この世界ではないどこかで
「なんかもう帰りたくなってきた」
「もう!?」
少し前を歩くソーコは振り向いて足を止めた。重い荷物を背負ってへとへとの僕は、額に浮いた汗を拭いた。
「運動不足過ぎない?」
「体力はまだ大丈夫だけど……」
「休む? それか、荷物もう少し私が持とうか」
僕はソーコより少し多めに荷物を持っていたが、別にそれは不満でも負担でもなかった。何着かの洋服と、空の弁当箱と、大きめの水筒と、あとこまごまとしたものがいくらか。彼女のものもいくらか入っていた。ソーコの背負っているものも、似たようなものだった。
「いや」
「とりあえずその辺に座ろうか」
彼女はそう言ってあたりを見回すが、椅子のようなものは何もない。薄木山と呼ばれるこの山は、秋になるとあたり一面黄金色になるエリアがあるものの、それ以外はいたって平凡な山で、夏のこの時期は木々が生い茂り、特に有名な山でもないので登山している人などまったくいなかった。最低限道は整備されているものの、それもかなり荒れ果てており、安全とは言い難かった。
「仕方ないか」
そう言って彼女は、カバンを空けて、柄付きのビニールシートを取り出す。こんなこともあろうかと、と言わんばかりの表情で、こちらを見てにやっと笑う。
縦横三メートルほどのビニールシートを広げ、その四隅に荷物と水筒を置く。少し傾斜はあるものの、比較的平らで開けたエリアに、彼女は寝そべって、僕を誘う。
「準備がいいね」
「うん。出来るだけ長く、あっちゃんと一緒にいたかったから」
嬉しいことを言ってくれる。でも僕はそれに対して返す言葉をもたなかった。ただ、満足げに鼻を鳴らすことしかできない。それで十分だと言ってくれるのは、ソーコくらいのものだと思う。
「ね、これからどうする? 帰る?」
「いや。もう少し登ろう」
「よかった」
ソーコは、言葉遣いやその言葉の中身に対して、性格は頑固で、行動は苛烈だった。もし僕がここで帰りたいと言っても、彼女は何時間かけてでも説得しようとしただろうし、それでも僕がひとりで帰ろうとしたなら、ついてくるのではなく、そこで別れて彼女はひとり歩いていくと思う。そういう人なのだ。
「頂上まで行くつもりなの」
僕はそう尋ねる。
「別にこの山の頂上に何もないのは知ってるし。他の、もっと高い山が見えるだけ」
「じゃあ、どこまで?」
「うーん」
彼女はしばらく悩んだ後、悩むのをやめてこちらを見てにっこり笑った。
「君に聞きたいこと、全部聞き終わったらかな」
「なら、ここで全部聞けたなら、もう帰れたりして」
僕は時々そうやって少し意地悪なことを言ってみる。彼女ははははと笑って「じゃあ、ここでは何も聞かない」とやり返す。僕らは薄暗い山の中を笑い合う。まだ日は落ちていないが、時間的に山を降りるころには暗くなっていることだろう。
しばらく、僕らは山の音に耳をすませた。鳥たちの囀り、風が葉を揺らす音。何であるかはわからない小さく微かな音。僕らはゆっくりと呼吸をする。
「ねぇあっちゃん」
「なに」
「私、いつか……人はいつかは死んじゃうけど、そのときは、あっちゃんと一緒がいいな」
僕は目をつぶって、ソーコと抱き合いながら、海の中を沈んでいく自分の姿を想像してみた。だんだん息が苦しくなって、目を開けると、ソーコも目をぎゅっとつぶって、苦しそうにしている。彼女は頑張って、自分の「生きたい」という衝動を抑えている。海の底まで、落ちていこうとしている。僕は彼女を放っておけないと思う。ひとりにはできないと思う。彼女は僕に縋り付いている。僕は彼女に、どこまでもついていこうと思う。そう思うと、苦しさは少し楽になって、僕らはどこまでも落ちていける。
「僕もそう思うよ」
うふふ、とソーコはまた笑う。彼女は本当によく笑う人なのだ。
「じゃあ、両思いだね」
「うん」
