この世で二番目に価値のない人間
羽虫が顔の周りを飛んでいる。遠ざかっては近づいてくるその音がうっとおしくて頭を振る。
俺の頭はそんなに臭いのか。ぼさぼさに伸びた髪をかき分け、頭を掻く。きっとふけが飛んでいるに違いない。
「調子はどうですか」
カウンセラーがそう言った。俺は答えた。
「最高です」
毎回そう答えるようにしている。ある種の、意趣返しだ。
「よくなっているみたいですね」
そう。真面目に返答しても仕方がない。マニュアル通りにやる。
「よく眠れていますか?」
「はい」
「食欲はありますか?」
「食べ過ぎて太らないように気を付けています」
「いいですね」
それで、カウンセラーは紙に何か意味のないことを書くのだ。
「何か話したいことはありますか」
「ありません」
「どんなささいなことでもいいですよ」
「最近、学校に行く夢を見ました」
「学校ですか? 高校ですか? 中学ですか?」
「高校も中学も行ってないので、小学校ですね」
カウンセラーは一瞬顔をしかめる。多分、自分の聞き方が悪かったことを、反省しているのだろう。
「どんな夢でしたか」
「あんまり覚えていませんが、まぁ、それなりに楽しい夢だったように思います」
「なるほど……」
またメモをとる。それが何か前向きな意味を持つことがあるのだろうか。
病院を出た後、ため息をついて、張り付いたような笑顔を片づけて、いつもの暗く沈んだ落ち着く無表情に戻す。口も目も半開き、生気の抜けた、いわゆる「死んだような」顔。
「おいお前。なんでまだ生きてんだ?」
民家の塀に腰かけている生き物がいる。昔見たアニメのキャラクターだ。これは小学生からの癖で、数少ない俺の娯楽のひとつ。
頭の中で返事をすれば、彼らには過不足も誤解もなく必ず伝わる。現実とは違って。
「君みたいな馬鹿にはわからないかもしれないけれどね、人間をはじめ、ほとんどの生き物っていうのはね、理由がなくても生き続けてしまう生き物なんだよ」
「おいおい。俺が聞いているのは生物的な意味じゃねぇぜ。『人間として』って話だ。お前は、この意味に溢れるこの人間社会において、何の意味にも貢献してないじゃないか。もちろん、この人間社会のお優しい『意味のある人間様たち』は、お前みたいなやつでも、そのままでいいとか、生きていてもいいとか、言ってくれるだろうよ。でも、お前自身はどうだ? そういうお優しい価値のある人間様たちを見上げて、羨ましいとか、自分もそうなりたいとか思っているんじゃねぇのか?」
「思っていたこともあるね」
「そうそう。俺が言いたいのは、そういう望みを捨てて、なんでまだ生きているんだって話。お前が憧れて、尊敬していたお優しい人間様たちの暮らしを圧迫して、足を引っ張ってまで、お前は何にしがみついてんだって話。早いところ、何で自殺しねぇのかって聞いてんの」
「今日はずいぶん饒舌だね、イービー」
この小さな悪魔は、いつも主人公たちに嫌がらせをしていたが、主人公たちは持ち前のポジティブさと支え合う強さ的なものでその悪魔の仕業を逆に利用して、何かに成功したり仲間たちとの絆が深まったりする物語だった。
俺はそれを見て、どちらかといえば、主人公ではなく、いつもうまくいかなくて悔しがる悪魔に共感した。そして、この悪魔が不幸にするべきは、テレビでいつも笑ったり泣いたりしている主人公たちではなく、いつも真顔でこのくだらない番組を眺めている俺のような子供であるべきだと考えた。
まぁそう考えていたことと、今もこいつが俺の頭の中に住んでいることは、関係がないかもしれないけれど。
イービーは俺の後ろから意地悪な言葉をかけ続ける。
「俺はもうお前にうんざりしてるんだよ。お前がお前自身にうんざりしているようにな」
「そうかい。でも俺は別にまだ君にうんざりしていないよ、イービー。君は俺の退屈を癒してくれるし、少なくとも、孤独から救ってくれている。誰からも無視されたり、心のこもっていない励ましとともに背を向けられるよりは、こちらをよく見て理解しようとしたうえで罵倒されるほうが、ずっといい。そう。イービー。人間はそういう生き物なんだ」
「いいや。人間は傷つけられるくらいなら孤独を選ぶ生き物さ。お前もそう。他の人間と正常に関われないのも、誰かのためにも自分のためにも活動できないのも、全部お前が臆病で、傷つくのが怖いからさ」
「そうだね。君はいつも正しいよ、イービー。でも俺は、この臆病さを改善しようとしたことはないし、今後そのつもりもない。俺は意味もなく傷つけられるのは嫌だし、意図せず人を傷つけるのも、まぁあんまり気分がよくない。だから人と関わらない。その点イービー。君はいいね。何を言っても傷つかないし」
