散文的人間、夜、当てもなく家を出て
詩心のない人間のことを散文的人間と呼ぶ感性さえ、この時代の人は失っているような気がする。
散文的世界、とでも呼ぼうか。情緒に欠けている。欲望に絡めとられて。
そう感じている、他でもないこの自分自身の散文性に吐き気を覚えながら、深夜の街路を行く。
詩心とはいったい何なのだろう。詩を評価するのはいつだって他者であるのに、結局その評価基準は、その人間固有の精神性や感性。つまるところ、詩人であるためには、他者から理解されやすくありながら、他者と異なっている精神を持っていなくてはならない。
共感を拒絶して生きてきた? いや、私は……いつも、説明してきた。説明を求められてきたから。
私は、他者からの感情や共感を期待して言葉を用いることの少ない人生を歩んできた。なぜならば、この時代の人々は、凡庸な感情しか共有せず、共感しやすいエピソードばかり聞きたがるから。
この時代において、真に詩心のある人間は、どうやって生きているのだろうと不思議に思う。この時代に生まれた本物の詩人の、本物の詩というものに私はついぞ出会ったことがない。何を見ても、聞いても、金と無感覚の匂いが鼻をツンとさすのだ。
私は詩に救いを求めず、物語や事実に救いを求めた。あるいは法則とその理解に。