僕らは、誰もいない山の中で、手をぎゅっと握り合っている。他に誰もいない、ふたりだけの世界。結局僕らは、この空間だけを求めて、ここにやってきたのだ。
薄木山に登ろうと言い出したのは、ソーコの方だった。彼女は家出をしていて、学校にはもう二か月ほど行っていなかった。しばらく僕の家に泊めていたが、僕の両親がソーコのことを心配して彼女の両親に連絡したらしく、彼女の両親がうちに押しかけてくる前に、僕らは逃げ出すことにした。
彼女の両親がどういう人なのか、僕はよく知っている。彼らの性格を端的に表すのは、彼女の創という名前だ。それが、創るという意味だけでなく、傷という意味があることも知らず、ただ「かっこいいから」という意味で名づけ、さらにソウという響きも、女の子のものというより男の子のものに聞こえやすく、そのことが、自分の性アイデンティティの形成にいくらかつまずく原因となった。彼女は僕だけでなく、会う人すべてにソーコと呼べと強要する。その方が自分らしいから、と彼女は言うが、他の子が彼女のことや、そのあだ名を「かわいい」と言ったりすると、彼女はむっとする。
「私は別にかわいくないし、かわいくなりたくもないよ」
ソーコのそのセリフを何度聞いたかはわからない。それは間違いなく彼女の本当の気持ちだ。
ソーコの外見は、特に秀でて美しいわけでも、かわいらしいわけでもない。肌は十四という年相応かそれ以上にニキビができており、肌を特別気遣っているわけではないが、つぶして余計痒くなることのないように、触れないよう気を配っている。唇は厚く、一重瞼ではあるが目は大きく見える。鼻はよくみると少し右寄りに傾いているが、彼女はそれを自分で僕に教えてくれた。これがコンプレックスにならないということが、自分の性格なのだと、彼女は強調した。
どうしてそんなに、外見というものを小さく見るのか、と僕の母が僕のいる前でソーコに聞いたことがある。そのときソーコは、こう答えた。
「少しでも自分をよく見せようとするよりも、自分を実際によくするために努力することが、正しいことだと思うからです」
彼女は、年の割にしっかりしたことを言う子だったが、身だしなみも、整理整頓も、かなり苦手としていた。細かいことや、自分にとってどうでもいいと判断されたことは、ほとんどほったらかしになるうえに、それを正当化できてしまうほどに言語能力、思考能力が高い子だった。
当然彼女はだんだん学校生活にうまくなじめなくなり、休みがちになった。そのことを、彼女の両親が責め、無理やり学校に行かせようとする。彼女が抵抗すると、すぐに医者に連れていかれ、いくつかの引きこもりに対する支援団体にも訪れることになった。僕が彼女と出会ったのは、その支援団体のひとつだったが、その支援団体は、そこの職員のひとりがかなりまずい問題を起こしたことが原因で解体され、今はもうない。
三十分ほど僕らはそこで、それぞれ自分の心の中に潜っていた。
「よし。じゃあそろそろ行こうか」
ソーコがそう言って体を起こすと、僕も同じように体を起こした。ソーコはどんどん身長が伸びており、五歳年上で、平均的な身長の僕とほとんど変わらなくなってきている。体型もどちらかといえばふっくらしていて、肩幅も広い。
「うん」
「あっちゃんはさ、十年後のこととか、考える?」
「よく考えるよ」
「私の十年後の姿とかも?」
「うん」
「じゃあ、私が想像する、あっちゃんの十年後の姿は?」
「ソーコが想像する、僕の十年後の姿ってこと?」
「そう」
「そうだね……それは考えたことがなかったかも」
「少し考えてみて」
「うん」
「私はね、自分の十年後がどんな感じか想像すると、けっこう気持ち悪くなるんだ。不安とか、絶望とか、よくわからない感情でぐるぐるする。でもね『お母さんが想像している十年後の私』のことを考えるとね、少しおかしくって、気持ちが楽になるんだ。なんか、嘘みたいだなって思うんだ。この現実が」
