていた。それだけで、十分だと思えたんだ」
案内人エラは、ふっと息をこぼした。
「すべての優れた魂にとって、孤独は宿命です。溶けあえるのは、柔らかく、暖かいものだけです。あなたのように硬い魂は、柔らかい魂に包まれて愛されることはあっても、それは、あなたの深さまで耐えられるものではありません。あなたに惹かれる柔らかい魂は、薄く剥がれて、その深さに溶けて消えてしまう。あなたは、本能的に、同じ硬さの魂と、対等な愛を欲するけれど、硬いもの同士がぶつかれば、どちらか、あるいはその両方が砕けてしまいます」
「もういい。僕に、それがふさわしくないことは、最初からわかっていたんだ」
「あなたには、愛する資格も、愛される資格もなかった。それは決して、あなたが劣っていたからではなかった。そうではなく……あなたがそれだけ、優れた存在であったからなのです」
「相対的なものは、もう意味がない深さだろう?」
「……そうですね」
事実、もう暗くて、声の他にお互いの存在を認めるすべはなかった。僕はエラが自分の隣にいることは知っていたが、もうその表情を見ることはできなかった。彼女がどれだけ美しかろうが、もはやそれは何の意味もなかった。
そうなのだ。僕はずっと、そういう場所が欲しかったのだ。
さらに、さらに深く潜っていく。あらゆる概念が剥がされ、溶けてなくなっていく。
たくさんのものが、意味のないものになっていく。硬く、重くあるもの以外は、その形を純粋なものとして保っていられなくなる。
もうそこには、寂しさも、悲しさも、痛みも、憎しみも、後悔も、嫉妬も、何もなかった。すべては、存在から引きはがされ、もっと浅いところで、カラフルに漂うばかりだった。
僕らの存在はより純粋となり、その意味と形が、よりはっきりとわかるようになっていた。
「少し、憧れるような気持ちがある」
僕はふと立ち止まって、来た道を振り返った。
「もちろん、憧れなんて感情は、もうないんだけれど」
「わかりますよ。明るい方。暖かい方が、少し……恋しいんですよね」
「あぁ。あんなに嫌だったものが、今では……もう、どうでもよくなっている。自分から、嫌悪感や不快感が先に剥がれ落ちて、その内側に眠っていた、愛着や好意が、少しずつ消えていくことが、少しだけ……」
「えぇ。でもそれも、じきになくなります」
「あぁ。僕らは、より存在の本質に近付く」
僕らはさらに深く潜っていく。
「あなたは、いったいなんだったのでしょう」
「僕は、きっと、ここより上にあるものの一切を欲していたんだ」
「それは、なぜでしょう」
「それが、『存在する』ということだからだ」
「上にあるあなたは、いったいなにを求めていたのでしょう」
「何も、求めなくなることだ」
「それは、なぜでしょう」
「それもまた、『存在する』ということだからだ」
「どうして私たちは、まだこんな問いを持っているのでしょう」
「僕たちは、知りたかったんだ。知ることは、求めることのはじまりであり、終わりでもあった。そして、知るためには、知らないでいることが必要だった。僕らは、知り尽くした末に、忘れることを欲した。そうすることで、僕らは、また求めることができた。求めないことを、求めることができた」
「私の仕事はもう終わりですね」
「あぁ。ご苦労だった。僕はまた、『存在』を欲する」
「またいつか会いましょう。今度は、もっと深いところで」
「あぁ。すべてが終わるそのときにでも」
そうして僕は、また浮上していった。