「お前は、反撃できない弱い人間としか戦えないクズ野郎だ。お前が伴侶や子供を作らなかったのは人類にとって幸運なことだったろうな。もしお前が家庭を持ったら、すぐに自分より立場の弱い家族に暴力を振るうだろうから」
「だろうね。だから俺は一生家庭を持たないし、それゆえに、誰にも暴力を振るわずに済むだろうさ。うん。おかしいなイービー。もし君が言うことが全部正しいのだとすれば、俺が世の中に出ることのないろくでなしであることは、俺という人間にとっても、この社会にとっても最善ということになる」
「いいや、最初から言っているが、最善は、お前が今すぐ誰にも迷惑が掛からない方法で自殺することだ」
「なら、俺がやっているのは次善策だ。イービー。数ある選択肢の中から、二番目にいい選択肢をとった人間は、褒められるべきじゃないか?」
「なんだお前、俺に褒められたいのか? 誰にも褒められる機会がないから」
「うーん。そうだね。君から褒め言葉をもらうのは、なかなか愉快だと思う」
「なら褒めてやろう。お前みたいな人間が、のうのうと生きていられるこの社会は素晴らしいし、この素晴らしき社会でも、お前みたいな人間が生まれてしまうくらいには、人間っていうのは可能性に満ちた生き物なんだな。素晴らしい。これでいいか?」
「ありがとう。俺と、俺の属するこの素晴らしき社会と、俺という個体を含む人類という種族を褒めてくれて。これでむこう五十年くらいは誰からも褒められなくても、この貧しい承認欲求は満たされ続けるだろうな」
「つまらない嘘だ。お前はどうせまた、誰かに構って欲しくてくだらないことを試みるだろうし、その試みが失敗するたびに、布団の中にもぐって情けなく涙を流すんだ。そして老いた両親に関係のない話題で八つ当たりして、またいい年して子供部屋に引きこもってぎゃんぎゃん泣きわめくんだ。ママ助けて―ってな」
「君の予想はきっと当たるだろうな。まったくうんざりだ。君の言うように、俺は今すぐ死ぬべきなんだろうな。でも残念ながら、この素晴らしき日本社会は、自殺を推奨していない。それどころか禁止するむきさえある。さすがに、これ以上ルールやマナーを破ることはできないな」
「いいや、お前は死ぬべきだ。あれは、本当は死ぬべきでないのに、意地悪な人間によって死ぬべきだと思わされた哀れな価値ある人間を救うためのキャンペーンであり、本当にまったく価値のない人間を救うためのものではない。できることなら、あぁいう自殺防止キャンペーンをやっている連中も、お前にはそのキャンペーンが届かないことを望んでいるだろうよ」
「なぁイービー。多分な。君が思っているより、人間は純粋だし、想像力は豊かじゃない。だから彼らは、俺みたいな、本当に生きる価値のない人間なんて、この社会にはいないと思っているし、だから俺に死んでほしいとも思ってない。そうさ。彼らは俺を知らないし、俺もイービーも、彼らのことをよく知らない。よく知らない人たちの心を勝手に想像して決めつけるのは、あまりよくないよ」
「偉そうに。カスの分際で俺に説教か」
「君は認めないだろうが、俺らは対等、あるいは俺の方が立場が上だからね」
「クズが。そうやって権力を振りかざして他人を黙らせて悦に浸るのがお前の本性だろうが。そういう生き方をしているから、誰からも愛されず、友達もできないんだ。何度も言うが、お前みたいなやつは死んだほうが世のためになる。早く死んでしまえ。馬鹿が」
何か言い返そうと思ったが、言葉を思いつく前に、イービーは俺の頭から去っていった。
気づけば家の玄関の前。落ち着く我が家。父が必死に働いて稼いだ金で買った家。母が必死に働きながら家事を続けて維持してきた家。
そしてただ俺が、意味もなくクソをして、垢をため続けてきた家。
素晴らしき我が家と我が子供部屋。なんて素晴らしい人生だろう。
「イービーは確かに、俺には生きる意味がないという正しいことを言い続けていたけれど、俺は多分、一生あいつに従うことはないだろうな。だって俺は、この人生を十分に楽しんでいるのだから」
両親はふたりとも働きに出ているから、誰もいない。だから廊下で、そんなことを口に出していってみる。
そう。少なくとも俺は、このろくでもない人生の中で、二番目によい選択肢を選び続けた。一番目によい選択肢である自殺は、きっと死ぬまで選ばないと思う。なぜか? きっと俺はいつだって、一番にふさわしい人間ではないから。ワーストという意味でだって、俺は二番目でいい。
だから俺がもし現在、この世で一番価値のない人間であるならば、俺の持つべき目標は、この世で二番目に価値のない人間になることだろうな。




