自己定義
私は生きるのが苦しい。ずっと苦しいし、それを改善しようという気はない。
あぁ、生活は少しでもよくしようとしている。あらゆるものを犠牲にして。時には他者を犠牲にして。
今更社会的道徳なんて、と思っている。私は利己主義者である。利己主義者でなくては生きるのが難しくなってしまった、という言い訳もさせてもらう。
そして厄介なことに経済主義者である。別の言い方をすればプラグマティストである。
あぁ、健康的に労働を諦め、健康のために道徳を諦め、健康のために、自分の未来を諦める。そういうプラグマティストである。健康なしに何も成り立たないから、健康のために、あらゆるものを捨てた。他者への配慮。義務、権利、全部、全部。
私は今、流れていく川面に浮かんでいる一枚の落ち葉である。
私が他者にいったい何を語るというのだろう。私の言葉に価値はない。価値を持つ言葉というのは、価値のある人間の発した言葉であり、価値のある人間というのは、価値のある行為をした人間である。
私はただ、言葉が話せるだけの最低限の人間である。
私は存在自体が健康で文化的な最低限度の人間である。そうであることが、私のアイデンティティであり、私の最高限度なのである。
それ以上何を求めるというのだろうか。道徳も理想も持たない人間が、何を求められるというのだろうか。
何を求めたってそれは分不相応であり、己が身を傷つけ、その最低限度を下回る要因を作り出すだけであろう。
私が動かないのは、私が何もしないのは、私の合理主義が私にそう命ずるからである。
この世の一切はお前にふさわしくない、と。
お前はこの世の一切にふさわしくない、と。




