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寂しさ  作者: 冷凍槍烏賊
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たわごと

 なぜ、「平凡」とか「普通」という観念が存在し、それらが多くの人々の間で共有されているのか。それはこの国、この社会特有の現象なのか。それとも、程度の差こそあれ、ほぼすべての人間がなんとなくそういった感覚を持っているのだろうか。


 対の概念を考えてみればいい。「非凡」「特別」といった言葉を人間に当てはめることはどうだろうか。おそらくそれは、あらゆる時代、地域においてみられることのように思う。であれば、そうした特別性や優越性の否定形である「平凡」「普通」「非才」と言った概念は、どのような場所であっても生じてくるもので、人々の意識にあがってくるものだと考えていいだろう。


 人間の凡庸さを決定づける要因は何か。シンプルだ。社会的評価。それだけ。その人間の能力とか性格とか、そういったものと結び付けがちだが、それはすべて後付けで、その人間が成し遂げたことや評価され、知られていることの程度から、その人間に付属するいろいろな特徴がラベリングされていくのである。

 結局は、やれんのか、やれへんのか、そういうことである。



 私はものごとを公平に、客観的に見ようとしている。それを徹底しようとしている。そういう習性なのだ。ただ、そうしようとしているということと、実際にそうであるということは違うし、「そう見えるかどうか」はもっと違う。

 また、公平性や客観性は、学問の世界ならともかくとして、それ以外の個所ではそれほど重視されていないし、評価の対象にもならない。TPOを弁えなければ単なるロジハラになる。


 能力という点において、私はおそらくそれなりに稀なものを持っている。また、私はその稀な能力を用いて稀なものを生み出してはいる。しかし、それが誰からも求められず、誰もそれを喜ばないものを、である。

 悪い言い方をすれば自己満足。もっと悪い言い方をすれば自慰行為。ただそういった形容が当てはまらない私が思う最大の理由は、そうした行為が私自身にとって快楽をもたらさないにもかかわらず、私はそれを続けざるを得ないということにある。

 ある種の習慣的衝動。日記を書くことが習慣になっている人々のそれにも似ている。本人にとって日記を書くことも、それを読むことも苦痛であっても、日記をつけずにいられない。そういう人がこの世には一定数いて、私の活動もその類のものであると考えると自然だ。


 何か、意味のあるものを残したいと思ってはいたのだが。振り返ってみて、私は自分のやってきたことを肯定はできない。否定もできないが、積み重ねられた無数のガラクタたちを眺めて、これらがこの先何かの役に立つことがあったとすれば、それは、これらを生み出した私自身の力によってではなく、むしろ役立てる方法を見つけた人の力によるものだろうと思う。

 これも、おそらくではあるが、私には掴む力があった。しかし、それを磨き、飾る力はなかった。私は物語の最良の部分、本質的な個所を見つけ出し、抽象化し、目的化する能力があった。ただし、それを構成し、効果的に配置する技術はなかったし、その技術を手に入れるための訓練に耐えることもできなかった。


 ふと頭に浮かんだだけのことを「思った」と表現していいのなら、私は今まで何度も筆を折ろうと思った、ということになる。しかし、私のような人間にとって、筆を折るというのは非常に強い意志が必要で、それはまるで断食のようなものなのである。

 それに、私は諦めがつかない人生の目標がひとつある。たとえそこに到達できずとも、最後までそれに縋るような。

 ひとつでいいから、誰も読まなくてもいいから、書く価値、読む価値、いや、存在する価値のあるものをひとつ作り出すこと。形式は問わない。物語だろうが、詩だろうが、論文だろうが、それどころか、文筆である必要もない。なんだっていい。それが存在している世界と、存在していない世界を比べた時に、はっきりと、確信をもって前者を選べるような何かを私は生み出したい。

 今のところ、私は自分が作り出してきたものは、あった方がいいのかなかった方がいいのか、あるいはあってもなくても変わらないものなのか、はっきりと言えるものは何もない。ほとんどは、あってもなくても変わらないものだろうと思っている。

 それは素直に、残念だと思っている。今の自分じゃ力不足で、それを改善するめどは全く立っていない。

 それどころか、最近は後退してきているような気もしている。かつて私が率直に「存在していた方がいい」と思っていた数々の優れた作品の価値について、私は昔ほど強い確信、言い換えれば、信仰心を持つことが難しくなっている。

「それらも、結局はそれほど必要でないもなのではないか」

「もっとよい代替品があるのではないか」

「実のところ、この世界には存在していた方がよかったが、存在できなかった、あるいはそれが続かなかったものが無数にあるのではないか」

 そういった考え方が、私の思考の大部分を占めるようになってきている。

 無価値化。それが進行している。もともと私は世界のほとんどが色あせて見えていたのだが、最近は、その中で色づいていたものでさえも、殺風景に馴染んでいっている。

 そんな時、私はふと思うのである。

「このままでは生きていけない」と。


 生きることは苦しい。いつだって自殺は誘惑だ。楽になりたいと思う。この先生きていくうえで感じなくてはいけない不安、焦燥感、恐怖、不快、労働、金銭管理、こまごまとした日常生活、突発的な面倒ごと、止まらない老化、病苦、それに伴う財産の消耗。どれも概念的には大したことではないが、目の前に立体的に立ち現れると、どれも私たちの心を打ち砕くのに十分で、ただ人より少し豊かな想像力があるだけで、そうした数々の人生のネガティブな部分が絶えまなく脳裏によぎり、準備することを要求されるのである。

 もし準備していなかったら「なぜ準備しておかなかったんだ」「考えなくちゃいけなかっただろう」と叱責する声が聞こえるのである。いや、実際には聞こえないかもしれない。ただ「そういう声が聞こえるだろうな」という予感が、私たちの心臓を締め付け、生きることを倦ませるのである。

 しかも最悪なことに、こうした私たちの生来の性質について、同じ性質を持っていない人間は簡単に病気だと判断し、私たちとの間に壁を置く。場合によっては、かがんで手を差し伸べようとして来たりする。不愉快なことだ。

 どうせ否定するなら、殺そうとしてくれればいいのに。そうすれば世界はシンプルで、私たちもここまで苦しむ必要はなかったかもしれない。

 この世には、誰かに殺されようとしているとしか思えない人々もいるが、もしかすると私たちと同じ気持ちなのかもしれない、と想像してみたりしている。それはきっと正しくないけれど、少しは慰めになる。


 私以外の誰が、私の意見を肯定してくれるだろうか。私がどれだけ正しく語ったとしても、私が語ったというだけで誰も反応を示さない。そう。言葉は人格から引き離されて独立して存在することができない。すべての言葉はそれを生み出した原因が存在し、その原因の方が、書き出されたそれよりも影響力が強い。

 私以外の誰が、私の正しさを保証するだろうか。しかし当の私自身でさえも保証したくないと思うのだから、私の言葉はいつだって孤立無援。

 私はいつも仲間を探してきたが、ついぞ誰とも出会わなかった。なら、何のための一人称複数形なのか。あぁ、ただの願望か。あるいは、一種の希望か、可能性への祈りか。


 あらゆるものの中間に立って。くっつけられた机と机の間に挟まって落ちそうになっているビーダマみたいな存在として。

 いつだって私たちはひとりぼっち。誰からも理解されず、誰をも理解しない。理解したい、理解されたい。そう死ぬまで思いながら、対象を持つことができないのだ。

 そんな風に思われる相手も、きっと迷惑だろうと思っているから。

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