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寂しさ  作者: 冷凍槍烏賊
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欲望

 人を動かすのは欲望なのだと思う。


 家族がみんな旅行に行って、家にひとりきりになったとたん、文章を書き始めた。寂しいのだ。


 動画を作ったり、ゲーム仲間を探したり、結局は他者とのつながりを求めている。誰かに構って欲しいのだ。

 自分のそういうくだらない努力が実ったり実らなかったりするたびに僕は喜んだり悲しんだり、つまらない感情に揺さぶられて、疲れ果てて、眠りにつき、二度とやらないと心に決め、また何か月か経ったら同じことを繰り返すのだ。


 もし僕が自分に誇ることがあるとすれば、自分が酒にも性にも酔わず、金のかからない持続可能な生活をしているという一点だけだと思う。

 でもそれは、気を付けてそうしているというよりも、酒を飲む元気も、女を抱く勇気も欠けているからじゃないかとも思う。

 メンドクサイ。ナンカコワイ。僕の人生はその二つの言葉によって囲われているし、なぜか僕は、それを気に入っている。

 きっとそれらが、傷つきやすいくせに好奇心旺盛な自分を守ってくれていることを知っているからだろう。


 人生には絶対に希望が必要だと思う。何らかの、楽しみにしていることがないと、生きるのは厳しいと思う。

 キルケゴールを久々に読んだ。彼の意見を聞くと、何とも言えないどんよりとした気分になる。自分は絶望者だと思うし、絶望から救われたいとも思う。でも神の話を聞くたびに、僕の中にいるニーチェもどきが邪魔をするのだ。超人になるつもりもなければ、なれるわけもないのに。

 永遠が何を示しているのかもわからなければ、真の意味でキリストが何なのかもわからない。自分は救いを求めていると思うけれど、救われている自分の姿は想像できないし、もっといえば、自分という存在が消滅することこそが、本当の意味での救いであるとも思う。

 僕は、時折救われていると感じることがある。でもそれはいつも、自分という存在を別の存在に移し替えた時だ。もっと俗的な言い方をすれば、深く何事かに共感し、自分を忘れているときだ。

 それが永遠に続くとしたら? 神を信じるというのは、そういうことなのかもしれない。自らを永遠の属性を持つ神に同化させること。

 でも結局それは、自らの主観的感覚の中に埋没することに他ならないのではないか。生きている限り、他の生きている存在のために何らかの貢献を為す方が、神の御心に沿っているのではないか。

 神のように生きるのではなく、人として苦しみながら、神の望むように生きるほうが、キリスト者の生き方として正しいのではないか。有限かつ不完全で、罪深い人間でありながら、神に決して近づかず、より高度で固有の自己であり続けることの方が、神にとって望ましいことなのではないか。


 結局どれだけ真剣に考えて、真剣に悩んだとしても、僕はキリスト教徒ではなく、キリスト教の神を信じているわけでもない。

 仏教徒の、しかも新興宗教の信徒の家に生まれ、その宗教と自らの感性に矛盾が生じ、距離を置いて生きている僕は、そのアイデンティティの不確かさゆえに、どう生きることもうまくできずに未だここにいる。


 生き方を決められないままここにいる。

 まだ何も成し遂げられておらず、これから何かを成し遂げられる見込みもない。

 ただこのまま朽ちて死ぬことを望んでいる。ふりをしている。それすら決められない。

 自分に期待する自分を殺すこともできず、それも放置して生きている。

 自分を過大評価する自分も、過小評価する自分も、自分らしく、野放しにしている。

 自分を褒める自分も、自分を貶す自分も。


 僕を愛してくれ。愛させてくれ。そして、憎んでくれ。憎まれてくれ。

 そしてそのぜんぶを、途中でやめてくれ。やめさせてくれ。


 複雑な欲望に振り回されて、僕は疲れ果てて横になる。笑う。笑うしかないのだから。


 僕は間違っているだろうか。優しい人なら、間違っていないというだろう。あるいは正直に「あなたの話を聞いていると、何が正しいのかわからなくなる」と不安を口にするだろう。

 優しくない人なら、僕のことを馬鹿にして、見なかったことにするだろう。あるいは、ぶん殴ってくるかもしれない。何度か、そうされたこともあるから。


 いつも求めているのは同類。僕のことをよく知っていて、その人のことも、僕はよく知っている。同じように生きてきたわけではないけれど、今、似たように生きている人。 

 お互いに背負っているものを見せ合って、一緒に笑いたいのだ。僕らにとって当たり前のことを、当たり前だと確かめ合いたいのだ。

 できれば抱きあって、慰めあって、忘れてしまいたいのだ。忘れることができないということを、互いに覚えているという確信によって、消してしまいたいのだ。


 それでもいいじゃないかと、教えあっていたいのだ。


 ひとりでは難しいことがあまりに多い。

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