「なんとなく、気持ちはわかるよ。僕は、ちゃんと学校に行ってた頃は、みんなに期待されていたし、その将来のこともいろいろ、好き勝手言われていたから。それを全部自分の選択でぶち壊しにして、今は自分の将来を、ある意味では確定させていて、他のみんなは、そうさせないように必死になっている。僕と君の関係が許容されているのも、そのおかげだったりする」
「なんか変だよね、みんな」
「うん」
変なのは、僕らの方だ。でもそんなことは、僕にもソーコにもよくわかっている。わかったうえで、僕らが見ている側からは、彼らの方がおかしくて、僕とソーコは互いに「普通」だと思っている。
そしてその「普通」がどれだけ貴重で、大切にしなくちゃいけないかということも、深く強く、理解している。
「私、ずっとあっちゃんと一緒にいたいと思うけど、あっちゃんと一緒に結婚式を挙げたいとはどうしても思えないんだ。みんなが見ている前で、あんな変なことをするのは、恥ずかしいというよりも、すごく気持ちが悪いと思う。もっといえば、夫婦とか、恋人とか、そういう……記号的な関係になるのが、死ぬほど嫌なんだよね」
「わかるよ。その気持ちは。結局、夫婦とか恋人とか、そういう概念は、僕らふたり以外のひとたちが決めた事柄だからね」
「うん。私という存在を最初からのけ者にして、他の人たちが勝手に決めたルールに従うのは、なんか、違うと思う」
そんなことを言ったら、子供っぽいとか、甘えだとか、親に育ててもらっている分際でとか、そんな風に言われるかもしれないけど。もしここが僕らふたりしかいない山の中じゃなければ、ソーコはそう付け加えたろうと思う。多分だけど、彼女はそういう言葉を癖で言おうとしたが、僕が彼女の方をじっと見て、言わなくていいと目で伝えたから、その意志でもってして、口を閉じたのだと思う。
「僕らのことは、僕らふたりで決めよう」
「うん、でも」
言いたいことは、すでに考え終わっている。あとは言葉を選ぶだけ。それが彼女と僕にとってのコミュニケーションの在り方だった。
「本当は、ふたりだけじゃなくて、他のみんなとも、そうしたかった」
「僕もだ」
「私は、違う世界に行きたい」
そう言って彼女は歩きながら、少し涙声になってぼやく。
「こんな世界で、生きていたくない」
「僕もそう思う」
「恵まれてるとか、そんなこと言われたくないし、そんなふりもしたくない。それなのに、そんなことばっかり頭によぎる。それが正しいことだから。正しいことだとされているから」
僕らにとって、事実というものはどうしても重くなってしまう。僕らは主観性に閉じこもることができなくて、僕らの願望や欲望と、そのどうしようもない客観性とがぶつかりあって、心がひび割れていくのだ。
僕らが今背負っているリュックサックも、その中の弁当箱も水筒も。僕らが身にまとっている服も、僕らを生かしているこの血と肉も全部、僕ら自身に由来するものではない。それは、この日本社会が生産したものであり、僕らはそれにどうしようもなく生かされている。
僕らが生まれる前に作られたルールによって、僕らは安全に生き延びてこられた。そしてこの先も、安全に生き延びていく。そのルールによって縛られ、不快な思いをしながら。
「私は、死ぬこと以外に、抗議の仕方がわからない。いつだって正しさは向こう側にあって、私たちの方にはないから」
「僕らには自分勝手さが足りないんだろうな。いつも」
「みんな働いたり勉強している間に、こうやって遊んでいても?」
「心の問題だよ。心と行動は、きっと、それぞれ別のこととして捉えなくちゃいけない」
「そうかもしれない」
結局僕らはそんな風に言葉を交わしながら、薄木山の頂上までやってきた。僕らはそこでろくに景色を眺めることもなく、山を下ることにした。
