現実主義者
ランニング用のシューズがすり減ってきたので、新しいものを買うために街に出てきた。運動目的以外の外出はあまり好きでないが、高校に入ってからは友人付き合いのため、街に出る機会が増えていたように思う。
暑いな、と思う。母から去年の誕生日に贈られたハンカチを、ジャージのポケットから取り出し、それで額を拭った。日焼け止めで、少しぬるぬるしていて、気持ちが悪かった。
ふと、自分は何のために外に出るたびに日焼け止めを塗って、軽く化粧をするのだろうかと考えた。習慣といえばそれまでだが、そこまでして自分の容姿をよく見せることに、何の意味があるのかと思った。
男か。男が欲しいのか。自分の心に語り掛ける。自らが軽蔑してきた、あの、恋愛のことばかり考えているあのいやな連中と、お前はそう大して変わらないんじゃないか、と。
自覚しているだけましさ。自分にそう言い聞かせて少し落ち込んだ心と視線を上方向に持ちあげた。少し太陽がまぶしかった。
太陽を背にして、ひとつの小さな影が七、八階建てくらいの小さなオフィスビルの屋上に見えた。私は目を細めた。あれはいったいなんだろう。
誰かの叫び声が聞こえた。飛び降り、という言葉が頭に浮かんだ。警察。救急。いや、今すぐ走り出して、止めに行くべきか。しかし、自分にそんな権利はあるだろうか? 死にたい人がいれば、死ねばいいじゃないか。この世はそんなにいい場所じゃない。いやになる人がいたって、不思議じゃないし、いやになった人を無理やり引き留めたとして、その人の人生の保証を誰ができるというのだろうか。
興味、関心を抱かぬように、そのまま通り過ぎようと心に決める。私には関係がない。本当に? お前だって、一度は、本気で死のうとしたことがあったじゃないか。それに、今この瞬間に立ち会ったという偶然は、それだけで十分に関係づけられていると言えるのではないか。
私はそう思って、通り過ぎた建物の方を振り返った。ちょうど、建物の上に立っていた人が、私の目の前で、上から下に、落ちていった。何か重くてやわらかいものが落ちた、鈍い音が微かに聞こえた。
行きかう車群の音。少したってから聞こえ始めた横断歩道の信号の音。ざわざわとした人々の声。私はきょろきょろとあたりを見渡した。怯えた表情をした女性のひとりと目が合って、私はやっと我に返った。救急車を呼ばなければならない。
衝撃的な経験であったが、それは、私だけの経験ではなく、居合わせたすべての人にとっての経験であったように思う。
ただ、自分が自殺をするときに想像していたように、飛び降りをする人を撮影する人や、バカみたいな感想を述べる人は、ひとりもいなかった。みな、ショックを受けて口をつぐんでいたし、何を言ってもそれが間違いになるような雰囲気が、そこにはあった。救急隊の人たちの動きはとても迅速だった。
私は、学校で教わった「倒れている人がいた時の対処」を行ったが、それに意味があったのかはわからなかった。呼びかけたが返事はなく、心臓はまだ動いていて、呼吸もあった。外傷は見当たらなかった。どうすればいいかわからないまま、「早く救急車来てくれ」と内心で祈ることしかできなかった。
顔は見なかった。髪は長く、ズボンをはいていた。体格は大きめで、おそらく男性だろうと思った。
関心はあったが、関わり合いたくはなかった。
私は私の生活で精一杯だ、と思った。
「あれ、りっちゃん、もう帰ってきたの?」
家に帰ると、玄関の掃除をしていた母親がそう言った。
「うん。ただいま。ちょっと疲れちゃって」
「母親は首を傾げた。何かあったの?」
「ビルから飛び降りた人がいて。救急車呼んだ」
母親は、わかりやすく、気の毒に、といった複雑な表情を浮かべた。
「無事だといいね」
「うん」
私はそのまま風呂場に行って、シャワーを浴びた。
すごく疲れた。今日は、部屋に引きこもってゲームでもしようと思った。
「ねぇ、自殺する人ってどう思う」
学校の帰り道、友人がそう言った。
「急にどうしたの」
私は、先週末にあった嫌なことを思い出しつつ、何事もなかったかのようにふるまう。