「このまま遭難できたらいいのに」
彼女は明るい声でそう言った。
「そしたら、死ぬまで一緒にいられるね」
そう続けて、彼女は僕に微笑みかけた。
「生き残れるかな」
僕は冗談交じりにそういってあたりをきょろきょろ見渡した。無理そうだ、と思った。
「何日生きられると予想する?」
「二三週間は生きられるんじゃない? 水は山を下ればあるだろうし。問題は食べ物だけど……」
「最悪、街に降りて盗めばいいんじゃない?」
「街に降りられたら遭難とは言えないんじゃない?」
「うふふ」
彼女は急に笑い始めた。面白いことを思いついたのだろう。
「私たちきっと、この現代社会に遭難しているんだと思う」
「迷って、抜け出せなくなってる?」
「そう。それぞれひとりぼっちで迷っていて、私たちはラッキーだったから、たまたま別の遭難者と出会って、一緒に行動してる。そうだ。私たち、遭難者仲間」
僕は、その言葉をかみしめる。今僕らに置かれている状況を考えてみる。遭難はしていないけれど、他に誰もいない山の中をふたり歩いている。ひとりになるのは危険だし、寂しい。僕らはふたりでいるほうがいいことを知っているし、この状況がずっと続くなら、ずっと一緒にいなくてはいけないこともわかっている。
確かに、遭難しているみたいだと思う。ひとりきりになったらすぐ死にたくなるのも、むべなるかな、と言ったところだ。
「あっちゃんだからいうけど、多分、もし仲間がたくさん見つかれば、私はこんなにあっちゃんと一緒にはいないと思うし、本当はその方がいいんだと思う。あっちゃんにとってもそれは同じで、私なんかよりずっといい人と一緒になって、その人と幸せになればいいと思う」
僕は返事ができない。何を言えばいいかわからなくて、ただ彼女の言葉に耳を傾けるのみだ。
「私、時々怖くなるんだ。あっちゃんは多分、私よりかは……遭難の度合いがひどくないから、もしあっちゃんが望めば、あっちゃんは向こう側に戻れるような気がする。だから……でも、でもさ、もしかしたら、あっちゃんにとって、本当に幸せなのは、私を見捨てて、そっち側で生きることなんじゃないかと思うんだ。もしそうなら、私は、本当は、すごく間違ったことをしているわけで」
山道が終わり、コンクリートで塗装されている道に入った。ソーコはそこで立ち止まり、僕も振り向いて立ち止まった。
「私、ひとりでも生きられる。つらくて、苦しいけど、それでも生きていけると思う。だから……私、ほんとは、あっちゃんを巻き込みたくない。普通に生きられるあっちゃんを、私のために、私と同じ……暗闇の中に、閉じ込めたくない」
僕は黙ってそこで、じっとソーコを見つめていた。彼女は涙をぼろぼろ流しながらも、その声ははっきりしていた。それは彼女の意志の強さをよく表していた。
「僕は、普通になんてなりたくないし、そんな生き方は嫌だ。そもそも僕は、自分の人生を、そんな貴重なものだとも、大切なものだとも思っていないし、第一、一度自分で台無しにした人生だよ」
「でも、それで、終わったわけじゃない。この先も続いていく。あっちゃんは、私と違って、いろんな人と仲良くなれるし、好きになってもらえる。私と違って……」
「もし、ソーコと出会ってなかったら、そうだったかもしれないね」
時々考える。もし僕がソーコと出会っていなかったら。ソーコがあの海に飛び降りようとしたとき、無理に引き留めたり、あるいは、それを見過ごしたりしていたら。
僕に置かれた状況は、今よりはよかったかもしれない。
「でも、後悔先に立たずだし、出会っちゃったものは出会っちゃったものだよ、ソーコ。もう今更、僕はソーコなしで生きるなんて、気分が悪すぎる。僕は君に出会って、もうひとりでは出てこれないところまできて、君と同じくらい遭難しているんだよ」
ソーコは、首を横に振った。頑固なのだ。自分で考えて納得するまでは、決して人の言うことを認めたりはしない。
それでいいのだ。そうであるべきなのだ。
「僕は、君と一緒に死ぬ意志がある。僕はそれを、どんな正しさよりも優先するつもりなんだ」
「……どうして?」
ソーコは不審そうな面持ちで、そう尋ねる。涙を拭いながら。
「この世界よりも、君の方が好きだからだよ」
ソーコは、唇を噛んで、僕の方に近付いてきて、僕の胸を握り拳で叩いた。
「そういうこと、言わないでほしい」
喉を絞るような、かすれた声でソーコはそう言った。
「違うじゃん、それは。そういうことじゃないじゃん」
「そういうことだよ。僕にとっては。僕は君と違って、一度あそこで飛び降りてるんだ。たまたま生き残って、たまたま、その先生きていくことに、ちょっとした希望を持つようになっていただけだ。僕は君と違って、自分の生なんてとっくの昔にどうでもよくなっているし、自分の意志というものを、自由に無駄遣いできるようになってる。だから……はじめて会った同族に、自分のすべてを捧げたいと思うようになったというそれだけのことなんだ」
「でもあっちゃんは、私が死のうとしたら、絶対、あの手この手で未然に防ごうとしちゃうじゃん!」
「あのときそうしようと決めたからね」
「そんなの、変だよ」
「そうかな。僕にとって普通のことだし、多分……君にとっても、普通のことだと思う」
ソーコは、顔をあげて、僕をにらみつけた。
「私と君は、結構違うところがあると思ってる」
「僕もそう思う。でも聞いておこう。どこが?」
「君の方が、私よりも優しい」
「どうしてそう思うの」
「……私、よく考えるの。私と君が、経験と年齢が逆転したとして、そのとき、私は死のうとしてる君を助けられたかなって。私、絶対に、助けなかったと思う」
「そうかな」
「わからないけれど。でも、君は、私と違って、ひとりでも、どんなにつらくても、この現実世界で生き延びようという気持ちがあった。遭難して、なんとか生き残って帰ろうってんじゃなくて、ずっとその山の中で、なんとか食いつないで、死ぬまで生きていこうとしていた。でも私には、そんな覚悟がなくて、否定して、ごまかして、逃げることしか考えてなかった。今もそう。君は、あっちゃんは、私と一緒に、何とか生き延びようとしている。でも私は、あっちゃんと一緒に、こうやって、ふたりきりで、現実から逃げようとしているだけ。こんなの違うよ。フェアじゃないし、正しくない。社会にとってじゃなくて、私自身にとって、正しくない。だったら、私だって生き延びようとすればいいじゃないかっていうかもしれないけど、でも、それが、死ぬほど気持ち悪い。そんな風に決めるくらいなら、死んだほうがマシだって思う。それが、私とあっちゃんとの、一番の違い。だから私たちは……」
「それでいいんだよ」
「……どういうこと」
「僕が、この、最低なことを決められた理由は、僕が、生き延びてしまったからだ。僕が悔やむことがあったとすると、あのとき、ちゃんと死んでおけばよかったということくらいだ。そうすれば、こんな風に苦しい思いもせず、こんな風に、難しい選択に迫られず、こんな風に……君を苦しめる世界に対して憎しみを覚えたりせずに済んだのにって。でも馬鹿みたいだろ? 僕は生きてるんだ。馬鹿みたいに。だからもう、馬鹿みたいにそうするしかなかったし、不幸にも、本当に残念ながら、こうなってしまっただけなんだ。君がそうならずに済むなら、絶対にその方がいい。君は、僕にできなかったことをし続ければいいと思う。それが君にとって地獄になるかもしれないけど、それは、僕の地獄とは別の地獄だろうけど、その地獄の方が、こっちよりもずっといいと思う。僕は、この世界に巻き込まれて不幸になるよりは、君に巻き込まれて不幸になった方が、ずっといいと思って生きている。