「身内がさ、最近自殺未遂して。どう接すればいいかわからないんだよね」
新田真子は、なんでもないことのようにそう言ったが、おそらく彼女は、努力してそのような言い方をしているのだろうなと私は想像した。
「身内って?」
「兄。まぁ、二年くらいろくに話してなかったから、そんなアレだけど」
「……その人って、髪が長くて、大柄だったりする?」
「ん? あいつのこと知ってるの?」
「いや、先週末、飛び降りに出くわして。救急車呼んだんだけど」
「……あー。うちの兄がご迷惑おかけしました」
友人は、立ち止まって頭を深々と下げた。
「マジで、人様に迷惑かけるとか、最低だよね」
複雑な表情を浮かべ、唇を噛みながら、軽い口調でそう言った。彼女は、気まずさから、あまりよくない冗談を言うことがある。
「まぁまぁ。私も、死にたいと思ってた時期はあるから」
「え、マジ? そうなの。絶対そういうタイプじゃないと思ってた」
「普通にそういうタイプだよ」
「何かつらいことがあったら絶対に相談してね?」
身内にも向けられない優しさを、ただ出会って半年程度の友達になぜ向けられるのだろうか、と少し疑問に思ったが、私は笑顔で「うん。ありがとう」と答えた。
その週末、お礼を言わせたいから、ということで病院に連れてこられたが、結局待合室で四十分ほどひとりで待たされたあげく、興奮した面持ちの真子とその母親から、何度も「ごめんね」といろいろなバリエーションの謝罪を受け、結局何もせずに帰宅した。まさに時間の無駄。とはいえ、あの自殺未遂をした青年に会ったからといって、それが有益な時間になったとも思えなかった。
ただ、私が来たせいで、あの青年は家族からまた責められるのかもしれない、と思うと、少し心が重かった。こんなことなら、見て見ぬふりをすればよかったと思った。きっと私が真っ先に駆け寄って救急車を呼ばずとも、別の誰かがやったはずなのだから。そうしていたのなら、こんなめんどくさいことにはならず、青年の負担も、新田家の負担も少し減っていたことだろう。
その晩の夕食には、新田家の母から贈られた高級メロンが食卓に並んだが、それがあるというだけで食事全部がまずくなってしまったように感じられた。こんな時に、食卓にテレビがあれば気を逸らせるのだろうなと想像する。父のマスメディア嫌いのせいではある。ただ私も、特段テレビがあまり好きではない。しかし、間違いなくネットニュースよりはマシだろうと思っているが、父はなぜかスマホでネットニュースを見ては、家庭に話題を提供しようとする。それも、広義においてはマスメディアに含まれるが、父いわくそういうことではないらしい。
部屋でひとりぼっちになって、お気に入りのネイビーブルーのひとりがけソファに座る。亡くなった祖父が中学校の入学祝いに贈ってくれたものだ。
自殺の物語が読みたい、と思った。芥川の短編集を本棚から手に取って、地獄変を探したが、その短編集には乗っていなかった。ただ、ふと杜子春が読みたくなったので、それを読むことにした。
私は将来、何になればいいのだろうか。やりたいことはない。何ひとつない。好きなものもない。何ひとつ。
勉強はできる。たいていのことは、努力すればできるようになれる。でも特別な才能は何もない。多分、学問の才能もない。何かひとつの分野に集中して取り組んでいる自分の姿が想像できないから。
どちらかといえば、せわしなく家の仕事をしている自分の方が想像しやすい。社会に出るよりも、家庭を守る方が自分に向いていると思うけれど、そうは言ってられない時代でもある。
恋愛は気持ち悪い。もっと年を取ればそれも変わるかもしれない。
誰かにぶら下がって生きるのは、なんとなく嫌だと思っている。なら、お金を稼がないといけない。しかし、果たして自分にお金を稼ぐ力があるだろうか、という不安はぬぐえない。皆や、大人たちは大丈夫だと言うが、その大丈夫だという言葉にどれだけ足をすくわれてきたか。