それくらいに僕は悲観的な生き方をしてきたし、今もそうだ。君は十年後の僕が、けっこう気楽に生きているように思うかもしれないけど、僕はその裏側で、自分を全部押し殺して、死にたい気持ちになりながら、それを笑いながらごまかして生き続けているだけだ。そうせずにいられるなら、その方が絶対いいに決まってる。僕らが互いに苦しみを吐き出し合って、立ち止まり合って、がけっぷちで迷いながら、場合によっては……そのまま落っこちてしまう方が、平気な顔をして生きるよりずっといい。その方が、人間らしいと僕は思う」
僕はまだ言いたいことがあった。だがソーコがてのひらをこちらに向けて制止した。
「もういい」
僕は頷いた。ソーコが、街の方に歩き始めたから、僕はそのあとに続いた。
その日の晩、ソーコは両親を殴った。両親は驚き、目をむき、覚えていたくもないほどひどい言葉をわめいた。僕もそいつらを殴りたくなったが、僕の役目は、ソーコを守ることだと思った。
ありがたいことに僕の両親は、ソーコの側に立ってくれたが、僕とソーコに相談することなく、児童相談所に連絡し、ソーコはそれに憤慨し、再び僕と家出することになった。
僕は、このつらくて苦しい経験を、一生ずっと繰り返していたいと思っていた。ソーコも、笑ったり泣いたりしながら、同じように思ってくれていた。僕と違うのは、ソーコはそれを言葉にしようとするという点でだった。
「ねぇあっちゃん。私、今が、人生で最良の季節だと思う。めちゃくちゃで、痛くて、苦しくて……でも、それでも、一緒にいてくれる人がいる。一緒に、耐えてくれる人がいる。もうそれだけで、私はなんだか、いいんじゃないかと思うようになってる」
僕はただ、頷いて、満足げに鼻を鳴らすだけだ。
病気になって、死が近づいて、僕は、書かなくてはならないと思った。
言いたかったこと、言えなかったこと、そうであってほしかったこと。
ソーコ。君は僕にとって、確かに救いであったような気がしている。もうすぐ死ねることにほっとしているけれど、それと同時に、君のことが気がかりになっている。
君が生きるか死ぬかは、僕が決めることではなくて、君が決めることなのだけれど……僕は、君の中でなら、生きていてもいいような気がしている。なんといえばいいか、僕は、君の想像の中で生きていたいと思うのだ。
君はこの先、きっとひとりぼっちで生きていくし、そのうえで、君は、僕と違って、生きるとは決めず、いつでも死ねるような態度で生きていくと思う。そんな君が、寂しくて、誰かを必要としたとき、君の心の中にふっと現れる、君にとって一番都合のいい友達でいられたら、と思うのだ。もちろん、君が遭難の同行者を求めるならそうすればいいし、ないとは思うけれど、君が恋する相手がほしいと思ったなら、それに僕を当てはめてくれればいい。全部、君の好きなようにしてくれればいいと思う。
僕は近いうちいなくなるし、少なくとも君は、僕が死ぬまでは生きていてくれると僕は信じている。
そしておそらくは、君の中で、僕の存在がどうでもよくなるその日までは、君はきっと、生きているのではないかと思う。なら僕にできることは、僕という存在が、君にとって、できるかぎり重要な存在であり続けられるよう、こうして存在を言葉に刻むことだけなのだと思う。
僕は君ほど頭がよくないし、考えたことを言葉にするのも苦手だから、わかりにくかったかもしれない。でも君ならきっとわかってくれるはずだ。もちろん、納得はしてくれないだろうけど。それでいいんだ。
君は、君らしく生きて、君らしく死んでくれ。どのような未来を君が選んでも、僕はそれについていきたかったんだ。この現実ではついていけなかったけれど、君の現実なら、そうではないかもしれない。
幸運を祈る。またいつか、この世界ではないどこかで会おう。