小学生の時にいじめられていたときも、コロナ渦の時にネット中毒になりかけてたときも。高校受験の時だってそうだ。もし大人たちの「大丈夫」という言葉を信じていたら、私は今の高校に入れていなかったかもしれない。
とても不愉快だ。どうしてこんな気持ちになってまで、生きていなくてはならないのだろう。
何かつらいことがあったわけでもないが、別に疲れていたり、うつ病になっているわけでもないが、それでも漠然と、生きるということそれ自体の理不尽に対し、うんざりすることがある。
何が楽しくて、みなはそんなに前向きに生きられているのだろうか、と。
「あぁ、君のその冷たい眼差しを見ては、君の心の中を想像して、理想化して、君はなんて美しい人なんだろうと思ったことだよ。でも今はどうだ。君の心の内側を覗いてみて思うのは、君はなんてありきたりでつまらない人間なんだろう、という感想だよ」
時々、おかしな夢を見る。一瞬で、夢だと分かる夢だ。
「私は前から言っていたはずだよ。私はそんな素晴らしい人間じゃないって」
「それを素晴らしい人間特有のすばらしい謙遜だと、僕は思い込んでいたんだ。本当に馬鹿だったと思う。人間は、そんな素晴らしいまま生きていくことはできない。生き残るために必死になって、追い詰められて、精神は黒く濁り、どうしようもなくなっていく。まさに、僕と君がたどってきた道さ」
その銀髪の男は、とても綺麗な顔をしていた。昔は私が好きだったアニメ作品の主人公に、少し面影が似ている。
「ねぇ。私は何のために生きればいいと思う?」
「前に僕がどう答えたか、覚えているかい?」
「自らが思う、自らに恥じない自分であり続けること。重要なのは、生きていくための目的ではない。目的は、達成したり挫折するたびに、更新されていく、不安定なものだから、それを人生を基軸にするのは難しいから。だから、生きるのに必要なのは、目的じゃなくて態度。目的が変わっても、決して変わらない『自分が好きでいられる自分自身』という理想像」
「よく覚えているじゃないか」
「そのときは、すごく感心したんだ。あなたのことを尊敬もした。信じて、そのように生きようと思った。でもね、結局それはただの演技だよ。一生懸命、化けの皮が剥がれないように、歯を食いしばっているだけの。それは、ただ生き延びるために必死に生きる人がそうすることに対して、生き残ること自体には余裕のある恵まれた人間が、前者の必死さに美と憧れを覚えて、自らその中に飛び込んでいこうとする滑稽な活動に過ぎないと、今の私は思ってる」
「まぁ、一理あるね。君のそのいつでもすました態度や、表面的な賢さ、規則正しい生活によって作られた美しい容姿からは、まさにそういう滑稽さが漂っている」
「あなたは嫌がるかもしれないけれど、私は恋愛をしたいと思ってる」
「好きにすればいいさ。運が良ければいい人に出会えるだろう。君のくだらない悩みも、本当にくだらない悩みだと思えるようになって、もっと現実的で責任の重みがある悩みに苦しむようになるさ」
目を覚まして思ったことは、やっぱり恋愛は嫌だということだった。自分が誰かと抱き合って、愛を囁いて、キスをして、その先のことをする。そういう想像をすると、もうそれだけで気分が悪くて仕方がなくなってしまう。
きっとそれは、適齢期でない女性が、望まない妊娠をしないための嫌悪感であると私は根拠もなく思っている。しかるべき時期がくれば、自然に関心を持って、勉強をして、楽しく、幸せな恋愛ができるようになるのだろう。
しかし、そういう構造自体に嫌悪感を覚えてしまうのだ。だってそうだろう? そこに、私の意志とか、私の趣味とか、私の……人間性とか、そういうものが全部なくなって、すべて、生殖的本能に支配され、還元されてしまうのだから。
本当にそうか? そういうのは、結局経験をしていない人間が、不安や恐怖から、勝手にそう決めつけているだけではないか? 本当の恋愛は、もっと複雑で、もっと豊かで……それこそ、意志や趣味、人間性が、高度な形式で絡まり合う、まるでダンスのような……
私は馬鹿だな。




